1話 うつぼとルージュ
どうして。
どうしてお前は、のうのうと生きている。
辛いものなど何もないと。
苦しいことなんてないと。
どうして、飄々と生きている。
夢も。
希望も。
将来も。
恋人も。
今までを。
散々奪っておいて、何故、そんなにも笑っていられる。
ふざけるな。
殺してやる。
*****
「そンなもの憑けて、よく辛くねェな」
「はい?」
ア、やべ。口に出てた。
男は内心舌を出した。
男は、人ならざる者の気配を感じたりすることがあった。これが霊感と呼ばれる類いのものか、はたまた男の勘が凄まじいだけなのかは本人も分かっていない。
ただ、きょとんとした顔でこちらを振り向いた女に、つい心の声が漏れてしまっただけなのである。
こいつとんでもねぇバケモン憑いてんじゃん、なんでそれで平然としてられんの? と。
女は男の独り言を聞いて少し何かを考えているようだった。
そして、口を開く。
「心配してくださってありがとうございます。でも、一緒になって長いんで特に問題は無いです」
「ハ?」
今度は男が目をパチクリする番だった。
この女は今、なんて言った?
男は内容を頭の中で噛み砕き、意味を理解する。
そして、会釈して自身に背を向けた女を足早に近寄り、追い越して、女の前に立ち塞がった。
「うわ」と急ブレーキをかけた女は男を見上げる。
男が肩に手をかけ呼び止めなかったのは、直感だった。男はもし己に霊感があったとしても下の下くらい。つまり、めちゃくちゃ鈍感な方だろうなと評価している。
そんな霊感最低というか霊感皆無の男の背筋にすらゾワゾワと走る悪寒や伝う冷や汗と言う名の拒否反応、拒絶反応。傍にいるだけでこれなのに、女に触れて化物に己を認識されたら一体どんな目に遭うか、というのが本能的に分かっていた。
一方で、女は少し圧迫感を覚えた。
自分よりも背丈のある男にこうも威圧的に見下ろされることはあまり無かったので、ちょっぴり怖かったのだ。
「ナニ、オマエ視えるタイプ?」
「え? はい」
しかし、恐怖は置いといて、質問には答える。
男の問いかけに、女はあっけらかんとした態度で肯定した。
「ンじゃあさァ」
男はニンマリと口の端を吊り上げて、自身の背後……肩の辺りを指差した。
「るークンのコレも視えてる?」
「あ、はい」
「アハ♡ すっげ、視えるンだァ……♡」
これまたあっけらかんと女は肯定する。男はうふうふと笑った。
男の背後には、生気の無い顔をした人間が立っていた。
女の目にはそれがはっきりと視えていた。頭からだくだくと滝のような血を流している。なんならブツブツと怨嗟を吐き出す声さえ聴こえている。
「ちょっと前から憑かれてンだけどさァ、これがまた中々離れてくンなくて困ってンのよ」
「はぁ」
「気配がだんだんウザくなるし体調はずゥっと悪ィし、昨日は夢まで侵入って来やがったから、いい加減お祓いしよっかなって。オマエさァ、そーゆートコ知らない? ついでによく効く御守りもあるとるークン嬉しい♡」
男がへらりと笑って女に顔を覗き込んだ。
言ったことは全て本当だ。
あ、憑かれたな、と気づいた最初は、数日で消えるだろうと楽観視していた。今までも憑かれたことがあったし、そういう時は無視していれば大体1週間もしない内に消え失せるのだ。
しかし、今回は憑かれて2週間近く経っている。これには霊感の鈍い男でも流石にどうにかしなければと危機感を覚えた。ちょっとだけだけど。
そして、都合よく自身よりも強い霊感持ちがいた。しかもえげつねぇ化物に憑かれている。
ならば、化物を対抗する手段を持ち合わせているのではないか、と思ったのだ。
無かったら無かったで問題ない。自分で神社や寺を探して行けばいいだけで。
その程度のことは簡単にできる。それでも女にこうして問いかけたのは、男の気まぐれというか、ただの好奇心だった。
「ああ。じゃあそれ私が取り除きましょうか」
「……。ア?」
女の何気ない言葉に男は再度目をパチクリさせた。
男は不意を突かれたような表情をした後、女に顔を近づけるために前屈みになっていた上体を起こした。
「……できンの?」
「はい」
二つ返事で返す女の目に嘘はなかった。
深く濃く青い、陰りの無い美しい蒼玉の瞳。それが真っ直ぐに、男の紅玉の瞳を貫いている。
男にとってその目はなんだか居心地悪くて、でも不思議と気分が落ち着いた。なんとも妙な気分で、「フゥン」と息が漏れた。
「……ンじゃあ、どーぞ?」
男が緩く両手を広げて、分かりやすく受け入れる姿勢を取れば、女は「すぐ済みますから」と男に1歩近づいた。
その瞬間、男の体がぶるりと震えた。
本能的な脅えだった。
後ろへ逃げそうになった足をその場に必死に留めれば、土に踵をぐぢりと押し付け踏ん張る形になった。
目の前の女の顔に視線が固定される。しなければならないと理解した。
彼女の両肩に食い込んだ悍ましい鉤爪のような指の正体を暴くのは死に直結する。
プライドなんてものは溝に棄てろ。そんなもの、今この瞬間を生き残るのには役に立たない。
自分が被食者だと認識されないようにしなければと、勝手に体が息を止める。
「食べていいよ」
『い』『ただ』『ぎ』『まあ"あ"あ"す』
男の背後の気配が上に吹っ飛んだのが分かった。勢いよく引っこ抜かれた野菜のように、それは男の背後から消えた。
その直後、頭上から「ごき、ぱきっ」と破砕と切断を混ぜたような音が聞こえてきた。くぐもったりクリアになったりする野太い悲鳴も。
まるでカラオケみたいだな、と男は悲鳴を聞きながら思った。防音性の高いカラオケルームから外に漏れ出ているような、そんな誰にも届きそうで誰にも届かない、だけど叫ばなければ終わってしまう……そういう悲鳴だった。
「……終わった?」
「はい、終わりです」
男は肩を回した。体が軽く、倦怠感も消えている。確かに憑いていた奴の影響がなくなっていることにほぅ、と息を吐く。
「アレ、結局なんだったの」
「ただの悪霊です」
「あくりょう」
「悪い霊で悪霊。多分自殺したいじめられっ子ですね。あなた、不良みたいな見た目ですし、加害者と雰囲気が似ていたのかもしれないですね。それにつられて祟ってやろうとして憑いてきただけだと思います」
「つまり、人違いってヤツ? そんなことあるンだ?」
「ぶっちゃけ道連れできるなら誰でも良いって悪霊もいますからね。今回はその類いだったんですけど」
「ナニソレ怖っ」
「とりあえずお疲れ様でした。飴いります?」と声をかける女は、黒髪に青い瞳をした女子生徒だった。飴は貰った。ちなみにフルーツのど飴だった。
制服を着崩ししていない、どこにでもいそうな外見。メイクすらしていない。唇はてらりとして艶かしいが、色付きではなくただの薬用リップだろう。
その模範的な優等生が、あまりにもどぎつい気配の化物を憑けているというギャップ。
「お名前と連絡先教えて♡」
「はい?」
こいつ“おもしれー女”だ、と男はニィと笑ってスマホを取り出した。
「また憑かれるかもしンねぇじゃん? その時またお祓いしてくれなァい?」
「はぁ……まあ、こちらの都合が良い時でいいなら構いませんけど」
「やったァ♡ るークンはァ、早乙女 紅朱。1年生。ヨロシクね♡」
「同じく1年の社 空です。よろしくお願いします」
「うちゅほチャン? うつほチャン? 言いにくいからうつぼチャンな。ハァイけって~い♡」
「海のギャングにされてしまった」
女……空はスマホのLINEに新たに入った友だち、“ルージュ”という文字を眺めて遠い目をした。