言葉にできなくても
(また誰とも、まともに話せなかった…………)
教室の隅で、少女は静かに机に伏せていた。
足元ばかり見てしまうのは、癖みたいなもの。顔を上げるのが怖い。声をかけられるのは、もっと怖い。どうせ、何か言おうとしても、うまく喋れないのだ。
喉まで出かかった言葉は、行き場を失い、舌の上で溶けていく。
そうして、また〝変な子〟として、教室の空気から弾かれてしまう。
誰にも期待されず、誰にも見向きされない。
――だけど。
少女は、ランドセルの中にそっと手を伸ばした。
指先に触れたのは、小さなストラップ。
白い衣装に、キラキラと輝く笑顔。少女にとって、たった一つの、希望の光。
(あやせちゃん……)
俯いて震えるだけだったある日。
母に無理やり連れて行かれた、チェキ会。
緊張して、何も言えなかった。目も合わせられなかった。
なのに――
『今日は来てくれてありがとね! あたし、とっても嬉しいよ!』
――彼女は、星乃あやせちゃんは、笑ってくれた。
温かくて、勇気をもらえるような声で。
俯いてばかりいた自分に、初めて、顔を上げさせてくれた。
それからずっと、少女はあやせちゃんのことが大好きだった。
だけど、言葉にしようとするたび、何もかも空回る。
何も変わっていない。
そんな自分が、悔しくて、恥ずかしくて。
だけど、きっと。
本当の〝好き〟って、簡単には言葉にできないくらい、強くて大きなものなんだ――
そんな風に、少女は思いたかった。
◆◇◆
昼休み。教室は喧騒に包まれていた。
「ねえねえっ、昨日見た? あやせちゃん、テレビに出てた!」
「新しい曲、すっごく可愛いかったよね~! ダンスもかっこよくて、すごかったー!」
耳に飛び込んできた声に、少女の体がびくっと震えた。
思わず顔を上げる。クラスメイトたちが、少女の大好きな人の話をしている。
「あたし、あやせちゃんの好きなものとか趣味とか、ぜーんぶ言えるんだ~!」
「ほんと~?」
「とうぜんだよ~! 好きなら、これくらい言えなきゃね!」
バクバクと、心臓が跳ねる。
今なら、話に混ざれるかもしれない。
――勇気させ出せれば。
少女は、胸の奥で自分に言い聞かせる。
(だ、だいじょうぶ。わたしも、あやせちゃんのこと……好きだから)
ぎゅっと、ストラップを握り締める。
『頑張って』
そう、彼女が言ってくれた気がした。
机から立ち上がり、一歩、また一歩と、クラスメイトたちの輪に近付く。
そして、震える声で――
「あ、あのっ、わた、わたっ、しも……!」
声がかすれて、途切れてしまった。
頭の中が真っ白になる。言葉が、出ない。
ざわつく周囲の空気。少女を見つめる、何人かの視線。
(だめ、だ……また、また、わたしっ――)
握った手のひらに汗が滲む。
息が荒くなり、立っているのがやっとだ。
(なんで、話せないの……大好きな、あやせちゃんのことなのに……っ)
自分に向けられる視線が、辛くて、怖くて。
少女は、つい足元に顔を背けた。
(こわいっ…………にげたい、逃げたいっ、逃げたい! ――だけど、ここで逃げたら……)
戻る、戻ってしまう。
俯いて、震えてばかりだった自分に。
唯一の足元すら崩れていくような感覚。心と体が、恐怖に呑まれていく。
(わたしに、あやせちゃんを好きって言う資格なんて――)
思わず泣き出しそうになる。
その時だった。
「……あ、それ! あやせちゃんのキーホルダー!」
「…………え?」
一人の子が、少女の手を指差した。
そこには、お守りとして持ってきたキーホルダーがある。
「あやせちゃん、好きなのっ?」
「…………う、ぁ……」
咄嗟に、ストラップを握り締める少女。
――チャンスだ。今なら、きっと言えるはず。
(ううん……違う――言わないと、何も変わらないんだっ)
あやせちゃんがくれた勇気が、不安と恐怖を押し込める。
でも、まだ足りない。勇気が。
こわい……こわい、怖い。
また、上手くしゃべれなかったらどうしよう。
嫌われたら、あやせちゃんを好きな自分まで否定される気がする。
そんな不安があふれだしそうになる。
それでも――
少女は震えてこわばる口を、なんとか開いた。
「……わた、わたっ、し……も……」
必死に、途切れ途切れでも――
「あやせちゃんが、す、好きで……っ」
震えた声で、涙ぐみながら――
「がんばってるとこが、輝くような、えがおが……すてき、で……かっこう良く、って……!」
沸騰してあふれ出しそうな、この気持ちを――
ありったけの〝好き〟を――
「わた、しもっ……あやせちゃんみたいに、誰かに夢をあたえられる…………そんなひとになりたいのっ!」
顔を上げて、今、さらけ出した。
「「…………」」
沈黙するクラスメイトたち。
怖くなるくらい、シーンとした空気が、少女にのしかかる。
(きっと、また変な子だって思われてる――でも、それでもいい。わたしは、ほんとうの本当にっ、あやせちゃんが、大好きなんだ!!)
肩で息をしながら、また俯いてしまう。
だけど後悔はなかった。ようやく、言葉に出せたから。
少女は、周囲の反応をまだかまだかと、待っていると――
「……すごいね」
誰かが、ポツリと言った。
顔を上げる。さっきの女の子が、とても驚いた顔をしていた。
「す、すごい……?」
「あやせちゃんが好きって気持ちだよ! すっごく伝わってきた! あやせちゃん好きがほかにも居るなんて、嬉しいっ!!」
「ぁ……」
その言葉が、少女の胸に温かいものを落とした。
伝わった、伝えられた――少女にとっての〝好き〟が。
「へぇ~、あやせちゃん好きなんだー」
「ねえねえっ、どの曲が好きなの? あたしはね――」
周りの子たちが、どんどん話題を振ってくれる。
それが嬉しくて、また、体が震えてしまう。
「え?」
「ど、どうしたのっ……? どこか痛いの……?」
けれど、今度は怖いからじゃない。
「うっ、うぅ……っ…………」
嬉しいと思う気持ちが、涙となって、あふれてしまったから。
だから、もう一度――
「わたしっ……あやせちゃんのこと、好きっ」
その気持ちを言葉にして、少女は伝えた。
「そっか!」
「じゃあ、今度いっしょにイベントいこ! ねっ?」
「っ、うん……!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔で、力いっぱい頷いた。
俯くだけだった足元に、かすかな光が落ちた。
輝く星がくれた勇気が、ほんの少しだけ、周りの世界を広げてくれた。
握りしめたストラップを胸に、少女はそっと前を向く。
(……うまく言葉にできなくても、わたしの〝好き〟は、ちゃんと届いた――)
足元にあった影を、ひとつ踏み越える。
それは、震えながらも選んだ、はじめての一歩だった。