05 ミナモ
ミナモという少女の一人称です。
この地上界において、昔の教育水準や就学率は、今よりもずっと低かったって聞いたことがある。
そもそも民衆が一般教養を学ぶための場所自体が多くなくて、庶民は子供たちのために自主的な寄合を設けることでそれを補ったり、良家の子女には家庭教師が付けられたりと基本的に教育は個々の裁量に任せられていたんだとか。
とは言ってもそれももう本当に遠い昔の時代の話で、救歴1802年にもなった今となっては多くの国において子供が学校に通うことは当たり前となっていて、多種多様な教訓を掲げた特色ある学校も数多く生まれている。
この学校もその特色ある学校の1つで、兵士や冒険者、変わったところで言うと傭兵や探検家など、将来“戦うための力”が必要になると考えている人間が多く通う学校となっている。
その校訓はとにかく長くて、近代において戦士として大成したいのであれば“武勇”のみならず――云々。一言で表すと、文武両道を目指しなさいというもの。
だから試験は実技、筆記共に厳しくて、すごく強い人が実技が一切関与しない科目の定期試験前に、涙目になりながら教科書にかじりついている姿を見るのは珍しくもなんともない。
それだけ厳しい学校だから、卒業する頃には一人で魔泉の中に放り出されても生き残れるだけの実力と知識を身につけることができる。
当然、並々ならぬ努力を求められるこの学び舎に通い続ける生徒たちは、常に闘争心を漲らせながらバチバチと鎬を削って――なんてこともなく、少し驚きはしたけど実戦形式の試験でもない限りは、和気藹々と日々を過ごせるのが魅力的に思える点でもある。
そんな学校のまだ誰もいない早朝の教室。
校舎の中にはいなくても、朝から鍛錬に精を出している生徒がグラウンド等々にいるのかもしれないけれど、ここに辿り着いた者の中ではどうやら一番だったみたい。
「ふふ、今日は一番乗り」
あと数十分もすればにぎやかになること間違いなしのこの場所も、今だけは本当に静か。何だか非日常的で、少しだけワクワクする。
敷居を跨いだ後は、誰にも見られていないのをいいことに教室の中を我が物顔で闊歩し、教室の中に足音を響かせて遊んでいたけれど、それにも次第に飽きてきて、今度は光に寄っていく虫のように、自ずと足が日ざしの差し込む窓際へと引き寄せられていく。
新たに始まったのは、日向ぼっこの時間だった。
寮生活が始まる前は家の窓際でノッちゃんとよく日向ぼっこをしていたなぁ、などと過去に思いを馳せていると、自分の心だけが過去へとタイムスリップしていくみたいに感じられる。
――朝の眠気が抜けきっていないようなので、ここで大きく伸びをひとつ。眠気をしっかりと飛ばす。
「んぅ、いい天気。……あ、そうだ!」
肩から下げていた制定鞄を窓際の一番後ろにある自分の机の上に置き、たった今、思い付いたことを実行に移す。……まあ、そんな大それたことでもないけれど。
上に押し上げることで開くタイプの、十字の格子が付いた窓。少し建付けが悪いそれを1つずつ開けて、朝の心地よい空気を教室の中に取り入れていく。
そうして順番に手を掛けた最後の1つがとりわけ建付けが悪いものだから、壊してしまわないように細心の注意を払いながら勢いよく押し上げると――突如として、ものすごく勢いのある風が教室の中に吹き込んできた。
「きゃっ」
びっくりして、つい悲鳴をあげてしまう。
風になびいているのは、両親から受け継いだ色を宿した自慢の長髪。
風に煽られるがまま暴れまわろうとするそれを手で押さえ込み、しばらく耐え忍んでいると、この突風の中にどこか懐かしい気配を感じられたため、自然と頬が緩んだ。
「あはは、木の匂いだ」
風の流れが生まれて、校舎内に滞留していた空気に染み込んでいた木の匂いが鼻孔をくすぐっているのかな。
人によっては古臭いなんて言われる木造の校舎だけど、ダンちゃんが作ってくれた家具の匂いと温もりを思い出せるから、個人的には好きだったりする。
「あっ、でも……んー、やっぱり反応しちゃったなぁ……」
ブレザーの袖を捲り、左手首に付けていたブレスレット型の魔導具を見ると、その表面の魔石が激しく点滅しながら光を放っていることが確認できた。
――間違いなく通知が行っちゃったよね、とやや複雑に設定された手順をなぞってブレスレットのアラート機能を解除しつつ、すぐに掛かってくるであろう“伝話”に備える。
すると数秒も待たずして、胸ポケットに入れていた小さな箱のような魔導具――“魔素伝導通話機”が着信音を鳴らし始めた。
「もしもし、お母さん?」
耳に当てた受話口からは、こちらを心配する言葉が怒涛のように流れ込んでくる。あまりの勢いについ受話口を耳から遠ざけてしまったけれど、そのことを責める人はいないよね。
アラートは早々に切ったから、緊急事態ではないと察してくれてはいるみたいだけど、あと数秒遅れていたら、きっと安否確認のための伝話を掛けてくるだけでは済まなかったはず。
お母さんが学校に乗り込んでくるなんてことがあったら、大騒ぎになっちゃう。
「ただの風にびっくりしちゃっただけ。いいお天気だから、窓を開けようと思って。うん……うん、大丈夫。ちゃんと眠れたし、お腹も壊してない。ミィは元気だよ」
心配する方向性が少し変わってきた。
似たようなやり取りは昨日の夜もした――なんなら毎日のようにしている――んだけどなぁ……なんて思いながら、受話口の向こう側にいる主を安心させるように言葉を返す。
それでも、受話口から聞こえてくる声は依然として不安そうだ。
でも幾度かの他愛のない話題を経た頃には、お母さんもただ楽しそうに会話をするようになってくれた。
「――そう、今日は3限目から実習。……あはは、まだ2年生の実習じゃあ、そんなに危ないところへは行かないよ」
心配性のお母さんはいつもミィ――私のことを気に掛けてくれている。
私がこの学校に留学することに最後まで反対していたのもお母さんだったなぁ。親元を離れてかつ護衛も付けずに生活することを心配して、考えに考え抜いた末に自分が教師として赴いて近くで見守るという妥協案は周囲から当然のように却下されていて、最後の最後に折れてくれた時も条件付きだった。
それが私がアクセサリー代わりに身につけている過剰なほどの防犯道具の正体。これらは全てお母さんの手作りだし、その機能はどれもが一級品で値段なんて到底付けられるものでもない。
とはいえ全部が全部新しく作ってくれたものでもないし、このブレスレットに関しては、1歳のお誕生日にプレゼントされた――当然、私は覚えてすらいない――お守りだけど。これが一番の完成度だとお母さんも胸を張りながら断言していたっけ。
「ちゃんとお守りも肌身離さず持っているから。いざという時はお母さんがミィのこと、助けに来てくれるんだよね?」
――きっと助けに来るのはお母さんだけじゃないだろうけど、と自分の発言に心の中で小さな訂正を入れる。
ブレスレットの表面を指でなぞると、心の中が温かくなって、顔には自然と笑みが浮かんでいた。離れていても、両親や歳の離れた姉のような叔母たち――私の大好きな家族とちゃんと繋がっているんだって感じられるから。
でも、ここは学校だから、そんな家族の時間にも一旦の終わりがやってくる。
「ミィちゃーん、おはようっ!」
「……あ、友達が来ちゃった」
友達の挨拶に手を挙げることで応えると、彼女もそこで初めて私が伝話中であることに気付いたみたいで、慌てた様子で己の口を押えている。
次に周囲を見渡してみると、何人かの生徒が登校してきていて、随分と長い間伝話に集中してしまっていたのだと気付いた。
遅刻なんてした日には目も当てられないから、普段から気を付けてはいるつもりだけどお母さんと話していると楽しくて、つい時間を忘れがちになる。
「ごめんね、もう切るね。……うん、明日と明後日のお休みは家に帰るから、ノッちゃんにお迎えはいつもの場所でいいよって。……あ、それとミィがアップルパイが恋しいって言ってたってヒーちゃんにそれとなく伝えてほしいかなぁ……」
また後で話せることだけど、今日は野外での実習もあって時間が取れなくなってしまうかもしれないから、今のうちにお母さんに言伝をお願いしておく。
実家で同じ屋根の下で生活していた頃は、今みたいなちょっとしたメッセージなら直接伝えることができたのに……なんてまだまだ親離れもできていない私は、ふとした瞬間にホームシックに陥りそうになることがある。
寮生活もそれはそれで楽しいけれど、毎日でも家に帰って家族のみんなとお話がしたいというのも私の本音。
何もお話だけじゃない。
コウねぇには学校で身につけた新しい剣の技を見てほしいし、ダンちゃんにはこの前もらったお花の種の育て方を教えてもらいたい。アーちゃんには冒険のお話をたくさん聞かせてほしいし、ヒーちゃんとは一緒にお料理の練習をしたい。ノッちゃんには学校で覚えた新しい歌を教えてあげたいし、お母さんには学校のテストの点数を見せてたくさん褒めてほしい。
そしてママには思いっきり抱きしめてもらって、その温もりに包まれていたい。
――でも、ね。
「それじゃあ、お母さんもお仕事頑張って」
今は恋しいと感じるくらいでいいんだと思う。そう思えるだけで既に幸せなんだから。
――新しい世界を目一杯楽しんでおいで、ミナモ。
この学校に来る前にママから私に向けて贈られた言葉。その言葉を胸に、私は今日もこの学校生活を心から楽しむ。
それがきっと、私が夢に向かって踏み出すための一歩となるはずなんだ。
「あとママやみんな……それとママのお腹の中にいる赤ちゃんにもよろしくって伝えておいてね」
その言葉を最後に受話口から耳を離し、ゆっくりと息を吐く。
――よし。明日、実家に帰ったら目一杯甘えさせてもらうとして、今は今日の実習のことを考えよう。
そう決意を固め、待ってくれていた友達の方へと振りむいた。
「おまたせ!」
こうして、今日も私の学校生活が始まる。
私はミナモ・T・H・アリアケ。
かつて救世主と呼ばれ、今もこの世界を温かく見守り続けている強くて優しいママたちの娘。
でも、この場所においては、いつかこの広い世界を旅することを夢見ているだけの一生徒である。
【簡単人物紹介】
ミナモ:地上界の学校に身分を隠して通っている神界生まれのお姫様。まだまだ甘えたい盛りではあるが、同年代の子の前では何かと背伸びをしがち。赤子の頃から身内の冒険譚を聞かされて育った影響で、外の世界に対して強い憧れを抱いており、まだ見ぬ世界を旅することを夢見ている。
お母さん:愛娘がパートナーのお腹に宿っていた頃は、新しく産まれてくる家族のことをちゃんと愛してあげられるのかという不安から、頻繁に泣き言を漏らしていたが、いざ産まれてくると無事に子煩悩と化した。
ママ:ただひたすら甘やかすだけの己のパートナーと違って、娘のことをちゃんと叱ることもできるママ。愛娘には己の立場に縛られない交友関係を築き、様々な経験をしてほしいと願っている。
【ご報告】
平和な世界ではこれからもユウヒたちの人生が続いていきますが、キリも良いので、番外編の更新はここで一旦終了となります。
また機会があれば何かしらのエピソードを更新することもあるかもしれませんが、ひとまず次回作の準備を進めたいと思います。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




