04 伝えたい想い⑤
ユウヒの一人称になります。
私には自分の気持ちがわからない。
ただ、膝を抱えて蹲っていることしかできない。どうして胸がこんなにも、張り裂けそうなくらい痛むのかがわからないから。
頭の中では、あの時に見た光景がまるで終わりのないビデオテープのように、何度も繰り返し再生され続けている。
私ではない誰かに向けられた熱い眼差し。うっとりと赤らんだ横顔。情念が溶け込んだような甘い声音――恍惚としたあの子の表情が頭から離れないのだ。
私たちが大切にしている家族の輪。その、さらに外側に広がる無数の人間関係によって成り立っている世界。
そこにシズクが目を向けているという事実は、本来なら喜ぶべきことであるはずだ。本当にあの子が望んだ相手と結ばれるのなら、祝福しなければならないはずなんだ。
あの子にとって大切な存在が一人増えたところで、私に向けてくれる想いの熱量が変わりはしないだろう。きっと変わらず、これからもずっとあの子は私のことだって愛してくれる。
ちゃんとわかっているはずなのに。それでいいじゃないか、って納得してくれてもいいはずなのに、どうしてこの心はぐちゃぐちゃなままなのか。
アンヤとシリスの関係を考えても、こうはならない。むしろ、その仲が進展していくことが喜ばしいことであると自覚している。
それはシリスが私とも仲の良い友人だからだろうか。……いや、そうとも言い切れない。
かつてノドカが人間のパートナーを見つけた時も、彼女が家族である私たちから離れていってしまうなんて不安に思ったこともなかったし、ノドカが望んだことならば、と素直な気持ちで祝福ができた。
それと今の状況のいったい何が違うというのか。
「ただいま」
――問いたださなければならない。
鼓膜を揺らしたその声を認識した瞬間、私の意識は再び現実へと連れ戻されていた。
陽が落ちたことで闇に包み込まれてしまった部屋の中、抱え込んだ膝から顔を上げる。
「あれ、誰もいないの? ん……おかしいな……」
このリビングと廊下を繋ぐ扉がゆっくりと開き、外からの光が差し込んできた後、備え付けられている照明魔導具の光によって部屋全体が照らされた。
「……えっ、ユウヒちゃん? 明かりもつけずにどうしたの!?」
バタバタと慌ただしい足音が鳴り響き、一人でポツンとソファの上で膝を抱えていた私の元へ駆け寄ってきた存在へと視線を向ける。
すると、彼女は狼狽えるような様子を見せた。
「な、泣いて……!? いったい何があったのっ、ユウヒちゃん!」
「……何があったって?」
意識ははっきりしており、投げ掛けられたシズクの言葉だって一言一句理解できている。……だから、何も理解していないこの子の態度に、無性に腹が立ってしまった。
「よくそんなことを口にできるよね……」
私は感情のコントロールは上手い方だと自負している。でも、今回に限っては自制が効きそうにない。
「ゆ、ユウヒちゃん?」
「なんで嘘をついたの? シズクは学会に出席するって言ってたよね。だったら今日、一緒にいた人は誰? 嘘をついてまで、私のことを騙したかったの?」
「え……ちょっと待って。嘘? 騙す? 何のことを言って……」
「……しらを切るんだね」
この胸の奥底から湧き上がってくる感情のままに、見知らぬ誰かと仲睦まじく腕を組んで歩いていたシズクの姿を目撃したのだと打ち明けた。
――だが、シズクは私の追及に対して、「自分はちゃんと学会に出席していたし、外もほぼ出歩いていない」の一点張りで、決して認めようとはしなかった。
私は己の認識が間違っていないと既に確信してしまっており、もう疑う余地すら残されていないというのにだ。
「何が何でも認めないつもりなんだ! 素知らぬ顔をして否定していれば、私の目を誤魔化せるって思っているんでしょッ!」
「そうじゃなくて、本当にわからないの! さっきからユウヒちゃんが言ってること、何一つ! いつものユウヒちゃんらしくないよ、いったん冷静になろう? きっと、見間違いか何かで――」
「私だって信じたくなかった……ッ。私だって、何かの間違いであってほしいと何度も願ったッ!」
私だって最後の最後まで、視線の先にいる人物がシズクではないと否定できる可能性が少しでも無いかと探し続けた。シズクのことを信じたかったんだ。
あの視線も声色も私だけに向けられるべきものであるはずだと、ただ信じていたかった。
「でも背丈も! 髪型も! 横顔も後ろ姿も! 服装だって今、目の前にいるシズクと同じなんだよ? 何よりもその声を私が聞き間違えるはずがない。なのに……どうやってその時、視線の先にいた人がシズクじゃないって否定すればよかったの!?」
この気持ちを言い表せる言葉があるのだとしたらそれはきっと――“絶望”だ。でも、この“絶望”の意味が私には分からない。
冷静になれ、としきりに訴えかけてくる理性すらもドロドロとした感情の濁流によって簡単に押し流されていってしまう。
「もう隠すのはやめてよッ! その人の方が大切なら――私のことなんてどうでもよくなったのなら、正直に言えばいいじゃん!」
現実に振り回されて、他でもない己の感情に踊らされている。
もう楽になりたいんだ。その先に待っているのがただの暗闇なのだとしても、この絶望の出口を見つけたかった。
「重荷でしかないって、鬱陶しいって、面倒くさいって……もう私のことなんて信じられないって、そうであるならそう言って――ッ!?」
――口から出掛かった言葉は、その直前に私の全身へと襲いかかった衝撃によって、紡がれることなく引っ込んだ。
自分が肩を押され、そのままソファに押し倒されていると気付いたのは、私の全身の感覚が圧し掛かる彼女の重みを訴えかけてきているためだ。
「……どうして?」
すぐ目の前にあるのは、悲痛な表情を浮かべたシズクの顔。
「どうして、そんなことを言うの?」
だが、いくら問い掛けられても、言葉が出てこない。
「どうして、ちゃんと聞いてくれないの?」
混乱が極まった結果なのか、ドロドロと黒く濁った感情は依然として心の内にあるものの、今はそれが表にも出ず、まるでさっきまでの激情が嘘であったかのように、私の心の動きが鎮まってしまっているのだ。
だがそれも、彼女の口から決して出させてはいけない言葉が紡がれてしまった瞬間に瓦解した。
「どうして――あたしのことを信じてくれないの?」
「ぁ……」
気付いてしまったのだ。私はずっと大切にしていたシズクの信頼を裏切ってしまったのだと。
「あたし、何度も違うって言ったよ。ありえないって否定したよ。だって――」
シズクはずっと私が信じてくれると信じ続けて、絶対に主張を曲げなかった。
向き合おうとしてくれていたのに、主張を聞くこともしないで勝手に決めつけていたのは私だ。
「――だって、あたしが好きなのは古往今来、ユウヒちゃんただ一人なんだもん……っ」
その信頼を先に裏切ってしまったのは、私だったんだ。
「……でも、やっぱりこれっぽっちも届いていなかったんだね」
「あ、あぁ……シズっ……わ、たし……っ」
ぐちゃぐちゃになってしまった私の頭は、シズクの言葉の意味を上手く読み解いてくれないし、この場で最適な思考を導き出してもくれない。
「ずっと同じような関係が続けばいいんじゃないかって無理矢理、自分を納得させようとしたこともあったんだ。それでも、みんなの力を借りて、もう一度頑張ろうって思えたのに……また少しずつ、前に進めているんじゃないかって思っていたのに……結局、あたしは失っちゃったんだ」
それでも何かを言わなければならないのに、一片の言葉にすらならない。
辛そうにしているのに、涙すら流さないシズクの前で涙を流しているだけの私は、なんて不甲斐ない存在だろうか。
「こんなに胸が張り裂けそうなくらい辛くて、苦しいだけなんだったら――あたし、恋なんてしたくなかったよ」
体が軽くなる。シズクが私の上から退いたからだ。
それでも心は変わらず苦しいままだったが、この場から逃げるように去っていったシズクのあとを今すぐにでも追わなければならないと、本能が叫んでいる。
きっと、間違えてしまったのは私の方だ。だから、たとえこの胸が張り裂けそうな痛みに苛まれていたとしても、手を伸ばし続けることを諦めてはならない。
――あの子との絆を失いたくはない。その想いを支えに、私は立ち上がった。
「ユウヒ」
全身に活を入れて立ち上がった直後、私の鼓膜を震わせたのは件の少女と似ているようで、少し違った彼女の片割れの声だった。
決して一人じゃない、と勇気を貰えたような気がして、声が聞こえてきた方向に顔を向け――私は驚愕することになる。
「ヒバ――ッ!?」
そこに立っているのは、間違いなくヒバナなのだろう。だが、私のよく知っているヒバナの容姿とは大きく異なっていた。
今の彼女は、どちらかといえばシズクに近い格好をしていたのだ。体格はもとより、髪色や髪型などの明確な区別点、それに加えて服装もさっき見たシズクの物と全く同じだった。
瞳の色や声の出し方、表情の作り方でヒバナだと判断できるが、それすらも欺かれてしまえば、いくら親しい間柄でも見分けるのは困難を極めるだろう。
「まさか……」
「……言いたいことがあるのはわかってる。でも今は、あなた自身の気持ちとシズのことだけを考えるの」
ヒバナの言動の意図が理解できないが、私自身の気持ちと言われて、思わずそちらに注意が向いてしまう。
彼女には、未だ私の胸の内に渦巻いているこの感情の正体がわかるというのだろうか。
「言葉でいくら説明したところで、実感が伴っていなければ意味がない。今のあなたは未知の感情を無理矢理引き出されて、それを知覚せざるを得ない状態のはず。暴走気味だったけど、嫉妬という形でもわかりやすく表に出てきたわね」
嫉妬心くらい私もよく知っているし、知らない感情とは到底呼べるものではない。
はたして、私が抱いているこの感情はただの嫉妬という感情なのだろうか。家族を知らない誰かに取られようとしていることへの嫉妬なのか。
その疑問を紐解くヒントをくれたのは、ヒバナの後ろに控えていたダンゴとノドカだ。
「もちろんヒバナ姉様はただの嫉妬のことを言っているわけじゃないよ。主様はボクたちが誰かのことを好きになったとしても、取られたとは思わないし、今のように絶望なんてせずに応援してくれるよね」
「お姉さまがどうしようもなく不安なのは~……お姉さまにとってシズクお姉さまが~特別の中の特別だからですよ~」
私にとってシズクは特別の中の特別なのだという。
――家族という枠では収まりきらない特別な感情を私はシズクに対して抱いている?
じゃあ、この感情の正体はいったい何なのか。独り占めにできないからといって黒く濁っていき、ドロドロとしてしまう感情の名前を私は知らない。
「それはシズク姉さんも同じ。姉さんにとっても、ますたーは特別の中の特別だった」
「そして、シズはちゃんとその想いを言葉にして伝えたわ」
アンヤの言葉をヒバナが引き継ぐ。
先程のシズクとのやり取りの中では理解できていなくとも、シズクの言葉は頭の中に残っていた。だから思い返して――私は初めて、その気持ちの正体に触れられたのだ。
「……そんな、そんなことって……」
「そう。シズはね、あなたに恋をしているの」
恋心がどういうものなのか、知識では知っている。
シズクは私に恋をしていたというのは、本人やヒバナの発言からも明白だ。そうだったのか、と腑に落ちるものがあった。
きっと私は昔から、家族に対する愛情の比率が大きすぎたんだ。だから、人が誰かに恋をするということへの理解が乏しすぎた。
人の恋路だってたくさん見てきたのに、どこか他人事で、その本質を捉えることはできていなかったのだろう。
――でも、それが特別の中の特別という言葉の本質であるならば、私もシズクに対して、同じ気持ちを抱いていることになってしまう。
「そして、そんな恋心を向けられ続けてきたあなただって、知らず知らずのうちにそれをしっかりと受け止めているし、あなた自身の恋心もちゃんとあなたの心の内側で育まれているのよ」
「……この気持ちが恋心なの? 私の心を今にも引き裂いてしまいそうなこれが?」
「繊細で、制御するのがとても難しい感情なの。変質すれば、手が付けられなくなることもある。あなたの場合は、無自覚のうちに大きく育ちすぎてしまっているし、私たちが無理矢理表層へ引っ張り出してしまったから余計にね」
毅然とした態度で口調そのものははっきりとしているヒバナだが、頬はひくひくと痙攣しているし、その手はスカートを握りしめながら震えていた。
でも、今はそれに関して深く考えないことにした。今は自分の感情とシズクに向き合えというのが彼女の言葉だからだ。
「今はまだ、あなた自身の恋心について理解も実感もないとは思うけど、向き合うことから逃げるようなことはしないで。あなたたちがずっと無自覚な両想いだったということは、あなたたちの恋路をずっとそばで見守り続けてきた私たちが保証するわ」
ヒバナの言うように、私がシズクに恋心を抱いていると言われても実感は湧いてこない。
それでも、みんなが真実だと言ったそれをしっかりと噛みしめて、もう一度シズクと向き合いたいと思う。
感情が暴走してパニックに陥った結果、ひどい言葉を投げ掛けてしまった――なんてことは何の言い訳にもならない。
経緯がどうであれ、シズクのことを傷つけてしまったのは私自身だし、遅かれ早かれ、私がこの感情と向き合わなければ、シズクは傷ついてしまっていた。……いや、事実として気付かないうちに、もう何度も傷つけてしまっていたのかもしれない。
私には恋心はわからない。
それでも、シズクのことを愛おしく思う気持ちに嘘はない。
続きます。




