01 変わり続ける世界の中で
過去を振り返りたくなる瞬間というものは、何の前触れもなく訪れる。
そんな時は足が自然と物置部屋へと向かい、ふと正気に戻った頃には黙々と昔の日記を読み進めてしまっているのだ。
「救歴214年……今から1400年くらい前か」
内容に目を通していると、当時の情景が頭の中に浮かび上がり、自然と頬が緩んでいく。
ダンゴがプチ反抗期を迎えただの、お気に入りのマグカップを割られたノドカがコウカと3日間口を利かなかっただの、何気ない大切な日常が記憶として蘇る。
そうして私が次のページを捲ろうとした――その時である。
こんこん、というノックの音が部屋中に響き渡った。
「ユウヒ様」
「ごめん、もうそんな時間か」
ドアの向こうから呼び掛けてくれたその声に応えつつ、ドアノブに手を掛け、回す。
すると沓摺を跨いだ先に立ち、こちらを見上げてくる少女の姿が視界に入ってきた。長く尖った耳と半透明な翅の存在が、彼女が“精霊”であることを如実に表している。
「チョキちゃん、ありがとう。呼びに来てくれたんだね」
「とんでもございません。これもチョキの大切な役目。むしろ予定よりも早く足を運んでしまい、お気を煩わせてしまったことを猛省する次第でございます」
「ううん。今日はゆっくりと歩きたい気分だったから、むしろありがたいくらいだよ」
彼女は聖の中精霊チョキ。精霊の中でもかなり珍しい聖属性の魔力を持つ、ドが付くほどに生真面目な性格の女の子だ。
女神としての私の公務をサポートしたいと真っ先に申し出てくれた子で、主にスケジュールの管理、調整を担ってくれている。
これは余談だが、この子は小精霊から中精霊への昇格試験もスムーズに突破し、高等教育まで修了したエリートとも呼べる精霊なので、大精霊への昇格試験に真っ先に合格するのではないかと私たちが密かに期待を寄せていたりする子でもある。
合格基準を高く設けすぎたせいで、それもどれだけ先になるかはわからないんだけど。
そんなことを考えながらずっと見つめていたせいか、ソワソワと身動ぎをしたチョキが今の雰囲気を払拭するように声を発した。
「その……御召し変えの方も不要、と判断いたします」
居心地が悪そうにしながら、言葉を捻り出したチョキ。
大人びているようで、どこか背伸びをしているようなところもある彼女の様子を微笑ましく思いつつ、私も先程までの思考をひとまず横に置いておく。
「うん。さっきヒバナに手伝ってもらって着替えておいたから、大丈夫だよ」
「左様でございますか」
その場で軽く一回転すると、和服の意匠をふんだんに取り入れた一張羅のドレスの裾が宙に舞う。この衣装こそが“女神ハルモニティア”の正装だ。
そうして私は、こちらの全身を確認して1つ頷いたチョキに先導されるような形で、家の中から数多の精霊たちが暮らしている外の世界へと足を踏み出すのであった。
◇
昔の7人しか住んでいなかった頃の神界と比べ、神界はすっかり様変わりした。丘の上に立つ我が家から数分ほど歩くだけで、多くの精霊たちが生活している様子が目に入る。
湖畔で遊んでいるのは水精霊を中心とした集団か。きゃあきゃあ、という賑やかな声がここまで聞こえてくる。その時、私の存在に気付いた何人かの子が手を振ってきたので、手を振り返しておいた。
その集団の他にも、ベンチの上で昼寝をしたり、木陰に腰を下ろして本を読んだり、と穏やかに過ごしている子の姿が散見される。中には、神界の環境に適応した魔物である“霊獣”と戯れている精霊の姿もあり、その過ごし方はこうして見ているだけでも多種多様だ。
そうして、私が遠くを眺めていた時、不意に馬の鳴き声のようなものが空の上から響き渡った。その独特な鳴き声と風を切る音が合わされば、声の主が何者であるかを推測することは容易である。
彼らもまた、この神界で暮らす霊獣の一種。魔馬スレイプニルが変異し、翼を得た――ペガサスという種族だ。
「こんにちは。挨拶しに来てくれたの?」
地上に降り立ち、こちらに顔を寄せてきた彼らの首筋を撫でると、撫でられた子から再び空へと駆け出していく。
思った通り、私の姿を見つけたから挨拶に来てくれただけらしい。
彼らを見送っていると、自然と空を仰ぐような体勢となる。すると視界の先に、飛び立っていったペガサスとは別の集団が映った。
視界に映るのは宙に浮かぶ複数の人影。この時間帯から予想するに、我らが眠り姫を中心とした精霊たちの集団だろう。
「幼精霊の子たちは、風に乗ってお昼寝中かな」
私たちの定めた規則上、一般的な精霊は4つの階級に分類される。それが幼精霊、小精霊、中精霊、大精霊というものだ。
その中でも、私たちは人間で言うところの乳幼児期までの精霊のことを“幼精霊”と定めていた。
幼精霊たちは基本的に保育所のような保護施設で暮らしており、専門的な技術や知識を身につけた中精霊たちが毎日面倒を見てくれている。幼精霊たちがしっかりと成長し、小精霊と認められるその日まで、保護施設での生活は続くのだ。
「パー……」
同じように立ち止まり、空を見上げていたチョキの口から不意に漏れた声が私の鼓膜を揺らす。
恐らく、今は地上界にいる幼馴染の風精霊に思いを馳せているのだろう。その子もまた、幼精霊の頃から空の上でのお昼寝が大好きな子だった。
「チョキちゃん、大丈夫?」
「……失礼いたしました。弁明いたしますが、別にチョキはアイツのことを考えていたわけではございません。決して寂しいわけでもなければ、何年も帰ってこないことに拗ねているわけでもございませんのでっ」
「そっか……うん、そういうことにしておこう」
チョキにとって、その子ともう1人の幼馴染――2人の精霊の存在は特別なのだ。同じ日に生まれたこの子たちはいつも一緒にいるくらい仲良しだった。
3人が最後に揃ったのは私の知る限り、10年以上は前のことなので、常に心のどこかで心配しているのだろう。
「まあなんにせよ、連絡くらいしてほしいよね。それは地上界に行った子全員に言えることなんだけどさ」
精霊たちが神界と地上界を行き来することに対して、特に制限というものは設けていない。ちゃんと申請さえしてくれれば、希望する霊堂へと私たちの手で送り出すのだが、地上界での生活が楽しいのか、定期的な連絡すら忘れている子が多いこと多いこと。
数十年後にひょっこりと顔を出して、私たちの方が驚いたりする。
ちょっとした不満を込めたぼやきに対して、何度も頷き返していたチョキが歩みを再開するので、私もその後に続いた。
「さて、と……」
家から目的地までの中間地点といったところまで来ると、広大な花畑が私たちを出迎えてくれる。花畑の中にはちらほらと精霊の姿も見え、今日もまた普段通り、花の手入れをしてくれているらしい。
そして、精霊たちに紛れてゴーレムの姿も見受けられる。彼らはゴーレム開発班により、精霊たちを手助けすることを目的として作り上げられたゴーレムだ。
「あれ、いつものゴーレムとは違うのが混じってるね。ロールアウトしたばかりの新型かな?」
「新型? ああ、そういえばグゥがそんなことを……」
思い当たる節があったのか、チョキが何かを呟いている。
だが、その時には既に私の視線は別のところへと向いていた。視線の先にいるのは、私の大切な家族の1人だ。
そんな彼女が、私がさっきまで注目していたゴーレムに近付いていく。
「――そこのゴーレム、ちょっと待って。ねぇキミ、自分の設計者は誰なのか答えられる?」
『ハイ、ワタシの設計及び製造を担当されたのはグゥ博士です』
「そっか。うん、やっぱりグゥだよね! ……自律型は設計の段階からちゃんと申請しておいてって言ってるのになぁ」
彼女とゴーレムのやり取りがここまで聞こえてきて、私もチョキも「またか」と頭を抱える。
「グゥってば、またいい加減ことをして。パーがいなくなってから、余計にひどくなるばかり……!」
ゴーレム開発班が設計、製造するゴーレムの仕様書や設計書に何か特別な条項が組み込まれる場合、実作業に取り掛かる前にダンゴへ申請を出す必要がある。
そして問題がなさそうならゴーサインが出るわけなのだが、ダンゴやチョキが名前を出したその子は割とずぼらというか、ゴーレム造りへの情熱は本物なのだが、それ以外は適当に済ませがちなのだ。
私生活すらままならないため、チョキが度々世話を焼いているのだとか。
「グゥにはチョキがしっかり……それはもうしっかりと言い聞かせておきます」
「あはは、どうかよろしくね」
生真面目なチョキのことなので、説教は免れないだろう。
でも、これまでもあまり改善は見られなかったことからまた適当にあしらわれるだけなんだろうな、とは少し思っていたりもする。チョキには言わないけど。
そうして、その後も様々な過ごし方をしている精霊たちを遠くから見守りながら歩いていると、次第に神界の中心地とも言える、活気に溢れた街の全貌が明らかになってきた。
チョキと共に街の中に足を踏み入れた私は、例に漏れず周囲の様子を観察しながら大通りを歩き続ける。
この大通りには飲食店や様々な商店が立ち並び、今はまだ歩きやすいもののあと何時間かすると学校も終わって、学生服を着たたくさんの小精霊たちによって溢れかえることになるだろう。
「女神様、女神様、少しいい?」
女神様、と何度も呼び掛けてくる声。その声を視線で辿っていくと店先から顔を出す精霊の少女へと行き着いた。
私が視線を向けたことで、彼女は顔に満面の笑みを浮かべる。そして、一度顔を引っ込めたかと思うと、今度はトレーを持って現れた。
「新作のチョコシューを作ってみたの。よかったら試食していって。アンヤ様のお墨付きだよ!」
「さすがはアンヤ、手が早いね。それじゃあ私も1ついただこうかな」
「どうぞどうぞ! チョキちゃんもどうぞ!」
トレーからチョコレートクリームの入ったシュークリームを1つ手に取り、頬張る。……なるほど、たしかに美味しい。
おしぼりも出してくれたので完食した後はそれで手を拭きつつ、おみやげ用に幾つか袋に包んでくれたので、それも受け取る。
「ついでに宣伝もお願いしますねー!」
「……商売魂たくましいなぁ」
手を振って見送ってくれた店主に手を振り返すことで応えつつ、私はその場を立ち去ることにした。
商売の為に利用できるものは何でも利用する、これぞ商人の神髄。とはいえ、まさか女神を商品の宣伝に利用するなんてね。
まあ、形はどうであれ、親しまれたり慕われたりするのは嬉しいものだ。
◇
あれから街の中を歩き、そこからまた目的地までの道を進み続けた。途中で精霊たちとのふれあいも満喫しつつ、遂には目的地へと辿り着く。
「まだ来ておられないようですね」
「うん、どうにか間に合った感じだね」
家を出た時点ではかなり余裕があったが、いつの間にか待ち合わせの予定時刻ギリギリになっていた。
さて、私たちが目指していたのは“別邸”と呼んでいる屋敷だ。ここはかつてミネティーナ様が使っていた屋敷であり、地上界の人間を神界に招き、もてなす時などは専らこの別邸を使うようにしていた。
別邸の近くには大神殿があり、どこか神聖な雰囲気も漂っているので客人にも喜んでもらえるというのも理由の一つだったりする。
「中でお待ちになりますか?」
「いや、あの子ももう少しで来るだろうから、ここで出迎えるよ。申し訳ないけど、お茶の準備だけしておいてくれるかな」
「はい、承知いたしました」
一足先に屋敷の中に入っていくチョキを見送ると、私は屋敷に背を向け、正面を見据える。
今日ここで会うことになっている客人はつい先日、聖女を引き継いだばかりの女の子だ。私が女神となった時点から今現在に至るまで、聖女は何度も代替わりを続けてきた。それも、今代で81代目。
最初の聖女は、私にとって大切な友人だった。彼女の血筋は今もなお脈々と受け継がれ、こうして81代目まで続いてきている。
そんな彼女の名前は――。
「女神様! 我ら“聖教騎士団”が御客人を丁重にお連れしました!」
――その時、私の前に現れたのは、動きやすい格好であることは共通しているものの、不揃いの服装に身を包んだ精霊の集団だ。
先頭に立つ子が名乗りを上げた通り、その子たちが所属しているのは“神界騎士団”で間違いない。間違いはないが、別に騎士団と言っても神界が擁する正規の軍隊というわけでもないのが少しややこしい。
一応、人間の騎士団とも交流があったりするので本当に誤解されがちなのだが、大昔はコウカが立ち上げた“ちびっこ剣術クラブ”だったものが“武術同好会”へと形を変え、その名称がさらに変化して神界騎士団となっただけにすぎないのだ。
和気藹々とした雰囲気で、同好会だった頃からその本質が変わっていないせいか、騎士団を名乗る割にはその真似事をしているだけであまり騎士団っぽくもないが、競い合うことが好きな子や強くなりたいと思っている精霊にとっては大切な拠り所といえる。
ちなみに正規の軍隊ではないので、何か仕事を任せることも基本的にはないし、私から客人の送迎をお願いしたという事実もなかったりする。
とりあえず労いの言葉を掛けつつ、先頭にいた精霊の頭を撫でると、その子の顔がだらしなく蕩けてしまった。
その顔のまま周囲の精霊たちに撤収する旨を伝え、すぐに立ち去っていったので、この場所には当然のように私と聖女だけが残される。
「なんだか嵐のように去っていったね」
改めて姿勢を正し、正面に捉えた少女に微笑みかける。すると少女は桃色の髪を揺らしながら、こちらを目掛けて勢いよく駆け出した。
「ユウヒ様!」
「あっ、ティアナちゃん待って!」
まずい。そう思った私は咄嗟に前に出て、腕を突き出す。この子の性格上、そんなことをしてしまうと――。
「わ、わわわっ」
――案の定、足を縺れさせ、彼女の体が前のめりに倒れていく。
だが彼女の体と地面が接触を果たす直前に、どうにか腕を差し込むことに成功し、怪我をさせることだけは回避することができた。
「ふぇ」
少女の体を抱き上げることになっている腕に力を込め、ゆっくりと抱き起してあげる。この子は昔からおっちょこちょいなところがあるから、本当に目が離せない。
「もう、小さい頃からあわてんぼうなんだから。気をつけないとダメだよ」
「えへへ……ごめんなさい」
頬をほんのり赤らめながら、にへらと笑う少女。この子こそが女神ハルモニティアにとっての81代目聖女ティアナ・フォン・シェーンライヒだ。
世襲制だから名前以外が一致するのは当然ではあるんだけど、なんと、今代聖女は初代聖女と名前までもが一致しているわけである。
「お会いできたのが嬉しくって、つい……」
「毎週会っているのに?」
「足りないくらいですよぉ」
こうして、この子を神界に招くのは別に珍しいことじゃない。地上界と神界、会う場所は交互に入れ替わっているが、うんと昔から最低でも週に一度は聖女と過ごす時間を作るようにしているのだ。
無論、聖女だけを特別視しているわけでもない。人との繋がりというのは本当に大切なもので、どんな時代であっても地上界で暮らす人との関係は常に持ち続けてきた。
人間一人一人と向き合っていると、古今東西おなじ人なんて一人もいないことがよく理解できるし、そんな彼らとの繋がりは私にも変化をもたらしてくれる。
「じゃあ今度ここに来るときは晩御飯も一緒に食べていきなよ。ヒバナにも伝えておくからさ」
「わあ、今からすごく楽しみですっ」
こんな何気ないやり取りですら、私にとってはとても楽しいものだ。
長い人生を楽しむコツは他者との関係を築き続けることだ、と1600年以上生きてきた今なら断言できる。
「さあ、立ち話もこれくらいにしてさ。どうぞ上がって?」
◇
ティアナとの小さなお茶会も無事閉会し、屋敷の前で彼女のことを見送った私はひとり帰路につこうとしていた。
チョキは別邸の掃除を軽く済ませてから帰るそうだし、そもそも家の方向が別々なので現地解散ということになったのだ。
そうして、何歩か歩き始めた時のことだ。肉声とはまた違う調子の音が辺りに響き渡る。
「あれ、着信?」
ピロピロピロ、と着信音を鳴らし続けているのは内ポケットに忍ばせている“魔素伝導通話機”という魔導具だった。
端末を通して、離れた場所にいる相手との会話を可能にする素晴らしい発明だが、通話のために空間に漂う魔素を利用しているため、神界以外だと通話範囲が大幅に制限されるという欠点もあったりする。また、何台も同時に使用するとすぐに混線するという問題もあって、量産はされていない。
これを発明したのは、この世界で生きる者たちの中で最も魔法に精通しているあの子だ。そして発信してきているのもその子からだということがわかった。
「――もしもし」
『あ、ユウヒちゃん。急にごめんね。今、忙しかったかな?』
「ううん、そんなことないよ。ティアナちゃんとの週一でのお茶会も終わって、もう家に帰るところだけど。……もしかして、何かあった?」
声の調子的に何か問題が起こったというわけではないとは思う。
でも、こうして掛けてきているのだから、そっちの線も疑っておくべきだと念のため問い掛けてみたのだ。
『何もない、けど……』
「けど?」
『……声、聞きたくなったから』
そういうことか、と納得すると同時ににんまりと口角が上がる。
「そうなんだ」
『おかしいかな? 用もないのに』
「そんなわけないじゃん。私なんて声を聞きたいどころか、一刻も早くシズクの顔が見たいって気持ちが溢れてきちゃってるし」
端末越しに息を呑む気配が伝わってくる。
シズクの心配は杞憂というものだ。愛している家族と少しでも時間を多く共有したいと思うのは当然のことだし、たとえ数時間でも、会えないと寂しい気持ちにもなる。
「シズクはもう家に帰ってる? まだ大書庫かな」
『えっと。実は研究所の方に顔を出すことになって、今はそこを出たところなんだ』
「そうなの? じゃあ今から待ち合わせて、一緒に帰ろうよ」
声が弾んでいるのが自分でもわかる。
シズクと決めた待ち合わせ場所まで歩いていく最中も通話は切らずに、言葉を交わし続ける。
『それでね――』
「――うん、うん」
救世の女神ハルモニティアと呼ばれるようになってから変化を続ける世界の中で、みんなと歩み続けてきた日々。
その中でも、ずっと変わらないと思っていたもの。
1000年を優に超える歳月の中、それが自分の気付かぬところで、ほんの少しずつ変わり続けていたことを知るようになるのは――今からもう少しだけ後の話。




