19 精霊の再誕
救歴62年――私が女神となってから62という年月が過ぎた年。
つまり、私ももうすぐ80歳のおばあちゃんになる。歳を重ねたところで、私もあの子たちも老化することがないため、見た目は62年前と何ら変わってはいないのだけれど。
「んぅ……」
私の膝に頭を乗せて眠っていたノドカが軽く寝返りを打ったので、その髪を梳くようにそっと手を動かす。
読書をしている私とお昼寝中のノドカ。今現在、家にいるのは私たち2人だけで、部屋の中に響くのは本のページを捲る音とこの子の寝息だけという、いたって静かな空間であった。
なら他の子たちは何をしているのかというと、これといって特別なことをしているというわけでもない。
シズクはグローリア帝国にある魔法学院の教員兼、併設されている魔法研究所にある一研究室の室長も務めているから、週に数回は今日のようにグローリア帝国へと赴いている。
今や、魔法に関する全ての分野を統合した学問である魔法学の権威とも称され、魔法学院で担当している魔法術式学の授業も学生たちから好評だそうだ。
また、真偽の程は定かではないが、あの子が取り持つ授業の定期試験で満点を取った学生へと返却される“ハナマル付きの答案用紙”は、並みの勲章よりもよっぽど価値のあるものだとして、卒業後も1つのステータスとなるのだとか。
シズクも、何十年も前に私が作って採点までした“ハナマル付きの漢字ドリル”を全て大切に保管しているようだし、ハナマルというのは何か特別な魔力を放っているに違いない。
一切の妥協を許さず、厳しく採点するあの子の試験で得られるハナマルともなれば、その喜びもひとしおだろう。
少し話は逸れたが、好評という点ではヒバナの仕事も負けていない。
あの子はシズクのように教職に就いているというわけではないが、とある街で定食屋を営んでいる。隔日かつお昼時の約3時間だけの開店だというのに、いつも人で溢れ返るような人気飲食店だ。
頭の中ではもっとのんびりとしたイメージを思い描いていたようだが、その予想に反した人気さ故、オープン当初は1人で回していた業務も次第に分担せざるを得なくなり、私たちの中から日に何人かが、ホールスタッフとして手伝っているのが現状だ。今、コウカとアンヤがいないのは、まさにその手伝いのためというわけである。
そして、定食屋の経営はヒバナ自身にも大きな変化を促した。
幸せそうに料理を頬張るお客さんたち。その中には常連のお客さんだってたくさんいて、そんな常連さんたちと楽しそうに軽口を叩き合うその姿からは、かつての人間不信っぷりを想像することすらできないだろう。
成人したてだった常連さんも家庭を持って、家族と一緒に来店してくれるようになり、そのお子さんもまた大人になり――とそれだけの歳月を経たとしても、ヒバナの容姿が少女のものから変わることはない。
常連さんたちも薄々ヒバナの正体に勘付いているような気はするが、まるで示し合わせたかのようにそのことに首を突っ込んでくる気配はなく、店主と常連という関係性が変わることもない。きっとこの先においても、それは言えるのだろう。
毎日ではないが、あの子たちは忙しいながらも充実した日々を送っている。
「ノドカも前までは忙しそうにしていたのにね」
こうして、もっぱら惰眠を貪る生活を続けているノドカも、合唱団に所属していた頃は練習に公演にと、かなり忙しそうに過ごしている時期もあった。
次、あの頃のように何かに精力的に取り組むノドカの姿を見られるのは、いったいいつの話になるのだろうか。
「……おっと、読み終えちゃったな」
最後のページを捲り、裏表紙を閉じた本をテーブルの上にそっと置く。次の本に手を伸ばしてもいいが、時計を見る限り現在の時刻は15時前。
そろそろ帰ってくる子もいるだろうし、ちょっとしたおやつを用意しておいてもいい頃合いかもしれない。
「一昨日に焼いたスコーンがまだ残っていたよね」
ノドカを起こさないようにソファから立ち上がり、お茶会の準備を整えていく。そうして、あとは紅茶を淹れるだけという段階で手を止めた。
「シズクは遅くなるかな? ダンゴも……おっと」
ダンゴについて考えていた――その時だった。
外からドタバタとした大きな足音が家の中まで聞こえてきたのだ。多分、神界の植物を手入れしていたダンゴが戻ってきたのだと思うが、元気のいいあの子でも流石にこんな足音を響かせることは早々ない。
少し疑問に思いつつも、玄関口に向かって歩いていくと玄関の扉が勢いよく開かれ、件の少女が飛び込んでくる。
「た、たた、たたったたっ!」
「ダンゴ?」
尋常でない様子のダンゴは意味のわからない言葉を繰り返しているだけだ。とにかく落ち着かせることが先決か。
「どうしたの、落ち着いて」
「み、みみ、見た! 見たんだ!」
「お化けでも出たの?」
ようやく意味のわかる言葉が聞こえたが、それが意図するところまではまだわからない。お化け程度でここまで動じる子ではないとわかっているので、今の問い掛けはちょっとした冗談だ。
「ダンゴちゃん~……おかえりなさい~」
気付けば、すぐ傍までノドカが近付いてきており、私の首に腕を回してきた。大方、この騒ぎを聞き付け、目を覚ましたのだろう。
のんびりとしたノドカの雰囲気につられたのか、ダンゴもやや落ち着きを取り戻しつつあるようだ。
「あのね、あのね、落ち着いて。落ち着いて聞いてねっ」
「うんうん、私は落ち着いているよ。ちゃんと聞いてるから」
「……ボク、さっき外で作業してて、その時に何か動くものが見えて、何だろうなって近付いてよく見たら、それは翅が生えてて、小さな人みたいな形をしててっ」
落ち着きを取り戻しつつある、と言ってもかなり動揺しているのか説明が非常に辿々しい。
どうにか噛み砕きつつ、ダンゴの言っていることを理解していく。……うん。ちょっと、待って。
「せ、精霊! 多分、精霊が生まれたんだ!」
「え……ええぇ――ッ!?」
条件的には、いつ生まれてもおかしくなかった精霊が生まれてきたかもしれない。そう理解した私は無意識のうちに大きな声を出してしまっていたのである。
◇
「うぅ……おかしいな。こっちの方で見たのに」
ダンゴから精霊らしき存在を確認したと報告を受けてから数十分後。私とノドカはダンゴと共に、その存在を見たという場所まで来ていた。
衝撃のあまり、ダンゴも生まれたばかりの精霊を保護することを忘れて、家まで猛ダッシュで帰ってきてしまったのだとか。
「ノドカ、わかる?」
「ん~……動いているものは~ありません~。お姉さまのほうは~?」
「私も全然。生まれたばかりの精霊ってかなり力が小さいのかな」
ノドカの魔法に引っ掛からないということは動いていないか、大きく移動してしまったのか。少なくとも動いていないというのは考えづらいので、この周辺には既にいないと考えてもいいのだろうか。
ダンゴの勘違いという線も考えられなくもないが、ここ神界で私たち以外の生物がいるというだけでも異常事態である。
「ねえ、3人揃ってそんなところで何してるの?」
その時、遠くの方からヒバナの声が聞こえてくる。視線を向ければ、彼女の傍にコウカとアンヤの姿も確認できたことから、地上界から神界に戻り、家へと向かう最中に私たちのことを見つけたのだろうということが推察できた。
彼女たちを労いつつ、「ダンゴが精霊を見たかもしれない」ということを伝えるとまるでさっきの私のようなリアクションをコウカが取ったが、これは割愛する。
今はとにかく捜索に専念するべきだ。
だが――。
「……見つからない」
「痕跡も何もないと……自分の記憶を疑っちゃうよ……」
6人で探し続けはしたものの、捜索むなしく精霊どころか生き物がいた痕跡すら見つけられなかった。仕方がないので、一度家に帰り、シズクも交えたうえで出直すべきだろう。
「おやつでも食べながら休憩しよう。ヒバナたちも疲れているのに手伝ってくれてありがとね」
事前に用意をしておいてよかった。一仕事を終えたあとのヒバナたち3人の疲れを少しでも癒すことができれば御の字だ。
帰路につき、少し辺りを見渡してはいたものの、結局何も見つけることができないまま自宅へと辿り着いてしまった私たち。
地上界で働いていた3人は着替えるとのことで自室へと戻り、私も今のうちに紅茶の準備を進めておく。どうやらダンゴも手伝ってくれるようだ。
「ごめんね、主様。精霊を見つけたらすぐに保護しようって昔から話し合っていたのに」
「ううん。50年とか60年とか、ずっと生まれてこなかった精霊が急に現れたってなれば、誰だって驚いちゃうって」
「でも……あの新しく生まれた精霊の子だって何も知らずに、今頃どこかを彷徨い続けているかもしれないし……」
たしかに心配ではあるし、ダンゴが気を病むのもわかる。この子のためにも、その精霊が少しでも早く見つかってくれればいいのにと切に願う。もちろん、まだ精霊だと確定したわけでもないのだが。
「――んふふ~、美味しい~?」
「なー! なー!」
その時、食卓の方から不意に聞こえてきたノドカの声。それはまるで誰かに問い掛けているようで。また、それに続いて、甲高くも可愛らしい声が聞こえてはこなかっただろうか。
「ノドカ、どうし……た……」
「あ~、お姉さま~。この子~お姉さまのスコーンが美味しいって~」
キッチンから顔を出した私は固まってしまう。そんな私に対して話しかけてくるノドカの言葉のあとに、またもや「なー」というまるで鳴き声のような声も続いた。
ギギギ、と油を差していない機械のように首を回した私はその声の主に目を向ける。そして、私が何かリアクションを取るよりも先に、私の脇からノドカの元へと飛び出していったダンゴが大きな声を上げた。
「こ、この子! ボクが見たのはこの子だよ!」
「なんでいるの!?」
15センチくらいのとても小さな体。体の大きさと、半透明の翅が生えていること、また耳が長く尖っていることを覗けば人間と何ら変わらない容姿。一言で言い表すとしたら、まるで“おとぎ話に出てくる妖精”のようである。
それは紛うことなき精霊そのものであり、ダンゴの発言からも私たちが探していたのはこの子であると窺える。それが何故か私たちの家の中にいたというのだ。
「入れ違いか~ダンゴちゃんに付いてきちゃっていたのかも~」
「……焦り過ぎたね」
灯台下暗しとはこのことだ。ダンゴだけではなく、あの時は全員が慌てていたものだから、すぐそばにいたであろうこの子の存在に気付けなかった。
「いや、それにしても本当に精霊なんだよね……」
数十年間、まだかまだかと待ち続けていた存在が今、こうして目の前にいるのだとわかると感慨深いものがあった。
ノドカから受け取ったスコーンを両手で持ち、小さな口いっぱいに頬張るその姿は実に無邪気なもので、まるで何も知らない赤子のような印象を受ける。
きっとこの子の誕生は始まりに過ぎず、これを皮切りに新たな精霊は次々生まれてくることになるのだろう。
私たちの役目はこの子たちを保護し、この世界で生きていく知識や能力を身につけさせ、精霊たちが安心して暮らしていけるだけの環境を整えること。そのうえで人間たちと精霊との関係についても考えていく必要がある。
そう思うと、本当にやることがいっぱいだ。何もかもが手探り状態なので、これから本当に忙しくなる。
――だが、この時の私の想定は、実に甘すぎたと言わざるを得なかった。
◇
神界で最初の精霊が生まれた3日後に今度は一気に3人の精霊が生まれた。
とりあえず私たちの自宅で保護し、何も知らないその子たちを育てていくことが話し合いの末に決定する。でも幼児や赤ん坊のように無邪気なくせして、ある程度自由に動き回れる体があるせいで、本当に目を離せない。
少しでも目を放してしまえば、その小さな体躯からすぐに見失ってしまうのだから。
そしてこの精霊たち、凄まじい頻度で増えていく。これは恐らく最初だけだとは思うのだが、そんなことは私たちにとって何の慰めにもなりはしなかった。
早々に、自宅には収まりきらないということで、急遽いくつか建物を建てて、そこで面倒を見るように変わった。
精霊たちの成長速度は決して速いとは言えない。加えて、成長速度にかなりの個人差があるものだから臨機応変な対応は必須だ。そう思うと、コウカたちスライムの異常性が明らかになっていくものである。これは精霊たちが成長していくにつれ、より顕著になっていったことでもあるが。
さて、この終わりの見えない苦労が和らぎを見せ始めたのは意外にも10年ほどしか経っていない時だった。精霊の中でも早熟な子たちが、自分よりも幼い子たちの面倒を見てくれるようになったのだ。地上界から助っ人を呼ぶようになったのもこの頃か。
そして、そこからさらに年月を重ねるごとに自立していく子たちが出てきて、それぞれが様々な分野において私たちを助けてくれるようになったり、そもそもの精霊の増加速度が落ち着きを見せ始めたりと、次第に新たな神界の在り方が定着していった。
だが、同時に新たな問題も発生する。それは地上界でも精霊が発見されたというものだ。
早急に地上界の国々と精霊に関するルールを制定して、人間と精霊共々に不利益がないよう、また安心して暮らしていけるようにしていかなければならなかった。
そのうえで地上界の精霊たちも保護していく。しかし、精霊が広い地上界のどこで、何人生まれたかなんて把握できるはずもないので、保護するのは発見できた子だけだ。
地上界で保護した精霊も神界で生まれた精霊と変わらず、生きていくための知識や基礎的な能力を身につけるまでは面倒を見るようにした。
その頃になると、神界でも精霊たちの教育に関するノウハウや仕組みについても本格的に整備されはじめていたので、あまり心配することでもなかった。
それからも世界情勢の推移は注意深く見守りつつ、様々な変化に対応していった。
そして、救歴300年頃の出来事だったか。いつものように過ごしていた私たちの間に、大きな衝撃が走った。なんと、神界で生まれてずっと神界で暮らしていた精霊の1人が亡くなってしまったのだ。それも老衰によって。
まず、精霊に寿命があるということすら私たちは知らなかった。コウカたちのようにスライムから精霊へと進化した存在と、最初から精霊として生まれた彼らとではその性質は大きく異なっていたのだ。
コウカたちの体は魔力、精霊力、マナという3要素がほぼ全体を占めている。だから魔力がこの世界から枯渇するということでもなければ、寿命というものはないに等しいし、たとえ大きな傷を負ったとしてもほんの小さな一欠片でも体が残っていれば、全身を瞬時に再生できる。
一方、本来の精霊たちは“精霊力とマナを持った人間”と言ってもいいくらいには体の構造が似ている。体内には臓器や骨があって、血も流れている。
コウカたちのように、傷を負ったとしても魔力等で傷を塞ぐことはできる。だが失った血は戻って来ないので失血死してしまう可能性は十分にあるし、脳や心臓の損傷は死へと直結してしまう。
当然、老化からも逃れられず、人間よりも長いとはいえ寿命だって存在する。
とはいえ記録を見る限り、水の大精霊だったレーゲン様は数千年は軽く生きているし、老化の影響を受けているようにも見えなかった。
その事実や老衰で亡くなっていく精霊たちとの共通点から見えてくることもある。
より強い力を持った精霊ほど寿命が長い、というのが私たちの仮説である。その力には生まれ持った資質も関係するだろうし、生きている間に研鑽を積むことでより大きな力を持った精霊となれれば、それだけ寿命も延びていくはずだ。
この事実は精霊たちにも周知はしたが、積極的に寿命を延ばそうとする子はあまりいなかった。一方で強くなりたい子や戦いに興味を示した子には私たちの方から指導やアドバイスをしてあげたりもしている。
新たな発見とそれに基づいた変化。その繰り返しによって、忙しなくも充実した日々を私たちは過ごしていた。
そして、その変化とは精霊に関することだけではない。私たちは様々な変化と向き合いながらも、変わらないものに心身を委ねつつ、人間の尺度で言えば気が遠くなるような時間を生きていった。
――気付けば、私の年齢も1000を優に超えている。




