08 美魚姫と海の怪物 ②
『つ、つかぬことをお伺いしますクラが、もしかして本物の女神様と精霊様クラ!?』
つい先程まで全身を赤くしながら照れていたクラーケンが非常に興奮した様子で問い掛けてくる。
「あ、うん。そうだけど……」
『ギョエーッ! あ、憧れの人と本当に会えちゃったクラ~!』
頭上まで伸ばした触手をくねくねとさせている。
どうやらこの動作は感情が昂った時に表れるものらしい。
『あ、あの……ファンですクラ! あーしと握手してくださいクラ!』
なるほど、私たちのファンらしい。
なら興奮しているのも納得だ。
――いや、ファンってなんだろう。
「握手って……これでいいの?」
大きなタコの足のような触手を1本こちらに差し出してきたので、それにそっと手で触れてみるとクラーケンはこれ以上ないくらいの喜びの声を上げた。
『めっちゃ感動ですクラ~! もう一生この手は洗えないクラ!』
「……無理じゃないかな?」
水の中で生きている生物であるはずなのに、この子は何を言っているんだろうか。
『気合でどうにでもなりますクラ!』
謎の自信に満ち溢れているクラーケンは次にみんなとの握手まで求め始めた。
あの子たちは戸惑いつつもそれに応じることにしたらしい。
そうして彼――いや、彼女はまたあの喜びのダンスを繰り出していたのだが、それも収まるや否や今度は水中から取り出した何かを私たちに向かって差し出してきた。
『お近づきの印にこちらをどうぞですクラ。ほんの気持ちばかりの品ですクラ』
「ああ、これはこれはご丁寧に……じゃないよ!」
恐縮した様子でおずおずと差し出されたため、つい自然に応じてしまった私もすぐに正気に戻った。
「これってあなたの体の一部だよね!? もらえないって!」
『ただの足ですのでお気遣いなくですクラ!』
その口ぶりから推察するに多分すぐに再生するものなのだろう。
「……そっか、じゃあ……ありがたく?」
貰ったところで困る気がするのだが、相手の好意だし取り敢えず受け取ってはおこう……うん。
「うわぁ……すごくおっきいよ、これ! 食べられるのかな!?」
「タコ焼きにしたら~おいしそう~」
「……タコ?」
――貰い物の処理はあの子たちに任せるとして、私はクラーケンとの会話を続けよう。
この魔物と出会ってから抱いている疑問は未だ何も解決していないのだからそろそろハッキリとさせておきたい。
「えっと、それじゃあ落ち着いたところでいくつかあなたに質問させてもらいたいんだけど、いいかな――ってどうかしたの?」
強引に本題へと話の流れを戻そうとした私だったが、ここでやけにクラーケンがソワソワしていることに気が付いた。
こんな状況では流石に話を続けづらいので相手の出方を窺うことにする。
『め、めめ、女神様! 卑しいクラーケンだと思われるかもしれないですクラが、ぜひとも貴女様のサインもいただきたいですクラ!』
その辺りにプカプカと浮かんでいた木の板を手繰り寄せてきたクラーケンがそんなお願いをしてきた。
『それであのぉ……お願いばかりになって大変恐縮でございますクラが上に“ラークへ”と入れて欲しいクラ!』
「ラーク?」
『あ、あーしの名前ですクラっ!』
いつか尋ねてみようと思っていた名前だけど、サインの宛名という思いもよらぬ形で知ることができた。
「サイン……サインね、オッケー。ただ名前を書くだけのものになっちゃうけど許してね」
差し出された木の板も受け取ってしまったので、今も積み重なっているラークへの疑問を解消する前にサインだけ手早く済ませてしまおう。
『マジ感激ですクラ~! どうぞよろしくお願いしますクラ! ……あっ、濡れていて上手く書けないようでしたらあーしの墨をお使いくださいクラ! そ、それで重ね重ねのお願いになり恐れ入りますクラが精霊様たちにも――』
「待ってください」
――突然、力強い声に割り込まれ、辺り一帯が静まり返る。
「マスターも流されないで……何よりもまずハッキリさせるべきことがあるはずです」
ラークの話の腰を折りに行ったのはコウカだった。
流されている自覚があった私もサインを書こうとしていた手を止めざるを得ない。
「言ってしまえば、今のわたしはあなたのことを少し疑っています。……こんな気持ちでは、要求に応える気にもなれない」
その言葉の向け先はラークだ。
――疑っている、か。
多分、コウカは私がさっき投げ掛けようとして中断した疑問を先に解決するつもりなのだろう。
たしかに善か悪かもわからない相手のペースに呑まれるのは危険だ。この場におけるコウカの判断は妥当と言える。
『ギョッ!? あーし、疑われてっ!? クラぁ!?』
「多分、わたしだけじゃなくてみんなも気になっていることだと思いますが……ラークでしたか、あなたに1つ質問です」
淡々と言葉を紡ぐコウカと視線が交差したので“この場は任せる”という意味を込めて、私はしっかりと頷いておいた。
「その回答によってクラーケンという魔物に対する心象も、受け取った“友好の証”をどうするという今後の対応も大きく変わってしまいます。ですから、どうか――」
コウカは最初にみんなが持っている1本の大きな触手に目を遣り、次に鋭い視線でラークを射抜いた。
「――嘘だけはつかないでください」
有無を言わせぬ雰囲気が漂い、どこからか唾を呑む音も聞こえる。
私たちに好意を抱いてくれているラークだが、人を襲う“海の怪物”であるという可能性は消えていない。
だからラークがそれを認めてしまえば、あの触手は“友好の証”から“討伐の証明”へと変貌を遂げてしまうのだ。
――どうか、この子が心優しいクラーケンでありますように。
そう願わずにはいられなかった。
「ラーク、あなたは――」
コウカの口からゆっくりと言葉が紡がれていく。
これから投げ掛けられる問いへの返答を受けてしまえば、その結果がどうであれ審判を下さなければならなくなるのだろう。
「――タコですか、それともイカなんですか?」
ああ、視界が真っ暗だ。
どうやら私は無意識のうちに顔を手で覆っていたらしい。
「答えてください!」
『ギョッ!? あ、あーしはクラーケンですクラ! ……タコでもイカでもないですクラぁ』
当然、ラークはそう答えるしかない。
「えっ、タコでもイカでもないの!?」
「えぇ~!? タコ焼き~っ!」
タコもイカも美味しいよね、食べたいよね。でもそうじゃないんだ。
「でも形は似ているわ。クラーケン料理っていうのも、試してみると意外とイケるかも」
「……クラーケン焼き、楽しみ」
さっきから必死にメモを取り続けているシズクは論外として、みんなのストッパー役として働いてくれると思っていたヒバナもコウカたちの側へと行ってしまったようだ。
――もっと重要なことがあるよね? 私たち、さっき襲われたばかりなんだよ?
◇
「海底にある魔泉が穢れて、そこが邪魔の巣窟に……それでラークは人間を襲う邪魔からずっと人々を守ってくれていた、と」
『どこかゆっくりと暮らせる場所を探していて、たまたま通り掛かったんですクラ!』
それが丁度3年前くらいの出来事で、私たちが女神となってからの初仕事として世界中の邪魔を浄化して回っていた姿もラークはこの場所から見ていたらしい。
その姿に魅せられてファンになってくれたのだとか。
「そっか……ごめんね。3年前のあの日に気付いてあげられたらよかったんだけど、見落としてた」
魔素を運ぶ役目を持つ世界樹の根は大陸全土に広がっている。言い訳をするわけではないが海の中に魔泉があること自体が本当に稀なのだ。
気付けていなかった以上、ラークがいなければきっと邪魔の残党によって何人もの犠牲者が出ていたはずだ。
それを防いでくれていたラークには女神としても、私個人としても感謝してもしきれない。
「あなたの口から直接、この話を聞けて本当によかったよ。今日までずっと人々を守ってくれてありがとう、ラーク」
私は感謝を告げると同時にラークの体に触れ、その内側に存在する穢れた魔素を感じ取る。
――やっぱり影響がないわけがない、か。
穢れた魔素に触れ続けると少しずつ内側から蝕まれていってしまう。
そういう意味では間に合ってよかったと心の底から思う。
『ポカポカと温かいこの感覚はまさか……め、めめめ女神様の力クラ!?』
「あなたが嫌じゃなければ、これも受け入れてほしいな」
『ギョエェーッ!?』
いわゆる“女神の加護”というものだ。
知り合ったばかりのこの子に対して最大限の加護を授けることはできないけど、お礼にはなるだろう。
ラークも慄くような様子を見せていたが、おずおずと私の加護を受け取ろうとしてくれている。
『ほ、本当に頂いてもいいですクラ……? あとで法外な請求をされたり……無理矢理何かさせられたり……も、もちろん女神様を疑ってなんかいないクラ! でもそんな横暴なヤツが昔いて、あーしも酷い目にあっていたクラぁ……』
「えぇ、なんというか……大変だったんだね」
どうやらラークは昔、交友関係で苦労していたらしい。
魔物は長生きであることが多いから、この子の言う昔がどれほど昔のことなのか正確には分からないんだけど。
『でもそいつから解放された今はすごく気楽ですクラ! 本当はこんなところじゃなくて、もっと穏やかな場所で慎ましく生活していたいのですがクラ……』
邪魔が近くにいる場所での生活なんて心休まるはずがない。
心優しいこの魔物がここを安心して離れられるように今日ここでこの海に纏わる問題に終止符を打つとしよう。
「だったら今すぐここの問題を解決しないとね」
『い、今すぐクラ!? ほ、本当にそんなことができるんですかクラ……?』
「当然。ここにはあなたが憧れてくれた女神と精霊姫たちが揃っているんだよ? 大船に乗ったつもりで任せてみてよ!」
『お、大船……あーしにとっては微妙に安心できないクラ……!?』
クラーケンって体がすごく大きいし、それもそうか。
なんだか人とクラーケンとの間にカルチャーギャップを感じる。
――まあ当然なんだけど。
「さてと、みんなもそれでいいかな?」
元々魔素鎮めはやるつもりだったし、寸分の迷いもなく全員が頷いてくれ――はしなかった。
「待って、その前にこれだけ聞かせてっ!」
好奇心旺盛モードから未だ抜け出せていないシズクは彼女の中で今も渦巻き続けている疑問を解決し、少しでもスッキリしてからこの仕事に取り掛かりたいのだろう。
「く、クラーケンが……ううん、あ、あなたが考える理想の住処ってどんなところ!?」
『理想の住処ですかクラ? 体を乾かせるための広い砂浜があって、あーしを見ても誰も怖がらないくらい長閑な場所がいいですクラ!』
どうやらクラーケンは自分から干物になろうとする習性を持っているらしい。
シズクは嬉々としてこの情報をメモ帳へと書き込んでいた。
「――はいシズク、終了ですよ。そろそろ切り替えましょう」
「邪魔は放っておけないわ。一仕事終わってからの方が時間も取れるんだし、シズもそっちの方がいいでしょ?」
いつの間にか気持ちを仕事モードへと切り替え終えているコウカとヒバナがシズクの説得を試みている。
周囲に目を向けると、他の子たちも既に仕事モードに入っているようだ。
「主様、作戦ってもう決めてるの?」
「うん、大まかだけど。確実に浄化したいからセプテットで海底に突入するつもりだよ」
ここからでも対処できないことはないが、万が一討ち漏らしがあった場合を考えるとより確実な手段を選びたい。
「セプテット! 久しぶりだよねっ!?」
「たしかにそうだね。去年の祭礼の日以来かな」
みんなに包まれ、みんなを包み込むような温かさを感じられるセプテット・ハーモニクスは大好きだけど、この力を使う場面は本当に少ない。
いくら邪魔の残党が現れたとしてもハーモニクスすら必要ない場合がほとんどだ。
「――よし、じゃあ改めて行こうか」
周囲を見渡し、全員の準備が整っていることを確認する。
「【ハーモニック・アンサンブル】」
私の中にみんなの全てが流れ込んできて、女神単体の力を遥かに凌駕した力が私たちを包み込む。
「セプテット・ハーモニクス」
炎のように揺らめく七色の光の翼。
混じり気のない白に染まる髪。
まるでその魂を映しているかの如く全員の色を虹彩に宿した瞳。
これらが七重奏を象徴する基本的な形態だ。
『ま、まさしくあの日見た女神様の御姿……神々しすぎて目が開けられないクラ~!?』




