08 美魚姫と海の怪物
港町グランバーグ。
漁業が盛んだというこの町は今、ある大きな問題を抱えていた。
「もう1人、この依頼を受けてくれた冒険者の到着を待ってからでも……本当に大丈夫なんですかい?」
「はい、大丈夫ですよ。よく驚かれますけど、これでもAランク冒険者なので」
その問題を解決するために派遣されてきたのが私たちだというわけだ。
とは言っても女神としてではなく、今回はただの冒険者としてこの町に赴いている。
「……安心して待っていてほしい」
「ボクたち、こう見えてもすっごく強いんだよ!」
町の代表者に対する私の言葉に付け加えるような形でそう発言したのはアンヤとダンゴだった。
実際に冒険者カードを見せてもなお彼はこちらに胡乱な目を向けていたが、私たちの実力を見せつけるようにすぐそばにあった海の上に全員で立ってみせると彼の目の色が変わった。
「なんて精密な魔力制御……」
「ね、大丈夫でしょう?」
「いやぁ……疑ってすんません。幸いにも死んだ奴はいないとはいえ、こちとら“海の怪物”には3年も前から手を焼いているもんで、すっかり気が立っちまってたもんでさぁ」
男は疲れ切った顔で笑う。
この町の近海に凶悪な“海の怪物”が棲み付いて、近海を航行する船が襲われるようになってしまったという問題が3年も続いてなお解決してこなかったのは、ある意味仕方のないことではあった。
船や飛竜を派遣しようにも怪物の正確な出現地点は分からず、そもそも海中に逃げられてしまっては攻撃の手段がない。
粘り強く対処するにしても邪神の遺した爪痕は未だ大きく、国中に多くの問題を抱えている中では軍隊もこの1件だけに集中することもできないのだ。
「だがまぁ、一番望み薄だと思っていた冒険者ギルドから声が掛かって2組も来てくれるって聞いた時にゃなんかの冗談かと思いましたぜ」
「あははは……」
個人で海上を移動し、かつ戦闘を行える冒険者なんてまずいない。
――でも私たち以外にもギルドから指名依頼を出された冒険者もいるんだよね。
まだこの町に到着していないようだが、いったいどんな人なのだろうか。
まあここに派遣されるもう1人の冒険者については、一旦置いておこう。
「さてと、そろそろ出発します。怪物の目印は“巨大な触手”、でいいんですよね」
「襲われるときにゃ、決まってその見るにおぞましい触手が何本も海から顔を出すんでさぁ。おっかねえってどころの騒ぎじゃねぇ」
「とりあえずその触手に注意しつつ、調査してみることにします。……あ、そうだ。もう1人の冒険者さんが来たら、私たちが戻ってくるまでは待っていてほしいと伝えていただけると助かります」
私の言葉に彼はしっかりと頷いてくれる。
「どうか無事に帰ってきてくだせぇ」
私たちは魔力制御が乱れないように注意しながら、海の上で一歩を踏み出した。
◇
「マスター、もういいんじゃないですか?」
「そうだね。みんな、もういいよ」
町はすっかりと遠くなり、もう誰も私たちの姿を肉眼で捉えることはできないだろう。
「ノドカも。そろそろ降りてください」
「え~楽々だったのに~」
「ほら、このままじゃ翅が出せませんから」
コウカにおんぶしてもらっていたノドカが渋々その背中から離れると、コウカの背中に半透明の翅が生成される。
辺りを見渡すと他のみんなも既に同じような翅を背中から生やしており、それぞれの体を宙に浮かせていた。
「正体を隠しておくにしても、もう少しやり方があったんじゃないの? 船を借りるとか」
「たしかにここまで歩いてくるのは面倒だったけど、沖に出られる船を借りるのも別の面倒があるんだよ、ひーちゃん」
ヒバナとシズクのやり取りを眺めつつ、私も自分に掛けていた魔法による“カモフラージュ”を解除する。
その直後、視界に映る髪の色がローズゴールドへと変化した。
「お姉さま~、ハーモニクス~?」
「うん。シズクも来て?」
抱き着いてきたノドカ、傍によってきてくれたシズクと共に私は【ハーモニック・アンサンブル】を発現させる。
――そしてトリオ・ハーモニクスになった私も魔力の翼を展開してみんなと同じように空の上へ舞い上がった。
「あの町まで来てようやく気付いたけど、やっぱり邪魔かぁ」
「ここまで来ると本当にわかりやすいですね」
ダンゴとコウカのやり取りに耳を傾ける。
たまに現れる邪魔の残党。
発見され次第、即座に対処するのは女神や教団の最優先事項だけどまさか冒険者ギルドで受けた依頼で邪魔を発見することになるなんて思ってもみなかった。
――奇しくもこれは女神案件だったというわけだ。
「……怪物の正体も邪魔?」
「多分そうでしょ。海の中にも残っているなんて考えてもみなかったわ」
アンヤやヒバナの言うように依頼の標的も邪魔の可能性が高いだろう。
『ノドカちゃん、やっぱり風じゃ探知できないよね?』
『う~ん……そうかも~?』
『じゃあ、ひーちゃんが言っているように水の中かな……』
元々そう予想してのトリオ・ハーモニクスである。
海に直接潜らずとも海面に近付けば、シズクの力で海底まで調べることだってできるはずだ。
「みんな、これから海の中を調べてみるから念のため周囲の警戒をよろしく」
周囲から何かが襲ってくる可能性も捨てきれないので警戒はしていてもらう。
そうして私が海面に近付き、手を伸ばそうとした――その時だった。
「――あ、ちょっ!?」
周囲に漂っていた邪魔の気配が急激に増加し、それが海面に急接近する存在から発せられていると気付いた時には少し遅かった。
海上へと飛び出してきた触手のような何かが私の脚に巻き付き、そのまますごい勢いで体を海中へと引きずり込んできたのだ。
――私の体は凄まじい勢いで海底へと引っ張られていく。
『く、苦しい~……!』
『海水が……!』
加えて、突然のことに驚いて思いきり海水を呑み込んでしまった。
でも――大丈夫、2人とも落ち着いて。
ここでパニックになったら完全に溺れてしまう。それにすぐに対処する必要はあるが決して絶望的な状況であるわけでもない。
出し惜しみをしている状況でもないし、ここは神力で対処する。
『邪魔が破壊の神力で消滅させられるなんて……皮肉だね』
力の向け先は私の脚に巻き付いている触手の根本。
情けをかける相手でもないので迷わず破壊の神力を行使しようとした私だったが、その直後の出来事によって事情が変わってしまったため力の行使を中断することとなった。
海の中に現れた巨大なナニか。
それが私を掴んでいた触手を引き千切ってくれたのだ。
『な、なに~?』
『あたしたちを助けた……?』
疑問は多いが自由になった今、最優先するべきことは浮上することだ。
だがそれも、自分で何かをする必要はなかった。
巨大なナニかが大きな触手を私の体に巻き付け、海面へと運んでくれたのだ。
そうして海上に顔を出した私はまず思いきり咳き込んだ。
しかし、悠長にしている余裕もない。
――私の視界に無数の鋭利な礫と巨大な炎弾、そして煌めく一筋の光が飛び込んできたからだ。
動こうとすると体に巻き付いていた触手の力が弱まってくれたので、魔力の翼で飛び立った私は未だ咳き込みながらではあるものの、風の結界と激流を生成して礫と炎弾を相殺する。
そして光――剣を構えて突撃してきたコウカにはシズクの霊器“フィデス”を構えて対処しようとした。
「えっ!?」
だがこちらの動きに気付いたコウカがその前に霊器“ライングランツ”を消滅させてくれたようだ。
――まあ、その勢いまでは消せないんだけど。
こちらも構えは解いたものの、抱き着くようにぶつかってきたコウカと私はその勢いのまま海面に衝突しそうになる。
「――ッ! ……あ、あれ?」
コウカの戸惑うような声が聞こえる。
彼女はその顔にこれ以上ないほどの大きな困惑を浮かべていた。
「え……えっと、ありがとうございます……?」
私とコウカの体を包んでくれている触手の主。
私たちの視線の先にいたのはイカともタコとも呼べるような巨大な怪物だった。
『び、びっくりしました~……』
『みんな、血の気が多すぎるよ……』
私の中の2人からホッと胸を撫でおろす様子が伝わってくる。
いきなりの攻撃で驚いたが、私たちを助けるための行動だったことはわかっている。
この大きな魔物についても、ちゃんと説明しなければならないだろう。
◇
「あなたたちを海に引きずり込んだヤツとは別ってこと?」
「うぅ……そうとは知らずにボク、悪いことしちゃったなぁ」
息を整え、みんなに向けてあの魔物に助けられたことをしっかり伝えると真っ先に攻撃した3人はバツが悪そうにしていた。
「まあ、冷静になってみると明らかに邪魔じゃありませんし……」
「あの時は焦っていたんだから仕方ないでしょ……」
「それでも悪いのはボクたちだよ、ヒバナ姉様。もう少しで取り返しのつかないことをしちゃうところだったし……」
「……そうよね。反省はしないと」
私を最初に海へと引きずり込んだのは邪魔だけど、私たちを助けてくれたあの魔物は邪魔ではない。
「……あの子がますたーたちを助けた」
唯一攻撃はせずに様子を窺っていたアンヤが視線を向ける先には、ちょこんと頭のてっぺんだけを水面から覗かせている件の魔物の姿があった。
――まあ、怯えさせちゃったよね。
それでも逃げずにいてくれるのはありがたいことではある。
「すごい……やっぱりそうだ……!」
私の体から出て、ずっと近くで魔物の観察を続けていたシズクが興奮した様子で戻ってくる。
「シズク、どうしたの?」
「ユウヒちゃん、あの魔物! 多分だけど、伝説の魔物の一つに数えられる“クラーケン”に違いないよ!」
シズクが放つ凄まじい気迫に私は気圧される。
「シズクお姉さま~、そんなに珍しいの~?」
「うん……龍なんか比べ物にならないくらい。そもそも海の魔物っていうだけでも珍しいのに、クラーケンはダンジョンでも発見されたことがないんだ」
なんでも古い書物に見た目に関する記録が残されているだけで、その他の生態は一切判明していないのだとか。
そんなすごい魔物がどうしてこんなところにいるのだろうか。
依頼で受けた“海の怪物”とも特徴が一致するし、クラーケンがここに棲んでいると誰かが知っていればもっと大騒ぎになってもおかしくはないはずだ。
でもやっぱりこのクラーケンが人を襲うような魔物にはどうしても思えなかった。
助けられたことによる私の贔屓目なのかもしれないが、やはり海の奥深くから確かに感じられる邪魔の存在が私の考えに拍車を掛ける。
――本人から直接事情を聞けたらいいんだけどなぁ。
「ますたー、ますたー。あれ……」
クイクイ、と袖を引っ張ってくるアンヤが指で示す先に目を向けるとそこには依然としてクラーケンがいる。
いるのだが――。
「えっ、なんか赤くなってる!?」
茹蛸のような色へと変わっていくクラーケン。
生態がわからないせいであれが何を表すのかが全く予想できない。
「やっぱりボクたちに対して怒ってるんだよ!」
「そんな、怒ったら赤くなるって人間じゃないんだから! それに今になってどうして怒り出すのよ!」
だがダンゴの予想は当たっていたのか、クラーケンは水中から大量の触手を海の上に出してきたのだ。
「臨戦態勢ってことですか……!?」
「え~、さっきは助けてくれたのに~!?」
――ああ、悲しいな。できれば戦いたくはなかった、きっと分かり合えるはずだったのに。
ゆっくりと再浮上するクラーケンは遂に完全に顔を海上へと覗かせる。
そして――。
『て、照れすぎて茹っちゃうクラ~!』
――触手をくねくねとうねらせながらそんな言葉を発した。
……第一声がそんな言葉でいいのか。
「《翻訳》スキルが発動したってことは発声器官があって、独自の言語を持っているんだ……! これは世紀の大発見だよ!」
「……姉さん。そこじゃない、と思う」
興奮した様子のシズクにアンヤの冷静な指摘が刺さっていた。




