第十話 原風景
新首都を一歩出ると、そこはもう一面の青の原だった。
その日の朝、アマサを撒いて草原に踊り出し、真っ直ぐに南下、内海沿岸を目指すガザル。そこまでは二泊三日で到着する予定だ。
丈高く色濃く、青々と茂る夏草の中に、野ネズミが種をかじり、野ウサギが草の葉をはみ、虫たちが花から花へと渡り跳び、それらを狼やキツネや猛禽が狩る。
空は今まで見たどの土地の空より青く深い。地平線の果てまで、視界をさえぎ得るものは、ただ大地の起伏のみ。その広大な蒼穹の天地の間を、狩猟者が竜馬を駆し馳せめぐる。
オクスの描く新たなこの地の暮らしの為に、酪農牧畜の施設が始まっている。旧時代の牧歌的な施設では無く、最先端の設備を投じた、近代的大規模牧場だ。
それも一ヵ所や二ヵ所ではない。本気でこの国を創り変えようとしている。
だが、足元に目を凝らしてみれば、いつからそこに在るのか、打ち捨てられた白骨の死骸が、草むらの中で朽ち果てていた。数百年に渡る部族間紛争と、ビロニア統一戦争による死骸だろう。
本当にここは、建国間もない、生まれたばかりの国なのだ。何かを失い、何かを得ようとしている。それは、正しいことなのか。
例えば、シェエラにとっての原風景は、緑に覆われた木々の豊かな山中の原生林だが、カデシュ人の原種に近いケレンさんの血の中に有る原風景は、このビロニア高原そのものの様だ。
カデシュ人の祖先は、この地から山脈伝いに流れて来た、遊牧騎馬民族たちだと言われている。
坑道の中の、狭小な生活空間に暮らすカデシュ人と、この広大な大草原で暮らす非定住民のウジュ人が、本来、同族であるという。
人はどのような暮らしの違いにも適応できるという事実と、その血の中には原風景への逃れられない郷愁の念が刻まれているという事実。
それが、可能性かも知れない。
日暮れ近くにやって来たガザルが、この集落を眺め渡すと、まず、多くの戦傷者が目に付いた。
ヤジズとの最全線で負傷し、戦えなくなった兵士たちは、ここまで運ばれて来るようだ。見渡した戦傷者の多くは、命に係わるほどの重傷者では無かった。
満足の行き届いた治療を受ければ、一命は取り留められそうな者ばかりだ。それはつまり、満足な治療を受けられない、最前線の医療現場では、命に係わるほどの重傷を負ったものは後方へと移送される事無く、その場で…………。
それ以上の事実は、恐ろしくて考えることが出来なかった。自分もこれからその、最戦線へと向かうのだ。
ここまで来たことも、これから行くことも、後悔はない。
ただ、ガザルがこれから為そうとしている使命は、この戦争を、馬賊王オクスにこの戦争を止めさせ、矛を収めるよう訴えることだと思えば、覚悟が足りなかったと、前に進む意志の足りなかったことが、ガザルには悔やまれた。
失敗した所で、所詮、自分一人の命と思っていたことは、不覚悟だったのだ。何があっても、途中で命を落とす事無く、この使命は果たし終えなければならなかった。
この人々を救うために。
ガザルの来訪は公務なので、公営宿泊所を宿舎にするか天幕にするか、市庁で問われたが、身づくろいが楽なため、天幕泊を選んだ。
出された夕飯は、どんな食材をどう料理したのか見当のつかない、不思議な食事だったが、意外と美味かった。
天幕内での就寝は、快適だった。
翌日、二日目の騎行。
相変わらず、乾いた風の吹く草の丈深い草原を進む。空には雲一つない晴天の下だが、気温は涼しく、風はむしろ肌寒い。
すでに七月を迎えてこの涼しさかと、他国人なら思う所だろうが、カデシュの夏とは大差が無い。
違うのは圧倒的な空間の広さだが、軽飛行車で空を飛びなれたカデシュ人には、広すぎる空間に対する耐性が有る。
もし、狭い森の中で暮らす小動物を、この大草原に解き放ったら、恐怖に身をすくませ、身動きが取れなくなるだろう。わざわざそんな意地悪を試みる輩もいないと思うが。
夏には南から吹く乾いた風が清々しいが、冬には北から山脈を越えて吹き付ける、湿度を伴う雪風に見舞われる。
一体、北方の山脈の彼方には、何があるのだろうか。その謎は、カデシュ峡谷でもビロニア高原でも、変わりなく人々の胸中を過る。
南下するにつれ、ウジュ人たちと遭遇の機会が増える。特にヤジズとの戦地から帰還して来たと思われる人たちとは、ガザルも一々、戦地の状況をたずね、その度に立ち止まる。
その戦地に向かおうとしているのだから、その戦地の最新の状況を伝える情報を、常に得ておこうというのは、真っ当な判断だ。
草原を行きかうウジュ人は、戦地からの帰還者だけでなく、ビロニア全域からヤジズへ向かう為に集まった人々も、多くいる様だ。
ビロニア全域で非定住・漂泊生活を送るウジュ人を、どういう通達手段を用いて、召集・徴兵しているのか、ガザルも非常に気になったが、恐らく無線技術の応用だろう。
日常生活での生産手段である狩猟その物が、戦闘訓練を兼ねている上、ほぼ全国民がビロニア統一戦争の経験者であるため、召集後、即、実戦力としてヤジズへ派遣されていく。
彼等はそんな現実を、特に苦にしているように見えなかった。
「平和な、文化的な暮らしを、まだ知らないんだ」
何よりその、平和的、文化的生活への憧れというより渇望こそが、彼らウジュ人を闘争へと駆り立て、この戦争を引き起こさせているのだ。
だが、この戦争を今すぐ停戦させれば、それでウジュ人は平和と文化を享受できるようになるのか。そうでは無いからこそ、いま、こうして戦争になったのではないか。
「オクスを信じるしかない。アイツなら分かるはずだ」
そう信じたからこそ、こうして今ここに居る。
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