第三話 春峡谷
カデシュの峡谷にも、春の風が訪れていた。
冬、峡谷の果て、大山岳地帯から吹き降りる、湿度を伴う寒風に耐え凌いだ先に訪れる、陽の温かさと共に迎える、乾いた、身の軽くなる想いを伝える、春風。
大森林、大草原を経て、この地に迎えられる清々しい爽やかな涼風。峡谷都市カデシュを見舞う、命出ずる再生の季節。
幅五百メートルに届く雪解け水から成るアリシュ河は、大山岳地帯の支流を飲み集め、谷を穿ち、高さ八百メートルに達する、大岩壁を誇る峡谷を削り開いた。
この地を訪ねた最初の民は、その向かい合う岩壁内に坑道を掘り、住み暮らし、高層住宅の如き住居を築き、いつしかそれは街となった。
岩山から掘り出される、無尽蔵とも思われる豊富な鉱物資源と、ミネラルをたらふく含んだ途切れること無き水流資源に、高山帯ならではの強烈な直射日光の恩恵を用いた水耕栽培による寒冷地農産物。
その二つの豊かさを、草原地帯の牧畜民、さらにその先の大森林に住まう森人たちと、交易により分かち合い、この街はさらに育った。
やがて人々の足はさらに遠く、森林の先、農耕民たちが拓いた穀倉地帯にまで及び、エネルギー燃料となる資源を運び入れるに至ると、この街の暮らしはさらに変わる。
鉱物資源を直にこの街で加工、開発し、工業都市としての発展を手にした。その技術は、寸陰の間に、あり得ぬほどの向上を遂げる。
仔馬ほどのサイズで、自在に空を飛び回れる、軽飛行車の実用化にまで達した。
馬にまたがるように乗り、鳥のように自由に三次元移動を可能ならしめたその技術は、この、峡谷と言う居住空間での暮らしに革命を起こす。
向かい合う岩壁の間を、坑道の入り口から入口へ、上層の居住区からさらに上層の居住区まで、人々は平面移動時代以上の気軽さで、自在に空間を支配する。
その技術は次に、巨大化へと指向した。より早くより短時間に、より確実に、より安全に、交易を行うための、輸送用大型飛行艦の開発が実現。
草原、大森林、その先の穀倉平野。まだその先には、幾百もの国々に大都市が在った。飛行車時代の到来は、その世界を一瞬で縮めることを可能にした。
峡谷を吹き抜ける春風の戯れに、軽飛行車を駆る人々が、空を踊る様に翻弄されるのを楽しむ季節。
白とも黒とも呼べそうな色をした巨大な一枚岩の岩壁は、だが、むき出しの岩肌では無く、彫刻のように芸術的なまでに美しく削り上げられている。
八百メートルにも届くその岩壁は、そして五百メートル先にそそり立つ同じ高さの向かい合うもう一つの岩壁も、数十キロの距離で続くこの峡谷全てが、神殿、あるいは前衛芸術建築としての美しさで、彫り上げられている。
移動手段が人々の脚による歩行時代に、その長い歴史の間に、この都市は、その条件の中で可能性の限界に及ぶ暮らしやすさを実現していた。
岩壁の中、坑道内でそれぞれの居住区を結び付け合うのみでなく、つづら折りに幾層にもまたがり枝分かれして繋がり合う無数の階段が、その壁の外側にも築かれている。
全て均一の段差と幅の階段、その手すりに施された装飾は、確かに美しかった。
時に自然のままの岩肌を敢えて残し、それ以外のほとんどの岩壁が、滑らかに時に直線的に磨かれ、全てが調和し、互いを際立たせるべく刻まれた、装飾や彫刻。
それは一つの、巨大な城の様だった。
生活の場として生まれたこの坑道都市には、当然、商いが生まれ、商いの場となる市場が生まれ、いつしかそこに店屋が軒を並べ、商業区画が生まれる。
森林地帯から、森人たちにより運ばれて来る、木材や果実、草原地帯の牧畜民が営む酪農により運ばれて来る乳製品。
それらの資源や製品は、商業区において、豊かな色どり、潤いをこの地の人々に享受させた。
豊かなアリシュ河の水流を眺めながら、人々は壁に穿たれたテラスでくつろぎ、軽飛行車を駆りながら鳥と共に春の空を舞う。
峡谷を奥地へと進むにつれ、標高は緩やかに上がって行く。うねることなく、ほぼ直線上に山々を切り裂き刻まれた、峡谷。
アリシュ河に合流する支流により、時に枝分かれしながらも、峡谷の本流はほぼ五百メートルの幅を一定に維持している。
数十キロにもわたり続くこの岩壁は、元より山脈を氷河が削った跡に、雪解けの流水が拓いたものだ。
初めにこの地を訪れた人々とは、おそらく山岳系遊牧民だったであろう。
だがこの地の厳し過ぎる生活を続けるうえで、遊牧のみに生産手段を委ねるプライドは、現実を前にして敗北した。
この地で人々が食つなぐためには、寒冷地農業を併用するより仕方なく、そして新たな環境に順応することは、生活者にとっては勝利である。
やがて、この地にも、鉄器やその精製・加工技術を持った人々が訪れる。
それは平原で、大規模な灌漑農耕を行ってきた人々か、あるいは騎馬民族が集団戦闘を営む上で、産み出され発達した技術であったか。
そしてその人々のこの地の先住民が融和し、受け入れ合った時、この山々に、そしてこの岩壁の地中に、膨大な鉱物資源が眠っている事を発見したのだ。
奇跡的な偶然が起きた。
人々がこの地に眠る財産を発見したのと同時期に、森の中で鉱物を掘り起こし、高度な製鉄技術を身に付けた小人族の一部が、部族間の政治的理由から、この山脈に流れ着いたのだった。
ドワーフと名乗る彼等と、先住民の人々は、この峡谷で坑道都市を築き、生活の場として生きて行く方法を編み出した。
より深く、より広く、それは資源の採掘であり、生活空間、都市の建設を同時に果たす。
この地がかくも際限なく発展し続け得た最大の理由は、元からいた住人が、後から来た流民たちを、分け隔てなく受け入れ続けたことだろう。
区別も無く分かち合ったこの地の住民たちの伝統は、侵略者という存在を生み出すことが無かった。
事実、後から訪れた流人たちは、それまでこの地の人々が知らなかった、新たな技術や生活手段などの恩恵をもたらしてくれる、歓迎すべき恩人なのだ。
彼らはそう考えた。
坑道を掘り進み、採掘量を増やし続けるには、多くの労働力がいる。労働力が高まれば高まるほど、さらに働き手は欲しかった。
その豊かさと、次々に新たな技術や知識を招き入れる彼らが、産業革命に到達するまでに、障害は何も無かった。
その豊かさをこの地の外、大草原や大森林の者達にも、惜しみなく分け与え、故に多くの見返りを手にし、その先の穀倉平野、さらにその先の国々とも不公平の無い健康な交易、経済交流を育んだ人々の当然、得るべき発展、技術革新である。
午後、もう一話投稿する予定です。よろしくお願いします。