第三話 夏峡谷
七月半ば。カデシュ。
「もうすぐ夏休みですね。ケレン」
(嬉しそうだなー。ホントに通学が憂鬱なんだな、この人)
意外にもカデシュの夏休みは長い。
北国のカデシュでは、夏の暑さはそれほど厳しいものでは無く、むしろ快適な季節なのだが、厳冬期にも坑道から出なければ、冬の寒さも苦にならない。
故に、坑道の中に閉じ籠らざるを得ない冬の方が、勉学に励むに都合がいいので、カデシュの冬休みは意外に短い。
快適な夏にこそカデシュ人は遊びたがるので、いや、それが理由かは知らないが、カデシュの夏休みは意外に長い。
徒弟制の修行についても、よくしたもので、夏休みへの理解がある。
特にケレンの修行先の設計所では、ケレンのコネのおかげで、ガザル研究工房に自分の所の設計の試作品製作の依頼を、優先的に請け負ってもらえているので、ケレンの待遇がすこぶる優良なのだそうだ。
それでもやはり、シェエラの夏休みと言えば、エトロさんとの付き合いが最優先事項だろう。
(ごめんね、ケレン)
しかし、ケレンとエトロさんは別に仲が悪くはない。
シェエラとエトロとケレンの三人で一緒に居ても、シェエラが思っているほど、実は二人は気まずくは無かった。
どちらも、シェエラが他方と親し気にしていても、これと言って嫉妬感を懐いたりはしないのだ。
最近、エトロさんとケレンさんは、互いに相手が自分とよく似ているのではないか、という親近感を持つようになってきている。
何故かは分からない。
それで二人は、自分とよく似た相手にシェエラが親し気にしていても、負の感情を呼び起こされる事が無くなった。
人の心の闇が、そんなに単純な理屈で割り切れるはずも無いのが普通なのだが、この二人は標準的な状況下でこそ、負の感情に染まっているので、むしろ特殊な状況下でこそ、平静を保てるのかも知れない。
それこそ、人の心がそんな単純な理屈で割り切れるはずが無いと言いたいが、複雑な理屈なら感情の仕組みが証明できるかと言えば、それも違うだろう。
要はエトロとケレンのシェエラをめぐる関係性は説明のしようが無い、という事だ。
「それでツェルヤさんは、今はどういう様子なんだ」
「カフトリムさんとネブザルアダンさんの間で、取り合いになっているそうですよ。二人ともツェルヤさんが可愛くてたまらないんだそうです。王様でも一人娘の生んだ唯一の孫はよっぽど可愛いものなんですね。ゴブリン王さんも、初めて会った娘は愛おしくてたまらないんでしょう。
二人して取りっこしているそうです。しかもこの二人、同じような生まれで、同じような人生歩んでいて、同じような苦労経験して来て、同じような悩みかかえていて、同じような挫折味わっていたりして、今は同じ娘と孫を愛おしんでいるので、実の親子より気が合うんだそうです。何故か人前では、気の合わないフリをしたがるらしいんですけど。
おまけに、カデシュの街の暮らしやすさと、カデシュの人柄、カデシュの居心地の良さが気に入って、カフトリム王もネブザルアダン王も、ツェルヤさんとずっとここで暮らしたい、帰りたくないと、駄々をこねているみたいです」
「じゃあもう、そうしたらいいじゃないか」
「本当にそうするかも知れませんよ。王様なんて成るもんじゃないって、公言しだしたって父が言っていました」
「そりゃ、国王陛下なんて呼ばれ方していたら、気も塞がるだろうな。国家第一公僕って名称に変えたら、少しは気楽になれるだろうに」
「カフトリムさんは、王位を退いた後は、一市民として憲法の制定と議会の開設を目指す運動に、身を投じるみたいです」
「それを何故、自分が王位に居る間に目指さなかったのか。いや、それが正しいやり方なのか」
「何にせよ、ツェルヤさんはカデシュから出て行く気は無いので、祖父と父親がどう身を処すかは見ものですよ」
「そういえば、ツェルヤさんの母親は、何と言っているんだ?」
「男どもの身勝手に愛想が尽きた、と言っていました。これは私が直に聞きました。あと、ガザルさんはとても頼もしいですね、と怪しい事も言っていました」
「それ、本当ならかなり不味くないか」
「そうですか? この話、ここからが楽しくなりそうじゃないですか」
「ああ、そう」
シェエラの意外な一面を垣間見た。
「それにしても、カフトリムさんとネブザルアダンさん、本気で帰る気、無いんだな」
「完全にここに、居座ってますね」
「あの人たちの生活費って、どこから捻出されているんだ」
「分かりません」
「なんでも今、他国では、ツェルヤさんを観光しに来る見学ツアーが組まれているとか」
「それ今、ガザル研究工房の副収入です」
「ガザル先生って、意外と商売っ気が有るよな」
この日は二人とも、放課後、ケレンは設計所、シェエラは研究工房へ仕事に向かう。ケレンと別れ、自室で着替え、ガザルとツェルヤの研究工房へ赴くシェエラ。この日はカムシャフトによる、理想のバルブ開閉タイミングの計測の研究依頼だ。
「シェエラ。学校が夏季休業迎えたら、この工房も直ぐに休みに入るぞ」
仕事がひと段落した頃、いつになく深刻な面持ちで、ガザルさんはそう告げた。
(夏季休暇? それってガザル先生に夏休みの予定! まさかついにカルケミシュの王女さんとっ‼ この少しも嬉しそうじゃない深刻な表情が、事態の蓋然性をより高めるリアリティ?)
「ギギギィ」
(と、言う事は、ガザル先生がツェルヤさんの義父に……)
困惑気味なシェエラの表情を見たガザルさんは、
「俺の夏休みにも、ちっとした野暮用が出来てな。しばらくここを留守にする」
つい、余計な説明をしてしまう。
(じょ、状況確定っ。でもまだ相手が王女様と決まった訳では。探りを入れてみよう)
「どちらに行かれるんですか」
「男の戦場」
(修羅場に乗り込むの⁉)
単に具体的な行き先を伝えたくないだけなのだろうが、シェエラもそれを覚りつつ、話しを面白くする為の妄想を続ける。
「早まらないでくださいね。いざとなったら自分から身を引いてください」
それは偶然にもガザル先生の胸の内と、話が噛み合ってしまった。
「ああ、危険は承知だが、引き際はわきまえておく」
(え、なに、ホントに修羅場に乗り込むの?)
「応援しています。がんばってください」
「ああ、任せろ」
こうして夏休みを迎え、その日からガザル先生は行き先も告げず、人知れずどこかへと旅立って行った。
明日もよろしくお願いします。