幽体散歩Ⅱー4
「明日は、明後日に備えて、四人で相談しようか」とお姉さん。
「帰りに道孝も連れて来てよね。ドリアの材料が余ってるから」
ゲッ。明日もドリアか……ミートソース責め……
「ミートソースって、慣れたらうまいな」と岡野君。おいおい、反対しろって。
「じゃ、私、明日の予習するから」と言って、私は、自分の部屋に戻った。
なーにが、由紀子ちゃんの方が可愛いよ、と何となく、岡野お兄ちゃんに対してプンプンしている。
佐伯君、何食べたのかなあ、と思いながら、佐伯君もやっているだろう、今日の復習と明日の予習をした。
高橋君の叔父さんが、凄い力の持ち主でありますように、と神様仏様何でもいいから祈りながら、私は眠った。
夢の中では、私はミニスカートをはいた魔法使いの女の子で、なぜか病院で寝ているお兄ちゃんのそばにいて、金色の星のついた魔法の杖を振っていた。
いくら杖を振っても、思うように魔法がかからない。
『王子の魔法を解くには、愛する乙女のキスしかない』という声が聞こえてきた。
え、まさか、そんな、でも、それしかないなら仕方がない、と夢の中の私は思う。
ドキドキしながら、お兄ちゃんに近づくと、何と、いつの間にか、岡野君に変わっている!
顔が近づくと、突然、岡野君の目がカッと見開いて、真っ赤な炎のように見えた。
キャアア、と叫び声を上げたところで、目が覚めた。
怖くて、心臓がドキドキしている。
ドンドンドン、と誰かがドアを叩いている。
「由紀子ちゃん、由紀子ちゃん」とお兄ちゃんの声がする。
私は、ドアを開けると、お兄ちゃんに抱きついた。
「怖い」
「大丈夫、大丈夫」とお兄ちゃんが言った。
中身は岡野君だ、と思い出したのは、しばらく経ってからだった。
でも、この感じは、完全にお兄ちゃんだ。
「ああ、怖かった」とそれとなく、お兄ちゃんから離れて、私は言った。
「夢?」と岡野お兄ちゃんはたずねた。
「うん。怖い夢」
「どんな?」
「忘れた」と私は、嘘をついた。岡野君に言えるわけがない。
「オレは、もしかすると、岡野かもしれないけど、この身体に入っている間は、由紀子ちゃんのお兄さんだから、安心していいよ」と岡野お兄ちゃんが言った。
「時々、わかんなくなるね」と私も言った。
「オレも時々混乱する」と岡野お兄ちゃん。
「佐伯さんと気が合って話しているのは、オレなのか、透さんなのか。今のオレっていうのは、一体誰なのか。もし、岡野の肉体に入ったら、オレは誰になるのか」
「見たところは、完全にお兄ちゃんだ」と私は言った。
「そうなんだ。鏡を見る度に、これがオレなんだと思ってしまう。記憶ゼロから始めているから、オレにとっては、今のオレだけがオレだ。佐伯さんだって、由紀子ちゃんだって、意識が戻ってからの記憶しかないからね。後は、怖いとか懐かしいとかいう瞬間的な感情」
そうだった、と私は思った。自分の前にいる相手が、お兄ちゃんにしろ岡野君にしろ、そのまんまの相手でしかない。
岡野君かもしれないと思う前は、記憶を無くしたお兄ちゃんだと思い込んでいたのだから。
「怖くなくなった?」とお兄ちゃんがたずねた。
「うん」と私は答える。
「じゃ、明日も学校だから、もう寝ないとね」
「うん。お休み。ありがとう、お兄ちゃん」
「お休み」
今度は、布団に入っても、眠れなくなった。
今お兄ちゃんの身体の中にいる人の方が死んでしまえばいい、と思ったことを後悔していた。
何てことを考えてしまったんだろう。
どうか、あの叔父さんが超能力者でありますように、と私は祈った。
そんなことは、あり得ないと思いながら、どうか、岡野君の身体を治してください、と祈った。
いつの間にか眠っていたのだろう。目覚ましの音で目が覚めた。
台所に降りて行くと、お兄ちゃんが食器を洗っていた。
「うるさかった?」とお兄ちゃんが言った。
「洗いものが気になってたから」とやっぱり、お兄ちゃんらしくはない。
「一日家にいるんだから、掃除と洗濯もしておくよ」
私は、シャワーを浴びるついでに、下着とかは洗っていた。
「ありがとう」と言ってから、トーストを焼いた。
寝不足のせいか、学校に行ってからも、ボウッとしていた。
「柏木、目が赤いよ」と佐伯君に帰り道で言われてしまった。
「何か怖い夢見て」とだけ言った。
何となく、お兄ちゃんに抱きついた、というのは言えない気がした。
「じゃ、バス停で待ってる」
「うん」と言って、家に帰った。
着替えて、庭で花を摘んでいると、洗濯物が干してあった。
お兄ちゃんの下着がたくさん。何となく、見るのが恥ずかしかった。
「柏木、何か顔が赤いよ。熱でもある?」とバス停で待っていた佐伯君に言われた。
「冷え逆上せたかもしれない」と言っておいた。
この日は、誰も邪魔がおらず、ゆっくりと、岡野君の病室で過ごした。
佐伯君が、この日の出来事を話している。私は、それを聞くのが楽しみになっていた。
自分が過ごしている同じ日が、全然違う日みたいに聞こえるからだろう。
一日を二倍生きているような気がする。
「岡野君、早くよくなって」と私は言った。
「お兄ちゃん、元気になって」とも言った。
「そうだよ、明日、高橋の叔父さんが来てくれる。きっと元気になるよ」と佐伯君も言った。
「姉貴が、今日、ごはんを食べに寄れって言ってたけど、迷惑じゃない?」とバスから降りた時に、佐伯君が言った。
「ううん。大丈夫」
「何か買っていこうか」と佐伯君が言ったので、「うん、お願い」と言ってしまった。
「おいしいんだけど、このところ、毎日ミートソースだもん」
「ハハハ」と佐伯君が笑った。
「じゃ、お寿司でも買う?」
「お寿司は食べたいけど、ミートソースには合わないよね。何か、おいしいパンが食べたい」
私と佐伯君は、近所のパン屋さんに入って、好きなパンを買った。
玄関を開けると、やはり、プーンとミートソースの焦げる匂いがした。
「お帰り」と佐伯君のお姉さんが言った。
「ドリアが焦げてしまって、食べられそうもないから、順番にシャワーでも浴びてきて。今、透さんがお寿司の出前頼んでる」
やった! と声に出して言ってしまうところだった。
無残に焦げたドリアの残骸が、ゴミ袋に入っているのが見えた。何かもったいない気がする。
ピンポーン、とドアフォンの音がした。
「はい」と私が出ると、「高橋です」と高橋君の声がした。
「高橋君」と私は、佐伯君に言った。
「何だろう」と佐伯君は言って、ドアを開けた。
高橋君と叔父さんが立っていた。
「仕事が早く片づいたもんで、ちょっとお邪魔かと思ったんですが」と叔父さんが言った。
どうしようか、と思ったけれど、叔父さんは、何の気兼ねもない様子で、家の中に入ってきてしまった。高橋君もついてきている。
「どなた?」と佐伯君のお姉さんがたずねた。
「ほら、明日、病院に来てくれることになっていた、高橋君の叔父さん」と佐伯君がお姉さんに説明した。
「あら、じゃあ、お寿司を追加しないと」
「食事はすませて来ましたから、お構いなく」と言って、叔父さんは、テーブルの上に、ドンとお酒とビールを置いた。
「今日、井上病院の院長先生から電話があって、これまでの話は聞きました。これは、明日行く前に、会っておいた方がいいかな、と思ったもんで」
その時、お兄ちゃんが出てきた。
「はああ」と叔父さんが言った。
「はあ?」とお兄ちゃんが不思議そうな顔をしているので、佐伯君のお姉さんが説明をした。
「ああ、そうですか。明日は、よろしくお願いします」とお兄ちゃんが言った。
「これは、大変だな」と叔父さんが、わけのわからないことを言った。
「清春の友達は、無理として、あんた達、ビールぐらい飲めるでしょう」と未成年のお兄ちゃんと佐伯君のお姉さんに、お酒を勧めている。
「いや、ボクは……」と言うお兄ちゃんに反して、「少しだけならいただきます」と佐伯君のお姉さんは言った。
「透さんも少しぐらい飲んでみたら?」とお兄ちゃんにまで勧めている。
「由紀子ちゃんと道孝も、一杯ぐらいならいいわよ」ととんでもないことを言う。
「オレは、中学になってから、酒はやめたんだよ」と佐伯君が意外なことを言った。
ヒエエ、佐伯君は不良だったんだ、と私は思った。
「ああ、うちは、親父が大酒のみだから、小学生の頃から、何やかや言って、付き合わされてきてたんだよ」と佐伯君。
全然知らなかった。
いつの間にか、私やお兄ちゃんの前にまでグラスが置かれている。
「私も普段は飲まないんだが、大仕事の前には飲むことにしている。酔っぱらうほどの量はないから、心配しなくても大丈夫だよ。酒は、心と身体をリラックスさせる作用がある。度を過ごしさえしなかったら、薬みたいなもんだ」と言いながら、叔父さんは、自分のコップに並々と日本酒を注いだ。
それから、皆のグラスには、ビールを。
「では、明日に向かって、かんぱーい」と叔父さんが言い、他の全員も、わけのわからないままに、乾杯した。
私は、生まれて初めて、ビールを一口飲んだ。
ウッ。苦い。
お兄ちゃんも、同じように恐々と口をつけている。
「おいしい!」と言って、一気に飲み干してしまったのは、佐伯君のお姉さん。
佐伯君と高橋君も、何と、平気そうな顔でゴクゴク飲んでいる。
みんな、私の知らないところで、不良だったのだ。
お兄ちゃんだけだ、私と同じなのは、と思って見ると、いつの間にかグラスは空になっていた……
ピンポーン、とドアフォンが鳴って、大盛りのお寿司が到着した。
「高橋さんもつまんでください」と佐伯君のお姉さん。小皿を出したりして、スッカリ主婦だ。
「今日のうちに出すものは出してしまわないと」と言って、高橋君の叔父さんは、お箸のような棒をたくさん出してきた。
「まず、清春だ」
そう言うと、叔父さんは、棒を分けたり加えたりしている。
「罪悪感と友情。不器用さ」
高橋君はポカンとしている。
「お前は完全にプラスだ。次に、佐伯君。友情・友情。ライバル意識。愛情。まあ、プラスだな」
見ると、佐伯君は、真っ赤になっている。ビールで酔った?
「柏木さん。友情。愛情。殺意。しかし、マイナスよりは、遙かに大きいプラスだ」
私は、お寿司を食べていたお箸を落とした。
殺意?
「佐伯君のお姉さん。ライバル意識。殺意。愛情……プラスよりも遙かに大きいマイナス」
佐伯君のお姉さんは、顔色を変えている。
「最後に、柏木さんのお兄さん」
私達全員が、お兄ちゃんの方を見た。
「友情。信頼。恐怖。愛情。プラスマイナスは拮抗している」
「一体、何をしてるんですか? 占い?」と佐伯君のお姉さんが言った。
「ま、そんなもんだ。明日にとっての、あんた達を一応見た。道具を使うことは滅多にないんだけどね。佐伯君のお姉さん、あんたは明日行かない方がいい。邪魔になる」
「一体、何の邪魔になるんですか?」
「あんたは、まず、自分の家を片づけた方がいい。他人の家に逃げてきても、何の解決にもならない」
「私が、いつ逃げてきたんですか」とお姉さんの声が震えている。
「それは、私にはわからない。ただ、この家に残っている念とあんたの念は似ている。だから、あんたは引き寄せられたんだろう。しかし、あんたは、柏木さんのお兄さんのプラスを食ってしまっている。いや、柏木さんのお兄さんじゃない」
高橋君の叔父さんが、そう言ったとたん、お兄ちゃんが倒れた。
「お兄ちゃん!」と私は、駆け寄った。
「これは、驚いた。やはり、君は、間違った身体に入っていたわけか」と高橋君の叔父さんが言った。叔父さんは、誰もいない方角を見ている。
「柏木さんのお兄さんが記憶を失っているということは聞いていた。しかし、こんなことは聞いていない。怖がらなくてもいい。今の身体に戻りなさい」
しばらくして、お兄ちゃんが目を開けて、ゆっくりと起き上がった。
「佐伯君ぐらいの背丈の少年が見えた。意識不明になっている岡野君か」と叔父さんが言った。
「オレは、岡野なんですか?」とお兄ちゃんが尋ねた。
「恐らくそうだろう」
「そうか」とお兄ちゃんは、ガックリと椅子に腰を下ろした。
「岡野の意識は戻るんですか?」と佐伯君が言った。
「いやその……岡野の身体は、元に戻るんですか?」と佐伯君が言い直した。
「井上院長が、今の医学では、どうしようもない、と言っていたから、それは、無理だろう」
「けど、叔父さんは、病気を治したりできるんでしょう?」
「オレにできるのは、痛みを軽くする程度のことだ。もちろん、癌が治ったこともあるし、足の動かなかった人の足が治ったこともある。けど、それは、オレが治したんじゃない。その人が、勝手に治ったんだ。意識がある人になら、その人の意識が治る邪魔をしているのを取り除くことはできるけれど、意識がない状態では、どうなるかはわからない。明日行ってみた結果だろう」
「岡野君を治してください」と私は言った。神様や仏様に祈る代わりに、私は叔父さんに祈ろうとしていた。
何でもいいから、ほんの少しでもいいから、希望が欲しかった。
「オレは神様でもないし、超能力者でもない。それは、いつも言っている。ただ少し、他の人には見えないものが見えるだけだ」
「じゃあ」と私は言った。
「岡野君の身体の中に入っているお兄ちゃんも見えるんですね」
「それは、見えると思う。けど、意識がなければ見えても何もできないと思うよ」
「意識があれば大丈夫なんですか?」
「意識があれば、話すことぐらいはできる。でも、それだけだ」
「それだけでもいい。お兄ちゃんが何を考えているのか知りたい」と私は言った。
本当は、それだけではなく、お兄ちゃんを呼び戻して欲しい。
「あんたの念は真っ直ぐで強い」と叔父さんは言った。
「死者を蘇らせるほど強いのかもしれない。それは……いい場合と悪い場合の両方がある」
「どういう意味ですか?」
「本当なら死んでいくべき人を、この世にとどめてしまうこともある」
「そんな……」
私は、急に怖くなった。
私は、本当なら死んでしまっていたはずのお兄ちゃんを、この世にとどめているのだろうか、と思ったからだ。
「明日わかることだ」と叔父さんは言った。
「それから、オレに一つだけできることがある」と言って、二階に上がる階段のところに行き、しばらく目を閉じて、座っていた。そして、何やらブツブツと話している。
しばらくすると、身体が軽くなった。
「背の高い中年の男の人が、まだここで迷っていた。自分が死んだことがわからないようで、子供たちのことを心配していた。心配はない、と言うと、どこかに消えた。成仏したんだろう」
それは、お父さんなのだろうか、何で、私は、お父さんのことを何も覚えていないんだろう。
「今日は、これで帰ることにするか」と叔父さんは、半分ぐらい残っているお酒の瓶を手に持った。
「それから、あんた」と帰りぎわに、お兄ちゃんに言った。
「明日までに、本当はどうしたいのか、ハッキリ決めておいた方がいい。多分、あんた次第のところが大半だと思うから」
そして、佐伯君のお姉さんの方を向いた。
「あんたは、今日、家の片づけをすること。それをしているうちに、どうするのが一番いいかわかるだろう」
やっぱり、叔父さんは、どこか占師みたいだった。
叔父さんと高橋君が帰ってしまった後、私達は、ぼんやりしていた。
お姉さんは、一人でビールをついで飲んでいた。佐伯君が、一緒に飲んでいるみたいだ。
「姉貴、オレ達も帰ろうか」と佐伯君が言った。大分飲んでいるはずなのに、全然態度が変わらない。
「あんなのインチキよ」と佐伯君のお姉さんが言った。お姉さんも、全然顔色も変わっていないし、飲んでいる気配がわからない。
「じゃ、柏木、また明日」と佐伯君が言った。
態度が変わらない、と思っていたけれど、足下がフラフラしている。やっぱり、酔っていることは酔っているようだ。
「柏木君、明日、私も行くから」とお姉さんは言った。
「うん」と岡野お兄ちゃん。
「由紀子ちゃんを襲ったらダメよ」と恐ろしいことを言った。
「うん」とお兄ちゃんは素直。
帰る前、佐伯君のお姉さんは、お兄ちゃんの手を握って、握手していた。
「私が、諸悪の根源かもね」とお姉さんは笑って、佐伯君と一緒に帰って行った。
「洗い物は明日でいいか」とお兄ちゃんが言った。
「由紀子ちゃん、勉強する時間がなくなってしまったね」
「一日ぐらいいい」と私は言った。
「明日も学校があるから、もう寝るか」
「それでいいの?」と私は言った。
「何が?」
「だって、もしかしたら、今日が最後かもしれないんだよ」
「だからって……」
そうなのだ。だからって、どうすることもできない。
そう。それに、最後って、何の最後? 何にも変わらない可能性だってある。
「オレは意識が戻ったところからしか記憶がないんだ」とお兄ちゃんは言った。
「由紀子ちゃんは、可愛いと思うけど、やっぱり、それは、妹として可愛いと思っているんだと思う。だって、オレ、意識が戻ったとたんに、由紀子ちゃんのお兄さんだったんだから、仕方がないさ。最初から、違うって知ってたら、また別なことを思ったかもしれないけど。あの叔父さんに、ハッキリ、中身は岡野だと言われても、それで変わるものはない。自分でも驚くけどね。多分、由紀子ちゃんは、今のこのオレが、明日になったら消えてしまうかもしれないことを心配してくれてるんだと思うけど、その時は、その時のことだと思う。今のオレには過去も何もないんだから、同じことだよ。ああ、でも、楽しかったよ、この一ヵ月間。由紀子ちゃんの兄貴をやって、楽しかった」
私の胸はドキドキしていた。
このお兄ちゃんでもなく、岡野君でもなく、お兄ちゃんでもあり、岡野君でもある人物、今の私は、彼が好きだった。
消えて欲しくはなかった。
その時、電話のベルが鳴った。
電話が鳴らなかったら、私は、岡野お兄ちゃんに抱きついていたかもしれない。
「うん。ああ。……ハハハ。……うん、わかった」とお兄ちゃんは言った。
「佐伯萌さん」と電話が切れてから、お兄ちゃんは言った。
「中身が誰でも、オレのことが好きだってさ。明日は、病院には行かない、今から家の片づけをするって」
……お姉さんに先を越されてしまった。
「私も、中身が誰でも、あなたが好き」と私も言った。
「人生最後の日。もてもてだな」とお兄ちゃんが笑った。
「人生最後なんて言わないで」
「わかった」
「そんなに簡単にわからないで。絶対に元気になって、私達のところに戻ってきて」
「そのことは、今日から明日にかけて、ゆっくりと考えてみるよ。どうも、あんまりいい予感がしない。元気になるってことがね」
私は、戻る場所のない岡野君の家庭のことを考えた。
「いいこと教えてあげる」と私は言った。
「私と岡野君、結婚の約束してることになってるの。だから、うちに住んだらいい。別に、いやだったら本当に結婚しないでも、うちで暮らしたらいい」
「ハハハ。いい話だな」と岡野お兄ちゃんは言った。
「さ、もう遅いから寝ないと」とあくまでも、お兄ちゃんの姿勢を崩さない。
その日も、ベッドに入ってから、なかなか寝つかれなかった。
自分でも、自分の気持ちがわからない。
うつらうつらしているうちに、朝になってしまった。
台所に行って、昨日買ったパンを食べようとすると、台所が綺麗に片づいているのがわかった。
片づいているだけでなく、綺麗に掃除されているみたいだ。ゴミ袋もなくなっている。
私が寝た後で、お兄ちゃんが掃除したんだろうか。
まだ寝ているのかもしれないと思って、静かに学校に行った。
「柏木、おはよう」
佐伯君も眠れなかったのか、目が赤かった。
「あ、柏木、おはよう」
何と、高橋君も目が赤い。
高橋君も知り合ってみれば、そんなに悪いヤツではないようだ。
何となく、今日の放課後に向けて、時間が凝縮していくように感じる。
しかし、学校での時間は、いつもと変わりなく、ダラダラと流れているようだが、私は、どこかで緊迫していた。
「柏木」と授業で当たると、ハキハキと答える。答えている私は、緊迫している私とは別人みたいだ。
「柏木、岡野はどうだ?」と廊下で担任の先生に尋ねられて、思わずギクッとしてしまった。
「相変わらずです」とかろうじて答えた。
「じゃあ、まだクラスの代表が行くわけにはいかないか」
「まだだと思います」
「そうか。何か、高橋が心配してるようだから。なあ、柏木、高橋だけでも連れて行ってやれないかな」
「もうしばらく待った方がいいと思います」
「そうか。大丈夫そうだったら、先生に言ってくれ。先生も一緒に行くから」
「はい」と答えながら、脇の下に汗が流れた。
別に悪いことをしているわけでもないのだが、先生まで来るとなると、問題は多い。
「最初に一度行ったけれど、あのままか?」
「はい」
「そうか。けど、毎日大変だな」
「はい」と無難に答える。余計なことを答えると、コトは面倒になるから。
「何か変わったことがあったら、すぐに知らせてくれよな。先生も空いている時には、顔を出すから」
「はい」
教室に戻ると、何だった? という顔で、佐伯君が私を見た。
大丈夫、という顔を返した。
何か、今日は、緊迫してしまっている。
「先公には、内緒?」とヌッと近づいてきた高橋君が言ったので、私は、うなずいた。すると、高橋君は、スッと離れた。
何か、スパイ映画の主人公になったみたいだ。
ようやく放課後になり、校門を過ぎた辺りで、佐伯君と高橋君が、何となくという感じで、私の横に並んだ。
「先生、何だって?」と佐伯君。
「クラスの代表が病院に行く話の続き。高橋君だけでも連れて行ってやれって。まだ無理だと答えた」
「じゃあ、今日、オレが行くのは、完全に秘密だな」と高橋君。
「まあ、オレには、叔父さんの助手というメイモクがあるけど」と高橋君は、『名目』なんていう、らしくないことばを使った。きっと、叔父さんに教えてもらったんだ。
「姉貴が、昨日の夜から、家中を片づけ始めて、大変だよ」と佐伯君が言った。
「オレまで手伝わされて。オレ、学校があんのに」
「ああ、そうだ。お前の姉貴が来るかどうか、叔父さん、聞いておいてくれって、言ってたよ。心の準備がいるらしい」と高橋君。
「家の片づけがあるから、行かないって。すごいゴミの量だよ。大抵は、姉貴の部屋から出た分だけど」
「うちも、綺麗に掃除してあった」と私も言った。
二人共、突然掃除魔になってしまったみたいだ。
「じゃ、病院で」と言って、途中で、高橋君と別れた。
「じゃ、バス停で」と佐伯君とも別れた。
私も佐伯君も高橋君も、学校を出てから、目を合わせていない。
いつもの習慣通り、着替えて、庭で花を摘んでいると、心が落ち着いた。
お母さんと春江さんがいなくなってから、誰も庭の手入れをしないけれど、花だけは咲いている。
今日は、洗濯物はなかった。
家の中には、お兄ちゃんはいなかった。先に病院に行っているんだろうか。
バス停に行くと、佐伯君が待っていた。
「どうなるんだろうな」と佐伯君が言った。
「さあ」と答えるしかない。
「柏木は強いな」とまた佐伯君が言った。
「いつでも落ち着いてる。オレなんか、心臓が病気になりそうにドキドキしてるよ」
「見えるだけだって」私だって、ドキドキしている。
バスが永遠に病院に着かなければいい、と思った。けれど、そう思う時に限って、アッという間に着いてしまう。
誰か、たとえば、高橋君とか叔父さんとか、院長先生とかが、病院の玄関で出迎えているような気がしたけれど、誰もいなかった。
そのまま、病室に向かった。
私は、手にしている花をギュッと握り締めている。花が枯れてしまうかもしれない。
病室に入ると、高橋君が、岡野君の枕元に椅子を置いて座っていた。
「やあ」と高橋君が言った。「バスより車の方が早かったな」
「車で来たの?」と佐伯君と高橋君が話している間に、私は、握り潰してしまいそうになっていた花を花瓶に生けた。まだ、昨日の花も元気だった。
「やあ、来てたね」と言う声がして、私は、ビクッとして、飛び上がりかけた。かなり、緊張しているようだ。
ドアから、院長先生が入ってくるところだった。その後に、高橋君の叔父さんと、お兄ちゃんが続いていた。
私は、ドキドキして、目から涙が流れだしそうだった。
「透君には、朝から来てもらって、色々検査しているところだ」と院長先生が言った。
「身体は完全に元に戻っている」
元って、一体いつのことだろう、と私は内心思った。そして、誰の元のこと?
「相変わらず、過去の記憶の混迷は見られるけれど、意識が戻って以来の記憶は鮮明のようだ」
何もかも話しているのだろうか、と私は思っていた。
「医者としては……言いにくいことだけれど、これからすることには……医学的な根拠はまったくない」と院長先生は、本当に言いにくそうに言った。
私もお兄ちゃんも、佐伯君も高橋君も、院長先生まで、何となく不安そうだったけれど、高橋君の叔父さんだけは、元気そうに見えた。
「気分はどう?」と叔父さんは、目を閉じている岡野君の身体に向かって言った。
「それはよかった」
私達は、叔父さんに意識を集中している。
「じゃあ、柏木君と妹さんを残して、全員、病室を出てください」と叔父さんは言った。
「私が、いいと言うまで、誰もここには入れないようにしてもらえますか?」
「わかった。そういう風に手配する」と院長先生が言った。「よろしくお願いするよ」
そう言うと、院長先生は、佐伯君と高橋君を連れて、病室から出て行った。
「じゃ、君達は、椅子でも出して、しばらく待っていてくれるかな。十分ぐらい」と叔父さんは言うと、高橋君の座っていた椅子に座って、目を閉じた。
お兄ちゃんが、椅子を運んできて、私とお兄ちゃんは、部屋のすみでジッと座っていた。何か話したかったけれど、話してはいけない雰囲気があったので、私とお兄ちゃんは、黙って座って待っていた。
長い長い十分間だった。本当は、もっと長かったのかもしれない。
「一応、場は整った」と叔父さんは、ようやく目を開けると言った。何となく、さっきよりも疲れているように見える。
「あんたがいると力強い」と叔父さんが、私に言った。
「あんたには、何か先天的な力があるね」
そんなことを言われても、私にはどう答えていいのかわからない。
「本当だったら、この岡野君という人は、とっくに死んでいてもいい状態なのに、それがまだ生きているのは、あんたの力かもしれない。それを言えば、あんたのお兄さんもそうだ。院長が医学的には考えられない回復だと言っていたけれど、あんたの力が作用した結果だと思えば、考えやすい。私には、死者を蘇らせるような力はないからね。けれど、あんたがそばにいると、そんな力がわいてくるような気がするから不思議なもんだ」
アハハハ、と叔父さんは、あまり面白くもなさそうに笑った。
「あんたの周りでは、花が咲く。そうじゃないかい?」
花は確かに庭で咲いているけれど、それは、誰かが種をまいて、水や肥料をやったせいだ。
太陽が照り、雨が降り、風が吹き、そうやって、花は咲く。
「あんたが花を摘もうとすると、いつも花が咲いている。そうじゃないかい? 摘んだ花は、すぐに枯れるものだけど、あんたが摘むと中々枯れない。そうじゃない?」
そんなことは、考えてみたこともなかった。
「まあいい。あんたがいてくれて、よかった、ということを伝えたかっただけだ。それと、あんたの潜在能力を最高に発揮して欲しいだけだ。私の力というのは、それだけなんだから」
「でも、私、何をしたらいいのか」と私は、困惑して言った。もしも、ほんのわずかな力だってあるのなら、それを全部使いたいけれど、そんなことは、どうやればいいのかわからない。
「率直に聞こう。お兄さんに元気になって欲しい?」
「はい」と私は答えた。そんなことは、当たり前だ。
「岡野君にも、元気になって欲しい?」
「はい」それも、当然だ。
「二人のうちのどちらかしか選べないとしたら、どうする?」と高橋君の叔父さんは、私が一番聞いて欲しくないことを聞いた。
「あんたの選んだ方が生きて、選ばなかった方が死ぬとしたら、どっちを選ぶ?」
「ちょっと前なら」と私は、催眠術にかかったように答えていた。
「私は、迷わずに、お兄ちゃんを選んだと思いますが、今は、どちらもお兄ちゃんであり岡野君であると思えるから、どちらも選べません」
「でも、どうしても、どちらかを選べと言われたら?」
こんな恐ろしい質問はなかった。
「叔父さんは、卑怯です」と私は言った。
「そうだ。オレは、卑怯だ。しかし、あんたの本当の気持ちを知っておかなければ、何もできないんだ。知ったとしても、うまくいくかどうかは、誰にもわからない」
「どうしても選べというなら、岡野君の魂の入った、お兄ちゃんの身体、今の時点で生きている、お兄ちゃんを選ぶしかありません」
私が、催眠状態で答えていると、岡野お兄ちゃんが、ハッと息を飲むのがわかった。
「これで、もう、何も思い残すことはないな」と叔父さんが、お兄ちゃんに言った。
「はい」とお兄ちゃんが答えた。
そして、そのとたん、お兄ちゃんが、バタンと床に倒れた。
どこかで、こうなることは予想していたはずなのに、私は、お兄ちゃんを抱き上げると、声を上げて泣いた。
「もう、イヤ!」と私は言った。自分でも、何でそんなことを言うのかわからない。
「今のままでいい。私は、今のままでいい。もう、何もしないで」
「実は、そうはいかない。院長の話では、透君の肉体の方に、明らかな衰退現象が見られるらしい。自分の心と肉体を切り離して、長い間生きていけるほど、人間というのは、頑丈にはできていないらしい。このままだと、両方共死んでしまうんだ」
「嘘!」
そんな話は聞いていなかった。身体はスッカリ元に戻ったと言っていたはず。
「岡野君の入ったお兄さんと院長は、このところ、何度か話し合ったようだ。そして、ある結論に達した。私からすれば、元々結論は一つしかない。本来、死ぬはずだった肉体が、魂と一緒に死ぬ。それは、当たり前のことなんだ。私が心配しているのは、元に戻るのが遅すぎて、両方とも死んでしまう場合のことなんだ。」
そう言われて、どこかで、自分も、そういう心配をしていたような気がした。
『心配するな』とどこかでお兄ちゃんが言った。お兄ちゃんと言うより、お兄ちゃんの身体の中に入っていた岡野君だ。
『大丈夫だ、由紀子ちゃんのお兄ちゃんは、大丈夫だ』
「あんたが、大丈夫じゃなかったら、仕方がないでしょう!」と私は叫んだ。
「静かに」と高橋君の叔父さんが言った。
「今、お互いに、身体を交換するところだ。場を乱さないように。静かに」
そんなことを言われて、ああ、そうですか、と思えるわけがなかった。
「私、許さない。どっちが死んでも、私は許さないからね」
「シッ。静かに」
私の目には、何も変化がないように見えたけれど、抱いているお兄ちゃんの身体が、一瞬重くなったように感じた。
「今、身体を交換し終わった。しばらく、そのままで」
仕方がないので、私は、しばらくそのままでいた。
段々、腕が痛くなってきた。
「意識は?」と叔父さんがたずねたけれど、さっきから何の変化もない。
「院長を呼んでくる」と叔父さんは言うと、しばらくして、ベッドと看護婦さんを従えた院長先生が、病室に入ってきた。
お兄ちゃんは、院長先生と看護婦さんの手で、ベッドの上に運ばれた。
お兄ちゃんの身体に、手早く、色々な器具が取りつけられている。
私は、お兄ちゃんを抱いていた同じ態勢のまま、ボウッと床に座っていた。
「よくやった」と高橋君の叔父さんが、私の背中を叩いたけれど、どこがよくやったのかわからないし、二人とも寝たきりになってしまっている。
「様子をみるしかないですね」と院長先生が言った。
「由紀子ちゃん、心配だろうけど、今日は、家に帰った方がいい」と院長先生。
冗談ではない、と私は思った。
一体、何を考えているのだろう。
私が、どうやって、意識を失っているお兄ちゃんと岡野君を放っておいて、家に帰れると思っているのだろうか。
それに、あの家に、自分が一人きりでいるところを想像できない。
「私は、ここにいます」と言った。
「残念だけど、病院の規則で、子供を泊めるわけにはいかないんだよ」
都合のいい時だけ、子供を利用するというわけだ。
「じゃあ、私も病人になります」と私は言った。言わなくても、充分以上に病人みたいな状態だ。だって、座ったまま動けないんだから。
「私が、由紀子ちゃんの代わりについてるよ」と高橋君の叔父さんが言った。
「由紀子ちゃんがいてくれた方が心強いけれど、規則も大事だからね。明日の仕事は、ここの待合室ででもさせてもらうことにして。佐伯君のお姉さんについていてもらいなさい。今日来ないということは、家を片づけているということだから」
もう、この叔父さんは、何を言いたいのかわからない、と思ったけれど、佐伯君のお姉さんに来てもらえるならいい、とも思ってしまった。
私は、ボウッとしたまま、病室の外に出て、待合室のところで、同じようにボウッと座っていた、佐伯君と高橋君と一緒になった。
「柏木、大丈夫か」と佐伯君が言った。
佐伯君の顔を見たとたん、私は、ワッと泣いてしまった。
ワア恥ずかしい、と思いながら、涙は止まらなかった。
「どうしたんだ、どうしたんだ」と高橋君が、椅子から立ち上がってオロオロしている。
私は、結局、佐伯君と高橋君に守られるようにして、バスに乗った。
私が何か言うまで、二人共、何も言わなかった。何を言ったらいいのかわからなかったのかもしれない。
「先生が、佐伯君のお姉さんに泊まってもらえって」と私は、かろうじて言った。
「わかった。姉貴にそう言うよ」と佐伯君が言った。
「叔父さんがついてるから、大丈夫だよ、絶対」と高橋君が言った。自分では、全然大丈夫だと思っていないくせに、私のことを心配して言ってくれていた。
「そうだよ、柏木、絶対、大丈夫だよ」と佐伯君も言った。何も知らないくせに、私を元気づけようとしてくれている。
「うん」と私は言った。
私達は、バス停に着くまで、何も言わずに、バスにゆられていた。
「じゃな。心配するな、柏木」と言って、高橋君は自分の家に帰って行った。その前にしばらく、佐伯君と何かコソコソと話している。
「送ってくけど、その前に、うちに寄って、姉貴に会う?」と佐伯君が言ったので、私は、思わず、「うん」と答えていた。
夜、電気の消えた暗い家に、一人で戻るのは、やはりイヤだ。
私は、佐伯君が、喉のところから、紐を引っ張って鍵を出すのを、黙って見ていた。
まだ小学生の頃、首から鍵を下げている少年というのをテレビのドラマで見て、こんな子、絶対にいるわけないと思ったけれど、実際にいたんだ、そういう子が身近に。
だって、財布かキーホルダーを使った方が便利だと思ったからだけど。
「これさ、前、テレビで見て、便利だと思ったんだよ」と佐伯君が、得意そうに言った。
多分、同じドラマを見てたんだ……
佐伯君の家の中には、初めてお邪魔した。
「お邪魔します」と小さな声で言った。
「姉貴しかいないから、大丈夫だよ」と佐伯君が言った。
中に入ると、ドタンバタンという音がしていた。
「まだやってんな」と佐伯君が言った。
「昨日の夜から、ずっとアレだよ。また、ゴミが増えてるよ」
見ると、玄関先に、半透明のゴミ袋が六つほど並んでいる。その横には、紐で束ねられた、新聞や雑誌の山がある。玄関先が、ゴミ置き場みたいになっている。
「まあ、閉じ籠もってた間の総決算だから、一日ではすまないだろうけど」と佐伯君が言った。
「あら、由紀子ちゃん」とお姉さんが階段の上から顔を見せた。
「あのおじさんが変なこと言うから、止まらなくなっちゃった」と言って、白い歯を見せて、すぐに引っ込んだ。
あれ? お姉さんが、こんな笑い方をするなんて、と私は思った。
「何か作るから、ちょっと休憩したら?」と佐伯君が二階に向かって言った。
「病院で待ってる間、何を作るか考えていた」らしい。
「助かるわ」とお姉さんが、まだドタバタしながら叫んだ。
「期待しないで。あるものを考えてたんだから」と言いながら、佐伯君は台所に行って、電気鍋に水と昆布を放り込んで、スイッチをいれた。
「簡単にすぐできて栄養満点、身体も心も温まるものと言ったら、鍋だ」と高橋君の叔父さんみたいだ。
「冷凍のシーフードと野菜鍋」
佐伯君のお姉さんも休憩して、グラグラ煮立った鍋の中に、冷凍のエビやカニや魚が放り込まれていく。
「いつか使おうと思って、大分前に買っておいたんだけど、中々出番がなかった」と佐伯君。
熱い! けど、おいしい。
冷凍のホウレンソウが出てきて、最後には、冷凍の里芋やゴボウや人参で煮物みたいになってしまった。
「これなら、私も作れる」とお姉さんが喜んでいる。
ゴミを三人でゴミ置き場に運び、私の家に泊まる準備をして、家に向かった。
その間、佐伯君もお姉さんも、病院でのことは何も聞かなかった。
私も何をどう話せばいいのかわからなかったので、その方がありがたかった。
私の家では、佐伯君もお姉さんも、もうそれぞれに部屋があった。
台所で、お茶を飲んだ後、各部屋に別れることにした。
私と佐伯君には、宿題とか予習復習もある。
私は、誰かが家にいてくれるだけでよかった。
どこかで、全部話さないといけないと思って、それが負担になっていたけれど、何もたずねられないので、どこかホッとしていた。
一人でぼんやりしたかった。けれど、お兄ちゃんも誰もいない家ではイヤだったのだ。
どこか疲れ切っていて、何も考えずに、ボウッとしていたかったのだ。
機械的に本を読んだり、知らない単語を調べたりして過ごしたかった。
変わったことは何も起こっていないものとして、いつもと変わりなく過ごしていたかった。
もう寝ようと思った頃に、電話のベルが鳴っていた。子機を探しているうちに、ベルが止んだ。
「由紀子ちゃん、高橋さんから」とお姉さんが、子機を持ってきた。子機は、お兄ちゃんの部屋に移動していたらしい。
「はい」と内心ドキドキしながら、電話に出た。
「高橋です。もう寝てたかな?」
「いいえ」と私は答えた。
「夜遅いから、明日にしようとも思ったんだけど、早く知らせたいと思って」
「はい」
「お兄さんの意識が戻った」
「本当ですか」
「院長が、今診察しているが、元気そうだ」
「よかった」
「大事をとって、何日か入院することになると思うけど、君の方は大丈夫か?」
「はい。佐伯君とお姉さんが来てくれてます」
「ま、それだけを知らせたかった」
「ありがとうございました」
「お互いに、ゆっくり休もう」
「はい」
お兄ちゃんの意識が戻った。一安心だ。
それが、誰の意識なのかということは、考えないことにした。
子機を廊下の所定の位置に戻しておいた。
「お兄ちゃんの意識が戻ったって」と私は、心配そうな顔で廊下に出ていた、佐伯君とお姉さんに言った。
「そう。よかったね」とお姉さんが言った。
「お休みなさい」
「お休みなさい」
「よかったな、柏木」と佐伯君が言った。
「お休み」
「お休み」
ベッドで寝る前に、お兄ちゃんの意識が戻ったと考えていた。
記憶は?
本当にお兄ちゃんだろうか?
全然別人になっていたらどうしよう。
様々な不安や心配が浮かんでは消える。
でも、今考えても仕方がないことだ、と思った。
二日間、余り寝ていない。横になったとたん、私は眠ってしまったみたいだった。
朝になり、顔を洗っていると、階下からプーンと味噌汁の匂いがしていた。
嘘。味噌汁なんて、お母さんと春江さんがいなくなって以来、飲んだことがない。
台所に行くと、佐伯君がお姉さんに味噌汁の作り方を教えているところだった。
「一旦火を消してから、味噌を溶かす。味噌汁は、絶対に煮立てない」と佐伯君は偉そうだ。
「けど、姉貴、オレは、学校があるんだけど」
「あんたって、料理の天才だね」
「まあね」と佐伯君が言った。
「中学になりたての時は、毎日弁当作ってたけど、女みたいだと笑われて、パンを買うことにしたんだ。今だって、作ろうと思えば作れる」
ごはんと味噌汁と卵焼きという旅館の朝ごはんみたいな料理だった。
「佐伯君、おいしい」と私は言った。
「作ったのは私」とお姉さん。
多分、形が崩れてスクランブルエッグみたいになってしまったのは、お姉さんの焼いた卵焼きだろう。
「これ、私が預かってたけど、返しておくね」とお姉さんが言って、テーブルの上に通帳とカードを置いた。
「じゃ、ここにしまっておきます」と私は、台所の引き出しにしまった。
私と佐伯君は、学校に行く準備をして、学校に向かった。
実際のところ、学校なんか行かずに病院に行きたい。
「よお、佐伯ご夫妻、揃って登校」と校門のところで言われたけれど、無視。
「オレ達って、仕事みたいに学校に行ってるな」と佐伯君が言った。
私もそう思う。
「岡野なんか、よくさぼってたけど」
私だって、学校に行ってる場合じゃないと思っているのに、身体は勝手に学校に行く準備をして、学校に行ってしまう。
「今日は、学校を休んで、病院に行きなさい」と誰かに言ってもらわないと休めないみたいだ。
「私って、ロボットみたい」と佐伯君に言った。
「え!」と佐伯君は驚いている。
「何か、命令されないと何もできないみたい」
「そんなことないよ、柏木は」と佐伯君が言ったが、根拠はなさそうだった。
学校に行って、言われた通りにして、先生が書いたことをノートに写す。
「柏木、病院に行かなくて、大丈夫?」と休憩時間に、ヌッとそばに寄ってきた、高橋君がヒソヒソッと言った。
「オレ、昼から抜ける予定してたんだけど」
「え!」と私は、小声で驚いた。
そういう手もあったか。
「何?」と佐伯君が、かなりわざとらしく、さり気なさを装って近づいてくる。
「オレ、昼から抜けるって、言ってたんだよ」と高橋君。
「え!」と佐伯君は、本気で驚いた。
この人は、私よりもマジメなんだ、と私は確信する。
「私も抜ける」と私は言った。
「オ、オレは……」と佐伯君は思案している。
「時間差でな。じゃ、病院で」と高橋君がスッと離れた。
佐伯君が思案している間に、休憩時間は終わった。
「柏木」と教科の先生ではなく、担任の先生が教室に入って来た。
「お兄さんが入院したそうだ。すぐ病院に行きなさい」
「はい」と返事をしたけれど、何か変だな、と思った。お兄ちゃんは、昨日から入院している。
「精神病院?」というヒソヒソ声がした。
「井上病院だ、わかってるな」と先生が大きな声で言った。
「はい」と私は、皆の注目を集めながら、帰る準備をした。
現国の先生が入ってきて、担任から説明を聞いている。
「柏木さん、大変ね」と現国の先生が言った。
「はい」
「シッカリね」
「はい」
「誰か一緒に行ってあげる人は?」
「はい」と佐伯君が即攻手をあげて、クラス中がオオッとどよめいた。
「いつも一緒に行ってますから」と佐伯君がキッパリと言った。
現国の先生は、誰か仲のいい女子にと思ったのだろうが、今の私には、女子の友達はいない。
お兄ちゃんのことで少なくなり、お母さんのことで完全にいなくなった。
私は、『呪われている』らしい。だから、私に近づいたら、その人も『呪われる』そうだ。
「じゃ、用意をしなさい。他の人は、教科書を出して」
私と佐伯君は、並んで教室から出て行った。
朝一緒に登校して、授業中に一緒に病院に行けば、二人の仲は決定的だ。
「姉貴からメールが入ってた」と佐伯君が携帯を出して言った。
『私が学校に電話した。心配しないで』と入っていた。
校門を出たところで、「待ってくれ」と高橋君が追いついてきた。
「オレ、昼休みにフケるつもりだったのに、腹が痛くなって早退だ」
「え? 大丈夫か、高橋」と佐伯君が心配している。
「やめれよ。本気で痛くなったらどうすんだよ」
「え? 嘘? お前、先生に嘘ついたの?」
「やってらんないねえー」と高橋君は、変なメロディをつけて言った。
「どうする? 着替える?」と佐伯君。
「このまま行こう」と私は言った。
だって、お兄ちゃんが入院したって学校に電話があったら、そのまま行くってのがパターンだと思うから。それに、怖いけど、早くお兄ちゃんに会いたい。
私達は、バス停に近づくにつれて無口になり、黙ったままバスにゆられ、病院に到着した。
胸のドキドキが大きくなり過ぎて、首の後ろがズキズキしている。高橋君じゃないけど、おなかも痛くなってきた。
「あ、柏木、ちょっと待って」と病院の廊下で、佐伯君が言った。「ちょっとだけ、座らせて」
「オ、オレも」と高橋君も言って、二人で、まだ外来患者のいる待合室の椅子に座ってしまった。
私も、ドサッと椅子に座った。
「何か、息が止まりそうになってきた」と佐伯君。
「オレは、本気で腹が痛くなってきた」と高橋君。
「私も」と言いたかったけれど、「大丈夫?」と言った。
「二人共、ここで待ってていいよ。病室に三人も入れないと思うから」
そうだ。元々、佐伯君と高橋君が来てくれなければ、一人で来るところだったのだ。
「そうか……入れないのか」と佐伯君がガックリしたように言った。
「病室のすぐ外で待ってたらいい」と高橋君が言い、立ち上がった。
何となく、足に重いものがついているみたいに、私達は、ゆっくり歩いて、病棟の方に行った。
制服を着たままなので、何となく校外学習みたいな気もする。
病室のドアの前に立った私の肩を、高橋君がポンと叩いた。
「そこのベンチで待ってるから、何かあったら呼んで」と佐伯君。
「うん」と言って、病室のドアを開けた。
ドアを開けたとたん、こっちを見ているお兄ちゃんと目が会った。
お兄ちゃんの口のはしがゆっくりと持ち上がり、微笑んだ。
お兄ちゃんだ。
お兄ちゃんだ、お兄ちゃんだ。
お兄ちゃんは、窓のそばに立っていた。
私は瞬間移動したように、お兄ちゃんに抱きついていた。
「由紀子」とお兄ちゃんが言った。
「お兄ちゃん」
もう何から何まで、スッカリ本物のお兄ちゃんだ。
「もう中学生なのに、甘えんぼうだな」
「何言ってんのよ、もう、何言ってんのよ」
「毎日来てくれて、ありがとう」
私は、ちょっとおかしくなってしまった。自分でもそんなことをする気はないのに、ボカボカとお兄ちゃんを殴っている。
「痛いよ、由紀子」
「もう、お兄ちゃんなんか、お兄ちゃんなんか」
後は、小学生みたいに、ワーンと泣いてしまった。
「シー。岡野君が寝てるんだから」とお兄ちゃんが言って、やっと、岡野君が寝ていることを思い出した。
岡野君、ごめん。
その時になって、お兄ちゃんが、年寄りくさいパジャマを着ているのに気がついた。
「ああ、これ? 井上先生が貸してくれたんだけど、似合わない?」
「ジジくさい」
「ハハハ」とお兄ちゃんが笑った。
やっぱりお兄ちゃんだ。
落ち着いてて、ハンサムでカッコイイ。
「慣れない環境で、記憶まで失ってて、岡野君はよっぽど疲れているみたいだね。昨日から、ほとんど眠りっぱなしだ。ま、オレも似たようなもんだったけど。明後日ぐらいまで入院しろと言われているけど、家の方は大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「また、この身体で動けるなんて、思ってもみなかったな」とお兄ちゃんが言った。
「でも、由紀子が一番大変な時に、そばにいてやれなかった。ごめんね」
「そうよ。ほんとよー」と私は、すねた。
「ごめんね。何か、全然身動きできなかった」
そんなこと、何もお兄ちゃんのせいではないのに、私はすねたままでいた。
心の奥底から、深い安心感が込み上げてくる。
「もう、お兄ちゃんなんか、絶対に許してあげないんだから」
「あーあ、困ったな」とお兄ちゃんが、困っている。
「だっこしてくれたら許してあげる」と私は、また、お兄ちゃんに抱きついた。
「とんでもない、甘えんぼうさんになってしまった」と言いながら、お兄ちゃんは、私をだっこした。
その時、ドアが開いて、「失礼するよ」と院長先生と看護婦さんが入って来たので、私は、真っ赤になって、お兄ちゃんから降りた。
「あれ、由紀子ちゃん、赤ちゃん返りかな」と院長先生が笑いながら言った。
私は、赤くなったままだった。
「ちょっと、お兄さんと話があるから、外で待っててくれるかな」
「はい」と私は、赤い顔をしたまま、病室の外に出た。
顔の熱を冷ましてから、と思っていたのに、佐伯君と高橋君の方が寄ってきてしまった。
「柏木、どうしたの」と佐伯君が言った。
聞かないでちょうだい、佐伯君。
「柏木は泣いてたみたいだし、院長と看護婦さんは入ってくし……岡野に何かあったの?」と高橋君。
「ううん。岡野君は、ずっと寝てるって」
「そうか。相変わらずか」と佐伯君。
その時、院長先生が出てきて、「もう、入っていいよ」と声をかけた。
「三人共、その代わり、静かにね」
やった、という風に、高橋君が拳を突き上げた。
佐伯君と高橋君は、言われた通りに、シズシズと病室に入った。
「やあ」とお兄ちゃんが言った。
「誰?」と高橋君が小声で聞くので、佐伯君が「柏木のお兄さん」と教えていた。
「それはわかってるけど、中身は誰?」
「オレだって知らない」と佐伯君。
「この恰好で会ったのは、初めてだね。由紀子の兄の透です。いつも、由紀子がお世話になっています」とお兄ちゃんが言った。
「はじめまして、と言うか何というか」と佐伯君はしどろもどろだ。
「オレは、はじめまして」と高橋君の方が落ち着いていて、気安く、握手なんかしている。
「高橋君の叔父さんには、お世話になりました。朝まで着いていてもらって、助かりました」
どうやら、叔父さんは、あの後も帰らずに、朝になってから、仕事に戻ったようだ。
「佐伯君には、毎日、由紀子と一緒にお見舞いに来てもらって、何も言えなかったけど、感謝していました」
「いや、そんな」と佐伯君は、照れまくっている。
「毎日、学校での様子がよくわかった」
「いや、お兄さんだと知ってたら……」とますます照れている。
「二人共、由紀子の力になってくれて、ありがとう」
私は、ボウッとしたままでいた。そうだ。もう、ボウッとしていてもいいんだ。お兄ちゃんがいるんだから。
「あ、岡野君が起きた」とお兄ちゃんが言ったので、寝ている岡野君の方を見たけれど、それまでと変わりがあるようには見えなかった。
「うるさかった?」とお兄ちゃんが岡野君に言った。
「どうする? 何か話す? もう少し寝る? 伝えることはない? うん。わかった」
お兄ちゃんは、私達の方を向いた。
「もう少し寝かして欲しいそうだ。しばらく外に出ようか」
私達は、病院の中にあるレストランに入った。その時になって、おなかがすいているのに気がついた。
「お昼食べないで来たんじゃないの? 好きなもの頼んでいいよ」とお兄ちゃん。
私達は、遠慮なく、一番高そうな定食を頼んで、ガツガツと食べた。
お兄ちゃんの顔を見てホッとしたら、ものすごくおなかがすいた。
「何か、朝から何も食べてないみたいだな」とお兄ちゃんが笑っている。
「オレ、朝抜きっす」と高橋君が、先生に言うみたいに言った。
「由紀子は?」
「私は、佐伯君とお姉さんに、ごはんを作ってもらった」
「ああ」とお兄ちゃんは佐伯君を見た。
「ボクも佐伯君には、ご馳走になった。兄妹でお世話になってるね」
「いや、そんな」と佐伯君は、照れっぱなしだ。
「なーんだ。兄貴公認の仲か」と高橋君が言った。チェッと舌打ちしている。
「岡野は、どうすんだよ」と怒ったように言った。
「オレと岡野と柏木は友達だ。お前だってそうだ」と佐伯君が言った。
「だってよー、だけどよー」と高橋君は、一人でブツブツ言っている。
「今までと反対だけど、ボクが入院している間に、岡野君と身体を交換する練習をしてみるよ。そうしたら、岡野君とも話せるようになる」とお兄ちゃんが言った。
「身体を交換? マジかよー」と高橋君は、まだブツブツ言っている。
「高橋、黙れよ」と佐伯君が言った。お兄ちゃんに気を使っているみたいだ。
「自発呼吸ができるかどうかが問題なんだけど、井上先生とも相談して、いずれ、うちに岡野君を引き取りたいと思っているんだ」とお兄ちゃんが言ったので、私は驚いた。
「そうしたら、みんなも、今より会いに来やすいし、井上先生に何かあった場合でも安心だし。岡野君のご両親とも相談しないといけないけどね。もちろん、岡野君本人とも」
それは、その方が安心だ、と私も思った。
「ボクが成人していれば、話は簡単なんだけど、まだ未成年だから、井上先生とか高橋君の叔父さんに、またお世話になるかもしれないけど」
「ああ、あんな叔父貴ですけど、役に立つなら何にでも使ってやってください」と高橋君が、叔父さんの保護者みたいに言った。
「あの、それから」とお兄ちゃんは、少し伏目がちに言った。
長いまつげが、顔に影を落としている。
やっぱり、お兄ちゃんって美しいわあ、と私は思った。
「佐伯君、お姉さんは元気?」
「うん。元気になりましたよ。部屋の片づけをしたり、料理をするようになったり。お兄さんは知らないんでしたっけ?」
「うん。そうか。それはよかった」とお兄ちゃんは言った。
ガーン、と私は思った。お兄ちゃん、まだ、佐伯君のお姉さんが好きなのか……
お姉さんが『好き』と言ったのは、一体どっち?
そうか。私と同じで、お兄ちゃんの姿をした、岡野君だった……しかも、過去の記憶のない。
お兄ちゃんそのものと、お兄ちゃんの身体に入った岡野君……お姉さんは、どっちが好きなんだろう……
私は、お兄ちゃんがふられる可能性を考えて、つい、内心ニヤリとしかけてしまった。
ダメダメ。そんな悪魔みたいなことを考えてはダメ。
でも、お兄ちゃんの姿をした岡野君なら許せても、お兄ちゃんと佐伯君のお姉さんが両想いというのは許せない。それは、理屈ではない。
結婚なんて、絶対にダメ!
「柏木、柏木」と佐伯君が呼んでいた。
「また明日来ることにして、今日は帰ろうって言ってたんだけど」
「あ、うん」
つい、空想の世界に行ってしまっていた。
「由紀子、もうじき家に帰れるから」とお兄ちゃんが言った。
「うん、待ってる」
「お兄さん、家から持ってくるものありますか?」と佐伯君の方がシッカリしていた。
「そうだな。それじゃあ……」とお兄ちゃんが言うのを、きっちりメモッている。
帰りのバスの中では、行きと違って、佐伯君と高橋君は、何か下らないことを言って、ゲラゲラ笑っていた。
私は、一人離れて、シートに座った。
嘘みたい。夢みたい、と思っていた。
本物のお兄ちゃんが家に戻ってくる。
誰も周囲にいなかったら、ワハハハハ、と声を上げて泣きたかった。
それから三日して、お兄ちゃんが退院してきた。
その頃には、岡野君は自発呼吸をしていることが判明。人工呼吸機は取り外された。
一ヵ月もしないうちに、我が家に、井上院長の紹介してくれた、元看護婦さん付きの岡野君がやってきた。
岡野君とお兄ちゃんは、以前と同じように、時々入れ替わる。
佐伯君やお姉さんは、その度に、困惑するみたいだけど、私には、すぐにわかる。
お兄ちゃんが自分で勉強を始めたのと前後して、佐伯君のお姉さんも料理から勉強の方にスイッチが切り替わったみたいで、猛勉強を始めたというのを、佐伯君から聞いた。
お姉さんには、料理より勉強の方が似合うかもしれない、と私は思う。
結婚の話はどこかに行ってしまったみたいだ。ああ、よかった。
庭の花は、誰も手入れしないのに、いつも何かは咲いている。
私は、その花を摘んで、岡野君がいる病室に飾る。
佐伯君と高橋君は、日課のように、岡野君に会いにくる。
高橋君の叔父さんは、時々、鍋の材料を持ってやってくる。
後は、岡野君が、お兄ちゃんと同じように、起き上がる日を待つだけだ。
「準備は全て整っている。後は、本人の意志だけだ」という叔父さんのことばを信じて。
了