幽体散歩Ⅱー3
「柏木、岡野だから」と佐伯君が言った。
でも、どこかで許せない気がしていた。
自分でもわかっている。今まで許せないものも許していたのは、相手がお兄ちゃんだと思っていたからだ。
「ああ、由紀子ちゃん」とお兄ちゃんの姿をした岡野君がホッとしたように言った時、プチンと何かが切れてしまった。
「何で、あんたなんかが、お兄ちゃんの姿をしてんのよ! さっさと身体から出て行ってよ。お兄ちゃんを戻してよ。あんたなんか、消えてしまってよ」
そのとたん、ガクッとお兄ちゃんが倒れた。
「透君!」と佐伯君のお姉さんが叫び、佐伯君は、「岡野!」と叫んだ。
私は、瞬間的に、お兄ちゃんの頭を支えに走った。滑り込みセーフだ。
私は、お兄ちゃんの頭を抱きかかえていた。
「岡野君、ごめん」と私は言った。
八つ当たりをしてしまった、と後悔していた。
「ごめん。身体に戻ってきて」
「あんまり責めないであげて」と佐伯君のお姉さんが言った。「私が散々責めた後だから」
お姉さんの話によると、ずっと、お兄ちゃんの身体に入った岡野君を責め続けていたらしい。
一緒にいると、理由なくムカツくようだ。岡野君には、そういうところがあるから、何かわかる気もする。
病院に着いたとたん、岡野君はお兄ちゃんの身体から幽体離脱したものか、倒れてしまい、その上、病院でチューブに繋がれていた岡野君の身体も、突然心臓が止まってしまった。
当然、病院内部は大騒ぎになった。
お兄ちゃんの肉体は、すぐに意識を回復したけれど、岡野君の身体はしばらく心臓が止まったままで、一時は、生死が危ぶまれていたが、私と佐伯君が、病院に到着した時は、再び心臓が動き始めて、ようやく、小康状態を取り戻した時だったらしい。
私は、お姉さんの話を聞いて、かなり罪悪感を抱いた。
岡野君は、気が弱いなりに、できる限りがんばったのかもしれない。
「岡野君、身体に戻ってきて」と私は言った。
「悪いけど、岡野と二人きりにしてくれないか」と佐伯君が言った。
「道孝、私にここから出て行けと言うこと?」とお姉さんが言った。
「うん。悪いけど、そうしてくれる?」
「何でよ、佐伯君!」と私も、言った。
「そうよ、道孝!」とお姉さん。
「オレが岡野なら、二人の前では、この身体には戻らないと思うけど」と佐伯君がキッパリと言い、私と佐伯君のお姉さんは、顔色の無くなっているお兄ちゃんを見て、どこかで、そうかもしれない、と思っていた。
「二人きりにしてくれる?」
佐伯君は、岡野君と同じぐらい気が弱いはずなのに、今は、毅然としていた。
「わかった」とまずお姉さんが言い、まだ怒っていた私の肩をポンポンと叩いた。
「けど」と言いかけた私の肩を、佐伯君のお姉さんが抱いた。
それは、奇妙に温かくて、不思議な感じだった。
私は、お姉さんに肩を抱かれたまま、部屋を出て行った。
気持ちが悪いのと、どこか安心なのとの中間的な気持ちだ。
何となく、私とお姉さんは、私の部屋に入って、ベッドに並んで座った。
「あんたは、私が嫌いだと思うし、私もあんたのことを好きにはなれないけど、今は、仕方がないよ」とお姉さんが言った。
「アイツラは、友達だし」
「けど」と私は、言った。あのままでは、お兄ちゃんの身体がどうにかなってしまうかもしれない。
「イヤだけど、あんたって、私に似てるね」とお姉さんが言った。
私は、急に、冷静になった。
お姉さんに似てる? そんなことは言われたくない。
「ああ、やだ。あんたって、柏木君にも似てる」とお姉さんが、空を仰ぎながら言った。
当たり前でしょ、兄妹なんだから、と私は、内心、誇らしく思った。
今の今まで、自分がお兄ちゃんに似ているなんて、思ったことは、生まれてから一度もなかったし、誰にも言われたことはなかったんだけど。
「目が似てるね」と佐伯君のお姉さんが、私の目を見た時、私は、自分でも思ってもみないことに、ワッと目から涙が吹き出した。
「大丈夫だよ、心配しなくても」とお姉さんは、私から目をそらして、妙にぎこちなく、私の身体を抱いた。
「大丈夫だよ、道孝は、あれでも、シッカリしてるんだから」
「けどね、けどね」と私は、まるで、小学校の低学年みたいに、しゃくりあげた。
「私はね、私は、ずっと、お兄ちゃんが死んでしまうんじゃないか、と思ってて」
自分でも、何でそんなことを、こんな人に言っているのかわからなかった。
「大丈夫だよ、大丈夫。絶対に大丈夫」
あのね、『絶対』なんてことは、人間には言えないことなのよ、と私は、数学の先生の言ってたことを思い出していた。
それなのに、抵抗もせずに、お姉さんに抱かれて泣いている。
お姉さんは、とても温かかった。
「あんたって、あったかいんだね」とお姉さんの方が言った。
ウフフン、というような声が、自分の鼻からもれて、私の顔は、涙でグシャグシャになっていた。
「私だって、柏木君が死んでしまったら、どうしていいかわからないんだから」
何か、もう知らない、と私は思った。
何か、もうどうでもいい。
本当に、意識のどこかは、すごく冷静に覚めていて、泣いている自分を、かなり冷やかな目で見ている。
多分、それは、佐伯君のお姉さんも同じなんだろうと思う。
でも、どこかで足りていなかった栄養を補っているように、私と佐伯君のお姉さんは、自分でも訳がわからずに、抱き合って泣いたままでいた。
ドアがノックされ、「もういいよ」という佐伯君の声が聞こえた。
私達は、ハッと我に返って、手近にあったティッシュで涙を拭いた。
「かっこ悪い」と佐伯君のお姉さんが言った。
「女ってのは、わけ、わからんわ」と佐伯君が、お兄ちゃんに言っている。
息を吸い込んで、何か言おうとした私とお姉さんを、佐伯君は、手で制した。
「ちょっと待って」
で、私とお姉さんは、ちょっと待った。
「岡野から言うことがあるけど、黙って待っていられないんだったら、明日にしよう」と佐伯君が言った。
同時に何か言おうとした私達を、再び、佐伯君が手で制した。
そういう態度にムカッとした時に、佐伯君が言った。
「明日にする」と。
そう言ったまま、私達の目の前で、自分の部屋のドアを閉めて、ガチャリと鍵を回す音まで聞こえた。
私と佐伯君のお姉さんは、数秒間、呆気にとられたままでいた。
「何なんよ、アレ!」
「ちょっと、道孝、道孝」
そういう私達女性二人の声が家中に響き渡ったのは、その後だった。
「何なんよ、アレ」
「信じられない、最低」
私とお姉さんは、固く閉じられてしまったドアをにらんで、口々に悪態をついた。
「けどまあ、透さんの身体に、一応戻ったわけだ」とお姉さんが言い、私も、あ、そうか、と思った。
何か変に興奮していて、そういうことは全然考えていなかった。
私は、何となく、シミジミとお姉さんを見てしまった。
「何よ、あんた、気持ち悪いよ、その目線」とお姉さんに言われてしまった。
「私、家に帰るわ」とお姉さんが言った。
「スパゲティ、おいしかったですよ」と私は、関係のないことを言ってしまった。
「何言ってんのよ、アレは、道孝に教えてもらったんだから」とお姉さんは正直者だった。
「私、そういうことには全然興味がなかったんだけど、ある時、道孝に言ったんだわ。
『柏木透って、スパゲティ・ミートソースだけ食べるんだって、給食で』って。そしたら、道孝が、『オレ、作り方知ってるよ』って言ったの。私は、ショックだったの。給食とか食べ物って、自分とは関係ないって思ってたから」
私も、そう思っていた。食べる物は、私以外の人が作るものだって。佐伯君に教えてもらうまで。
「『へえ、そんなもの、どうやって作るのよ』って、あんまり関心なく言ったら、道孝が、すごく熱心に、作り方を教えてくれたのよ。あの子、小学校二年ぐらいだったと思うけど。で、私も、何かわからないけど、言われる通りに作ったのよ。言われる通りにやって、言われる通りにできるって、何か不思議よね。大抵のことは、そうじゃないのに」
私も、佐伯君に教えてもらったレトルト食品とかのことを考えた。
「何か、それわかります」と私は言った。
その後、しばらく、私とお姉さんは、食べる物と自分が、どれぐらい遠い距離にあったか、ということを熱心に語り合った。
「あ、いやだ」とお姉さんが言った。「私、家に帰るつもりだったのに」
ハッと時計を見ると、大ショック。午前二時を回っていた。
「あんた、学校、大丈夫?」とお姉さんの方が言った。
「アハハ」と笑うしかない。
私の気分は、かなり複雑だった。
ものすごく本当のところを言ったら、お姉さんと一緒に抱き合って寝たかった。
けれど、そんなこと、お兄ちゃんとか佐伯君と抱き合って寝たいと思うほど、すごく変なことに思えた。
この世に、何の制約も意味もなければやりたい、というだけの話だと思う。
「私が、あんたのお母さんか、あんたが私のお姉さんかだったら、あたし、あんたを抱いたまま寝てると思うけど」とお姉さんも同じことを考えていたようなので、少し嬉しかった。
「けど、そんなことしたら、私、途中で死んでしまうと思うよ」
私も、そう思う。
「で、こんなこと言うのも、言ってる途中で死んでしまう気がするけど、もう一回、あんたを抱いてもいいかな」
私は、いいとも悪いとも言わず、お姉さんの方に両手を差し出していた。
女の人にそういうことをしたのは、多分、生まれて初めてのことだと思う。
大好きなお兄ちゃんにだって、そんなことをしたことはなかった。
どこかで行方不明になるかもしれなかった、私の両手は、温かくて柔らかい、佐伯君のお姉さんの両腕の中に、スッポリと吸い込まれてしまった。
その時、私の両方の目から、涙がジュッと出てしまった。
「ああ、やだ、こんなことしてるの、やだ」と言いながら、お姉さんの目からも、何でか涙がジュッと出たのがわかった。
ああ、やだ、と私も思っていた。けれど、とても気持ちがいいとも思っている。
私とお姉さんは、しばらくしてから、何か照れたように身体を離して、私は自分のベッドに横になり、お姉さんは、その横に膝をついていた。
私は、自分の髪の毛が、優しく撫でられるのを、すごく気持ち良く思いながら、ウトウトしていた。
「変な気がするよ」というお姉さんの声が、遠くなったり近くなったりしている。
「道孝にも、こんなことしたことないし、誰にもしたことないし、誰からもされたことないのに、何でこんなことやってんのかわからないよ」
「私も」と言いながら、お兄ちゃんに頭を撫でてもらったことを思い出していた。
でも、お兄ちゃんの手は、こんなに柔らかくはない。
「お兄ちゃん」と夢の中で私は言った。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
「何言ってんだよ、バーカ」と言う声が、ずっと遠くで聞こえていた。
私は、夢の中で、お母さんに可愛がられている子供だった。
嘘みたいに、お兄ちゃんは、勉強がよくできることで、お母さんに叱られている。
「うっそでしょ」と思ったところで、目が覚めた。
ま、そういう、うまい話は、夢だと決まっているのだ。
ドンドンとドアがノックされていて、「柏木、学校に遅れるよ」という悲痛な声が聞こえていた。私を温かく包んでいたはずのお母さんは、どこにもいなかった。
しまった、学校だ、と思って、私は起き上がった。
時計を見ると、八時前だった。
私は、多分、鬼のような顔をして起き上がり、服を着て、時間割りを睨んだ。
予習復習は、一応昨日したことを思い返し、カバンをつかんで、ドアを開けた。
ドアの前には、顔色が薄くなっている佐伯君がいた。
「遅刻?」と私は、たずねた。
「ううん。まだ、大丈夫」と佐伯君。若いのに、目の下にクマができている。
「これ、姉貴が」と形の悪い、ラップに包まれたお握りを私に渡した。
「あ、そう」と私は、瞬間でラップを外して、お握りを口に入れていた。
「アハハ」と私は笑った。ミートソースお握りだ。
「佐伯君が作った?」
「違うよ」
「佐伯君のミートソースだ」
「うん」
何か、私は、変に浮いている。
「佐伯夫妻が来たぞ」と学校に着いて言われていても、変にふわふわと心は宙に浮いていた。
私は、生まれてきてよかったんだ、とどこかで確信を持っている。
社会で抜き打ちテストがあり、クラスメイトがブウブウ文句を言っている。
それまでなら、できの悪い自分を責めるはずが、どこかで自分を認めている。
現国でも、漢字のテストがあって、それまでなら、クラスメイトと同じように、先生を恨んでいた私が、どうでもいいと思っている。
「佐伯夫妻は、今日も一緒に帰るのか」
「そうよ」と私は歌うように答えている。
「柏木、お前、変だよ」と当の佐伯君に言われてしまった。
「何が?」と私は、病院に行くバスの中で答えていた。何が変なのか、自分でもよくわかっていない。
「オレにもわからないけど、今日のお前、絶対変だよ。オレが、昨日、何の説明もしなかったから?」
「何の説明?」と言うと、佐伯君は、黙った。
「姉貴も変だし、お前たち、絶対、変だよ」
そんな風に言われると、何となくムカツいた。
「何の説明?」と何となく、その日のいい気分を吹き飛ばすように、私は尋ねた。
「岡野は、病院で、自分の身体から抜けて、柏木のお兄さんと話した」
「え! ほんと? 何でそんな大事なことを早く言ってくれないの」
「だって、昨日の柏木は、人の話を聞く状態じゃなかったじゃないか」
そう言われれば、そうかもしれない。
「話したと言っても、一言か二言で、『元気?』『まあまあ』というような話だったみたいだけど、『身体から抜けられない?』と尋ねたら、『眠い』と言って眠ろうとするので、『抜けて抜けて』とうるさく言うと、スウッと上空に幽体が浮かんだらしい。寝たまま浮かんでしまったので、お兄さんが身体に戻るまで、かなり岡野は苦労したみたいだ」
昨日のお姉さんの話を思い出した。
「じゃあ、お兄ちゃんも、幽体離脱できたわけね」
「でも、かなり体力が落ちているのは確かだな」
私の心臓がズキンとした。
「それって、違う身体に入っていることと関係あるのかな」
「何とも言えない。元々、首を締められて殺される寸前だったわけだし」
「そっかー」
「ひどい言い方して、ごめん」
「仕方無いよ、ほんとのことだから」
体力が落ちている……身体が弱っている。
私は、心の中で悪魔のようなことを考えていた。
まだお兄ちゃんが幽体離脱できるうちに、早く岡野君の身体と入れ替わって、死んでしまうのなら、岡野君が死んでしまえばいい、と。
そう考えている自分に寒気がした。
それは、当然、岡野君にも元気になって欲しい。神様に祈って叶えられるのなら、いくらでもお祈りする。でも、どちらかの命しか助けられないのなら、私はお兄ちゃんの命を助けたい。
「問題は、岡野が自分の身体に戻ろうとしたら、できなかったことだ」
「え? どういうこと?」
「岡野もわからないと言っていた。お兄さんが眠っていたのと関係があるのかもしれないし、ないのかもしれない。お兄さんの身体の方を長い間離れると騒ぎが大きくなるので、そう何度も試せなかったのかもしれない」
私の唇が震えていた。入れ替われなかった……
バスから降りて、病院の入口で、「やあ」という声を聞いた。
またか……同じクラスの高橋君が手を振っていた。
「昨日は、少ししかいられなかったし」
「よく来れたな」と佐伯君が言った。
「お前達に追いつこうと思って走ったら、バス一台分早かったよ」
私は、内心ムカッとしていた。岡野君の身体に入っているお兄ちゃんに話し掛けたいと思っていたのに、邪魔が入った。
詰め所で名前を記入して、岡野君の病室に入ると、院長先生がいた。
「やあ、由紀子ちゃん」と先生が言った。
「先生、どうなんですか?」とつい保護者みたいな言い方をしてしまった。
「昨日は、ちょっと心配だったけど、今日は落ち着いているよ」
「自分で呼吸できるようにはならないんですか?」
「それは、今のところわからない。それより、昨日の透君の方が心配だね。退院して間がないんだから、あんまり無理しないように言っておいたんだけど」
「はい……」
「それと、また感じが変わったね、透君は」
先生が何か言いたそうな顔で私を見たので、私は、本当のことを話そうかどうか、とつい考えてしまった。
佐伯君は、いつもの習慣通り、学校での出来事を岡野君の身体に向かって話している。
高橋君は、それに色々付け加えていた。
中身がお兄ちゃんだとしても、そういう刺激は必要かもしれない。
「岡野君には、いい友達が多いね」と先生が言った。
「それから、由紀子ちゃん、岡野君の内臓を取ったりしないから、心配しなくても大丈夫だよ」
「大人になっても大丈夫ですか?」
「私が院長でいる限りは大丈夫だ。私自身は、まだ、『脳死』状態が、人の死だとは思えないものでね」
「でも、若い方の先生は……」
「私の考えは伝えておいた。長い間医者をやってると、理屈ではわからないことがたくさん出てくるもんだ。お兄さんの透君や岡野君のことなんかも、その一つだ。息子は、岡野君の身体で研究したいと言っているが、許可していない」
「そうなんですか」
先生は、佐伯君と高橋君の方を見ていた。
「それで、今、透君の中にいるのは、岡野君の方なのか?」
静かな声だった。
「そうだと思います」と私も静かに答えた。
「昨日のことは、二人が入れ替わったせいなのか?」
「いえ、それはできなかったようです」
「ずっと、気にはなっていたが、無事、透君が意識を回復したものだと思っていた。記憶を無くしていたので、どうとも考えようがなかった」
「私もです」と私も言った。
「どうやってわかった?」
「好きな食べ物で調べました」
「食べ物?」
私が説明すると、アッハッハ、と先生は笑い、「いや、これは失礼」と顔を引き締めた。
佐伯君と高橋君が、驚いた顔をして、先生の方を見ていた。
「やあ、高橋君、叔父さんは元気?」と先生は、話題を変えた。
「はあ……」と高橋君は、緊張しているのか、強張った顔をした。
「君は、小さい時から、私を見ると怖がる。たくさん、注射したからかね」
「は、はあ……」
「ちょうどいい時に会ったね。最近、よく君の叔父さんのことを思い出していたんだけど、近いうちに、またお会いしたいと伝えておいてもらえるかな?」
「は、はい」
「人生というのは、面白い具合に回っていますね」と先生は、誰に言うともなく言った。
「高橋君の叔父さんとは、以前囲碁友達でね。随分ご無沙汰していたんだけど、最近、頻繁に思い出す。すると、病院で高橋君に会う」
「シンクロニシティですね」と佐伯君が難しそうなことを言った。
「難しいことを知ってるね。萌さんも元気そうでよかった」
「はい」
私は、結局、先生に見送られる形になって、お兄ちゃんと話すことのないまま、摘んできた花だけを生け替えて、病室を後にした。
「柏木、いいの? 何も言わないで」と佐伯君に言われたが、いつも佐伯君の言うことを聞いているだけだったし、高橋君もいるし、ま、いいか、と思った。
「じゃ、叔父さんによろしくね」と先生が、病院の玄関まで見送ってくれた。
高橋君がいるせいもあって、私達は、黙ったまま、バスにゆられていた。
「ねえ、着いてきてくれる?」とバスを降りた時、高橋君が言った。
「え?」と私も佐伯君も、何のことかわからなかった。
「あの先生が言ってただろ。叔父さんに言っといてくれって」
「何を?」と二人同時にたずねていた。
「また会いたいとか何とかさ」
「あ、そうだったね」と佐伯君は思い出したみたいだ。
「けど、私は……」と断ろうとしたのに、「いいよ、ついでだから」と佐伯君が言った。
私は、内心、ブツブツ不平を言いながら、二人の後に着いていった。
何か、一人で帰る気にはなれなかったし、先生の言ったことを、高橋君のいないところで、佐伯君に話したかった。
「オレ、何か、あのおじさん、苦手なんだよな」と高橋君が言った。
「何かさあ、人の心の中が見えるような顔してるし」
「へえ、面白そうだな」と佐伯君が言った。
冗談で言っているのかと思ったら、本当に興味がありそうな顔をしている。
私達は、しばらく歩いて、大きな古いマンションの中に入って、エレベーターに乗った。八階まで行くらしい。
八階で降りて、また歩いて、『高橋貢』という表札の出ている家の前で止まった。
「やっぱりヤだなあ」と高橋君が言った。
そのとたん、ガチャンとドアが開いて、私達三人は飛び上がった。
「あれ? 清春じゃないか、こんなとこで何してる?」と手にコンビニの袋を下げた男の人が立っていた。
「ゴミ出してくるから、ちょっと上がっておけ」と言って、男の人は、エレベーターの方に行った。
「ええ、オレ、伝言だけ伝えるつもりだったのに」と高橋君は言った。
「お邪魔します」と佐伯君は、サッサと家の中に入って行った。
家の中には、夕日が差し込んでいる。窓が西を向いているのかもしれない。
最初はいくつかの部屋があったのかもしれないけれど、仕切りのようなものは全然なくて、全体が大きな部屋のようになっていた。
「ま、座ろうか」と佐伯くんは、さっさと炬燵に入ってしまった。
私と高橋君も炬燵に入った。電気を入れたままなのか、温かい。
「オレ、炬燵好きだ」と佐伯君が言った。
そう言われたら、何となく落ち着く気もする。私の家は、セントラルヒーティングで、炬燵はない。
高橋君の叔父さんは、しばらく帰って来なかった。
ゴミを出してきたはずなのに、まだ、コンビニの袋を手に下げている。
「久し振りだから、メシ食っていけ」と叔父さんが言った。
「ご馳走になります」と佐伯君が言った。
私を見て、よかったな、という顔をしている。
佐伯君は、いつも自分で食事を作っているから、そう思うのだろう。
「鍋しよう、鍋。一人じゃ、滅多に鍋しないからな」
そう言うと、叔父さんは、炬燵の上にコンロを乗せて、大きな鍋に、買ってきた材料を放り込んだ。
「便利な時代になったな。全部洗って切ってあるんだから」と叔父さんは言った。
しばらくすると、グツグツと鍋が煮え、いい匂いがしてきた。
「まず、食え」と叔父さんが言うので、私達は食べた。
「最近、鍋ばっかりだよ」と高橋君。
私は、鍋なんて、覚えている限り、家で食べたことがない。
「鍋、いいですね」と佐伯君。多分、佐伯君も、一人で鍋はしないだろう。
「デザートもあるぞ」と叔父さんは、ミカンを炬燵の上に出した。
「清春、何年ぶりだ。随分でかくなって。最初わからなかったぞ」
「正月に会いましたよ」と高橋君が言った。
「そうだっけ? いつの正月だ?」
「今年」
「そうだったかなあ。で、今日は、何の用だ? 兄さんの用事か?」
「病院の先生が、また会いたいと言っておいてくれって」
「病院の先生って?」
「井上病院の院長先生」
あそこは、井上病院って言ったっけ? と私は思った。
「ああ、井上先生か。長い間会ってないな」と叔父さんは、手で顔を撫でた。
「あの先生には、もうちょっとで死人にされるとこだったからな」
「と言うと?」と佐伯君が、考え深そうな顔をしている。
「話したら、長くなるからなあ」と言いながら、高橋君の叔父さんは、少しずつ話してくれた。
十年ぐらい前、叔父さんは、電気関係の仕事をしていて、感電事故を起こした。
その時は、呼吸も心臓も止まっていた。
「けど、オレは、自分の周りで起こることは、全部わかってたんだよ。周りがワアワアと騒いでるのも、病院に担ぎこまれたのもわかっていた。『オイオイ、何言ってんだよ』と知ってるヤツラに言ったんだけど、誰もオレの言うことを聞いてない。その時、ハッと気がついたんだよ。オレは空中に浮かんで、自分の周囲のことを見ているって」
「幽体離脱してたんですね」と佐伯君が言った。
「幽体離脱だか何だか知らないけど、オレも医者とか看護婦と一緒になって、自分の心電図を見ていたよ。一本線になってるんだ。医者が心臓マッサージをすると、その線は動くけど、やめると止まる。そして、散々オレの身体をいじり回した後で、井上先生が、オレの家族に言ったんだ。『手を尽くしましたが、到りませんでした』って」
「臨死体験ですか」と佐伯君が言った。
「そう言われてるみたいだけど、オレは、どこかガックリしたよ。普通は違う世界に行って戻ってくるらしいんだけど、オレは、自分の身体のそばにいた。家族が、オレの葬式の相談をしてるのを聞いてたんだ。そうか、オレは死んだんだ、と思った。その時だよ。誰か別のヤツが、オレの身体に入ろうとしたんだ。オレの周囲には、オレみたいなヤツが大勢いた。『待てよ、それはオレの身体だ』と叫んで、ソイツを押し退けたとたん、オレは自分の身体にいるのがわかった」
「生き返ったわけですね」
「そうだな。家内がギャッと叫ぶのが聞こえた。『わ、これは』と井上先生が言ってるのも。心電図を見ようと思ったけれど、寝ている位置からは見えなかった。子供が、ワーンと泣き出した。急に周囲がバタバタと騒がしくなり、身体中に色々な器具が取りつけられた。口にもマスクがつけられて、苦しくて取ろうとしたけど、手は動かなかった。オレは、そのまま意識を失ったらしい。次に気がついたら、家内と子供の顔が見えた。清春は覚えているかどうか知らないが、聡子おばちゃんと明生だ」
「よかったですね」と佐伯君が言った。
私と高橋君は、黙って聞いているだけだった。
「よかったのか悪かったのか。あれから、人生が変わってしまった。まあ、ミカンでも食え」と言って、叔父さんは話を終えた。
「今でも、幽体離脱ができるんですか?」と佐伯君がたずねた。
私は、佐伯君の質問にハッとした。
そうか、それで、佐伯君は熱心に話を聞いていたのだ。
「それは、あの時だけだろう」と叔父さんは答えた。
「その代わりに、普通では見えないものが見えるようになった」
「霊とかですか?」と佐伯君。
「霊なのかどうかはわからないけど、UFOは見る。身体の中の具合が何となくわかる。うちの家内が一番いやがったのは、何となく、人が死ぬのがわかるようになったことかな。家内の伯母さんとか、母親が死ぬのが、何となくわかった。生気がなくなるのがわかる。だから、最後には、人から気味悪がられるようになった。今では、それを商売にしてるけどね」
「霊能者ですか」
「そんな大そうなもんじゃないけど、気功なんかで外気というのが出せるようになった。要するに、痛いところの痛みを軽くすることができる。軽い痛みなら取れる」
「病気も治せるんですか?」と私は、思わず、膝を乗り出していた。
「治る病気なら治せる」と叔父さんは、わけのわからないことを言った。
「見たらわかりますか?」
「わかるものは、わかる」とますますわけがわからない。
それでも、私と佐伯君は、いつの間にか炬燵から抜け出して、叔父さんを間に挟んで座っていた。
「明日、病院に来られますか?」と私はたずねた。
「明日は、一日中予約で一杯だ」
「明後日は?」と佐伯君。
「明後日は」と叔父さんは、予定表のようなものを取り出した。
「午後なら空いてる」
「じゃあ、明後日の午後に病院で。僕達は、四時頃行く予定ですけど」
「わかった。じゃあ、四時頃行くと、井上先生に言っておいてくれ」
「はい、わかりました」と佐伯君。
私もそうだろうけれど、佐伯君も、『やったー!』という顔をしていた。
「今日は、ご馳走さまでした」とお礼を言って、何が何やらわかっていない高橋君と一緒に、マンションを出て、エレベーターに乗った。
「高橋、サンキュー」と佐伯君が言った。
「うん、ああ」と高橋君はキョトンとしている。
「高橋君、ありがとう」と私が言うと、急に真っ赤になった。
「照れるよ」と高橋君は言った。
「はい」と私は、マンションを出たところにあった自販機でコーラを買って、高橋君と佐伯君に渡し、自分にはお茶を買った。喉が乾いていた。
「僕がお金払うよ」と佐伯君が言ったけれど、「私の奢り」と答えた。
「どうも」と高橋君が言った。
「うちの親なんかが、叔父さんのこと気味悪がってたから、オレも同じように思ってたけど、理由がわかれば、あんまり怖くないな」と高橋君。
「ねえ、オレも明後日行ってもいい?」と案の定恐れていたことを言われてしまった。
「いいよ」と佐伯君がアッサリと言った。
「けど、高橋、秘密は守れるよな」
「う、うん」と高橋君は、ゴクリと唾を飲んだようだ。
「クラスの他のヤツラには、絶対に内緒だ。山本にもな。学校では、この件に関しては、絶対に話さないこと」
山本というのは、高橋君の不良(?)仲間だ。
「わかった」
「じゃ、ここで別れよう。オレは、柏木さんを送ってから帰る」
「おお、じゃあ、ここで」
「おお」
何か、男同士で勝手に話を決めてしまったようで、私は、内心不満だった。
「来るなと言っても来るだろう」と佐伯君が、しばらく歩いてから言った。
「それなら、仲間にしてしまった方がいいと思って。気にいらなかった?」
「ちょっとね」と私は言った。
「そうかな、と思ったよ」
「じゃ」と家の前で佐伯君は言うと、帰って行った。
何かもっと話したかったような気もするし、これでいいような気もする。
岡野君と同じ家で寝ていることは、もう気にならないんだろうか、と変なことを考えていた。
玄関から中に入ると、また、ミートソースの匂いがしていた。
「お帰り」と佐伯君のお姉さんが顔を出した。
「道孝は?」
「今別れたけど」
「なーんだ、夕食食べて行けばいいのに」と誰の家かわからないようになっている。
「由紀子ちゃん、お帰り」と岡野お兄ちゃんが言った。
「今日は、病院でどうだった?」と尋ねられて、私は、今日あった出来事をかいつまんで話した。
「明後日か」と岡野お兄ちゃん。
「その人が不思議な力でも使って、オレの身体も治してくれたらいいな」と私や佐伯君と同じことを考えたようだ。
「今日は、図書館に行って、色々な本を当たってみたんだけど」と佐伯君のお姉さんが、ミートソース・グラタンみたいなものをオーブンから取り出しながら言った。
唯一の得意料理なんだから仕方がないか……
「朝のごはんがあったから、ドリアにしてみました」
ドリアか。しかし、食べてみると、案外においしい。
「脳死の本とかリハビリの本とかばっかりで、あんまり収穫はなかったんだけど、透さんが読んで
た漫画に、少しだけそれらしいのがあって、肉体が入れ替わったまま長い時間が経つと、肉体に精神が乗っ取られるみたいなことが書いてあって、ちょっと怖かった」
「ちょっと怖いって、アレは、人間が狼に乗り移る話だろう。実際にはあり得ないよ」と岡野お兄ちゃんが言った。きっと、岡野君の方は、退屈しのぎに漫画を読んでいたのだろう。
それから、二人で、その漫画の話をしばらくしていた。
何だ、結構、気が合ってるじゃない、と私は内心思った。
「今時、漫画読んだことがないって、信じられないよな」と岡野お兄ちゃんが、私に言った。
「うん。けど、うちのお兄ちゃんは読んでなかったと思う」と私は言った。
お兄ちゃんが寝ていた部屋には、漫画の本は一冊もなかった。
「あんたが岡野君の確率は、ますます上がったわね」と佐伯君のお姉さんが、なぜか嬉しそうに言う。
「図書館でカードを作って、私のカードまで作って、いっぱい漫画を借りてくるんだもの、信じられない。ま、お蔭で、私も読んでしまったけど」
そう言って、また、二人は、他の漫画のことについて、話し始めた。
予習復習でもしよう、と私は思った。
「ご馳走さまでした」と私は言った。