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幽体散歩  作者: まきの・えり
6/8

幽体散歩Ⅱー2

 階段のところに立っていたお母さんが、壁を叩いたみたいだった。

「やりなさいって、先生が言ってたのに」

 お母さんの目が釣り上がっている。

「やりなさいって、私が言ったのに」

「わかった、わかった。もう日記のことはいいから」とお父さんが、慰めるように言った。

「お邪魔しました」と私と佐伯君は、岡野君の家を後にした。

「何か、危ないお母さんだったな」としばらく歩いてから、佐伯君が言った。

「うん」と私も答えた。

 バンという突然の音が、まだ耳に残っている。

「今日は遅くなったから、ファミレスでも行かない?」と佐伯君が言った。

 食事は家で用意しているというのは、やっぱり気を使って言ったのだ。

「オレ、テストの成績上がって、こずかい増えたから、おごるよ」

「ねえ、佐伯君」と私は言った。

「佐伯君の目で、うちの兄貴を見てくれない?」

「ああ、岡野かどうか確かめるのか。別にいいけど」

 佐伯君は、テイクアウトのフライドチキンとサラダを買った。

「岡野は、これが大好物。ネコみたいに、喉をウグウグ言わせて食べる」

「へえ」それは、決め手になるかもしれない。

「それから、コカコーラ。ペプシだと文句を言う」と言って、ペプシコーラを買った。

 お兄ちゃんはどうだったんだろう? コーラなんか飲まなかった気がする。

「ああ、岡野、ケーキにも目がない」

「私、ケーキを買う」

 お兄ちゃんは、甘いものが嫌いだったはずだ。

「佐伯君、喧嘩したことある?」と私は尋ねた。

 佐伯君は、フライドチキンとコーラ、私は、ケーキの入った袋を下げている。

「うーん。ないなあ」

 お兄ちゃんが喧嘩をした話を聞いたことはないけど、負けず嫌いだ。

 岡野君の身体を借りた時でも、売られた喧嘩は買った。

「岡野君は?」

「岡野は、逃げ専門。逃げられなくなると、死んだフリをした」

 死んだフリ、と聞いて、岡野君は、時々呼吸と心臓が止まることを思い出した。

「そうか」と佐伯君も言った。

「アイツ、幽体離脱してたのか」

 何となく、希望の光が見えてきた。

「二人で、追い詰めてみよう」と私が言った。

 家に戻って鍵を開けた。

 プーンといい匂いが漂っている。

「ミートスパゲティだな」と佐伯君が言った。

「姉貴の唯一の得意料理だ」

 フーン。佐伯君のお姉さん、料理もできるんだ、と私は思った。

「道孝」という声がした。

 階段から、佐伯君のお姉さんが降りてきていた。

「あんた、どうしたのよ」

 他人の家にいて、お客さんに、あんた、どうしたのよ、もないもんだが。

「姉貴こそ、何でこんなとこにいるの」

「柏木君と勉強してるのよ」

 ゲッソリとやつれたお兄ちゃんも顔を出した。

「お邪魔してます」と佐伯君が言った。

「食事まだだったもんで、ちょっと失礼して、フライドチキンを食べます」

「フライドチキン?」とお兄ちゃんが言った。

 何となく、目が光ったような気がする。

「お兄さんも、よかったら、一緒にいかがですか? お兄さんの分も買ってきたんだけど」

「オレもいいの?」と嬉しそうだ。

「柏木君、勉強の途中でしょ」と佐伯君のお姉さんが言った。

「あんまり根を詰めると、長続きしませんよ」と佐伯君。

 そう言いながら、ナフキンで皿のような形を作って、上にフライドチキンをおいしそうに並べた。そして、コーラをドンと置いた。

 私は、お皿を出して、ケーキを盛りつけた。

「オレ、休憩するわ」と言って、お兄ちゃんは、フラフラと階段を降りてきた。

「もう、食欲がないって、言ってたくせに」

 ということは、ミートスパゲティは、あんまり食べていない?

「お姉さんも一緒にいかがですか?」と私が言うと、「そんなテイクアウトの食品より、スパゲティがあるから、食べたら?」という答えが返ってきた。

「姉貴、料理なんかしたの、何年ぶり?」と佐伯君。

「じゃ、柏木君、私、帰るわね」とお姉さんは、弟を無視して言った。

「あ、うん、じゃ、また」とお兄ちゃんは、引き止める気がないようだ。

 佐伯君のお姉さんは帰って行き、フライドチキンとケーキが並んだ、台所の食卓に三人で座った。

 私の家のテーブルは、すごく大きい。大人でも、十人は座れる。

 お兄ちゃんは、いつも、中央のお父さんの席に座っていた。

 お父さんやお母さんがいなくても、お父さんの席、その向かいのお母さんの席というのは決まっていた。

 この日は、佐伯君がお父さんの席に、私がお母さんの席に座り、お兄ちゃんは、どこに座ればいいのかと思案しているみたいだった。

「どうぞ」と私は、自分の隣の椅子を引いた。

「由紀子ちゃんの隣だと、緊張するな」とお兄ちゃん。

「フライドチキン買ってきてやったぞ」と佐伯君がことば使いを変えて言った。

「サンキュー」とお兄ちゃん。

「コーラも」と佐伯君。

「ケーキも」と私。

「食べていい?」とお兄ちゃん。

 手でフライドチキンをつかむと、ウグウグウグと音を立てながら、アッという間に、自分の分を食べてしまった。

 コーラを一口飲むと、「げえ、ペプシだ」と言った。

 佐伯君と私は、顔を見合わせた。

「ケーキもいいの?」ともうケーキに手を延ばしている。

「姉貴のスパゲティ、どうだった?」と佐伯君。

 やはり気になる?

「何か味が足りなくて。それに、オレ、上品ぶって食べるの、どうも苦手で」

 何となく、ズルズルとスパゲティを食べている姿が、目に浮かぶようだ。

 お兄ちゃんの姿で、そういう食べ方はしないで欲しい。

「お前、オレの姉貴のスパゲティにケチつける気?」と佐伯君が言った。

「ああ、悪い、佐伯」とお兄ちゃんは言った。

 私は、ハッとした。岡野君のことば使いだ。

「お前、岡野だな」と佐伯君が言った。

「由紀子ちゃんも、そんなことを言ってたけど」と鼻と口の周りにケーキのクリームをつけたままだ。

「もう、決定」と私も言った。

 鼻と口の周りにクリームだなんて、ああ、大切なお兄ちゃんの美しいイメージが……崩れていく……

「もう、口の周りを拭いて、さっさと、自分の身体に戻ってよ」と私は紙ナフキンを渡しながら言った。

「今日、オレと柏木で、お前の家に行ってきたんだ」ともう佐伯君は、お兄ちゃんを岡野君として話している。

「親父さんには初めて会ったけど、思っていたのと違うんで驚いたよ。よさそうな親父さんじゃないか」

「そう?」

「そうそう。ビックリしたのは、岡野君の日記かなんかないかと思ったら、お母さんが、突然、バンと壁を殴ったこと。ビックリしたよね」と私。

「壁を?」とお兄ちゃん。

「うん、こんな感じ」と言って、佐伯君は立って、思い切り、ダイニングのドアを殴った。

 バン、という大きな音がして、お兄ちゃんが椅子から落ちた。

「痛ー」と佐伯君は、腕を振っている。

「お兄ちゃん、大丈夫?」と私が駆け寄ると、椅子のそばに、お兄ちゃんが倒れている。

 案の定、息をしていないし、脈も止まっている。

「できた?」と佐伯君がたずね、私はうなずいた。

「岡野君、もう大丈夫だから、身体に戻って」と私は言った。

 私の目の前で、お兄ちゃんの身体に生気が戻った。

「オレ、どうなったの?」とお兄ちゃんが、涙ぐんでいる。

「幽体離脱したの」と私は言った。

「幽体離脱?」

「前に説明したでしょ? 岡野君は幽体離脱ができたのよ。それで、お兄ちゃんと入れ替わることができた」

「オレは、柏木透じゃない?」

「そう。あんたは、正真正銘、岡野君よ」

「やったー」とお兄ちゃんが言った。

 私の目には、やっぱりお兄ちゃんの姿をしている。

「もう勉強しなくていいんだ」

「うーん」と佐伯君が言った。

「けど、姉貴を納得させるのは、至難の技だ。でもま、あれは頭のいい女だから、どこか違うことはわかってると思うけど。認めるかなあ」

「オレがバカなのが嬉しいらしいよ」

「柏木のお兄さんは、優等生だったからなあ」

「じゃあ、オレ的には、岡野なわけ?」

「それ以外ないだろう」と佐伯君が言った。

「脳は柏木のお兄さんなんだから、それなりに努力すれば報われるだろうけど、中身が岡野じゃなあ」

「ヘヘヘ」とお兄ちゃんは下品な笑い方をした。ああ、イヤだ。

「確認その一、髪の毛を金髪にしたいとか思う?」と佐伯君。

「この顔に金髪は似合わないから、ホワイトブリーチでメッシュぐらいならしたいな」

「ダメ、絶対にダメ」と私は言った。

 お兄ちゃんの髪をメッシュ? とんでもない。

「確認その二、お前、全然記憶がないわけ?」

「そう言われると返事に困るな。柏木透だと言われていたから記憶がなかったんだけど、もしも岡野なんだったら、少しはある」

「何?」と私と佐伯君は、期待に胸をふくらませて、同時に言った。

「オレは、スパゲティは好きじゃない。フライドチキンとコカコーラが好きだ」

 何だ、そういうことか、と私は思った。

「勉強は好きじゃない。けど、ボウッとテレビを見ているのは好きだ」

「佐伯の姉貴は可愛いけど苦手だ。由紀子ちゃんは、可愛いし、好きだ」

「黒い髪は重苦しくて嫌いだ。茶髪や金髪が好きだ」

「岡野の親父は好きだ。けど、お袋は怖くて嫌いだ」

 お兄ちゃんは、次々と並べ始めた。

「オレ、今、変なこと考えたんだけど」と佐伯君が言った。

「お前のことを殴ってたのは、本当はお袋の方じゃないかって」

「もし、オレが誰かに殴られてたんなら、そうかもしれない」とお兄ちゃんが言った。

「好きとか嫌いじゃなくて、岡野のお母さんって、すごく怖かった」

「それと、さっき、幽体離脱したよな。あれ、またできる?」と佐伯君。

「あれさ、すごく気分が悪いよ。何か身体を裏返しにしたみたいな感じがある。内臓をゲッと吐き出したみたいな気分」

「お前が言うとリアルだな」と佐伯君が言った。

「また……お兄ちゃんと入れ替わることができる?」と私は、恐々たずねた。

「さあ、どうかな。やってみないとわからないよ」

「お願い、やってみて」と私は言った。

 岡野君には悪いけれど、私は、お兄ちゃんのことしか考えていない。

「条件があるんだけど」とお兄ちゃんは言った。

「何?」と私と佐伯君は、同時に言った。何となく、気が合ってるみたいで恥ずかしい。

「オレ、もう無理な勉強したくないんだわ。多分、オレって、人生のごく最初に勉強をしないで生きていく道を選んだんだと思う。だから、今更、無理したくないんだ」

「オレは、お前も、勉強の道を少しぐらい歩んだ方がいいと思うけどな」と佐伯君が言った。

「何か、お前に嫌われてる姉貴が、ちょっと可哀相なところがある。アイツ、本当に、自分で料理作るなんて、四年ぶりか五年ぶりだぜ」

「多分、身体が柏木の兄貴だからかもしれないけど、パッと見た瞬間、変にドキドキするんだけど、続かねえんだよ」

 意識してないかもしれないけど、ことば使いが、スッカリ岡野君になっている。

「思い出すというのとは違うかもしれないけど、段々と、オレとこの身体との間に違和感が生まれてきている。オレは違うんだ、って気分かな。今、チャンスだってのもあるな」

「チャンスって何?」と佐伯君がたずねた。

「柏木って、超ブラコンじゃん。だからさ」

 岡野君は鋭いかもしれない。

 お兄ちゃんの姿とお兄ちゃんの声で言われると、フラフラッとする。

 中身がお兄ちゃんではない、と意識するので、余計フラッとするのだろう。

 佐伯君のお姉さんも、案外、同じような気分なのかもしれない。

 真面目を絵に描いたようなお兄ちゃんの身体に、いい加減な岡野君の精神が入っている。

 もしかすると、ナイス・コンビネーション?

「それは、卑怯だぞ、岡野」と佐伯君が、口をとがらせて言った。

「わかってるって」と岡野お兄ちゃん。

「今日、オレは、この家に泊めてもらう」と佐伯君が突然宣言した。「いいだろう、柏木?」

「まあ、いいけど」と私は、どこか疲れ切っていて、投げやりに言った。

 自分でも、今の気分は危ないかもしれない。佐伯君にガードしてもらった方がいい。

「けど、オレ、何か段々と不良化してる気がする」と佐伯君が言った。

「私だってよ」と私も言った。

「今日は、全然、勉強しなかったし」と二人で声を揃えて言ってしまった。

「そうか。お前達って、勉強家だったんだな」とお兄ちゃんがシミジミと言った。

 まあ、そうかもしれない。

 お兄ちゃんと佐伯君を残して、私は自分の部屋に戻り、翌日の学校の準備をすると、ベッドに倒れこむようにして眠ってしまった。

 幽体離脱、OK。

 記憶、OK?

 と眠る前に、わけのわからない確認作業をしながら。


 朝が来て、佐伯君と顔を合わせると、やっぱりドキッとした。それから、変に恥ずかしくなった。学校とかでは、そんなこと思ったことがないのに。

「あ、おはよう、柏木」

「おはよう」

「今日、英語の小テストじゃなかったっけ」と佐伯君は真面目だ。

「それから、朝は、トーストと紅茶でいいかな?」と主婦が入っている。

「お兄……岡野君は?」ああ、ややこしい。

「まだ寝てるみたいだけど」

 佐伯君と二人きりで、朝食を食べるなんて、何か変な感じ。

「な、何か、新婚さんみたいだな」と佐伯君が、赤くなって言った。

「何言ってんのよ」と私まで赤くなってしまった。

 何となく、モソモソとトーストを食べた。

「オレ、カバン取ってから学校に行くから、先に行ってて」

 そりゃそうだ、と私は思った。毎日一緒に帰っている上、朝まで一緒に学校に行ったら、それこそ何を言われるかわからない。

 佐伯君と入れ違いに、佐伯君のお姉さんがやってきた。私がまだ家にいる時間に来たのは、初めてだ。

「昨日はあんまりはかどらなかったから」とお姉さんは言った。

 手には、ずっしりと重そうなカバンを下げている。多分、参考書がぎっしりと詰まっているのだろう。

「それから、あんまり勉強の邪魔しないでね」と言われてしまった。

 時計を見ると、まだ、学校に行く時間には、間があった。

 やっぱり言っておいた方がいいだろうな、と思った。これからのこともあるし、今日は、放課後、岡野お兄ちゃんに、病院に一緒に行ってもらうつもりだったし。

「ちょっと、お話があるんですが」と私は思い切って言った。

「何よ」とお姉さんは、やはり身構えた。

「お兄ちゃんは、まだ勉強をするような状態じゃないんですよ。記憶さえハッキリしてないんだから」

「そんなことないわよ」と相手は強気だ。

「それから、信じてもらえないかもしれないけど、今、お兄ちゃんの中に入っているのは、岡野君といって、佐伯君の友達の可能性があるんです」

 何をバカなことを、と一笑にふされるかと思ったら、お姉さんは、何か考えるような顔をしていた。

「岡野君って、前、私の家で気を失った子ね」とお姉さんが言った。さすが、記憶力はいい。

 あの時は、岡野君が死んでしまった、と思って、大騒ぎだった。

「ふーん、そう。柏木君と一緒にいても、全然手応えがないの。何か別人みたいで」

 私は、密かに感心した。ちゃんと見るべきところは、見てらっしゃる。

「昨日、私と佐伯君でテストをしてみたんです。岡野君は、フライドチキンが好きで、コカコーラが好き。甘い物も好き。お兄ちゃ……兄は、甘いものは嫌いで……」

「そうよ。柏木君は、ミートソースが好きだったのよ」

 それは、私は知らなかった。

「給食の好き嫌いが多いって聞いてたけど、スパゲティ・ミートソースだけは全部食べるって……」

 あ、この人って可愛い、と思ってしまった。

 佐伯君によれば、お姉さんの唯一の得意料理。

「それが、食欲がないって言って、ほとんど食べなかったの。昨日、四時間以上煮込んだのに」

 ゲ。四時間以上……それは、異常だ。レトルトでは三分だ。

「私、柏木君のこと、大嫌いだったのよ」

 ど、どこをどうつつけば、あなたの行動に、兄が大嫌いだという痕跡があるんですか……と私は思った。

「私より、いつもいい点を取ってたから。病気になるか、死んでしまえばいいと思っていた」

「……」

 私は、唖然とした。

 自分よりいい点を取ったから、死んでしまえばいいと思うような心境にはなったことがない。

 そんなことを思えば、クラスの半数には死んでもらわなければならない。

「私は、いつも、学校でも塾でも、クラスでも、二番だった。一番になりたかった。一番で私立に合格したかった」

 何となく、お兄ちゃんも、そんなことを言ってたような気がした。

「一番で合格したけど、あんまり嬉しくなかった。柏木君と勉強するのも、最初は嬉しかったわよ、コイツ、私よりバカだと思って。けど、何の張り合いもない」

 よし、この線でいこう、と私は、心に決めた。

「じゃあ、お兄ちゃんが意識を取り戻すのを、手伝ってください」

「というと、あの病院で寝ている子が、実は柏木君なわけ?」

 うーん。頭のいい人は、わかりが早い、と私は思った。

「今のところ、鍵を握っているのは、お兄ちゃんの中に入っている、岡野君だと思うんです。記憶は無くしているけど、好みとか考え方とかは、岡野君に間違いないと思います。昨日は、偶然ですが、幽体離脱ができました」

「わかったわ」とお姉さんは言った。

 何がわかったんだろう、といぶかしんでいる私に、お姉さんはキラキラした瞳を向けた。

 か、可愛い。

 悔しいけれど、お兄ちゃんは、きっと、こういうところが好きだった?

「ほんの少しだったけど、あの岡野って子の中に柏木君が入った時があったの。そうよ。あれが、柏木君よ」

 死んでしまえばいいほど嫌いというのは、死ぬほど好きってことですか? と私は、心の中でたずねていた。

 私のような平凡な人間には、わからない世界。

「あ、学校に行かなくては」と私は、慌てた。

「中学なんか行かなくても、大学ぐらい行けるわよ」とお姉さん。

「行ってきまーす」と私は、慌ててカバンをつかんで、学校に向かった。

 残念ながら、私は、お兄ちゃんや柏木君のお姉さんみたいに、優等生ではないし、頭もそんなによくないのは、自分でもわかっている。

 毎日毎日のコツコツした積み重ねでしか、生きてはいけない。

 息を切らせて学校に着くと、出席を取っている最中だった。

 滑り込みセーフ。

 男尊女卑だろうが何だろうが、こういう時に、男子から先に名前を呼ばれるのは嬉しい。

 佐伯君が、「どうしたの?」という心配そうな顔をしていた。

 英語の小テストは、前の日に全然勉強していなかった割には、以前の復習だったので、何とかクリア。

 問題は、ホームルームの時間だった。

 タイミングがよすぎる感じがあるのは、高橋君から、岡野君のお見舞いに行くという議題が提出されたことだった。

 それは、ちょっと困るかもしれない、と私は思った。

「はい」と私は手をあげた。

「柏木さん」と委員長が言った。

「岡野君は、今のところ、まだ全然意識を取り戻していない状態で、誰が来てもわからないのです。意識が戻ってからの方がいいと思います」

 ええ、そうだったの、岡野、可哀相、という声が聞こえた。

「んじゃあ、何で、お前と佐伯は行ってるんだよ」と高橋君が言った。

 デート、デート、という声が聞こえる。

「はい」と私は、また手を上げた。

「何とか、岡野君の意識が戻ればいいと思って、あまりお医者さんの邪魔にならないように通っています」

 毎日かよ、という声。

「私と佐伯君は、岡野君と親しかったので、できるだけのことをしたいんです。岡野君をいじめていた人が行っても、仕方がないと思います」

 そりゃそうだよな、という声がした。

「オレは……」と高橋君が立ち上がった。「岡野をいじめてたわけじゃない」

「そう?」と私も釣られて立ち上がった。

 佐伯君が、オロオロしているのが見えた。

「私、高橋君が、岡野君をなぐるの、見たけど」

「けど、オレも、岡野に蹴られた」

 ホラと言うように、高橋君は、クラス全体に、欠けている歯を見せていた。

「正当防衛でしょう、岡野君の」と私は、つい興奮してしまった。

 あの時、岡野君の中にいるのがお兄ちゃんだと気がついたんだから、なおさらだ。

 コイツは、お兄ちゃんをなぐった。

「だから、あんたなんかが来たって、岡野君は喜ばないわよ」

 ワアッという声をあげて、高橋君が泣いた。あらら。

 クラス中が、どよめいてしまった。

「だから、オレは、岡野に謝りたいんだよー」と涙声。

 参ったな、泣いたらすむと思ってんのか、この男。

「岡野君にとってどうか、という問題で、泣けばすむ問題ではないと思います」と言って、私は座った。

 ああ、詰まらないことで、興奮してしまった。

 柏木、きついよな、という声が聞こえる。高橋、可哀相、の声も。

 柏木のお袋って、アレだろう?

 私は声の方を、キッとにらんだ。相手は、視線をそらした。

「はい」と佐伯君が、気弱に手をあげた。

「佐伯君」

 あーあ、というような感じで佐伯君が立ち上がった。

「ボクと柏木さんが毎日様子をみるということで、病院の先生とも相談して、お見舞いの日を決めたらいいと思います」

「はい」と担任が手をあげた。

 生徒の自主性を尊重するということで、ホームルームの時は、担任も生徒と同じということになっている。

「病院のことでもあるし、当分は、今まで通り、佐伯と柏木さんに行ってもらって、おいおい、ということにしてはどうかな?」

「オレは、岡野に会いたいんだよー」と高橋君は、まだ泣いている。

 コイツ、もしかして、岡野のことが好きだった? と私は変なことを考えていた。

 一応、ホームルームでは、いずれ時期を見て、クラスを代表して、何人かが見舞いに行く、ということに決まった。

 ところが、放課後、私と佐伯君の後を、グズグズと鼻をすすりながら、高橋君がついてくる。

「どうしよう」と佐伯君が小声で言った。

「無視、無視」と私。

「柏木」と家に戻ろうとする私の前に、私より二十センチは背の高い高橋君が立ち塞がったので、私は、ちょっと怖かった。

「頼むよ、岡野の顔を見るだけでいいんだ」

「顔見て、どうするのよ」

「きっと、オレ、安心するよ」

 あんたなんかの安心のために! と私は思ったが、佐伯君が言った。

「顔見るだけだぞ」と。

 うん、うん、とまたぞろ、涙を流すので、私も、どこかで、ま、いいか、と思ってしまった。

「けど、私達は、家で着替えて……」と言いかけて、コイツも岡野君と同じで、カバンは持ってないわ、ジャージの上にコートを着てるわ、で着替える必要のないことがわかった。

「ここで、待っててくれる?」

 うん、うん、と変に素直だ。

 私は、家で着替えてから、庭の花を摘み、同じように着替えた佐伯君と高橋君が待っているバス停に行った。

「あんた、バス代持ってんでしょうね」と言うと、「お前達の分もあるよ」とポケットから一続きになった回数券が現れた。

 ありゃ、前もって用意してたんだ、と変なところで感心した。

 大体、この日は、お兄ちゃんを連れて行って、無理にでも幽体離脱をさせて、と勝手に計画を立てていたのに、お兄ちゃんはいないし、高橋は来るしで、台無しだった。

 病院に着いたら着いたで、岡野君が病室にいない。

「どうしたんだろう」と佐伯君が、不安そうな顔で言ったので、高橋君がまた泣き出した。

 こいつが、こんなに泣き虫だとは知らなかった。内心、血も涙もない不良のいじめっ子だと思っていたので、イメージが狂う。

「自分では動けないはずだよね」と実は、私も、不安だ。

 しばらくすると、岡野君がベッドごと戻ってきた。

 何と、お兄ちゃんと佐伯君のお姉さんが付き添っている。

 お姉さんの顔色が真っ青だ。

「大丈夫ですよ」と看護婦さんが優しく言った。

 何が大丈夫かわからないまま、私達は岡野君の周りに集まった。

 ワアア、と高橋君が泣き出したので、私は、彼を病室の外に引きずり出した。

「病院なんだから、静かにしなさい」

「だって、岡野が、あんなになってるなんて、知らなかったんだよー」と高橋君は言った。

「スパゲティ怪人みたいじゃないか」

 知らないよ、そんな怪人、と私は思った。

「意識不明だって言ったでしょ」と私は、高橋君の母親みたいに言った。

「もっと元気だと思ってたよ」

 アホか、こいつは、人の言うことを全然聞いていない。

 元気な人間が病院に入院してるか、と私は思う。

「お前、よく平気だな」と冷血人間みたいな言われ方をした。

「平気なわけないでしょ」

 しかし、よっぽどショックだったのか、今度は、エッエッ、と吐き気がしてきたみたいだった。

「看護婦さん」と私は、近くにいた看護婦さんに言った。

「この人、気分が悪いみたいなんですけど」

 高橋君のことより、岡野君の容体の方が気になっている。

「いや、大丈夫です、大丈夫」と看護婦さんに面倒をみてもらえばいいのに、高橋君は元気を振り絞ったみたいだった。

「あんた、今度泣いたり騒いだりしたら、殺すからね」と私は脅した。

「わかりました」と高橋君は、私が先生みたいに答えた。

 病室に戻ろうとすると、佐伯君も部屋の外に追い出されたみたいだった。

「今日は帰れって言われた」と佐伯君が言った。

「うちの姉貴達がいるからいいって」

 私と佐伯君と、邪魔な高橋君は、何しに来たのかわからないまま、病院を後にした。

「急に、心臓が止まったらしい」と佐伯君が言い、高橋はヒッという声をあげた。

「し、死ぬの、岡野?」

「やかましい」と私は言った。

 私と佐伯君は、二つのことを考えていたと思う。

 考えたい方は、幽体離脱が成功したという線。

 考えたくない方は、岡野君が、本当に危なくなったという線だ。

 でも、看護婦さんは、「大丈夫ですよ」と言っていた。まあ、誰にでもそう言うのかもしれないが。

 また、高橋君は、ボロボロと涙を流していた。

「オレのせいじゃないよな。柏木のおふくろのせいだよな」と無神経なことを言う。

 私と佐伯君が無視していると、なおも言った。

「みんな知らないフリしてるけど、柏木のおふくろが岡野を殺そうとしたんだろ?」

「高橋、黙れ」と佐伯君が言った。

「何だよ、佐伯、やる気かよ」

「お前の言ったこと、岡野もオレも許さないからな」

「……そうか。悪かったよ」と変に素直に高橋君が言った。

 佐伯君がビビッたら、私が殴ってやるところだったけど。

「けど、柏木って、恐ろしいのう」と高橋君。

「何が?」と私が言うと、「それ、それ、それよ」と高橋君が言った。

 もう、本当に、コイツは、イヤなヤツだ。

「ねえねえ、ほんとのとこ、柏木って、どっちが本命?」と聞く高橋君と何とか別れると、別にどっちが言ったわけでもないのに、佐伯君と私は、私の家に戻った。

「まず、明日の予習と今日の復習をしよう」と佐伯君が言い、私も大賛成だったけれど、どうにもそんな気になれなかった。

 それでも、おざなりに、今日習ったところを読み返し、明日習う予定の教科書を読んだ。

「何か食べよう」と佐伯君が言った。

 まあ、とにかく、うちにある食材は、佐伯君に教えてもらって買ったものばかりだ。

「あーあ」と佐伯君が言った。

「油をからめておかないとなあ」とそう言いながら、昨日の残りと思われるスパゲティをバサッとゴミ箱に捨てた。

「ひからびてるよ。昨日、やっとけばよかったな」

 それから、スパゲティの残りを見つけると湯掻いて、ミートソースの入っていた鍋にケチャップとソースを入れて味を見ながら、火にかけると、最後に塩コショウをした。

「材料がもったいないから、何とか活用しよう」

 私は、驚いて、佐伯君を見ていた。インスタントとレトルト専門だと思っていたからだ。

「時間の節約を考える前は、料理もやってみたことがあるから」と佐伯君は言った。

「姉貴が優等生だったし、うちの親の望みは子供の成績だけだったから。もし、好きなことをして良かったら、オレはもっと料理をしたかもな」

 私は、ボウッとして、ガスの火に照らされている佐伯君を見ていた。

「本物のトマトを使ったら、もっと甘酸っぱくなるんだけど、姉貴は、缶詰のトマトを使ってるから」

 佐伯君がゆがいたばかりのスパゲティを皿に盛って、ミートソースをかけた時も、私は、まだ、ボウッとしていた。

「ミートソースは、オレが教えたんだよ。その時は、缶詰のトマトしかなかったんだ」

 私は、何かわけのわからないままに、スパゲティ・ミートソースを食べていた。

「おいしい!」と言おうと思った時に、玄関の鍵の開く音がした。

「何で、いつも、モタモタしてんのよ」と言う、佐伯君のお姉さんの声が聞こえていた。

「ごめんね、ごめんね」という、岡野お兄ちゃんの声がした。

 私は、カッとした。

 そんな卑屈に謝るお兄ちゃんの声を聞きたくはなかった。

 お兄ちゃんは、ずっと、カッコよかった。

 寝たきりでも、カッコよかったのだ。



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