幽体散歩Ⅱー1
Ⅱ
幼子に、なぜ、これほどの悲しみが与えられるのか、と言った人がいるらしい。
しかし、私にとっては、悲しみというのは、人の成長と共に、大きく育っていくような気がする。
五才の時には、五年分の悲しみが、十二才の時には、十二年分の悲しみがある。
では、七十才になれば、悲しみは、七十年分に増えるのだろうか。
毎日、佐伯君と一緒に、岡野君のお見舞いに行くのが、日課になっていた。
自分の周りの世界が、急激に変わっていく。
中学一年の時に病気で寝たきりになっていたお兄ちゃんが意識を取り戻したのが、二ヵ月ほど前のことだった。一ヶ月の入院生活の後、お兄ちゃんは家に戻ってきた。
それから、お母さんと春江さんが、お兄ちゃんと岡野君の殺人未遂容疑で、警察につかまった。
暮れも正月も無く、私には、何が何だかわからない。
今のところは、佐伯君と一緒に、岡野君の病室に行くと、ホッと心が安心する。
多分、長い間、数えてみたら四年間、意識不明で寝たきりのお兄ちゃんを毎日見ていたせいだろう。
それから、意識が戻る少し前、お兄ちゃんが、岡野君の身体を借りて、話したこと、そういったことが全部関係しているのかもしれない。
病院は、駅前からバスで十五分はかかる、山の中腹にあった。
私は、学校から一旦家に帰って、服を着替えてから、庭の花を摘んで病院に向かう。
庭の花だけは、いつも私を待っている。誰も手入れをしていないのに、いつも変わりなく、花は咲く。
「オレ考えてたんだけど」とバスから降りて、病院への坂を歩きながら、佐伯君が言った。佐伯君は、岡野君の親友だ。
ほとんど毎日、放課後、佐伯君と一緒にいるので、クラスではカップルみたいに見られるようになった。佐伯君は気にしているみたいだけど、私は別に気にならない。
「岡野は、ずっとあのままなのかな」
「さあ」と言うしかない。
お兄ちゃんの意識は、四年間戻らなかった。そして、意識が戻ってみれば、昔のことも何も忘れてしまっているようで、私のこともよくわからないみたいだ。
「オレ、岡野がいないと淋しくて、仕方がないよ、柏木には悪いけど」
柏木由紀子というのが、私の名前だ。
私に悪いというのは、お兄ちゃんに意識が戻るのと入れ違いのように、岡野君が寝たきりになってしまったからだろう。
私のお母さんが、姪の春江さんと一緒に、岡野君を殺そうとしたせいだ。
何でそんなことをしたんだろうか。
「別に悪くないから」と私は言った。
病室は、日当たりのいい三階の角の部屋だ。
病院の中でも広い部屋に、岡野君は一人で寝ている。お兄ちゃんが入院の費用を全部出しているらしい。考えたくなかったが、岡野君はお兄ちゃんの代わりに殺されかけたのだった。
岡野君は、色々な管に身体中を囲まれている。
「岡野」と佐伯君は言う。佐伯君と岡野君は、仲のいい友達だ。
佐伯君は、その日学校であったことを全部話す。
私は、病室の花瓶の水を替えて、枯れた花を折って捨てて、新しい花を生ける。
それから、佐伯君が話すことを、ジッと聞いている。
「高橋が、今日、見舞いに行きたいと言ってたけど、来てもらわない方がいいよな」と佐伯君は話している。
高橋君というのも同じクラスの男子だけど、ずっと、岡野君をいじめていた生徒だ。
岡野君の身体を借りていたお兄ちゃんに、顔に蹴りを入れられて、それから、岡野君を見直したらしかった。
「柏木も何か言ってやれよ」といつも、佐伯君は言うけれど、私は何も言わない。
「お兄ちゃん」と言ってしまいそうになるから。
「オレだって、時々わからなくなるよ」と私の心を見透かしたように、佐伯君が言った。
「これは、本当に、岡野なのかなって」
「岡野君に決まってるじゃない」と言うしかない。
「そりゃあ、見たところは岡野だけど、中身まで、本当に岡野なのかなって。本当は、柏木のお兄さんじゃないのかなって」
そんなことを言われると、泣いてしまいそうになる。
お兄ちゃんが、岡野君の身体を借りたまま、こんな状態になっているのも悲しいし、岡野君が、こんな状態になっているのも悲しい。
「ごめん。変なこと言って」
「ううん」
佐伯君の報告がすむと、私達は、しばらく黙って、岡野君を見ている。
病院の外に出ると、大抵日が暮れて、暗くなっている。
バス停まで歩くと、バスに乗って駅前まで行き、そこから私の家まで、佐伯君が送ってきてくれる。
「じゃ、お兄さんによろしく」と佐伯君が言う。
「うん。バイバイ」
「また、明日」
私は、暗い家の中に入り、電気をつけて、二階の自分の部屋に行く。
部屋が十もある広い家に、お兄ちゃんと二人きりだ。
いや。三人きりと言った方がいいんだろうか。
佐伯君には言っていないけれど、佐伯君のお姉さんが、いつも家にいる。
お兄ちゃんが小学校の時に好きだった人らしくて、お兄ちゃんの意識が戻る前、まだ岡野君の身体を借りていた時に、お兄ちゃんが会いたい、と言った人だ。
それ以来、意識が戻った時は、毎日病院に来ていたし、退院してからは、毎日うちに来るようになった。
「ここで何してるんですか」と聞いたことがあった。
「お兄さんと大検の勉強してるんだから、邪魔しないでね」という返事だった。
お兄ちゃんは、中一で寝たきりになり、佐伯君のお姉さんも、中一から学校に行っていないらしかった。
今は、私が家にいる時もいない時も、二人で勉強しているらしい。
だから、私は、ようやく意識を取り戻したお兄ちゃんとも滅多に顔を会わせることもなく、広い家の中で一人ぼっちだった。
佐伯君は、小学生の時から自分で食べるものを作っていたらしくて、私においしいレトルト食品とか、おいしい冷凍食品を色々と教えてくれたり、買い物に付き合ってくれたりした。
お金は、お兄ちゃんではなく、佐伯君のお姉さんが、必要なだけくれることに、いつの間にかなってしまっていた。
ずっとお兄ちゃんの世話をしていた、春江さんがまだ家にいるような感じだ。
ただ、春江さんと違って、佐伯君のお姉さんは、食事を作ったり、買い物や掃除をしたり、といった家のことは、何もしなかった。
広い家に一人ぼっち。
でも、これは、何だか慣れていて、淋しくはなかったし、それまで毎日通っていたお兄ちゃんの部屋の代わりに、毎日病院に行っているのかもしれない。
これは、嘘。
お兄ちゃんが倒れてしまって、意識不明になった時、私は、まだ小学校三年生だった。
それまでは、お兄ちゃんがいてくれたから、淋しくはなかったのだ。
それからも、寝たきりではあっても、何とか、家にお兄ちゃんがいてくれた。
お父さんのことは、ほとんど覚えていないし、お母さんは、私が嫌いだった。というより、あんまり私に関心がないみたいだった。
だから、他の子供が「お母さん」と言う代わりに、私は、「お兄ちゃん」と言って育ったのだろう。
「由紀子ちゃん、心を落ち着けて聞いてね」といつも家に来ていた先生が私に言った。
二ヶ月前に、お兄ちゃんが、意識を取り戻した時のことだ。
あの日の前日、佐伯君と岡野君が、私の家に泊まっていた。
二学期の期末試験が終わった試験休みの日だった。
翌日、学校に行く準備をしていた私の部屋を、岡野君がノックした。
ドアを開けると、佐伯君も一緒だ。
「柏木、今日は、学校、休みだ」と佐伯君が言った。
「ええ、何で?」
私は、今まで、学校をズル休みなんかしたことはない。
「お兄さんが休んで欲しいと言っている」と岡野君が言った。
この時期、岡野君の身体を借りて、お兄ちゃんが話すということがあったのだ。
お兄ちゃんも岡野君も、幽体離脱というのができて、それで、時々、身体を交換できるらしかった。
最初に、岡野君の身体に入っているのは、お兄ちゃんだと気がついたのは、私だ。
それで、岡野君の身体を借りたお兄ちゃんが、岡野君との出会いとか、岡野君の代わりに、二学期の期末試験を受けたことなんかを話してくれた。
私が毎日、お兄ちゃんの部屋に花を飾ったことを感謝してくれもした。それは、本当に嬉しいことだった。
「理由は言えないけど、あの病院の先生のところに行って、お兄さんの容体が変わったと言ってくれないか、すぐに。オレもすぐ後から行くから」と岡野君が言った。
それが、元気な岡野君を見た最後だったけれど、確かに、あの時は、お兄ちゃんではなくて、岡野君だった。
「え? お兄ちゃんの容体が?」と私は、すぐにも、お兄ちゃんの部屋に駆け込もうとした。
「今は、まだ大丈夫」と岡野君が、私を止めた。
あの時、お兄ちゃんに会っておけばよかった、と思う。
「佐伯には、事情を話してある」
私は、わけのわからないまま、佐伯君と一緒に、駅前からバスに乗って、病院に向かった。
「ねえ、佐伯君、一体、何なの?」と尋ねても、佐伯君も困った顔をして答えない。
「私、学校をズル休みしたなんて、生まれて初めてよ」と言った。
「オレだって、初めてだよ」と佐伯君も言った。
「けど、岡野が、緊急事態だって言うから」
「何なのよ、緊急事態って」
「お兄さんが危ないって」
「何で?」
「さあ、それは……」と佐伯君もよくわかっていないのか、要領を得なかった。
そういう要領を得ないまま病院に行ったのだから、結局、院長先生の診察の終わるまで待たされることになり、一人で先生と話した佐伯君と一緒に、先生も半信半疑の顔で、往診用の車で我が家に向かった。
玄関のドアを開けたとたんに、「ウオオオ」という声が耳に入り、三人共ビクッとした。
「由紀子ちゃん、これに住所言って」と先生は、自分の携帯電話を私に渡した。
私は困ったが、「はい、町名から住所をお願いします」と言われて、自宅の住所を伝えた。これは、病院の救急車を呼ぶ電話だったらしい。
私が二人の後を追って見たのは、「岡野、岡野、目を開けてくれ」と言って、岡野君を抱きかかえている佐伯君と、お兄ちゃんの首を締めているお母さんの手を離そうとしている先生の姿だった。
春江さんは、間に立って、ボウッとしていた。
「お母さん、やめて」と私が言うと、お母さんは私の方を向いて、「もう、あんたは、いつも邪魔ばかりする」と言って、お兄ちゃんから手を離した。
「いかん、いかんよ、柏木さん」と先生が、息を切らせて言い、私は、お兄ちゃんが、四年間身動き一つしなかったお兄ちゃんが、手を自分の喉に動かすのを見た。
「苦しい……」というお兄ちゃんの声が聞こえた。
「お兄ちゃん」と私は、ベッドまで駆け寄った。
「私よ、私。由紀子よ」
そして、その時、お兄ちゃんの目が私の方に動き、私に焦点が合った。
その目は、まるで生まれて初めて、私を見るような目だった。
救急車が来て、岡野君とお兄ちゃんを運んで行った後も、私は、その時のショックのまま、取り残されていた。
その状態は、今でも続いている。
お兄ちゃんは、見知らぬ人を見るように、私を見たのだ。
「由紀子ちゃん、心を落ち着けて聞いてね」といつも家に来ていた先生が私に言った。
「はい」
「お兄さんの意識が戻った。これは、喜ばしいことなんだけど、ただ一つだけ問題がある。それは、お兄さんは、今までの記憶を全部失っているらしいんだよ」
「そうですか」と私は、無感動に言った。
「けど、由紀子ちゃんにとっては、お兄さんが元通りになったということの方が嬉しいことだよね」
「はい」
「それから、警察の人が、話を聞きたい、と言っている。君は、何も知らないんだから、心配せずに、知っていることだけを話せばいいからね」
「はい」
私は、警察の人の質問には、「わかりません」「知りません」「覚えていません」と答えていた。本当にそうだったからだけど。
お兄ちゃんの病室に行くと、いつも、佐伯君のお姉さんがいた。
それで、私と佐伯君は、岡野君の病室にいる方が、段々と多くなっていった。
それは、お兄ちゃんが退院した後でも変わらない。
時々、前のままの状態が続けばよかったのに、と思う。
お兄ちゃんと岡野君が、時々入れ替わって、岡野君の身体で、お兄ちゃんが話す。
お母さんも春江さんも家にいて、二人には内緒で、岡野君と佐伯君が、うちに泊まる。
金髪だったのを黒く染めた岡野君。細かいことによく気がつく佐伯君。
身体は寝たままでも、自分の思うことを、岡野君の身体を使って話せるお兄ちゃん。
そんなものは、全部、どこかに消えてしまった。
お母さんと春江さんは、警察に捕まって、岡野君は寝たきりになり、お兄ちゃんは、私のことなんか何も覚えていない。
最悪、と私は思う。
私は、自分の部屋に入って、机に向かって座った。きっと佐伯君も、同じようにしているはずだ。
「岡野のことを考えなくていいように、病院から家に帰ったら、すぐに予習と復習をする」と佐伯君は言っていた。私も、同じことをする。
お兄ちゃんと岡野君のことを考えなくてもいいように。
二時間ぐらい勉強すると、もうすることがなくなってしまう。佐伯君みたいに塾に行けば、もっとすることができるのかもしれない。
家の中は、あちこちに埃がたまり始めている。
春江さんは掃除が嫌いだったけれど、お母さんが綺麗好きだったので、いつも仕方無く掃除をしていた。今は、誰もする人がいない。
コッコッとノックの音がした。
お兄ちゃんだ、と思うと、心臓がドキドキした。
佐伯君のお姉さんは、まず、ドアを開けようとして、鍵がかかっていると、ドンドンとノックする。
私は、ドアの鍵を開けた。
そのとたん、さあっと心が寒くなる。自分でも何を期待しているのかわからない。
「由紀子ちゃん、ちょっと相談があるんだけど」とお兄ちゃんが言った。
顔も声もお兄ちゃんなのに、まるで見知らぬ他人みたいに、私を『由紀子ちゃん』と呼ぶ。そして、私と目を会わそうとしない。
「はい」
「中に入ってもいいかな」
「どうぞ」
お兄ちゃんは、落ち着きなく、部屋の中でソワソワしていた。
「佐伯君のお姉さんは帰ったんですか?」と私も他人行儀に話す。
「うん」
「今日も一緒に勉強したんですか?」
「うん」
段々と気分が悪くなる。何で、あんな人が毎日家に来ているのかわからない。
「話って何ですか?」と私の方から、仕方無く言った。
「岡野君って、由紀子ちゃんの友達だよね」
「同じクラスですけど」
「この間から、先生がお母さんと話していたらしいんだけど」とお兄ちゃんの話は要領を得ない。
「どの先生が、誰のお母さんと何を話していたんですか?」
「病院の若い先生が、岡野君のお母さんと話してたらしいんだけど、岡野君の内臓を、病気の人にあげたらどうかって。お母さんは、大賛成らしいんだけど」
「大賛成らしいって。岡野君は、別に生きてるでしょう?」
「それが、先生の話では、『脳死』の判定をくだせる状態なんらしい」
「『脳死』って?」
「まだ心臓は動いてるけど、もう脳は死んでるらしい」
私は、反射的に、ゾッとした。
「岡野君、死んでしまうの?」
「このままでは、いずれ心臓も止まって、死んでしまうそうだ」
「だって、お兄ちゃんだって、ずっと同じようなものだったじゃない。それでも、意識が戻ったじゃないの」
「オレの場合は、自分で呼吸ができたかららしいけど」
私は、岡野君の身体中に張り巡らせてある、色々な管のことを思った。
「けど、全然、お兄ちゃんの時と違わない」と私は言った。
「お兄ちゃんも意識不明だって言われていたけど、私の言ってることが聞こえていたと言った」
「全然……覚えてないんだよ」
「覚えてないんだったら、そんないい加減なことを言わないで。岡野君だって、佐伯君の言うこととか、私が来ていることとか、聞こえてるかもしれないんだから」
「先生は、そんなことはあり得ない、と言ってたそうだ。佐伯さんも、もう脳が死んでいるんだから、人間としては終わってるから、まだ使い道があるうちに、肝臓とか腎臓とかを、病気で困っている人に使ってもらった方がいいって」
「何で、あんな人に、そんなことを言う権利があるのよ」
「佐伯さんは、オレよりずっと頭がいいし、オレの覚えていないことも、よく知っているし。この家のことも、オレよりずっとよく知ってるみたいだし」
私は、内心、ムカムカしてきた。
「お兄ちゃん、シッカリしてよ。記憶をなくしたからって、自分で考えることまでやめてしまわないでよ。この家は、お兄ちゃんと私の家よ。相談するなら、佐伯君のお姉さんなんかより、私に相談してよ」
「だから、相談してるじゃないか。岡野君のお父さんとお母さんは、息子がお役に立つなら、と全面的に賛成しているらしい」
「お兄ちゃん、本気で言ってるの?」
「怒らないでくれよ、由紀子ちゃん。佐伯さんにも言われてるけど、オレはバカになってしまったんだ。オレは、自分が誰だかもわからないし、由紀子ちゃんのことも、佐伯さんのことも覚えていない。だから、何をどう考えていいのかも、全然わからないんだ」
その瞬間、お兄ちゃんも苦しんでいるんだ、ということがわかった。
もし、私が、ある日突然、今までのことを全部忘れてしまったら、同じような感じになってしまうかもしれない。
「相談してくれてありがとう」と私は言った。
「岡野君は、私や佐伯君にとって、すごく大事な友達だから、『脳死』だろうが何だろうが、あのままでいて欲しい。私と佐伯君にとっては、岡野君は生きてるんだから、死んでるみたいなことを言って欲しくない」
「わかった」とお兄ちゃんは言った。「実は、ボクも、岡野君は死んでるなんて思えなかったんだ」
「でしょう?」と私は言い、お兄ちゃんは、気弱く微笑んだ。
「それに」と私は、その気の弱い笑みに誘われるように言った。
「もしも、今のお兄ちゃんの中に岡野君が入っているなら、自分の身体を殺してしまうことになるもんね」
岡野君は、気が弱かった。人の意見に合わせるところがあった、と私は思い出していた。
お兄ちゃんは?
お兄ちゃんは、優しかったけれど、気が弱くはなかった。
もっとも、それは、私が小学生の時のお兄ちゃんだけど。
「前も、佐伯君と一緒に、そんなことを言ってたね」とお兄ちゃんは言った。
そこで私は、もう一度、岡野君の身体をお兄ちゃんが借りていた時のことを話した。
「そしたら、ボクは、もしかすると岡野君かもしれないということだね」
「うーん」と私は考えた。
そうかもしれないし、そうではないかもしれない。
私は、つい、岡野君が金髪にした時の話をしてしまった。
「最初、茶髪にするつもりが、ブリーチを長い間放っておいたら、金髪になってしまったんだって」
アハハハハ、とお兄ちゃんは面白そうに笑った。
「もしかすると、岡野君かもしれない。お兄ちゃんだったら、自分の髪を金色に染めるなんて、腹を立てたと思うから」と私は言った。
「そう思えたら、気が楽だな。何も思い出せないのも当たり前だと思えるから。それに、由紀子ちゃん。佐伯さんにも言われてるけど、オレって、バカらしいよ。小学生の時に簡単にわかっていたはずの問題が、全然わからない」
うーん、もしかすると、これは岡野君かもしれない、と思うと、急におかしくなった。
「だって、岡野君って、勉強全然したことないもん」
「そうか。それだったら、わからなくて当たり前か」
「けど、お兄ちゃん、そんな話、私と佐伯君以外の人にはしない方がいいよ」と私は、かろうじて言った。頭が変になったと思われてしまう。
「何か、気が楽になったな。じゃあ、あのおばさんが、オレのお母さんてわけ?」
私は、いつも周囲に気を使いまくりの、岡野君のお母さんのことを考えた。
いつでも、どこでも、誰にでも、ペコペコしている。
お父さんが帰ってきた時には、いつも、岡野君を家から追い出していたおばさん。
「懐かしいとか思う?」
「いや、何か怖いと思う」
ふーん。変なの。
「お父さんは?」
お兄ちゃんは、何となく考えこんでいた。
佐伯君の話では、小さい時から、お父さんが岡野君を殴っていたみたいだった。怖いと思うなら、お母さんよりもお父さんの方だろう、と私は思う。
「いい人みたいだな。一度しか会ってないけど、岡野君のことを心配していた」
「怖かった?」
「いや、全然。何で?」
「別に」と私は言った。
じゃあ、これは、岡野君じゃないんだ。
ひどい父親。岡野君が寝たきりになったら、お母さんのところに戻ってきたらしい。
「どう心配していたの?」と私は聞いてみた。
「これで、お前も平和になったなあ、と言って、涙ぐんでいた」
「ふーん」ひどい話もあったもんだ。
「由紀子ちゃんは、岡野君のお父さんが嫌いなんだ」
「別に。それに、会ったことないもん」会いたくもないけど。
「オレは、また会いたいな」
私は、これは、岡野君だろうか、お兄ちゃんだろうか、という目で観察していた。
顔と声がお兄ちゃんなので、やっぱり、お兄ちゃんだという方に、軍配が上がる。
「それと……」とお兄ちゃんが言った。
「佐伯さんが、オレと結婚したいと言ってるんだけど……」
「何で?」と私は驚いた。
「オレといると、心が休まるらしい。つまり……オレが、前よりもバカだから。自分がいないと何もできない、というのがいいらしい」
「はあ?」
そんなことが、結婚の理由になる?
「佐伯さんは可愛いと思うけど、どこかお姉さんって感じがして」
お姉さんて、お兄ちゃんと同じ歳でしょうが。
「オレ、自分でも変だけど、由紀子ちゃんの方が可愛いと思うし。あ、変な意味じゃないよ」
その時、私の心の中で、何かがピーンと合った。
「お兄ちゃん、多分だけど、あんたは、岡野君よ」
「ほんと?」
「うん、多分、そう」
同じ台詞を、佐伯君から聞いたことがあった。
「佐伯の姉ちゃんは可愛いと思うけど、やっぱ年上だしなあ。そりゃあ、柏木の方が可愛いよ」と岡野君が言っていたという『今だから話せる』話。
いくら記憶を失ったからと言って、私がお兄ちゃんを別人みたいに思えるわけがないのだった。
多分、これは、岡野君だ。
ありゃあ。これが、岡野君なら、私の部屋に入れるのはまずいかも。
「何か、由紀子ちゃんが妹ってのが、いまいち、ピンとこなくて」
「岡野君の確率アップ」
「ほんと? けど、その場合、同じ家で、兄と妹やるっての、ラッキーかも」
「決定。あんたは、岡野君です」と言って、私は、お兄ちゃんを部屋から追い出した。
お兄ちゃんなら、絶対にそんなことを考えもしない。
「これからは、リビングで、お話しましょうか」とドアのところで言った。
「そうだね」とお兄ちゃんも言った。本気で言ってるのか?
「私は、佐伯君のお姉さんとの結婚には、断固、反対します」とも言った。
「何か、変に嬉しいんだけど、それって、妹として言ってくれてんの?」
「当たり前でしょうが!」と言って、私は、ドアを閉めた。
自分でも、息が荒くなっている。これは、お兄ちゃんではない、岡野君だ、と思った方が、精神衛生上いいことはわかった。
記憶をすべて失っているお兄ちゃんの精神衛生にもいいかもしれない。
それと同時に、私にもムラムラとした気分が生まれてしまった。
大好きなお兄ちゃん。
けど、どこが好き? と尋ねられたら、やはり、顔と声が好き、と言うかもしれない。
本当は、もっと複雑で、私の保護者だったお兄ちゃん、私を愛し慈しんでくれたお兄ちゃんが、ずっと大好きだった。
けれど、具体的にどこが好き? と尋ねられたら、やっぱり、顔と声。
中学生になって、顔が大人の顔になり、深い大人の声になったお兄ちゃん。
岡野君と佐伯君なんて、ほんの子供だった。
中身が岡野君だとしても、あの顔とあの声にはしびれる。
ああ、私って、最低の女。
そう思いながら、私は、寝る前に食べたらブタになると思いながら、レトルトのカレーを食べた。
フーン。今日は、寿司とピザだったんだ、と台所のゴミを点検している。
やっぱり、細かいことは考えないでおこうと思いながら、佐伯君のお姉さんが、うちで好きなものを宅配してもらっているのは、どこかムカツく。
しかも、言いなりになってるのが、私のお兄ちゃんだと思うと、無茶ムカツイたけど、中身は岡野君かと思ったら、ムカツきが減るから不思議だ。
気の弱い岡野君なら仕方がないと思えてしまう。
もう決めた。うちにいるのは、お兄ちゃんの身体を借りた岡野君だ。
どこか無理のある話だとは承知しているけれど、自分の精神安定のためには仕方がない。佐伯君も仲間に入れてしまおう、と心に決めた。
「ええ、嘘! じゃあ、これがお兄さん?」と案の定、佐伯君は驚いた。
翌日も、二人で病院に向かった。
「まだ決定的なことはわからないけど、多分」と私は、自分の考えを押しつけた。
「ええ! じゃあ、あの……柏木の家にいるのが、岡野?」
「そうなるかな」
「めっちゃ、危ないゾーンじゃないか」
「そうかなあ」
「そうだよ」
「けど、お互い、兄と妹だし」
「だから、危ないって。だって、オレ、姉貴の身体に柏木……」と言いかけて、佐伯君は、ハッと我に返った。
「……危ないゾーンだよ」
「そうかもね」と私は言った。
私は、目に涙が浮かびそうになっていた。
これが、私のお兄ちゃん、と思って、岡野君を見た。
その方が、自分の心にシックリくるのがわかった。
きっと、自分でも無理だったのだ。自分を見知らぬ他人のような目で見る人を、お兄ちゃんだと思うのは。
「けど」と佐伯君は、考え深い顔をした。
こういう顔は、私の知っていたお兄ちゃんの顔に似ていて、私は、今は佐伯君の中にお兄ちゃんがいるのでは、と考えが暴走しかけていた。
危ない、危ない。
「岡野に『脳死』判定が出て、岡野の両親が臓器移植に賛成したら、オレ達が何を言ったって、岡野は臓器を取られちゃうよ」
「それって、どういうこと?」と私は、たずねた。
「だって、『脳死』ってのは、その人が死んでるってことだから」
「だって、岡野君は生きてるじゃない」と私は、無邪気に言った。
「本を読んだだけだけど、自分で呼吸ができなくて、その他反応が何もないと、脳が死んでるってことになるんだ」
「だって、脳が死んでるって言ったって、岡野君は生きてるじゃない。お兄ちゃんが生きてたのと、同じじゃない」
「オレにもよくわからないけど、自分で呼吸できるかどうかが、大事なんだと思う」
「だって……」息してるじゃない。
「こういった人工的なものを全部外したら死んでしまうのを、『脳死』って言うんだと思うよ」
「そんな……」と言いながら、私は、岡野君の身体中を覆っている管を見た。
「だって、絶対、いつか目を開けるって。お兄ちゃんみたいに」
「そうだな」と佐伯君は、また、考え深い顔をした。
「オレも、そう思う。でも、医者とかは、そう思わないかもしれない」
「そんな……」と言っている時に、病院の若い先生が入ってきた。
岡野君のお母さんも一緒だ。
「ちょっと、席を外してくれるかな」と先生が言った。
「どうしてですか?」と私は、反射的に答えた。
「私と岡野君は、結婚の約束をしていました」
自分でも何でそんなことを言ったのかわからない。
先生とお母さんの身体が硬直して、佐伯君が、大きくのけぞるのが見えた。
「ハハハ」と先生が、あまりおかしくなさそうに笑った。
「じゃあ、結果はきちんと知らせるから、今は席を外してくれるかな」
私と佐伯君は、病室を出て行くしかなかった。
私達は、二人共、同じことを考えていたと思う。
先生とお母さんは、岡野君の『脳死』のことを話すのだ、という。
「どうしよう」と佐伯君が言った。
私達は、病院の喫煙室にいた。煙草を吸う人に混じって、すみの席に座っていた。
私も、どうしたらいいのかわからなかった。
「もし、岡野に意識があったら、さっきのことば、絶対喜んだよ」と佐伯君が言った。
お兄ちゃんが、変なことを言ったせいだ。
「お兄ちゃんが、変なことを言うから」と私は、声にして言った。
「え?」
「佐伯君のお姉さんが、お兄ちゃんと結婚したいって言ってるって」
「そうか」と佐伯君は、また、考え深い顔をした。
「変だな。全然、意外だという気がしない。柏木のお兄さんが意識不明になった頃、うちの姉貴も学校に行かず、家に閉じ籠もるようになった。うちの姉貴は、中学受験に成功して、柏木のお兄さんが失敗したというのは聞いていた。オレは、成功しても失敗しても、同じようなものなんだ、と思っただけだ」
「それで、何が意外じゃないの?」
「ああ、ごめん。姉貴が変わったんだよ、柏木のお兄さんの見舞いに行ってから」
「ふーん」
「何か、いきいきしている」
こっちは、いい迷惑なんだけど、と私は内心思った。
「風呂になんか滅多に入らずに、いつもパジャマで部屋に閉じ籠もってたのが、最近は、朝からシャワーして鼻唄なんか歌っている。よく出掛けてるし。外になんか深夜にコンビニに行く以外、どこにも行かなかったんだ。ここ何年間かずっと」
「ふーん」私は迷惑だけど。
「いいんじゃないかな、結婚も」と佐伯君は簡単に言った。
「けど、中身は岡野君かもしれない」
「あ、そうか。岡野が兄貴になるわけか」と動じていない。
「けど、柏木は、中身が岡野だったら、反対する?」と佐伯君は、ジッと私の顔を見ながら言った。
「岡野と結婚の約束してたって……本当?」
「そんなわけないでしょ。あんまり話したこともないのに」と私は言った。
「そうでも言っておかないと、岡野君の内臓を勝手に取られてしまうかもしれないでしょ。佐伯君が同じようになってたら、同じことを言うよ」
「そうか」と佐伯君は、表情を変えなかったけれど、内心嬉しそうだった。
「もう病室に行ってもいいよ」と若いお医者さんが言いに来た。お母さんは、もう帰ったみたいだった。
「勝手に『彼』の内臓を取ったりしたら、私が許しませんから」と私は言っておいた。
「はい、はい」と先生は、全然相手にしていないような感じで言った。
「絶対に許しませんから」と言って、私と佐伯君は、病室に戻った。
「柏木は、強いなあ」と佐伯君が言った。
「何が?」と私にはわからない。
「岡野、早く元気になれよ」と佐伯君は、岡野君に言った。
「本当よ」と私も言った。
この日は、途中で邪魔が入ったこともあって、いつもより病院から帰るのが遅くなってしまった。
「幽体離脱、何でできなくなってしまったんだろう」と私は言った。
「うーん」と佐伯君は考えこんでいた。
「『脳死』状態になったら、できないのかもしれない」
「お兄ちゃ……岡野君の記憶が戻ったら、またできるのかな」
私と佐伯君は、帰りのバスの中で、周囲で聞いていたら変に思われそうな会話を続けていた。
「記憶が戻らなくても、練習はできるかもしれない。オレ、また、何か本を探しておくよ」と佐伯君が言った。
「本よりも、何か岡野君の昔のことがわかるものがいいな」
二人共、同じことを考えているようだった。
「思い切って、行ってみますか、岡野の家に。臓器のこともあるし」と佐伯君。
「そうね。ハッキリと岡野君と結婚の約束をしていたことにしよう」
「けど、柏木、そんなこと言ってて、岡野が意識を取り戻した時、どうすんの。あいつ、喜んでしまうよ」
「その時は、その時考える」
岡野君の家には、佐伯君も私も行ったことはなかった。バスを降りてから、佐伯君の家の方角に向かった。
「何か、手土産買っていく?」と佐伯君は律儀だ。
「別にいいんじゃないの?」と私は、大雑把だ。
岡野君の家は、佐伯君の家の近くにある、五軒ぐらいが軒を並べている一軒だ。門とかもなく、すぐに玄関の扉がある。
『岡野』という汚れた木の表札が出ていた。
ドアの横についているベルを押すと、ブーという変な音がした。
「はい」と言って、髪の毛が少し灰色になった男の人が顔を出した。
佐伯君が一歩後ろに下がるのがわかった。
きっと、岡野君のお父さんだ。
「岡野君と同じクラスの柏木です」と私は言った。
「佐伯です」と佐伯君が言った。
「ああ、康の」と岡野君のお父さんは、目をショボショボさせた。
「うちのは今買い物に行ってるんだけど」と困った様子だ。
「ちょっとお願いがあって来たんですが、家に入ってもいいですか?」と私は言った。
「狭いとこだけど」と言って、おじさんは、私と佐伯君を、家の中に入れてくれた。
家に入ると、プーンとトイレの臭いがした。
一階には、台所とリビングみたいな部屋が一つずつ。
「二階に上がろうか」と言われて、二階に上がった。
二階には、部屋が二つ。
片方の部屋に、勉強机とビニール製の衣装ケースが置かれていた。
「ここが、康の部屋」とお父さんが言った。
「可哀相に、何であんなことになってしまったのか」
何となく、三人共、シンミリしてしまった。
「ボクの家に、よく泊まりに来てました」と佐伯君が言った。佐伯君としては、精一杯の抗議の気持ちだろう。
「うちにも何度か」と私も言った。
「私が不甲斐ないもんで、周囲の人にも迷惑をかけてしまった」とお父さんが言った。
岡野君は、寒い間も、家に帰れずに、フラフラと彷徨っていたのだ。
お兄ちゃんの身体に入って、ようやく休めたのだ。
私は、考えないようにしていたことを思い出してしまった。
私の母が、岡野君を殺そうとして、あんな状態になってしまったんだった。
下の階で何か物音がしていた。お母さんが帰ってきたらしい。
「今日は、お願いがあって来たんです」と私は言った。
「岡野君の臓器を取り出したりしないでください」
「ああ……そのことね。あの若い方の先生が熱心に言ってくれて。息子の身体がお役に立つなら、と思ったんだけどね。心配しなくても、ずっと先の話だそうだよ。まだ子供だからね、康は。病院の若い先生は、すぐにも手配したいようだったけど、子供の場合は、『脳死』状態とは言っても、もう少し様子を見ないといけないそうだよ」
「え、本当ですか?」と私は、かなり安心した。
「母親の方は、入院費を心配しているみたいだけど。ああ、柏木さんというと、あの柏木さん? うちの康の費用を出してくれている」
お父さんは、誰にともなく、頭を下げた。
私も、慌てて、頭を下げた。
「お兄さんには、一度お会いしたけど、初めてなのに、何となく、今まで知ってた人みたいな感じがしたな」
これでまた、お兄ちゃん=岡野君の確率アップ、と私は思った。
「病室の岡野君に聞かせてあげたいので、岡野君のアルバムとか日記みたいなものはないんですか?」と私はたずねた。
「アルバムねえ……写真なんか滅多に撮らなかったから」と言いながら、お父さんは、岡野君の机の周りを見回していた。
「こんなもんしかない」と言って出してきたのは、私も持っている小学校の修学旅行の時の集合写真とか、体育祭や遠足の時の写真が入った箱だった。
「アイツは、日記なんかつけてなかったみたいだし。ノートだって、全部真っ白だよ。遊びに連れて行ってやったこともなかったしね。いい思い出なんて、何もないのかもしれない」
トントントンと階段を登ってくる足音がして、岡野君のお母さんが顔を出して、ビックリしたような表情をしていた。
「お邪魔しています」と私と佐伯君は、同時に言った。
「ああ、どうも」とお母さんは、口の中でモゴモゴ言いながら、頭をペコペコさせていた。
「康の学校の友達だよ」とお父さんが言った。
「康が世話になっていた」
「ああ、そう」とお母さんは、あんまり関心がないようだった。
「ごはん、できたけど」
「ああ、あんた達も一緒に食べて行ったらどうだ?」とお父さんが言った。
「いえ、家で用意をしてますから」と佐伯君が慌てて言った。
「それは、そうだな」とお父さんが笑った。
「どうも、お邪魔しました」と佐伯君が言った。
私は、写真の入った箱を手に持った。
「これ、お借りしていっていいですか?」
「いいよ。そうだ。お母さん、康は日記なんかつけてなかったよね」とお父さんが言った。
「日記? 日記なんかつけてなかった」とお母さんが、おうむ返しのように言った。
フウ、フウ、とお母さんの息の音が聞こえている。
「学校の宿題の日記だって、つけてなかった」
突然、バンという音がして、私と佐伯君は、ビクッとした。