幽体散歩4
ウトウトしていると、バタバタという春江の足音で目を覚ました。
条件反射的に、身体から抜け出した。
珍しく掃除機をかけている。ああ、医者の来る日か、と気がついた。
「まーた、死んでる」と言いながら、ゴロンゴロンとオレを転がしながら、丁寧に身体を拭いている。爪を切って、髪までとかしている。
それが終わると、自分の着替えと化粧をする気だ。
医者の来る前だけは、春江は働き者に変身する。
「お兄ちゃん」と言って、妹が花を持って入って来た。
「もう忙しいんだから、さっさと出て行って」と春江が言う。
妹は、枯れた花を捨てて、新しい花を生ける。
「春江さん、お兄ちゃんは、あなたに世話して欲しくないって言ってる」と妹が言った。
「まったく、何をバカなことを言って。私が世話しないと、誰が世話するの」
「私がします」と言う声の方を見ると、佐伯萌が立っていた。
当然、オレは、ギョッとした。部屋は余ってるけど、まさか、お前まで泊まったんではないだろうな……
「へッ」と春江は、バカにしたような声を出した。
「どこのお嬢さんだか知らないけど、病人の世話なんて、子供にできることじゃないよ。身体を拭いたり、おしっこやウンチの世話が、あんたにできるもんかい」
オレは、人知れず、赤面した。確かに、佐伯萌には無理だ。
それに……オレだって困る。
「教えていただければ、やってみます。私、ずっとそばについていたいんです」
やっぱり、春江倍増計画か……
「何考えてんだか知らないけど、給料なんかは出ないからね」
「そんなつもりはありません」
「ふーん」と春江は、何やら思案しているようだった。もしかすると、自分の手下ができたとでも思ったのかもしれない。
「そばにいたいんだったら、色々やってもらうことになるよ」とずるそうな顔をしている。自分が楽できるのなら、何でもやる人間だ。
「奥さんには、私からうまく言っておいてやる」と旧春江。
「よろしくお願いします」と新春江こと佐伯萌。
オレの肉体が、旧春江から新春江に移される瞬間だ。
岡野と佐伯弟も部屋に入ってきて、その瞬間、岡野がバタッと倒れた。
『身体、使えよ』と岡野が言った。
ありがたく、そうさせてもらうことにした。
岡野は、寝不足なのか、オレの身体に入ったとたん、寝てしまったようだ。
実は、オレだって、寝不足なんだが……
「岡野、大丈夫か?」と起き上がったオレに、佐伯弟が言った。
「お兄ちゃん?」と妹は、早速、気がついた。
「え? お兄さん? 入れ替わったんですか?」と佐伯弟は、ことば使いを改める。
「もう、あんた達、用がないなら、出て行って」と春江が言う。
「お前が出て行け」とオレは言った。
「ま、何て子だ。他人の家に勝手に上がりこんでおいて」と春江が大袈裟に驚いて見せた。
「春江さん、今は、この人、お兄ちゃんなの」と妹が言った。
「柏木君?」と佐伯萌が、不思議そうな、キラキラ輝く瞳でオレを見た。
「久し振り」とオレはかろうじて言った。やっぱり、可愛い、佐伯萌。
「え? 本当に柏木君?」
だめだ。ミニ春江だと思っているくせに、心臓が勝手にドキドキする。
「ああ、もう、あんた達全員、頭が変なんだよ」と春江。
その時、ピンポーンとドアチャイムが鳴り、ああ、ああ、とうなりながら、春江は玄関まで走って行った。医者が来たに違いない。
オレの頭は高速回転していた。医者には、どう話す? 何を? どこまで?
「いや、引退する前に、透君に会いたくてね」という老先生の声がしていた。
「若先生は? 若先生は?」と春江がうるさく言っている。
「次からは、ずっと、息子が寄せてもらいますよ。おや。今日は、随分賑やかですね」
「もう、関係ない人は、部屋から出て」と春江がヒステリックな声を上げた。
「院長先生、お久し振りです」とオレは言った。
「はて、どなたでしたか?」
「先生、兄です」と妹が嬉しそうに報告する。
「お兄さんです」と佐伯弟も言う。
「はて?」と老先生は、困惑を隠せないようだ。
「もう、先生、みんな、頭が変になってしまったんですよ」と春江も訴えモードに入っている。
「先生、二人きりで、お話できませんか?」とオレは言い、老医師は、チラッと腕時計を見た。
「五分ですみます」
「それぐらいなら、いいでしょう」と先生は言った。
部屋の中には、岡野が入っているオレの肉体は別として、老先生とオレだけになった。
「不思議な話なんですが、今は、この肉体を借りて、話ができます」
「ほう」と先生。
「意識はずっとあったんですが、それを伝えることが今までできなかったのです。三ヵ月ほど前に、俗に言う幽体離脱という状態になって、同じように、幽体離脱できる、この岡野という少年の身体を借りるようになったのです」
「ほう。すると、意識は、透君というわけですか」
「はい。信じられないかもしれませんが」
「通常、意識が戻れば、何らかの肉体的な反応があるはずですが」
「それが、できないのです」
「意識と肉体とが途切れている状態ですか」
「そうだと思います」
「ふーむ」と老先生は、しばらく思案していた。
「透君の状態は、医学的には説明のつかないものなんですよ。肉体的な損傷はない。脳波にも何らの異常がない。呼吸も自発的にできる。ただ一つ考えられるのは、精神的な外傷だ。心が身体から引き籠もってしまったみたいな状態なんでしょう」
「中学校入学前後の記憶がないんです」
「ああ、透君のお父さんが亡くなった頃ですね」
「父が亡くなった? いつ?」
「確か、透君が中学に入学する年の冬ですよ」
「何で亡くなったんです?」
「透君の方がよく知っているはずだが。救急車で大きな病院に運ばれたので、私は、直接は知らないんですが、何でも、酔って階段から落ちたということだった、と記憶しています」
「全然覚えがありません」
「それはそうでしょう」と老先生は笑った。
「三ヵ月前から、自分を透君だと思うようになったのなら、そんな昔のことは覚えているはずがない。では、私は、透君の面倒をみさせてもらいますよ」
そう言うと、老先生は、点滴の針を差し替え始めた。
そうか。頭のおかしい少年だと思われてしまったか、とオレは思った。
「おや」と老先生の声が変わった。
見ると、いつ起きたのか、岡野が幽体離脱していた。
『言ってやれよ、これが幽体離脱だって』
「それが、幽体離脱した時の身体の状態です」とオレは言った。
「今、また、身体に戻ります」
岡野は、面倒がらずに、何度も、オレの身体から出たり入ったりした。
「これは、驚いた。呼吸も脈拍も、超微弱で、ほとんど止まっているのと同じだ」と老先生は言ったが、本当に驚いただけで、オレの話を真剣に受け止めているわけではないようだった。
まあ、それが、フツーの人間の反応だろう。
『タッチ』と岡野が言った。
オレは反射的に岡野の肉体から離れ、身体が倒れてしまう前に、岡野は器用に、自分の身体に戻った。
「爺さん」と岡野は言った。
「さっきのは、本当に、この家のお兄さんだよ。さっき、お兄さんの身体を出入りしていたのが、オレ」
『岡野、もういいよ』とオレは言った。
ますます、頭の変なヤツ、と思われるのがオチだ。
「ああ、透君だったのか」と老先生は、オレの肉体の方を見た。
「ハッハッハ、いや、驚いた。この年になるまで、こんなことは初めてだ」
「え? 爺さん、幽体が見えるのか」と岡野。
「見えはせんけど、何となくわかる」
オレと岡野は、多分、同じことを考えていた。この先生、先が短いんじゃないか……と。
「それに、今君が現れた時、確かに、さっき話したのは、透君だと思った。多重人格障害のケースも考えられるが」
岡野がバッタリと倒れ、『タッチ』と幽体が言った。
『岡野、もうちょっと穏やかに身体から抜け出せよ』とオレは言った。
オレは、岡野の身体に入って、起き上がった。
「透君か……」と老先生が言った。
「全然、雰囲気が違う。君の方が大人で賢そうだ」
幽体の岡野が、老先生に蹴りを入れるのが見えた。
オレは、しばらく、老先生に、幽体の時に腹筋や腕立てをすると、元の肉体に戻った時に、筋肉に変化することとか、最初五分ぐらいだった離脱時間が徐々に延びていったことなんかを話した。
それから、専門知識のある看護人を派遣して欲しいことを言った。
「ちょっと冒険だが、徐々に流動食に切り換えてみようか」と老先生は言った。
「お母さんとも相談するが、しばらく入院した方がいいかもしれない。お母さんがどうしても家で世話をしたい、というので、家にいるわけだが、君の場合なんかは、もっと散歩に出たり、外の空気に触れたりして、色々な刺激があった方がいい。実際、いつ意識が戻ってもおかしくない状態なんだから」
「それは、助かります」とオレは言った。W春江から解放されるのは、本当に助かる。
「ここは、あんまりいい環境じゃなかったしね」と老先生は、何でも知っているかのように言った。
「ええ、まあ」と言って、オレは、赤面した。春江にされていたことを思い出したからだ。
「君や由紀子ちゃんは、生まれた時から知っている。君が元気にならなければ、由紀子ちゃんが可哀相だ」
「はい」
「これは、引退なんて言ってられなくなったな。早速、病室の確保をしておくよ。お母さんには、病院の方に来てもらうよう、伝言を残しておく」
老先生の帰った後、オレは岡野の身体に入ったまま、ボンヤリしていた。
『よかったな、信じてもらえて』と岡野がそばに来て言った。
オレは幽体の岡野の手を握ろうとしたが、空を切っただけだった。仕方無く、オレは、自分の肉体の手を握った。
『何やってんだ』と岡野が言った。
「ありがとう」とオレは言った。無茶苦茶、照れくさい。
『何もしてねえよ』と岡野も照れたのか、怒ったように言った。
バカ岡野なんて思ってゴメン、とオレは心の中で謝った。
『タッチ』と言って、自分の身体に戻ると、岡野は、どこかに出掛けて行った。
老先生が帰った後、春江が妙にションボリしていた。
「あんた、入院しちまうんだって。けど、お母さんが許さないよ」と言いながら、ションボリしている。
「あんたとも、長い付き合いだったね」
ここまでションボリされると、春江はどこかで、オレのために尽くしてくれていたんじゃないか、とさえ思えてくるから不思議だ。
「さっさと死んじまえばよかったのにねえ」と溜め息をついた。
前言撤回。やはり、春江は、イヤなヤツだ。
「時々死んでるんだから、あのままくたばればいいのに」
オレは、深い虚無感に教われた。
佐伯萌といい、春江といい、オレの死ぬことを願っている。
オレは、今まで、それほど悪いことをした覚えもないのに。
そうなれば、母親も、オレの死を願っているのかもしれない。
多分、自分の知らない前世かなんかで、オレは、大勢の女を苦しめ続けた極悪人だったんだろう。
しかし、疲れた。自分の身体に戻って、オレは、グッスリと寝た。
時折、「お兄ちゃん」という妹の声や、佐伯や岡野の声がした。
春江のドタドタいう足音も聞こえている。
オレの手を握っているのは、佐伯萌だろう。
けれど、そういうことは、この眠気の前ではどうでもいい。
「いいじゃないですか。もう死んでるのと同じなんだから」という春江の声で、目が覚めた。
「けど、入院したら、意識が戻るかもしれないって、先生が言ってたよ」
え? とオレは、思った。これは、母親の声だ。何で、母親が、オレの部屋にいる?
「戻りゃしませんよ。今だって、時々、呼吸と心臓が止まってるんだから。もうじき、くたばりますよ」
聞いているだけで、呼吸と心臓が止まりそうだ。
オレは、外の空気でも吸おうと思って、身体から離れた。
時計は、三時をさしている。外は暗いから、夜中の三時だろう。
いつもなら、母親も春江も寝ている時間だ。
「ほら、息をしてない」と春江が、得意そうに言った。
母親も、オレの肉体に近づいて、口の上に手を当てた。
「ほら、心臓だって、止まってる」と春江は、ますます得意そうだ。
「本当だ」と母親も、心臓に手を当てて言った。
「私が言っても信じなかったけど、自分で見たら信じるでしょうが」
「普通、呼吸と心臓が止まったら、死んでるんだよね」と母親は半信半疑だ。
「けど、じきに、生き返るんですよ」と春江は、残念そうに溜め息をついた。
「明後日には、病室が空くらしい」と母親が言った。
「明後日ですか」と春江が言った。
母親は、オレの身体の喉元に、指を置いた。
「ここをしばらく押さえていれば、跡も残らずに死ぬらしい。ほら、この両脇、こことここだ」と春江の手を持って、実地指導している。
オレは、幽体のまま、ゾッとして、その場に硬直していた。
やはり、これは、前世の因縁だろう、と頭は勝手に現実逃避をしている。
「あんたは、戸籍上、透の妻なんだから、この子の遺産は、全部あんたのものだよ」
オレは、ショックの上にも、ショックを感じていた。
春江が、戸籍上の妻……まさか。心も頭も麻痺状態だ。
「この子は、大金持ちだよ。何しろ、父親にも、その両親にも可愛がられていたからね」
春江の喉が、ゴクリと上下するのが見えた。
「明後日までに、何とかしないとね」と言うと、母親は、部屋から出て行った。
自分の耳が信じられない。何ていう、親だ。
母親の愛情なんか期待していないはずだったが、やはり、心のどこかでは、母親がオレを愛している可能性を期待していたみたいだった。
春江は、ジッと、オレの肉体を見ている。
「このまま死んでくれれば……」と春江が、つぶやいている。
オレは、幽体のまま、緊迫して立っている。
今、身体に戻るのは、危ない。
しかし、このまま、一時間以上、身体の外に出ているのも危ない。
春江が、オレの喉に手をかけた。教えてもらったところを、押しているようだ。
そんなこと、幽体離脱している時にしても無駄だ、と思っていたが、しばらくすると、フウッと気が遠くなりそうになってきた。
「まだ、一日ある」と春江は言って、手を放した。
オレは、幽体のまま、ガックリと膝をついた。
身体が震えている。
もう少しで、本当に殺されてしまうところだった。
そうか。肉体が死ねば、幽体も死ぬのか。
春江が部屋から出て行った後、オレは、四つんばいになって、自分の肉体に戻った。
肉体に戻ると、首の両脇がズキズキと脈うっていた。苦しい……
自分の母親に殺されようとしているオレなんか、死んだ方がマシかもしれない。しかし、実際に殺されかけてみると、呆気なく死ぬのは、悔しい気がした。
明日か。
岡野と入れ替わったまま、岡野が入ったオレの肉体が殺されて、オレは仕方無く、岡野として生きる、という悪魔のようなことも考えたが、オレの肉体が死ねば、オレの幽体も死ぬ。
結局、岡野の幽体が、岡野の身体に戻って幕だ。
警察に訴える、ということも考えたが、一体、誰がどうやって? と思うと道は険しい。
それに、動機は?
春江の場合は、戸籍上の夫の財産目当てだ。
しかし、母親の動機は?
単に、息子が嫌いだから、というのは、動機として弱い。
その時、岡野の顔が脳裏に浮かんだ。
息子をわけもなく虐待する母親がいるんだから、その線もありか。
母性愛なんていうことばは、単なる幻想だったのか。
その日、ウトウトしているオレの前に、顔のない男が現れた。
多分、父親なんだろう。夢だということは、よくわかっていた。
「男は、顔じゃない。力だ」と男は言った。
全身から発散するような声だ。顔のない男が言うと、変に説得力がある。
「お父さん、オレは、お母さんに殺される」とオレは訴えた。
「何!」と男は言うと、どこからか、若い時の母親を引っ張ってきた。
「こいつにか」
母親は、岡野のお袋みたいに、親父にペコペコしている。
「正拳突き」と言って、男は、一撃でお母さんを倒した。
それだけではない。まるで、サンドバッグでも殴るように、お母さんを殴っている。
そ、そんな、女の人を殴るなんて……とオレは、狼狽している。
「どうだ」と言って、オレの方を振り返った男には、今度は、顔がついていた。
それは……今のオレの顔だった……
『わああ』と言って、幽体のオレは立ち上がった。たとえ夢だとしても、信じられない夢だ。
『うなされてたけど、どうしたの』という声がした。
『岡野』
幽体の岡野だった。
会いたかった。誰でもいいから、会いたかった。オレを殺そうとしない人間に。
『今日、身体いる?』
『いる』とオレは答えた。
下手したら、明日という日はないかもしれない。使えるものは、何でも使う。
『佐伯と柏木は、学校に行くつもりだけど。引き止める?』
『引き止めてくれ』
『へえ』と岡野が驚いている。
『今日、オレは殺される』
『そう』と岡野は、全然驚かない。
『頼むから、少しは驚いてくれよ』とオレは、懇願した。
『オレ、幽体でこの家を探検した時、何度かそういう話を聞いた』
『そういう話って?』
『あんたを殺す相談』
『誰が?』
『あんたのお袋と春江とかいう女』
何てことだ。岡野の方が、オレより事情を知っている。
『何で言ってくれない』
『自分のことだから、知ってるかと思ってたよ』
『昨日、初めて知った』
『気にすんな。オレも、何度か、お袋に殺されそうになったから』
『……』
そう言われると、返すことばがない。経験豊富な大先輩だ。
『けど、あんたの場合、逃げられねえからな』
その通りだ。
『まさか、何で、自分が殺されるか、知らないってことはないよな』
何だって? オレが殺される理由まで、岡野が知っているわけか……
何となく、ムカツく。
何も知らないオレだけ、バカみたいじゃないか。
『知ってるよ。オレが、大金持ちだからだ』と言ってみた。
『へえ』とバカにした返事だ。
『とにかく、身体、持ってくるよ』と岡野は言った。
『オレ、眠いし』
大体、コイツは、何で、いつも眠いんだ。夜明け近くまで殺されかけていて、朝早くに起こされるオレの方が、よっぽど眠い。
『恩着せるつもりはないけど』と岡野が言った。
『オレ、あいつらを見張ってんだぜ、あんたが寝てる時』
ガーン。
すまん、知らなかった、岡野。オレの身体で、ぐっすり休んでくれ。
まさか殺されかけているとは知らず、オレは平和に休んでいた。
「ほら」と言って、もう一度肉体でやってきた岡野はバッタリと倒れ、幽体の方は、さっさと、オレの身体に入ってしまった。
『何で、自分の身体を、もっと大事にしない』とオレは、持って行き場のない怒りを、岡野にぶつけた。
『あんたの身体の方が、居心地いいんだよ』と岡野は言った。
オレは、岡野の身体を、お借りした。
『何か、別人になった気がするから』
別人じゃないか、とオレは、心の中で突っ込んでいた。
『佐伯と柏木には、あの病院の先生を呼びに行ってもらった。母親に殺されるって、先生に言っといた方がいいよ。オレが言ってやってもいいけど。けどさ、この身体に入ってる時に殺されたら、一体、誰が死ぬのかな』と岡野も、オレと同じことを考えているようだ。
「オレだよ」とオレは言った。「どう転んでも、死ぬのは、オレだ」
『じゃあ、間違って、オレが死んだ時は、その身体、大事にしてよ』
「うん」とオレは言った。
佐伯に頭が上がらなくなったのと同様、段々と、岡野にも、頭が上がらなくなっていく。
「大事にするよ」
『じゃあ、安心して、寝る』そう言うと、岡野は眠ったみたいだった。
一体、どうすればいいんだろう。
とりあえず、佐伯と妹の後を追うことにして部屋を出ようとすると、春江がドタドタと入ってきて、その後に、お袋まで着いてきた。
心の準備をする暇もない。
「ちょっと、勝手に、病人の部屋に入らないで」と春江が言った。
そうだった。今のオレは、岡野の身体を、お借りしている身だった。
「誰?」とお袋が聞いている。
「由紀子ちゃんの友達らしいんですが、ちょっと頭がおかしいんです」と春江が説明している。
まさか、今殺す気じゃないだろうな、と思ったら、恐怖のせいか、その場から足が動かなくなった。
「そんな子を、部屋に入れたら、ダメじゃないの」とお袋が春江に注意している。
「何度言っても、入ってきてしまうんですよ。自分が、透さんだ、みたいなことを言って」
お袋が、オレの顔を、馬鹿にしたように見た。
「へえ、あなた、透なの?」と冷やかに笑いながら、言った。
「はい」とオレは、答えた。金縛りに会ったような状態だ。
「じゃあ、アレは、誰?」とオレの肉体を指差した。
「オレの身体」
フン、とお袋は、鼻で笑った。そして、ジッと、オレの身体を見つめていた。
「春江さん、後、お願いね」とお袋が言った。
「はい、でも……」と春江は、ためらっている様子だ。
「オレを殺したら、あんた達、すぐ警察に捕まるよ」とオレは、反射的に言った。
「な、何を……」と春江は、明らかに動揺している。
「春江さん、落ち着きなさい」とお袋が言い、春江は少し立ち直った。
「オレが死んで、あんたが遺産を相続したら、警察は一番先に、あんたを疑うよ」とオレは、動揺している春江にゆさぶりをかけた。
「立ち聞きするなんて、育ちが知れるわね」とお袋が言った。
「けど、頭のおかしい子供の言うことなんて、誰も信じない。安心して治療が受けられるように、お医者さんと相談して、ちゃんと入院させてあげるわ」
その時、オレは、ショックを受けて、ことばを失った。
『頭のおかしい子供の言うことなんて、誰も信じない』という台詞は、どこかで聞いたことがあった。
「お父さんが死んだ時」とオレは、勝手に話していた。
「お母さんは、同じことを言ったね。『頭のおかしい子供の言うことなんて、誰も信じない』って」
「ワアアア」と春江がパニック状態になった。
「神様、神様」と口走っている。
「あの時も、春江は、パニック状態になった」とオレは、まだ勝手に話している。テープレコーダーで再生しているような状態だ。
母親が、オレに近づいてきていた。オレは、金縛りに会ったように、身動きできない。
「ずっと寝ていればよかったのに」と母親が言った。
母親の冷たい指が、喉を押さえた。痛くも苦しくもない。
「ウオー」という声が、遠くで聞こえていた。
徐々に、意識が薄れていく。
岡野、許してくれ、とオレは思った。
やられたのは、お前の身体の方だった……
「本当に、危ないところだった」という声が聞こえている。この声は、院長先生の声だ。
周囲でガチャガチャという音がしている。消毒液の匂いもする。
「先生のお蔭で、助かりました」というのは、え? オレの声だ。
「しかし、怪我の功名というか、殺されかけたショックで、意識が戻るとは。しかし、君にとっては、辛いことだったね」
「はあ……でも、何も覚えていないんですよ」
「ああ、ショックが強すぎたのかもしれないね」
「彼は、どうなんですか」
「ああ、岡野君と言ったかな。彼には、気の毒なことだった。自分を、君だと思っていたようだったが。それとも、本当に、あの時は、君だったのか、今となってはわからないがね」
「そうなんですか……」
「脳にいく酸素がかなりの時間、失われてしまった。一命だけは取り止めたが、機械の助けを借りないと、自分で呼吸もできない状態だ。おそらく、一生、このままだろう」
「可哀相に……ボクは、できる限りのことをするつもりです」
「君の知らないことなんだから、そこまで、責任を感じることもないが、まあ、できることはやってあげればいい」
「はい」
「じゃ、私は、仕事に戻るけど、看護師を呼ぶかね」
「いえ、ボクは、もうしばらく、ここにいます」
「そうか。あんまり、考えこまないようにね」
「はい。ありがとうございました」
オレは、老先生とオレ(?)のやりとりを聞いて、混乱していた。
では、ここにいるオレ、身動きのできないオレは、一体、誰なんだろうか。
「柏木君、ここにいたの?」という佐伯萌の声がした。「退院が決まったそうね。おめでとう」
「ああ、毎日来てくれて、ありがとう」
「でも、記憶が戻らないって、本当?」
「うん。自分が、誰だったのか、まだよく思い出せない」
「私が、ゆっくり教えてあげる」
「うん、頼むよ」
「車椅子、押してもいい?」
「ああ、ありがとう」
ギーっという、多分車椅子の音を立てて、二人は遠ざかって行ったようだった。
何がどうなっているのか、まだよくわからない。
命が助かったことを喜ぶべきか、悲しむべきか。
その上、意識が戻ったことを喜ぶべきか、悲しむべきか。
また、いつか、以前のように、幽体として動くことができるんだろうか。
それとも、永遠に、このままなんだろうか。
せめて、柏木透という、自分の肉体だけでも、生き動いていることを、喜ぶべきなんだろうか。
「岡野君」という妹の声がした。病室に、プーンと花の香りが広がっていく。
また、あの日常が繰り返されるのだろうか。毎日、妹が花を持ってくる。
「岡野」と言っているのは、佐伯弟だ。最後まで、コイツの名前を知らなかった。
「オレ達、毎日来るからな。何で、お前がこんな目に……」
「岡野君が、お兄ちゃんを助けてくれたのよ」
「オレ達を、お医者さんのところに行かせて。ああ、もうちょっと先生が早く動いてくれてたらなあ」
「そんなこと、誰にもわからないもの。私、今だって、信じられない。お母さんと春江さんが、岡野君とお兄ちゃんを殺そうとしたなんて」
「でも、そのお蔭で、お兄さんの意識が戻って、動けるようになったんだからなあ」
「そうね。怒ったらいいのか、悲しんだらいいのか、喜んだらいいのか、全然わからないわ」
「オレ、変なこと言うみたいだけど、岡野が幽体離脱のこと、言ってただろ? もしかしたら、今、この岡野の身体に入っているのがお兄さんで、お兄さんの身体に入ってるのが、岡野かもしれない、と考えたりするんだ」
「私も、時々、同じようなことを考える。私、小さい時から、お兄ちゃんのお嫁さんになりたいって、思ってたから。もし、お兄ちゃんの身体の中身が岡野君だったら、結婚してもいいのかな、なんて」
「ダメだよ、柏木。それって、近親相姦だよ」
「やっぱり、ダメかあ」
「絶対ダメだよ」
岡野は、演技のできるキャラじゃないから、多分、本当に、今までの記憶がなくなってしまっているのだろう。
貧しくて、母親に虐待されていた岡野が、オレの肉体を持って、大金持ちに生まれ替わる。
それもいいかもしれない。
オレは、しみじみと、自分というのは、一体何なんだろう、と考えている。
まあ、肉体は、岡野になってしまったけれど、始まりに戻っただけだとも言える。
妹には、動くことのできる兄ができ、佐伯萌には、目標ができた。
脳は、オレのものなんだから、岡野次第で、いくらでも学習することができるだろう。
また、学習できなくても、仕事ができなくても、一生遊んで暮らせるだけの金はある。
岡野の身体に順応していくせいか、段々と、寝て暮らすことが、極楽のように思えてくるから不思議だ。
オレの代わりに、岡野がオレの人生を引き受けてくれる。オレは、無責任に寝て暮らしていればいい。命のつきるまで……
こんな時になって、オレに、過去の記憶が蘇ってきた。
小学校六年生の冬、オレは、寝惚けながらトイレに行った。
ワアアア、という叫び声とドタドタドタッという物音を聞いた。
「どう?」という母親の声。
「し、死んでます」という春江の声。
「ああ、これで、殴られなくてすむ」と母親のホッとしたような声。
「お母さん、どうしたの?」とオレはたずねた。足が、ガクガク震えている。
「寝惚けているのね、透。早く、お休みなさい」
オレは、催眠術にかかったかのように、自分のベッドに入って、また寝てしまった。
救急車のサイレンの音や、何人かの人が出入りしている音が、遠くで聞こえていた。
翌朝、オレの枕元で、母親が言った。
「透君、お父さんは、今朝早く、仕事で外国に行ったのよ。淋しいだろうけど、お母さんとがんばりましょうね」
「うん」とオレは答えた。まるで、催眠術にでもかかったような感じだ。
その頃から、オレは奇妙な不安に襲われるようになった。
時々、記憶が途切れることがある。
そんなことで、受験も失敗した。
地元の中学に通ってからも、不安感は去らず、記憶の障害が著しくなった。
過去の蓄積のお蔭で、まだ優等生だったが、ある時、学校で、自分の父親が死んだと聞かされた時に、一時的に、錯乱状態になった。
自宅療養をしている時に、ふと、「お母さんがお父さんを殺したの?」と母親にたずねた。例の自分でもどうしようもない、テープレコーダーのような状態だ。
「どうして?」と母親は、冷やかな声で言った。
「学校のみんなが、お父さんは、階段から落ちて死んだ、と言っている」
「お父さんは、外国に行ってるのよ」
「嘘だ。お母さんがお父さんを殺したんだ。ボク、見てたもん」
どうして、そんなことを言ったのだろう。実際には、何も見ていなかったのに。
その時のことだった。
「頭のおかしい子供の言うことなんて、誰も信じないわよ」と母が言ったのが。
春江は、パニック状態になって、大騒ぎした。
「見てたんだ、この子は見てたんだ」
「お黙り」と母親が言った。
「ずっと寝ていればよかったのに」
母親の指が喉に触れた瞬間、オレは、ずっと望んでいたかのように、意識を失った。
「お兄ちゃん」という妹の声が、遠くで聞こえていた。
多分、それで、オレは命を救われたわけだろう。
その後は、ずっと寝たきりの生活だったのだ。今と同じだ。
「岡野君」と柏木透が病室に現れた。
佐伯と柏木由紀子は、毎日やってくるが、透の方は、滅多に来ない。
同じように滅多に来ない、岡野の母親が来ている時だった。
「柏木の坊ちゃん、お世話になりっぱなしで……」と岡野の母親は、柏木透に、ペコペコと頭を下げている。
「康に、お父さんが帰ってきたことを知らせていたとこだったんですよ」
岡野の父親は、単身で借りていたアパートを引き払って、妻の元に戻ってきたらしかった。
「そうですか。それは、よかったですね」と柏木透が答えている。
本当に、記憶がなくなっているようだ。それと同時に、態度も雰囲気も、オレそのものになってしまっているように見える。
「坊ちゃんのお蔭で、康もこんないい部屋に入れていただいて」
「とんでもないです」
「じゃ、私は、これで」と岡野の母親は帰って行った。
「よかったな、岡野」と柏木透が言った。
彼は、しばらくの間、病室の中をフラフラと歩いていた。
「オレの母親が、父親殺しだなんて……」
そうか、とうとう自供したか、とオレは思った。
「岡野、オレは、これからどうすればいい。由紀子に何て言えばいい。何てことだ。ようやく意識が戻ってみれば、地獄のような人生だ」
柏木のお兄さん、本当に大変だけど、がんばってね、とオレは思い、ゆっくりと惰眠を貪っていた。
何となく、オレが誰かなんて、どうでもいいことに思えていた。
了