幽体散歩3
翌日と残り二日のテスト期間中、オレは、佐伯弟の家庭教師役に徹した。
空になりかけていた冷凍庫やレトルト食品は、佐伯弟の父親の休みの日に見事に補充されていた。
佐伯萌、小学校の時にオレが好きだった女の子は、いつの間にか、友人の佐伯の単なる姉貴になってしまっていた。ま、気になる姉貴ではあるけど。
試験の最終日に、数学の答案が返ってきた。
「岡野、百点」と担任が、みんなの前で言った。しまった、数学は答えを消さなかった。
ウオオオッと、教室中がどよめいた。
「カンニング」「カンニング」というささやき声がする。
「満点は、岡野だけだ」と担任が言うと、ささやき声は止んだ。
「よくがんばったな」とオレが中学の時には見覚えのなかった担任が言った。
オレが中学の時? 私立中学の受験に失敗して、オレは、ここに通っていた?
そうなんだろうか。それで、気が狂った? それは、本当なんだろうか。
「岡野」と帰りかけながら、佐伯弟が、オレの背中をドンと叩いた。
「頭打って、よかったなあ」
「うん……」とオレは、あいまいに答えた。
どうにも、この男には、頭が下がるばかりだ。
オレは、自分よりもいい点を取ったヤツは、どこかで死んでしまえ、と思うほど、憎んだ覚えがあるからだ。そして、それを、ごく当たり前のことだと思っていた。
「岡野君、ちょっと」と妹の由紀子が、そばに来た。
「何?」とオレは、佐伯弟に、かなり気を使った。
「ちょっと来て」と妹は強引だ。
オレは、由紀子に引っ張られるようにして、校舎の裏に行った。
オレは困惑していたが、由紀子は、ジッと地面を見たままだ。
「オレ、この間、頭を打って……」と佐伯弟にしたのと同じ言い訳をしようとした。
「私のこと、頭が変だと思うかもしれないけど……」と由紀子が言った。
オレは、内心、ドギマギした。オレ自身がドギマギしているのか、岡野の身体がドギマギしているのか、当事者のオレにもわからない。
「岡野君、夢でお兄ちゃんに、テストの答えを教えてもらったって言ったよね」
「う、うん」とオレは答えた。半分嘘だが、言った覚えはある。
「その答え……当たってたのよね、全部。だから、百点だった」
「う、うん」
「それで、髪の毛も黒くした。金髪なんて、とんでもない、と思うのよね」
「う、うん」
「じゃあ、私のこれは何?」と由紀子は、自分の額の毛を掻き分けた。
由紀子の額には、小さい時、オレが由紀子を連れていて、転ばせてしまった時の傷があった。その傷は、お袋も知らなければ親父も知らない。その時流れた夥しい血の量は、オレだけが知っている。
オレは、親父やお袋に叱られるのが怖くて、自分で由紀子の傷の手当てをした。
オレの胸に、長い間忘れていた罪悪感がわいた。
その時、オレは、選択した。もしかすると、この血の量で、妹の由紀子は死ぬかもしれない、とは思った。
妹が死ぬことよりも、オレは、自分の身の安全の方を重視した。叱られることの方が、怖かったのだ。オレは、そういう卑劣な人間だった。
ウッウッ、という声をあげて、由紀子は泣いていた。オレは、由紀子の肩に手を置いた。
それから、由紀子が、オレの胸に飛び込んでくるのを、黙って抱き止めた。
「お兄ちゃん……お兄ちゃん」と由紀子は、うめいた。
「由紀子……」
「あの時のことは忘れたことがない。お兄ちゃんが、私を助けてくれた」
由紀子、そうじゃない、とオレは思った。オレは、自分を助けただけだ。お前のことよりも、自分の方を大事にしただけだ。
「見せつけるなよ」という声で、ハッと我に戻った。
あの高橋という男が、何人かと一緒に、ヒューヒューという口笛を吹いていた。そのそばに、ガックリと肩を落としている、佐伯弟の姿も見える。
あ、しまった。佐伯弟には、本当のことを言わないと、とオレは思った。
「由紀子、家に帰れ」とオレは言った。多分、無様なことになる予感がある。
「見せつけてくれますね、岡野君」と以前、高橋を止めていた大柄な男が言った。
岡野、すまん、とオレは思う。もしかすると、預かった身体に傷がつくかもしれない。
土下座してすむ話ならそうしたかったが、どうやら、そうはいかない雰囲気だ。
「数学、満点だってなあ」と高橋が言った。
「オレ、この前、頭を打って……」と言ってみたが、そんな話は、誰も聞いていないようだ。
「頭を打った? こうやってか?」と高橋の拳が顔面に飛んできた。
瞬間、目から火花が散った。身体から抜けたかったけれど、抜ける間もなく、地面に叩きつけられた。
塩辛い血の味のする口の中に、泥が入った。
今までに一度も喧嘩したことはないと思っていたけれど、この感じは、何となく知っていた。
誰かに殴られたことがある? 誰に? オレが? 岡野が?
「お兄ちゃん」という妹の声が耳に聞こえている。その声は、よく知っている。
オレは、ゆっくりと、地面から起き上がった。
岡野の足腰は強い、とオレは計算している。
口の中が気持ち悪いので、オレは、ペッと赤い色の唾を吐いた。
その瞬間、なぜか、オレは、フッと笑った。頭のヒューズが飛んだのか。
高橋の拳が、もう一度、オレの顔面めがけて飛んでくる。その動きが、スローモーションのように見えた。
へっぴり腰で拳を突き出しているのも、よく見えていた。
自分の足が、自分のものではないかのように、素早く動き、拳と一緒に前のめりになっていた、高橋の顔面を蹴った。一度、二度、三度。
それでは正確ではない。
一度目に顔面を蹴り、二度目は腹だ。そして、三度目に、もう一度、オレの方に蹴ってくださいというように、突き出された顔面を蹴っていた。
高橋は、最初に蹴られた時の顔のまま、その驚いた顔のまま、頭から地面に着地した。
辺りは、奇妙に、静まり返っていた。岡野の足は確かに強い、とオレは思った。
その瞬間、オレの態勢は、ガクッと崩れ、オレも自分の意に反して、地面に倒れてしまった。そのとたん、ポロッと、岡野の歯のかけらが口から転がり出た。
岡野、すまん、とオレは思った。歯が折れてしまった……
自分では、意識はシッカリしていると思っていたが、フワフワと身体は空中に浮かんでいて、半分以上、意識不明だったようだ。
コッチコッチコッチ、という時計の音が聞こえていた。
プーンと消毒液の匂いがしている。
意識が戻ってみれば、相変わらずの、寝たきりの自分の肉体の中だった。
随分、沢山の夢を見たもんだ、とオレは思った。このオレが、誰かの肉体を借りて、喧嘩する夢まで見た。
そう思うと、また、夢の世界に逆戻りだ。
ハッと気がつくと、妹の顔が目に入ってきた。今まで泣いていたような赤い眼をしている。
「もうしばらく寝てなさい」という声がする。
「岡野、岡野」と佐伯弟が、ガリ勉眼鏡を取って、涙を拭いている。
ありゃ、小学生の時の、佐伯萌ソックリだ。コイツって、女顔だったんだ。
ということは、寝たきりの自分の肉体に戻ったという方が、夢だったのか。
コッチコッチという時計の音は、保健室の掛け時計の音だった。消毒液の匂いもする。
「高橋は?」とオレはたずねた。
「お前より先に気がついて、親と一緒に歯医者に行った」と佐伯が言った。
そうか。アイツも、歯をやられたか。ざまあみろだ。岡野を殺人犯にするわけにはいかないから、多少、足加減はしたつもりだ。
指で、左の歯の欠けたところを触ってみた。
痛い。
「今、お母さんが、校長先生、教頭先生、担任の先生と話しているから」と保健の先生が言った。
岡野の母親か。どんな顔をして会えばいいんだ?
「他の生徒達の話では、君は、殴られて抵抗したんだから、正当防衛よ」と保健の先生。
「髪の毛を黒くしたの、正解だったね」とニカッと笑った。
オレも釣られて、ニカッと笑おうとしたら、左頬が痛くて、顔がひきつった。
「出血は止まってるけど、しばらく食べる時、不自由するよ」
あーあ、折角、食べられる身分になったのに……
保健室の入口に、小柄な女の人が姿を見せた。
その瞬間、オレの身体中の筋肉が強ばった。
緊張している?
妹と佐伯が、ペコリと頭を下げた。多分、これが、岡野の母親だ。
「どうも、すみませんでした」と保健の先生にペコペコ頭を下げている。オレの顔を見ると、困ったように、視線をそらした。
「今、お父さんが帰ってるから……」と言う。だから、何なんだろう?
「歩けるようなら、帰っていいよ」と保健の先生が言った。
顔面がジンジンと痛かったが、歩けないというほどではない。
妹と佐伯が、起きあがる時に、両脇から、オレを支えてくれた。
岡野の母親は、保健の先生にペコペコし続けている。
保健室の外に出ると、全員が無言で歩いていた。
ウホン、というように、佐伯が咳払いをした。
「ええと、今日は、岡野君、ボクの家に来ることになってるんですが、かまいませんか?」
「は、ええ、それは、かまいませんが……」と岡野母が言った。
「おばさん」と言いかけて、「お母さん」とオレは、言った。
「何で、オレが家に帰るの、迷惑そうなの?」と思い切って疑問を口にした。
「だって、あんた、お父さんが帰ってるんだから」
よくわからない話だ。
「それに、私は早く家に帰らないと」とソワソワしている。
「ボク達が、ついてるから大丈夫です」と佐伯が言う。
「じゃ、これで」と岡野母は、ホッとしたように、帰って行った。一度も、オレの方を振り返らない。
「どういうこと?」とオレは、二人にたずねた。ところが、二人とも、示し合わせたように答えない。
「か、柏木さんも、ボクん家に来る?」と佐伯弟。
「今日は、私の家に来て」と妹が言った。
「え!」と佐伯は、驚いている。
「……柏木さん家に、行っていいの?」
ああ、コイツ、家の中に気の狂ったお兄さんがいると思っているな。
「うん」
「あ、ボク、何かおやつを買って……」と佐伯。中坊のくせに、偉いヤツだ。
「気を使わなくて、大丈夫。佐伯君に話したいことがあるから」と妹。
何も言わなくても、佐伯の心臓がバクバク言う音が聞こえてきそうだ。
「岡野、な、髪染めてよかっただろ」と自分でも何を言っているのかわからない様子だ。
「佐伯君が染めたの?」と妹。
「そういうわけでもないけど、岡野の髪を染めたのは、実はオレだ」と話が目茶苦茶だ。
「似合ってるね」と妹。
「そうだろう?」と佐伯が喜んで、どうする。
今日は、晴れて、自分の家に堂々と入れる。
「お邪魔します」と佐伯は、礼儀正しく、玄関で言う。
おい、という風に、オレにも挨拶しろ、という態度だ。
「お邪魔します」と仕方無く言った。
バタバタバタッと春江が顔を出した。不快でイヤなヤツだと思っていたが、しばらく顔を会わさないと、何となく懐かしい気分がする。
「お客さんですか?」と春江は、露骨にイヤな顔をした。やっぱりイヤなヤツだ。
「春江さん、今日は、私が全部するから、映画でも見てきたら?」と妹が言った。
「何言ってんだか。そんなこと、あんたのお母さんに知れたら……」
「ママには内緒にしておくから、大丈夫。チケットが余ってるの。よかったら使って」と
妹は、手際がいい。
「え! タダで?」
「そうよ。いつも大変なんだから、たまには映画ぐらい見ないと」
「あれー。どの服を着ていこう」と春江は、スッカリその気になっている。
「急がないと、最初から見られないかもしれないわよ」と妹。
春江が、バタバタと出掛けて行くと、家の中は、シーンと静まり返った。
「アイツがいないと、ホッとする」とオレは言った。
「岡野!」と佐伯が、オレをたしなめる声を出す。
「いいのよ、佐伯君。これは、岡野君じゃないから」と妹が言った。
「こっちに来て」と妹は、佐伯とオレを、オレの肉体の寝ている部屋に連れて行った。
『あ、何で、どうして?』と岡野の幽体が起き上がった。もしかすると、コイツ、ずっと寝たままなんじゃ、とオレは疑った。
「妹にばれた」とオレは言った。
「佐伯にも教えるつもりなんだけど」
佐伯弟は、一人だけ、何もわけがわからずに、パニック状態に陥っている。
「岡野、頭、大丈夫か!」
「佐伯に教えて構わないかな?」とオレは、岡野の幽体にたずねる。
『佐伯ならいい』と岡野が言った。
「私にも教えてよ、お兄ちゃん」と妹。
「岡野が、柏木さんのお兄ちゃんって……」と佐伯は、首と指を振って、意味不明の動作をしている。
そこで、オレは、佐伯と妹が飲み込めるように、ゆっくりと、ここ半年ぐらい、自分の意識がずっとあったこと、三ヵ月前から、幽体離脱ができるようになったこと、(佐伯の家に忍び込んだことは省略して)、コンビニの前で、岡野に会ったこと、岡野を二晩泊めたこと、そして、岡野と身体を交換したことを話した。
「けど、今日、由紀子にばれてしまった」
「何か、変だと思ってたの。全然、岡野君らしくないし、何か言うことや雰囲気が、お兄ちゃんに似ていて。今日、喧嘩した時、ハッキリわかった。これは、岡野君じゃない。どういうことになってるのかわからないけど、絶対に、お兄ちゃんだって」
「え? え? え?」と佐伯弟は、まだパニクッている。
「じゃあ、これが、岡野?」と虚空を見つめているオレの肉体を指差した。
「身体はオレなんだけど、中身は、岡野だ」と言っても、岡野は、その時、オレ達と一緒に、オレの身体を見ていたんだが。
『タッチ』と岡野が言った。
ちょっと待てよ、とオレは思った。テストが終わったら、もうオレは、用済みってわけか?
「ちょっと待ってくれよ」とオレは、岡野に言った。
「由紀子、岡野君が、身体を返して欲しがってる」とオレは、由紀子に言った。というより、内心、訴えていた。
「じゃあ、お兄ちゃんは、また、あの身体に戻るの?」
「うん」
「私が言ってたこと、お兄ちゃんは聞こえてたんだ」
「聞こえてたよ。毎日、お花をありがとう」
オレが、妹の頭を撫でると、妹は、オレに、身体は岡野だが、オレにしがみついて、泣いた。
『あのう……』と岡野が言った。
『時々、替わってもいいから』
「岡野君が、時々替わってもいい、と言ってくれてる」とオレは、妹に伝えた。
「佐伯、色々ありがとう」
「あのう、お兄さんとは知らず、失礼しました」と佐伯は、礼儀正しい。
「じゃ、また」とオレは、言った。
以前、岡野がバッタリと倒れたのを見ていたので、ベッドに寄り掛かって、身体から抜けた。岡野が、自分の身体に入るのが見えた。オレも、自分の身体に戻った。
懐かしの我が肉体。
変な話だが、やっぱり長い間慣れているせいか、岡野の身体よりシックリする。
「岡野君なの?」と妹が言った。
「うん」と岡野。
「痛え」と言って、頬を押さえている。
『あ、悪い。歯が一本折れてしまった』とオレは、謝った。
「けど、岡野、お前、高橋に三度も、蹴り入れたんだぞ」と佐伯が言った。
「嘘ー」と岡野は、脅えた顔をした。
「それから、数学のテストは満点」
「嘘ー」
「まだ、お父さんは、いるらしい」
「あ、ほんと」
「しばらく、オレん家に泊まったらいいよ」
岡野は、しばらく思案しているようだった。
「ねえ」と妹に言った。「兄さんと家でも話したかったら、オレが、ここに泊まった方がよくない?」
「岡野!」と佐伯が、たしなめる声を出した。
オレも思案した。コイツが泊まると、ゆっくりした夜が台無しだ。それに、妹が心配だ。
「岡野君、男の子だし……」と妹も思案している。
『春江がうるさいぞ』とオレは、言った。
「春江が、うるさいぞ、ってお兄さんが言ってる」と岡野が通訳した。
「そっかー」と妹。
「オレ、腹がへった」と岡野が言った。痩せの大食いの岡野だ。
「そう言えば、お昼食べてなかったね」と妹。
「オレ、何か買ってくるよ」と律儀な佐伯。
「シチューが残ってたし、春江さんが何か作ってると思うから見て来ようか」と言って、妹は、部屋から出て行った。
「お兄さん」と言って、佐伯は、寝たきりのオレの手を握った。「また、勉強教えてください」
『岡野さえよかったら、OK』とオレは、言った。
「OKだってよ」と岡野が省略して、言った。
妹が呼びに来るまで、岡野は、佐伯から、オレの行動を聞いて、笑ったり怒ったりしていた。
オレは、やはり疲れ切っていたのか、ウトウトしていた。
「シチューができた」と妹が言うと、岡野が「シー」と言っていた。
「お兄さん、寝たみたいだから」
三人共、ダイニングに行ってしまったようだった。
自分の肉体に戻って、ホッとしたような、淋しいような、複雑な気分だ。
何年も寝たままでいた後の過激な日々。
オレが岡野だった日々。
寝ているのと起きているのの中間でウツラウツラしていると、食事をすませたらしい、三人がオレの部屋に戻ってきた。
「抜けた歯が痛えよ」と岡野が文句を言っていた。
「痛い、痛いって言いながら、シチューを三杯もお代わりしたろ」と佐伯。
「だから、右の方だけで食ったんだよ」
「食べられるならいいじゃないか」
「けど、痛えよ。また、高橋に殴られるよ」
しょうがないヤツだな、とオレは、目が覚めてしまった。
『お前は、足が強いんだから、足を使え』とオレは言った。
岡野は、ボウッと自分の足を見ている。
『わかった』とオレは言った。
『岡野と佐伯は、うちに通え』徹底的にしごいてやる。
「え? ほんと?」と岡野の顔が輝いた。
「どうしたの?」と妹がたずねている。
「岡野と佐伯は、うちに通えって」と岡野が答える。
「オレも? オレも?」と佐伯も喜んでいる。
『由紀子に、春江をオレの部屋に入れないようにして欲しい、と伝えてくれ』とオレは、この半年の間、おそらく一番言いたかったことを言った。
「ええと……」と岡野は、口ごもった。長い台詞は覚えられないようだ。
『春江を』
「春江を」
『オレの部屋に』
「オレの部屋に」
『入れないようにして欲しい』
「入れないようにして欲しいって」
「え? だって、お兄ちゃん、春江さんは、ずっとお兄ちゃんの世話をしてくれてるんじゃないの」と妹が言った。
「あのう……柏木」と岡野が言った。「アイツ、変なことするんだよ」
「変なことって?」と妹。
岡野が真っ赤になった。オレも、内心真っ赤になった。
「口では、言えないようなことだよ」
「え? 何? 言えないようなことって、何?」と佐伯がたずねる。
「言えないようなことだよ」と岡野は、怒ったように言った。
「それから、『あんたなんて生きてても仕方無い』とか『死んだ方がいい』とか、ヒドイことばっかり言うんだ。本気で死にたくなるよ。大きな音でテレビをつけるし。昨日なんか……アイツが飲んでたコーヒーを頭からかぶったんだぜ。とっさに身体から抜けたからよかったけど。そのままだったら、すごく熱かったよ」
「嘘……」と由紀子が、絶句していた。
「お兄ちゃんにケーキを食べさせようとしたのは、知ってる……」
そうだった。しかし、あのお蔭で、動けるようになったんだった。
『それから……』とオレは、言おうかどうしようかと迷いながら言った。
『佐伯の姉さんに来て欲しい』
言ってしまってから、自分が植物状態なのを、ありがたく思った。そうでなければ、足の裏まで、真っ赤になっているところだ。
「ハハーン」と岡野は、可愛くない反応をした。
「それでですか、お兄さん」と岡野は言った。
この野郎、とオレは思った。二度とテストの身代わりなんて、やってやらないからな。
「何なの、岡野君?」と妹に言われて、岡野は、オレの言ったことを伝えた。
「え? オレの姉貴に? 何で?」と佐伯は、驚いている。
「けど、姉貴、オレの存在なんか無視してるからなあ」
「お兄ちゃんが来て欲しいんだったら、私が頼みに行く」と妹が言った。
「それから」と妹は、唇を噛んだ。「春江さんのことは、私がお母さんに言う」
オレは、ホッと肩の荷が降りた気がした。言ってしまってから、自分がどれだけ春江の存在がイヤだったのかがわかった。
春江の話を聞くのが、春江に触れられるのが、もうイヤでイヤで仕方がなかったが、意思を伝えられない身だったから、どうすることもできなかったのだ。
『明日は試験休みだろう。今日は、二人共、泊まっていったらどうだ』とつい言ってしまったほど、ホッとしていた。
「ええ、本当?」と岡野が言った。
「今日、二人共、泊まっていったらどうかって」
「ええ! 本当に?」と佐伯も岡野と同じ反応をした。
「岡野君、本当に、お兄ちゃんがそう言ってるの?」と由紀子は、半信半疑だ。
「オレ、嘘はつかないよ」と岡野が言った。
「ごめん」と由紀子が謝っている。
『使ってない部屋がいくつかあるから、好きな部屋を使ったらいい』
そうだ。本当に、広いだけで、全然有効に使われたことのない家だ、オレの家は。
「好きな部屋を使ったらいいんだって」と岡野。
「夢みたいだな」と佐伯が言った。
「お兄ちゃんが言うんだったら、仕方がない。二階がいいよね、同じ階だから」
三人は、またバタバタと部屋を出て行った。
オレの心境は複雑だ。
ずっと寝たきりだった時、つまりは、身体に縛りつけられて、身動きができなかった時、オレは、死んだ方がマシと思えるような諦めの境地にいた。
どんなことでも我慢するしかなかったのだ。オレには、選択の余地はなかった。
数ヵ月前、正確には、三ヶ月前、オレは、自分の身体から抜け出すことができた。
その時は、嬉しかった。ようやく、イヤな時は、身体から抜けていればよくなったからだ。
それから、ほんの一週間ほど前、岡野と身体を交換した。そのお蔭で、妹とも話すことができた。
今では、必要な時に、岡野の身体を借りたり、岡野に通訳してもらったりできるようになった。
オレの世界は、格段に広がったのだ。
もっと喜んでもいいはずなのに、何となく憂鬱なのは、なぜなんだろう。欲が出てきたせいだろうか。
岡野の身体を借りずに、自分自身の身体で、動き回りたいという?
または、元のような選択の余地のない、諦めきった状態で、心穏やかに暮らしたい?
やはり、そうではないな。
多分、目まぐるしい展開で、心身共に、疲れているだけだろう。
その時、ドタドタドタという音がして、春江が帰ってきた。
そのとたんに、オレの物思いなんかは、どこかに飛び散ってしまった。春江の存在感は大したものだ。コイツのいない世界に行けるのなら、何でもしようという気になる。
「ああ、忙しくて、イヤんなる。映画なんか見に行ったお蔭で、することが一杯たまってしまった。何が、私がするからだよ、何にもしてないじゃないか」とブツブツ言いながら、買ってきたものを、あちこちに隠している。犬みたいな癖だ。
「あんたのことなんか、後回しだからね」
オレにとっては、その方がありがたい。
春江は、またバタバタという足音を立てて、下の階に行った。
お袋にとっては、春江の存在が重宝なのだろう、とオレは思った。妹が何を話そうと、お袋は耳を貸さないかもしれない。
春江がいなくなれば、他の誰かがオレの面倒をみなければならないからだ。
オレが死んだ時に、お袋に報告する人間が必要なのだ。
そう考えた時、「お兄さん、泊まる準備ができました」と佐伯が報告に来た。
お前達は、気楽でいいな、とオレは思った。
「で、ボク達は、これから、姉を迎えに行ってきます」
おいおい、まだ早いよ。オレの心の準備が……
「あんたが行く?」と岡野も来た。
『いや』とオレは、言った。オレが行ったって、何を言えばいいのかわからない。
「じゃ、お兄ちゃん、行ってくるね」と妹。
律儀で健気な三人組だ。
オレは、ついて行って様子をみたい気持ちと戦っている。
「あんた達、まだいたの」という春江の声が、階下から聞こえていた。
いつの間にか、この家は、春江の家のようになっている。
お袋は、いつもどこにいるのか、オレにはわからない。
よそに出掛けているのか、自分の部屋にこもっているのか。
春江が入ってきて、濡れたタオルで、オレの顔と手だけを拭いた。
冷たさにゾクッとして、身体を離れた。
「あれ、また死んでる」と春江が言った。
「どっちにしても、死んでるようなもんだからね」ともう驚かなくなっている。
こうなったら全速力で走って、三人組の後を追い掛けよう。
走り始めた時、足の筋力が落ちているのがわかった。
岡野め、ずっと寝たきりだったな。
三人が、玄関から入るのに、かろうじて間に合った。
あ、という顔をして、岡野が気がついたが、オレは、シー、と口に手を当てた。
内緒、内緒。
玄関から入ったところで、三人は立ち止まってしまった。
「どう言ったらいい?」と妹が言った。
「姉貴は、人と話さないしなあ」と佐伯。
岡野が、ドタッと倒れて、幽体が立っていた。
「岡野、どうした?」と佐伯。
「岡野君、岡野君」と妹。
『どういうつもりだ?』とオレはたずねた。
『あんたが行った方がいいかな、と思って』と岡野。
『お前が行けよ』
『だって、あんたの問題だろ』
この野郎、自分の問題であるテストは、オレに受けさせておいて、何ていう言い草だ。
『それから、教えておいた方がいいかな、と思って』
『何を』
『幽体の時は、壁やドアを抜けられるって』
『え!』
『ほら』と言って、幽体の岡野は、ドアから出たり入ったりした。
『そ、そんなこと、もっと早く教えろよ』
オレが、どんな苦労をして、人に重なるようにして、出入りしてたと思うんだ!
『知らないって、知らなかったから』と岡野らしい答えだ。
「岡野君、息してない……死んでる……」
「岡野お!」と佐伯と妹は、倒れた岡野を揺り動かしていた。
『早く戻れって』とオレは言った。
『あんたが行けよ』と岡野も強情だ。
「佐伯君、どうしよう……」と妹は、涙声になっている。
「岡野お!」と佐伯弟。
『早く戻れよ。由紀子と佐伯がパニクッてるだろ』
『あんたが行けよ』
オレと岡野が押し問答をしていると、何を思ったのか、佐伯は階段を登って、二階の佐伯萌のドアをガンガンやり始めた。
「姉さん、姉さん」と泣きが入っている。ドアが壊れるかと思うほど、ガンガン叩いている。
「うるさい!」という声がして、ドアの開く音がした。
「姉さん、友達が……友達が……」と佐伯は、とうとう泣き出した。
「岡野君、岡野君」と妹も岡野の身体を抱いて、泣いている。
「もう、一体どうしたってのよ」
階段から、佐伯萌が降りてくるところだった。ヨレヨレのパジャマを着て、幽霊のように髪を延ばしている。
今日は、緊急事態のせいか、目が宙に浮いてはいなかった。
目に生気が宿ると、やはり、佐伯萌は、可愛い。
ハッと気がつくと、岡野は、いつの間にか、自分の身体に戻って、妹に抱きかかえられていた。
この野郎! しかも、まだ死んだフリを続けるつもりのようだ。
「その子、どうしたの?」と佐伯萌。
「息してないんだよー」と佐伯弟が訴えている。
「あ」と妹が言った。「岡野君、息している」
「え、本当?」と佐伯弟。
岡野は、いかにも死にそうな顔をして、うっすらと目を開けた。
「ボク、時々、呼吸と心臓が止まるんです」と妹に抱かれながら、弱々しい声で、佐伯萌に訴えている。
この野郎!
「ふーん」としかし、佐伯萌の反応は冷たい。
「病院に連れて行った方がいいかな?」と佐伯は、姉に指示をあおいでいる。
「どうでしょうか?」と妹も同じ態度だ。
いつの間にか、オレの頼みのために来たというより、岡野の病気がテーマになってしまっている。
「いや、病院よりも、柏木さんの家に連れて行ってください」と岡野が言った。
そうか。コイツだけは、自分が大丈夫だと知っているから、任務を忘れていないわけだ。
偉いぞ、岡野。
「柏木さん?」と佐伯萌の表情に変化があった。生気の宿った瞳がキラリと輝いている。
「柏木由紀子です」と妹が言った。まだ、岡野を抱いている。
そんなヤツ、さっさと放り出してしまえ。
「兄が、あなたに会いたがっています」
偉いぞ、由紀子、よく思い出した。
「兄って……」
「柏木透です」
「嘘……」と佐伯萌は、両手で自分の口を覆った。
「最近、意識が戻って、あなたに会いたがっています」
佐伯萌の身体が、小刻みに震え始めた。
「待ってて」と言うと、階段を登って行った。
信じられないような展開だ。
『あんた、先に帰った方がよくない?』とまた身体から抜け出した岡野が言った。
『お前、気安く身体から抜けるなよ』
『あんたが内緒にしたいみたいだから、オレ、気使ってんだぜ』
『帰るから、早く戻れ』
妹がハッとした瞬間に、岡野は、身体に戻った。
「岡野君、また、息してなかったね」と妹が言った。
「うん。時々そうなるんだ」と弱々しく妹に微笑む岡野に、ガッデムサインを出すと、オレは玄関を恐る恐る通り抜けて、外に出た。
そうか。ドアノブが握れないということは、ドアも通り抜けてしまうということだったのか、と思いながら。
家のドアもすり抜けて、無事自分の身体に到着。
岡野が怠けていた分、身体に戻った時の疲労感は大きい。また、全力疾走の影響か、しばらくは息が苦しく、心臓もバクバク言っていた。
先に帰って、呼吸を整えておけ、ということか、と岡野の忠告を思った。しかし、いくら待っていても、誰もやって来ず、オレは待ちくたびれて、眠ってしまった。
誰かが、オレの手を握っていた。ボンヤリした頭で見ると、佐伯萌だった。
周囲を見回したが、萌一人のようだ。頭を起こして、時計を見ると、午前二時だ。
これは、どういうことだ。あの後、一体どうなったのだろう。
それに、こんな時間に、オレの部屋で何をしている、佐伯萌。
よく見ると、佐伯萌の目から涙が流れている。
「あなたが、こんな姿になっているなんて……」
こんな姿……まあ、そう言われればそうだ。
「ごめんなさい。私よりも勉強のできるあなたなんて、病気になるか、死んでしまえばいい、と思っていました」
ズガーン、とオレは、ショックを受けた。
小学生の時、オレは、密かに、佐伯萌が好きだったのだ。その相手から、死んでしまえばいい、と思われていたなんて……永遠に知りたくなかった……
「学校でも塾でも、あなたにはかなわなかった。死ぬほど勉強しても、あなたの方が点数がいい。大抵、いつも満点。今から思えばノイローゼになっていたのかもしれない。どうしても、私立に入りたかった。あなたがいる限り、私は合格できないように思い込んだ。それで、毎日、あなたが死ぬように、神様にお祈りしていました」
ひどい話があったもんだ。一体、オレが何をしたと言うんだ。
顔を会わす度にドキドキして、佐伯萌、可愛いなあ、と思っていただけなのに。
「罰が当たったのです」
オレのことを言われたのかと思って、一瞬、ドキッとした。
「どういうわけか、あなたは私立の受験に失敗し、私は、合格しました。嬉しかったのは、合格がわかった瞬間だけで、その後、自分の周囲の世界がドロドロと溶けていくような気がしました。私は、あなたを追い越すことだけを生き甲斐にして生きてきました。それだからでしょうか。それ以後、何に対しても、以前の意欲がなくなってしまいました。あれだけ行きたかった学校に行こうとすると、自分の目の前に、大きな暗い穴が開いているかのように、ワナワナと身体が震えてしまうのです。それから後は、底のない穴に向かって落ちていくような毎日でした」
佐伯弟が語った話を思い出した。
その後、佐伯萌は、学校に行かそうとする母親に暴力をふるうようになったのだ。
今では、誰とも関係を持とうとせず、カップ麺の容器や瓶や缶の散乱した部屋に閉じ籠もって暮らしている。
佐伯弟は、一人でインスタント食品を作って生きている。
離婚した母親は、どこかに行ってしまい、父親は、毎晩、酔っぱらって帰って来る。
ひどい生活だ。ま、他人のことは言えないけれど。
「また、元気になってください」と佐伯萌は言った。
「最初、受験に失敗して、あなたが気が狂ったという噂を聞いて、内心、嬉しかったのです」
それは、ひどいじゃないか、佐伯萌。
しかしまあ、オレが死ぬように、毎日神様にお祈りするぐらいだから、当然か。
「でも、そのうち、自分も気が狂っているような気がしました。あなたは、ずっと、私の目標でした。どうか、元気になってください」
こいつ、目茶苦茶、自己中なヤツ、とオレは思った。
オレに元気になって欲しいのは、自分の目標にして、というよりは標的にして、毎日、死ね、と思いたいからか。
長い間、こんなヤツが好きだったなんて……
しかし、服を着替えて、髪をとかすと、やはり可愛いぞ、佐伯萌。
オレって、とことん不幸な男だ。
「私がこんな人間になってしまったのは、勉強だけを強要していた母親のせいです。私は、毎日、母親を殴るようになりました」
おいおい。オレは、懺悔僧か……
「あんなヤツ、死んでしまえばいい、と思っていました。そうしたら、母親もいなくなってしまいました。あなたも母親もいなくなると、それこそ、何もする気が起こらなくなりました」
コイツが、あと十年か二十年経つと、毎日文句ばかり言う、春江になる、とオレは確信した。
「ずっと、あなたに会いたい、と思っていました。なぜか、あなたに会いたい。毎日そう思っていました。けれど、自分では、どうすればいいのかわからなかった。今日、妹さんから、あなたが私に会いたがっている、と聞いた時、自分の耳が信じられませんでした。すぐにでも飛んで行きたかったのですが、今更、どんな顔をして会えばいいのかわかりませんでした。でも、まさか、あなたが、こんなことになっているなんて……」
ごめんなさい、ごめんなさい、と泣く佐伯萌。
何か、これだけ謝られていると、オレの方も、もしかすると、佐伯萌の呪いのせいで、こんな状態になってしまったような気がしてくる。
「毎日来ます。あなたを死ねばいい、と思った回数だけ来て、あなたに許してもらいます」
佐伯萌、それじゃあ、脅迫だよ。
「あなたが元気になることなら、何でもします」
気持ちだけでいい。春江は、二人もいらない。
「じゃあ、また」と言って、佐伯萌は、オレの唇にキスすると、ドアから出て行った。
この女、言っていることと、していることが全然違う。
何で、死ね、死ねと思い続けた人間に、軽くキスできるんだ。ファーストキスだぞ、オレにとっては!
オレは、ショックで茫然としたまま、文字通り、死体のように取り残されていた。佐伯萌は、ミニ春江だと思いながら。
その時になって、ドアのところに、幽体の岡野がうずくまっているのに、気がついた。
『お前、そんなところで何をしている!』と思わず、立ち上がってしまった。
『オレの身体がいるかどうか、聞きに来たんだよ』と岡野。
『いつから、そこにいた』
『キスシーンのちょっと前』
……シッカリ見られてしまっている。
『誰にも言わねえよ』と岡野が言った。
『言っとくけど、オレがしたんじゃないからな』
『よかったじゃない。両想いで』
『そ、そんな問題じゃない』と言ったけれど、佐伯萌がオレが死ねばいいと祈っていた話は、自分の口からは、とても言えない。
『エッチする時は、身体貸すから言って』
な、な、何てことを言うんだ、このませガキは!
しかし、『その時は、よろしく』とオレは口走っていた。
佐伯萌に接触して、オレまで、口と心が分裂してしまった。
ヘヘヘ、と岡野が笑い、オレも仕方無く笑った。
『聞いてもいいか?』とオレは言った。
『何?』
『その、何で、お前は、家に帰れないんだ?』
『お袋がいやがるんだよ』
『何で?』
『親父が怒るから』
『何で?』
『知らねえよ。ずっと、そうだったんだ』
『そのう……親父が、お前を殴るからか?』
『親父は、殴らねえよ。怒って帰ってしまうだけだよ。お袋は、それがイヤなんだ。ずっと、親父にいて欲しいんだよ』
オレの頭は混乱した。
父親は、岡野を殴らない。怒って帰ってしまうだけ。どこへ?
では、誰が、岡野を殴る?
母親?
まさか。あんなおとなしそうな顔をして?
『親父は、どこに帰るんだ?』
『自分家に決まってるだろ』
決まってるだろ、と言われても、何が決まっているのか要領を得ない。
『あんた、いつから刑事になったの』と岡野に言われてしまった。
『もし、家に帰らなくてもいいんなら、ここにいてもらおうかな、と思って。その方が、オレも都合がいいし』
こういう言い方なら、岡野の負担にならないかな、とオレなりに気を使っているつもりだ。
『けど、あんたん家の人が迷惑するだろ』
そうだ。それが、問題だ。
『そこらへんは、オレも何とか考えてみる』と言うしかなかった。
『とりあえず、夜中だけでも置いてもらえたら、助かるよ』と岡野は言った。『それから、時々、一日中寝かせてもらえば』
『わかった』とオレは言った。
『それから、あんたの金が、ポケットに入ってた。あれは、返すよ』
『いや、オレが必要だから、入れておいてくれ』とオレは言った。
『けど、使っちまうかもしれないから』と岡野は正直者だ。
『使ってくれていいよ。オレは、使えないからな』とオレは言った。黙って、使ってくれればいいのに、と思いながら。
『じゃ、よっぽど、腹減ったら、使うよ』
『うん』
『じゃ、お休み』
『お休み』
岡野がドアを通り抜けていなくなり、自分の身体に戻った時に、オレが帰ってから、何があったか聞けばよかった、と思った。
夜が明け始めている。
母親と話さなければならないな、とオレは思った。妹の由紀子の手に負えることではない。
どうにかして、母親に、オレには意識があることを知ってもらわなければならない。
春江のことにしろ、岡野のことにしろ、母親と相談しなければどうしようもないことだ。
オレの心のどこかで、母親とは顔を会わせたくない気分がある。
母親に、うとまれている息子だからだろうか。
中学受験に失敗して、うとまれるようになったのか。
それとも、そもそもの最初から、愛されない子供だったのだろうか。
『お父さん』とオレは思った。
しかし、どうしても、父親の顔が思い出せない。
空手やボクシングの型を教えてもらった、と思おうとしても、それが現実だったのかどうか確信が持てない。
母親から虐待されているらしい岡野。
母親が、家を出て行ってしまった佐伯姉弟。
母親にうとまれているオレ。
変なところで、オレ達の共通点を見つけてしまった。