幽体散歩2
朝になると、もう少年の姿はなかった。
布団とパジャマは、元の場所に返しているみたいだ。
一体、あれは誰だったんだろうか。
もしかすると、夢?
オレが作り出した幻覚?
しかし、その晩も、外に出ると、彼が待っていた。
「また、佐伯の姉貴に会いに行くの?」
『お前には、関係ない』とオレは言った。何て、鬱陶しいヤツだ。
「チェ」と少年は、舌打ちした。
『それに、何で、毎晩、こんな時間に外に出てるんだ』
「あんたには、関係ないよ」と言いながら、オレの後についてくる。
『ついてくるな』
「オレと同じ方角に行ってるだけだろ」
こんなガキを連れて、彼女の家に入るわけにはいかない。
仕方がないから、走り回ることにした。
幽体の時のオレは、いくらでも走れる。ま、加減しないと、後が苦しいんだが。
ガキは、ハアハア言いながら、ついてくる。
参るな。
『何で、自分の家に帰らない』と散々走ったオレは、家の前で言った。
「帰れねんだよ」と同じ答えだ。
そして、また、オレの後について、オレの部屋までついてきた。
自分の肉体に戻る前に、ちょっと覚悟を決めた。いつもより無理して走ってしまった。
ゆっくりと恐る恐る、身体に戻ったとたん、心臓が跳ね上がった。あんまり苦しくて、目の端から涙が流れてきた。
「馬鹿だな。寝たきりのクセに」と少年が言って、そばにあったタオルで、汗と涙を拭いてくれた。それから、呼吸がおさまるまで、背中を撫でてくれた。
不思議な気分だった。自分の背中が、少年の手を待ち望んでいたみたいに喜んでいる。
「あんたって、中坊の時、勉強できた?」と自分の布団を敷いた後で、少年が言った。
オレは、もうウトウトしかけていた。
「ねえ、ねえ」とオレを揺り動かしている。
『寝かせてくれ、頼む』とオレは言った。とにかく、死ぬほど疲れ切っている。
「明日っから、テストなんだよ」
『勝手に勉強しろ』
「今からじゃ、間に合わねんだよ」
『徹夜でがんばれ』
「教科書がないよ」
『ああ、うるさい!』とオレは言った。『オレに言ったって、仕方ないだろ』
「いい方法があんだよ」
そう言うと、少年は、バタンとその場に倒れた。
『あ、大丈夫か』と思わず、オレは起き上がってしまった。
そして、倒れている少年のそばに立っている、半分透けた少年の姿を見た。
『オレもできんだよ、幽体離脱。ガキん頃から』
今だって、ガキだろうが、とオレは、心の中で突っ込んだ。
そうか。それで、オレの姿も見えるのか。
幽体離脱歴三ヵ月のオレに比べると、大先輩なわけだ。
『それで、こういうこともできるわけ』
そう言うと、少年は、オレの身体の中に入った。
『あんた、かなり、身体弱ってんね。これで、全力疾走したら、やばいっしょ』
『そ、そんなことしたら……』どうなるかは、全然知らない。
『ちょっと、オレの身体に入ってみたら?』
そう言われて、恐々と少年の身体に、ゆっくりと身を沈めてみた。
身体中に、活力が満ちてくる。若くて元気な身体だ。
それと同時に、様々なイメージの波が押し寄せてくる。
イメージに浸食される、と思ったが、どこかに境界線があるのか、イメージはイメージのままだ。
『何、寝たきりやってんの。動けるから動いてみなって』
そう言われて、恐々と動いてみる。
手が動く。
足が動く。
首が回る。
腕立てをしてみる。が、ヘニャッとつぶれた。腕には力がないようだ。
腹筋をしてみる。これは、何とかできる。筋肉の手応えがある。
何気なく、鏡の前に立って、ギョッとした。
姿が写ってるけど、オレじゃない!
そうだった、と思い出した。他人の身体の中に入っているんだった。
鏡には、ポカンとした顔をした、金髪の中坊が写っている。
何となく、照れて、笑ってしまった。
歩くと、空気が重い感じがある。
自分の借りている身体が重い。
手も重ければ、足も重い。
頭までが、何となく重い。
『これって、一日寝てられるんだ。ラッキー』とオレの身体に入った少年が言う。
「一体、何を企んでいる?」と声が出たのに驚いた。しかも、少年の声だ。
『その身体、明日貸してあげる。だから、お願い。テスト受けてきて』
テストなんてイヤなこった、と反射的に思ったけれど、これは、この肉体の主の条件反射だろう。
『テストか』それに、動ける肉体か。多少、心が動いている。
『お前の名前は?』と尋ねた時には、中坊の入ったオレの肉体は熟睡してしまっていた。
ま、何とかなるだろ、と思うのは、この肉体の思考の癖か。
オレは、昔の塾の教科書を探し出して、しばらく眺めていた。すると、眠くなってくる。この身体の主は、勉強嫌いだな、とオレは思った。
オレは、呼吸も止まらず、心臓も止まらずに、グウグウ寝ているオレの肉体を見ている。
これで、動き回っても、肉体が死ぬ心配はないわけだ。
春江が起きてくる前に、この家から抜け出す必要がある。
七時には起きよう、と思って、オレは、布団にくるまった。
その晩は、誰かにバシバシに殴られる夢を見ていた。
オレは、なぜか、抵抗もせずに、両手で頭と身体をかばって、殴られるままだ。
フハーフハーという、相手の息づかいが、夢とは思えない生々しさで聞こえていた。
いつもは聞こえてくる、コチコチというベッドサイドの時計の音は、床に寝ているせいか、聞こえて来なかった。
目が覚めた時、また、いつもの朝が来た、と思った。
『おい、おい』という声が聞こえていたが、夢だと思っていた。
『やばいよ、やばいよ』と言われて、反射的に身体をかばった。夢の余韻だ。
目を開けると、半分透けた金髪の少年の姿が見えた。
「え、何が?」と言ってから、自分の言った声が、耳に届いてきた。
『シー』と少年が言った。
オレは、自分の口を手で押さえて、手が動いたショックで、完全に目を覚ました。
「何だ、これ!」
『シー。思い出してよ。昨日、入れ替わったでしょうが』
え? 何? 何のこと?
そう思いながら、ジワーッと記憶が蘇ってきた。けど、そんなアホな。
『筆記用具持って』と言われて、シャーペンを何本かポケットに入れた。服のまま、寝ていたようだ。
『布団をしまって』と言われて、布団をしまった。
時計を見ると、まだ六時半だ。
『ノートか何かある?』と言われて、ノートを出した。
『書いて。岡山の岡、野原の野、健康の康、岡野康。これ、今日のあんたの名前。一年3組8番。学校は三中。多分、同じでしょ? 教室は、一階のはじから3つ目。あんたの妹と同じクラスで、佐伯の弟も一緒』
「何のテスト?」と声が出るのが、嘘みたいだ。
『英語のリーダー、数学、英語のグラマー、という地獄の一日』
「お前、勉強嫌いだろう」
『嫌いじゃねえよ。わかんねえだけで』と言いながら、まだ寝るつもりなのか、オレの肉体に戻っている。
「それを嫌いって言うんだ」と言って、オレは、もう少しで、寝ている相手のおでこにデコピンをかましてしまうところだった。
危ない、危ない。大事な自分の肉体だった。
「腹がへったな」
そうだ。おなかがすいている。何年ぶりだ。
『ああ、昨日から何も食ってないからな。ポケットに二百円あるから使っていいよ』
オレは、机の引き出しを開けて、以前お金を隠しておいた、隠し扉を見た。
あった!
財布の中身は、春江が抜いてしまったようだが、これには気がつかなかっただろう。一万円札を一枚抜き取ると、ポケットに入れた。小学生時代のお年玉の残りだ。
「いっぱい食っておいてやるよ」とオレは言った。
この時間なら、まだ誰も起きていない。
窓から下を見たが、身体がすくむ。
こいつ、よく肉体を持ったまま、こんなところから出たり入ったりできるもんだ。
ソッとドアを開け、階段を降りて、玄関から外に出た。
冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込むと、むせてしまった。
この前、小学校時代好きだった佐伯萌が入っていたコンビニで、サンドイッチとコーヒーを買った。
公園のベンチに座って、ゆっくりとサンドイッチを食べ、コーヒーを味わった。
頬が一人でに、緩んでくる。
まだ足りない気がして、もう一度コンビニに入って、お握りを二個買った。
ブランコに座って、お握りを食べる。
コイツ、かなり大食いだな、と思ったのは、まだ物足りなかったからだ。
しかし、テスト前だ。
コイツの名前を書いたノートは置いてきてしまったが、クラスと出席番号と名前は、何とか覚えていた。
「岡野。こんなとこで、何やってんの」という声が聞こえてきた。
声の方を見ても、見覚えがない。眼鏡をかけた、小柄でガリ勉そうな男子だ。
「メシ食ってんの」とオレは反射的に答えた。下品な返事だ。
「遅刻するなよ」と言って、相手は行ってしまった。
その後から、妹がやって来た。
アレ? 心臓が勝手にドキドキする。
「岡野君。こんなとこで、何やってんの?」とさっきの男子と同じことをきいた。
アレ? オレは、赤くなった。
何で、オレが、妹を見て、赤くなる必要があるんだ。
「早く行かないと、遅刻するよ」
オレは、妹と一緒に並んで、学校に向かった。
「由紀子、ちゃんと勉強したか?」とオレは言った。
「岡野君に、言われたくないわ」と妹は言った。
それきり、妹は、オレを無視して、単語帳を出して、覚え始めた。
「ちょっと見せてみろ」とつい昔のクセが出て、オレは言った。
妹から単語帳を受け取ると、日本語を読んで、英語とスペルを言わせた。妹は、不思議そうな顔で、オレを見ていた。
「どうした?」
「何か、岡野君て、お兄ちゃんみたい」と言って、妹は怒ったような顔をした。
『お兄ちゃんだよ、由紀子』と言いたい誘惑と戦った。
教室に入って、どこに座ればいいかで、多少まごついた。
テストの時は、出席番号順に座るらしい。
「わ、岡野が来てる」と言われてしまった。
「岡野、張り切ってんな」
うーん。アイツ、いつも何点ぐらい取ってたんだ?
テストが始まると、テストの担当教師が、ジロジロとオレの頭を見ていた。
そうだった。今のオレは、金髪の岡野だ。後で、毛染めを買って、黒く染めてやろう。
『柏木透』と自分の名前を書きかけて、ハッとした。危ない、危ない。
『1年3組8番岡野康』
英語のリーダーの問題は簡単で、十分ぐらいでできてしまった。
満点を取ったらまずいかどうか、しばらく思案して、いくつか書いた答えを消しゴムで消した。
数学も十分、英語のグラマーの方も十分で完成。
妹の方を見ていると、頭を抱えて考えている様子だ。ああ、岡野なんかのためにテストを受けるより、妹に教えてやりたい、と身悶えする。
「岡野、よそ見をするな」と何となく身覚えのある教師が言った。どこで見覚えたのだろう。
岡野の記憶か? それとも、オレ自身の記憶? 何となく、イヤなヤツだと思う。
テストが終わると、クラス中から歓声が上がった。どうやら、この日の後、二日ほど連休があるらしい。
オレは、気になって仕方がなかったので、妹の席まで行った。
「どうだった? できたか?」
「岡野君には、関係ないでしょ」と言われてしまった。
そうだった。オレは、お兄ちゃんではなく、岡野君だった。
「岡野、柏木に急接近」と今まで見たことのない男子に言われてしまう。
さて、テストも終わり、オレはどうすればいいんだ。
今のオレは、岡野だが、どこに住んでいるかなんかは、全然知らない。
ホームルームの時間に、社会のテストが返ってきた。
岡野康 8点。
ガーン。最低の点。オレなら自殺する。
アイツ、本当にバカだったんだ。
「岡野、どうだった?」と朝方見掛けたガリ勉風の男子が近づいてきた。
「お前は?」とオレは、質問を返した。コイツと、岡野との関係が、まだつかめていない。
「3がなあ……」と相手は言った。
3。一体、何の3だ。
「ま、お前に言っても仕方無いか」と言われた。
そうだった。オレは、社会科8点のバカ岡野だった。
「オレん家、来る?」
うん、うん、とオレは首を縦に動かした。渡りに船とは、このことだ。
「佐伯、バイバイ」と誰かが言った。
「バイバイ」と答える相手の顔を、つい見てしまった。
佐伯? こいつが、佐伯萌の弟? 部屋でテレビ見て笑っていたヤツ?
これは、渡りに船すぎる。
「佐伯、岡野のバカが移るぞ」と誰かが言った。
オレは、その声の方を見た。
とたんに、オレは脅える。多分、バカ岡野は、こいつに脅えていたんだ、と気がついた。
「あれ? 岡野、オレに何か文句ある?」と相手が言った。
「いや。別に」とオレは、目をそらした。
「相手になるなよ」と佐伯弟が小声で言った。
「うん」とオレも答える。相手が、自分の今の肉体より、十センチは背が高く、腕周りは三倍ぐらいあることを瞬間的に見ていた。
「待てよ、バカ岡野」と相手は、しつこかった。
やっぱり『バカ岡野』と呼ばれていたんだ……
オレは、内心考えていた。ここ何ヵ月か、腕立てと腹筋をした分は、毎日走っていた分の筋肉は、バカ岡野にはついていないんだろうか。
ま、ついてないんだろうな。あの筋肉は、オレの身体についているんだから。
「オレを無視する気?」
どうしよう……とオレは、岡野の腕を見る。元気で健康な肉体らしいが、細い腕だ。
脚には筋肉がついているが、腕は細い。腕立て一回で、ペシャンの腕だ。喧嘩は無理か。
でも、と悪魔がささやいた。
これは、オレの肉体じゃないし、痛い目を見そうになったら、身体から抜けたらいいんじゃないか?
オレ自身、コイツに脅えているわけじゃないし。
「名前は?」とオレが振り返って聞いたので、相手は、少しひるんだ。
「コイツ、バッカじゃない?」と周囲に同意を求めようとするが、周囲は見て見ぬフリのようだ。
よし、やってやろう、とオレは思った。バカ岡野が、どれぐらい弱いか試してみよう。
最悪、身体から抜けてやる。
「な、な、コイツ、やる気かよ」と予想に反して、相手がかなり動揺している。
「高橋、やめておけよ」と同じぐらいの上背のある男子が言った。
岡野が脅えているヤツは、高橋だ、とオレは記憶した。
「そうだよな。バカ岡野を殴ったって、仕方ないもんな」と高橋が言った。不思議なことに、どこかホッとした表情だ。
正直、オレだって、ホッとした。他人の身体でも、痛いのはオレだ。
「岡野……」と佐伯弟。
「お前、どうしたの? 高橋にあんなこと言うなんて」
どうしたの、と言われても、答えようがない。
「腹減ってる?」
そう言われれば、何となく腹が減っている。
「うん」
「オレん家で食う?」
「うん」と答えながら、コイツって、見掛けより、いいヤツだな、と思った。
「岡野君」という声で、振り返ると、妹が心配そうな顔をしていた。
オレは、瞬間的に真っ赤になった。自分で自分がイヤになる。妹を見て、赤くなってどうする。
見ると、佐伯弟も真っ赤になっている。ありゃりゃ。
「途中まで、一緒に帰ろう」と妹が言い、オレと佐伯弟は、ガクガクとうなずいた。
「か、か、柏木も、オレん家に来る?」と佐伯弟の声は震えている。
ううん、と妹は首を振った。オレには、今一、この三人の関係がわからない。
「そ、そうか。お兄さんが待ってるもんね」と佐伯弟。
「うん。お兄ちゃんが待ってるから」
それきり、三人で黙々と歩いている。な、何なんだ、この気詰まりな雰囲気は……
「岡野君、公園で何してたの?」と妹。
「え?」とオレ。
「ええと……メシ食ってた」と知らずに下品な言い方をしている。岡野の習性だろう。
「まだ、家に帰れないの?」
「うん」と答えながら、どういう意味か、考えている。
「じゃ」と言って、途中の公園のところで、妹とオレ達は別れた。
佐伯弟は、「反則だよ、岡野」と小さい声で言っている。
「え?」とオレ。
「お前、今日、柏木と一緒に登校したろ」
「うん。けど……」と言いながら、そうか、オレの知らないところで、妹に関して、何か二人で約束事があったんだな、と悟った。しかし、その前に、この金髪頭を何とかしたい。
「今日は、仕方無かったんだよ。公園で会ったんだから」とまず言い訳をして、「ちょっとコンビニに付き合って」と言った。
「コンビニで何すんの。立ち読みに付き合うの、今日はイヤだからな」
「髪を黒く染めようと思って」
「ちょっと待てよ、岡野。もうパチリはやめたろ」
パチリ? 何のことだ?
「それに、お前のポリシーは、どうしたんだ」
ポ、ポリシー? 岡野に? 何の?
「やっぱり、岡野も先公に負けるつもりか」
「何言ってんだ。髪の毛の色ぐらいで、ポリシーもクソもあるか。日本人の髪の毛っていうのは、元々が黒いもんだ。それを、外国人みたいに金髪にするっていう方が……」と言いかけて、佐伯弟の不審そうな視線にぶつかった。
あれ。これは、まずかったかな。
「ごめん」とオレは言った。
「昨日、頭を打ったらしくて、今日のオレは、何か変なんだ」とオレは、慌てて言った。
「ほんとに変だよな」と佐伯弟。
「そうなんだ。何か頭がよくなったような気がするし」と言っておこう。
多分、普段は8点の岡野が、満点近い点を取ったら、それこそ驚天動地。
「打ち所がよかったのか、岡野」と佐伯弟は、外見に似合ったことを言った。
「羨ましいな。オレも、頭でも打ちたいよ」
佐伯弟は、自分の家の前まで来ると、喉元から服に手を突っ込んで、スルスルと紐を引っ張り上げると、鍵を取り出した。
絵に描いたような鍵っ子だ。まだ、いるんだ、こういうヤツ。
何となく、胸が踊るのは、つい、昨日だったか一昨日だったかに、変態のように忍び込んだ家に、今日は、堂々と入って行けるからだ。
あの時、床に散乱していたコートや背広は、もう無くなっていた。当たり前か。
階段を登って、あの時、テレビの音と笑い声の聞こえた部屋に入って行った。
多分、佐伯萌と同じ間取りの部屋なんだろうが、こっちの方は、割合綺麗に片づいている。
ゴミは、きちんとゴミ箱に入っていて、カップ麺の容器も瓶や缶も転がっていない。
「何食べる? カレーにする? スパゲティ?」と佐伯弟はカバンを置きながらたずねた。
カレー。スパゲティ。コイツ、料理ができるのか。
「カレーとスパゲティ」とオレは思わず、答えた。おなかがすいている。
小柄でバカのくせに、大食いなんだ、今のオレ、岡野は。
それに、自分の口で物を食べるという快感を、今朝思い出したばかりだ。
「じゃ、台所に行こうか」とまた階下に降りて、佐伯弟は、鍋に水を入れると、ガスの火をつけた。
レトルトのカレーと、冷凍のスパゲティの袋が登場した。
カレーの袋を鍋に放り込み、スパゲティの袋を破って、皿に盛り、ラップをかけて、電子レンジに入れた。インスタントな食品だが、慣れた手付きだ。
「待ってろよ」
ヒャロラロラーンというような音楽が鳴って、まずスパゲティが出来上がったようだ。
佐伯弟は、容器入りのごはんを温めている。
便利なもんだなあ、とオレは、ただひたすら感心していた。
ごはんとカレーも出来上がり、オレと佐伯弟は、ひたすら食べた。
オレの覚えている限り、我が家にインスタント食品が登場したことはなかった。
「うまいな、おいしいな」とオレは、感激しながら食べた。
「お前を見てたら」と佐伯弟は言った。
「もしかすると、オレの方が幸福かもしれないと思う」
へえ、とオレは思った。大食いでバカで弱くて金髪で不良の上に、不幸なのか、岡野は。
どうやら、最低のヤツの身体に入ってしまったみたいだ。
「今日も、泊まってっていいよ」と佐伯弟は言った。
「助かるよ」とオレは答えた。
実際、助かった。けど、岡野は、いつもここに泊めてもらっている?
「昨日と一昨日は、どうしてた?」
「ええと……」とオレは、返事に困った。
「何か知らない人に、泊めてもらった」実は、それは、オレなんだけど、幽体の。
「へえ、それはよかったな。寒かったから、ちょっと心配してたんだ」
心配しているヤツが、家でテレビ見て笑ってるか、と思ったけど、オレは何も言わなかった。
「お前、本気で黒染め入れる気?」
「う、うん」黒染め?
「親父の白髪染めがあるけど、使う?」
「うん」と言いながら、アイツ、髪を黒くしたら怒るかな、と考えていた。しかし、生まれた時からの黒い髪の毛を金色に染めてしまう神経は、どうしても理解できない。
妹の由紀子の友達なら、やっぱり金髪はまずい。オレが許さん。
「オレ、覚えてないんだけど、金髪って、どうやって染めるの?」とオレは、かねてからの疑問をぶつけてみた。
自分が金髪にしておいて、どうやって染めるの? もないもんだが。
「よっぽど、頭、強く打ったんだ。もしかして、親父?」
「え!」親父?
「隠さなくても、知ってるよ」と佐伯弟が言った。
な、何を知っているんだ、佐伯弟。フツフツとわきあがる疑問を胸に抱えたまま、オレは、佐伯弟と一緒に、洗面所に行った。
「いっぱい買い置きがあるから、使ってもわからないと思う」と言って、『白髪染め』と書かれた容器を出してきた。
髪を染めようとは思っていたけれど、実際には、どうすればいいのかわからない。
「勝手に、髪に黒染め入れて、お前のお袋、怒らない?」と佐伯弟。
岡野の親父にお袋。オレには、何が何だかわからない。
「さあ」と答えるしかない。
「オレが、染めてもいい?」と佐伯弟。
「う、うん」とオレ。何てありがたい話だ。
「時々、親父の手伝ってやるから。アイツもバカだよな」
そう言われても、答えようがない。確かに、酔っぱらって、コートや服を脱ぎ散らしている姿は、賢い姿ではなかったが。
オレを椅子に座らせると、器用にクシを使って、佐伯弟は、丁寧に髪に白髪染めをつけていった。
「白髪が染まるんだから、脱色も染まると思うけど」
脱色って何? わからないことは、まあいい。
髪の毛が黒くなると、岡野の顔は、非常に平凡に見えた。どこにでもいる中坊だ。金髪にする気持ちもわからないではないな。
「オレの服を貸してやるから、シャンプーするついでに、風呂に入ったら?」と佐伯弟が言った。
風呂。もう何年も入っていない。
風呂。オレは、風呂嫌いだったけれど、久し振りに風呂に入るのもいいな。
自分の手で、自分の身体を洗う……いいだろうなあ。と思いながら、オレの身体ではなく、岡野の身体か、と思うと、ちょっとガッカリした。
ま、借りている身体だ。綺麗に洗って、返してやろう。
「オレ、風呂ためるから、漫画でも見て、待ってて」と佐伯弟。
何だって、コイツは、こんなに、岡野に尽くすんだろうか、とオレは疑問に思った。
友達だから?
そう思った時、オレ、実際の柏木透には、記憶にある限り、そういうことをしてやった覚えも、してもらったこともないことに気がついた。
オレは、どうやって生きていたのだろう。
机に向かって問題集をやって、塾に行って、家庭教師が来て、テストで毎回満点を取って……
それから?
それから、どうなったんだろう。
フと気がつくと、寝たきりになっていた。
……まったく、何て、人生だ。
佐伯弟に『不幸』だと言われている、バカ岡野の方が、よっぽどマシだ。
「二回ぐらいシャンプーして流した方がいいよ。ちゃんと身体も洗えよ。着替えは、出しておくから」
「うん……」と言って、風呂場に入った。
オレは、自分で食事の用意をしたことも、風呂をためたこともない。
裸になると、身体のあちこちに、青ずんだところや、傷の跡があった。腕に点々とついているのは、もしかすると、煙草でも押しつけた跡?
佐伯弟が言ってたように、岡野は、親父にやられている?
ただただ迷惑なヤツだと思っていた、岡野が、急に不憫に思えた。
脚だけは、多少筋肉がついているけれど、全体に痩せこけた貧弱な身体だ。
言われた通りに、シャンプーすると、黒い液体が流れ出した。二回洗うと、黒い液体の色が薄くなってくる。
風呂場の鏡で頭を見る。染めた色が全部流れてしまったような気がしたからだが、まだ黒かった。
それから、丁寧に身体を洗って、風呂場の床についた黒い色を、掃除用と思えるブラシで落とした。
お湯の温度は、ちょっと熱かったが、中に入ってしばらくすると、ちょうどよくなってきた。とてつもなく、いい気持ちだ。
何だか、これも全部、寝ているオレが見ている夢みたいな気がしてくる。
風呂の夢は、天国の夢だ。
頭と身体を拭いて、汚れたタオルを洗って、風呂場の床に湯を流すと、オレは浴槽の蓋を閉めた。
他人の家で風呂を使ったんだから、オレなりに気を使っているつもりだ。家で、そんなことをしたことはない。
風呂から上がると、新品の下着と清潔そうな着替えが置いてあった。何かがプーンと臭うと思ったら、自分が脱いだ衣服だった。
家の外をさまよい歩いていたんだから、風呂に入ることも、服を着替えることもなかったんだ、あの岡野は。
浴室のドアを開けると、台所のテーブルで、佐伯弟が漫画を読んでいた。
「お先」とオレは言った。「すっごい気持ちよかった」
「うん」と佐伯弟は言った。「部屋、行こうか」
「お前、風呂は?」
「今はいいよ。何かメンドくさいから」
何か、オレはジーンとした。ということは、オレだけのために、風呂の用意をしてくれたってことか。
「あ、あ、ありがとう」と照れて言った。
「何言ってんの」
そんなこと、当然じゃないか、という立派な態度だ。小柄で眼鏡のガリ勉野郎、と第一印象で思ったことを反省した。
「オレ、勉強するけど、岡野、ゲームしてていいよ」と佐伯弟。「今度のテストで、オレの小遣いが決まるから」
「オレも勉強する」とオレは言った。
もう少しで、「勉強を教えてやる」と言ってしまうところだった。内心、教えてやるつもりだったが。
中学校で習うことぐらいは、小学校のうちにすませてしまったオレだ。
その時、中学受験をするはずだったことを思い出したが、その辺りの記憶がない。
「岡野、本当に、頭、大丈夫か?」と佐伯弟が心配そうに言った。
「オレ、頭打って、超能力者になったかもしれない。今日のテストの答えも何となくわかったし」と言っておいた。いい点数の伏線、伏線。
しかし、トロトロと古典の教科書を丸暗記しようとしている佐伯弟を見ていると、段々とイライラしてきた。
「ノート一冊貸して」とオレは言った。そして、教科書と佐伯弟の取った授業ノートをにらむと、要点だけをノートにまとめていった。
最重要項目には花マークを、それ以外には、◎と○と△の印をつけた。
「この順番に覚えたらいいよ」と言いながら、効果的な覚え方も、ついでに指南した。
「岡野、お前、凄いよ。よっぽどいい頭の打ち方したんだな」と佐伯弟。
彼がブツブツと言いながら覚えている横で、オレは、腹筋と腕立てをした。何とか、岡野の筋肉を鍛えておいてやろう。
一番大事な足腰は強いみたいだから、後は、腕と腹の筋肉がつけばいい。
今日、オレにからもうとした高橋を仮想敵に見立てて、ちょっとボクシングの真似事をしてみる。ついでに、空手の真似も。
身体は柔らかいようだ。リーチは延びる。
足腰が安定しているから、多少、腕の力がなくても、パンチに威力は出る。最悪、強い脚で蹴りを入れればいい。
実際に喧嘩をしたことはなかったが、親父が格闘技好きだったので、ごく小さいうちから形だけは教えてもらっていた。
そうだ。親父は格闘技好きだった……はずだ。あんまり鮮明な記憶は無いが。
多分、岡野の問題点は、すぐに脅えてしまうことだろう。
ま、あれだけ親父だか誰にだか知らないが、痛めつけられていれば、脅えるのも無理はないかもしれないが。
身体を動かすのに飽きると、佐伯弟のノート作りと、暗記するのを手伝った。身体を動かすのと、勉強するのを交互にやると能率が上がる。
佐伯弟にも、合間に腹筋と腕立てをさせた。
「今日のお前、完璧に変だよ」とブルブルと腕を震わせて腕立てをしながら、佐伯弟が言った。「ちょっと別人入ってるよ」
「そうかもね」とオレは言った。完璧に別人が入ってるんだから、仕方がない。
途中で、また、一緒に、冷凍のピラフとインスタントラーメンを食べた。
「明日があるさ」と言って、佐伯弟は、ノートをバタンと閉じて、テレビをつけた。
オレは、テレビは見飽きている。と言うか、聞き飽きている。暇さえあれば、春江がテレビを見ていたからだ。
「オレ、ちょっと、コンビニに行ってくる」と零時を回った時、オレは、言った。
「ほら」と佐伯弟は、千円札をオレに渡そうとした。
「いいよ」とオレは遠慮した。今朝の残りが、まだポケットに入っている。
「パチるなよ、絶対」と佐伯弟。
それで、万引きのことを言ってるんだ、とわかった。何てヤツだ、岡野!
「立ち読みだけ」と先刻の会話を思い出して言った。
「いい色になったな」と言われて鏡を見たが、髪の毛は黒いままだ。何となく、ところどころが茶色くなっている。これを、いい色というんだろうか。
佐伯弟の部屋を出た時に、姉の佐伯萌とぶつかりそうになった。また、コートを着ている。コンビニに行くのだろうか。
「こんばんは」と言ってみたが、完全に無視された。
「岡野、岡野」と佐伯弟が小声で言った。
「帰る前に、電話入れて」と携帯番号を書いた紙とテレカを渡された。
「鍵開けるから」
「ああ、ありがとう」
佐伯弟は、玄関まで見送りに来た。
「絶対に戻って来いよ」
「うん」
しかし、コンビニよりも行くところがあった。自分の家だ。今日のテストの成果を岡野に報告しないといけないだろう。
が、自分の家の門の前で、ハタと困った。
幽体の時は大丈夫だが、生身の身体で高いところに登るのは怖い。確かに、岡野は平気で登っていたようだが、オレは怖い。身体は岡野だが、心はオレだ。
多分、とオレは思った。母親は、ドアフォンには答えない。春江もだ。それに、二人共、もうとっくに寝ている時間だ。
だから、ドアフォンに出るのは、妹の由紀子だ。
自分の家なのに、身体が岡野のせいか、変に胸がドキドキする。
ピンポーン、とドアフォンが運命の音のように聞こえた。由紀子も、もう寝ているのかもしれない。
「はい」としかし、由紀子の声がした。
「岡野ですけど」とオレは言った。
「由紀子、オレ」と言いたかったんだが、本当は。
「岡野君?」と由紀子の声は、当然、不審そうだ。
「ちょっと話があって」と言ってみた。
「もう遅いから、明日にしてくれる?」
岡野としてのオレは、内心困りながら、兄としては安心してもいる。複雑な心境だ。
「ちょっと、お兄さんに伝えて欲しいことがあって」と言ってみる。
「お兄ちゃんに?」と由紀子の声は、ますます不審そうになる。
その時、半分身体の透けた幽体の岡野が、目の前で手を振っているのが見えた。ドアフォンの音で、出てきたらしい。
「ごめん。明日にする」と由紀子に言ったとたん、ドアが開いた。
「何なの、一体」と由紀子が怒った顔をしている。
「全部うまくいった、と伝えて欲しかったんだけど」とオレは言った。
『やった』と幽体の岡野が喜んでいる。
「つまり」とオレは、三倍速ぐらいで考えながら言った。
「昨日、夢の中に、君のお兄さんが現れて、テストの答えを教えてくれたんだ」
夢は嘘だけど、半分は本当のことだ。
「それで、今日のテストがうまくいったから、お礼を言いたいと思って」
「お兄ちゃんが?」と妹。当然の反応だろうが、すごく疑り深い顔をしている。
「うん。じゃ。夜遅くにごめん」とオレ。
ドアを閉めかけた妹が、もう一度ドアを開けて言った。
「髪、似合ってるよ」と。
幽体の岡野は、ジロジロとオレの髪の毛を見ている。
『勝手なこと、するなよ』
「ポリシーには反するけど、似合ってるってさ」と言うと、岡野は、困ったような顔をした。怒ったらいいのか、喜んだらいいのかわからないという顔だ。
「今日は、佐伯のところに泊めてもらう」とオレは宣言した。「テストは、まかせておけ」
『うん』と岡野は素直だ。『オレは、生まれて初めて、ゆっくり寝られた』
「よかったな」とオレは言った。
「そうそう。佐伯の家で、風呂に入れてもらった」
何となく、岡野が動揺している。身体の傷を見られたくなかった?
「お前の身体だから、大事にするよ」とオレは言った。
『じゃ』
「じゃ」とオレと岡野は別れた。
岡野の幽体が、門から屋根に登って行くのを見送って、オレは、佐伯弟の待っている家に戻ることにした。
途中で、コンビニの中をのぞくと、佐伯萌が、カップ麺とかジュースや雑誌を買っているところだった。
オレは、佐伯の家に走った。佐伯は、玄関のドアの前で、寒そうにして待っていた。
「遅いよ、岡野」
「悪い、悪い」とオレは言った。
家の中に入ると、コートと背広や靴下が脱ぎ捨ててあり、アルコールの匂いがプーン、としていた。きっと、父親が帰って来たのだ。
佐伯が片づけるのを、オレも手伝った。片づけている途中で、ドアが開いて、コンビニの袋を両手に下げた、佐伯萌が帰ってきた。
「お邪魔しています」と挨拶してみたが、完璧に無視だ。そのまま、二階に上がって行った。佐伯弟も中々苦労してるんだ、とオレは内心思っていた。
佐伯弟はベッドに寝て、オレは、その横に布団を敷いてもらって寝た。
佐伯のお母さんというのは、どこにいるんだろう、とオレは考えていた。ま、オレだって、自分のお袋には、何年も会ったことがなかった。オレが死んだとでも思わないと、姿も現さなかったわけだ。
「なあ、岡野」と寝たと思った佐伯が言った。
「柏木は、好きなヤツ、いるのかな」
一瞬、オレのことかと思ってドキッとしたが、妹のことだと思い直した。
「さあ」とオレは答えた。妹のことは、わからない。
「あいつって、ブラコン?」
「さあ」と言うしかない。オレの方が、シスコンかもしれない。
「あいつの兄さんって、超頭よかったんだろ? 小学校ん時、先生達が、いつも言ってたよな」
「そうか?」と何となく、照れくさい。
「けど、いくら勉強ができても、仕方無いよな」
「え?」
「頭が変になったんだろ?」
「いつ?」
「中学受験に失敗して」
受験に失敗? オレが? 頭が変になった? このオレが? 寝たきりだけじゃなく?
「けど、失敗しても成功しても、同じだよな」
「何で?」
「うちの姉貴は、試験に受かったけど、変になったから」
「え、どうして?」
「わかってんだろ。アイツが変なの」
「どこが?」まあ、何となくわかるけど。
「学校に行けなくなったんだ。身体中が震えて、行けなくなったんだ」
「そうか」そうだったのか、佐伯萌。
「オレは怖くて、見て見ないフリをしてた」
「……そうだろうな」
「お袋は、一生懸命に姉貴を何とかしようとした。折角入った学校だから、何とか行かそうとしたんだ。それで、姉貴は暴れた。お袋と親父は、毎日夫婦喧嘩だ」
「……大変だったんだな」
「オレは怖くて、テレビばかり見ていた。怖かったよ」
「それは、怖いよ」とオレは言った。それは、怖い。
「オレが、四年の時、お袋が家を出て行った。姉貴がお袋に暴力を振るうようになったからだけど、オレは、お袋が家を出てくれて、ホッとした。それから、一応平和になった。オレの知らないうちに、親父とお袋は離婚していて、それでも、オレはホッとした。平和が一番いい」
「大変だったんだな」とオレは言った。オレの寝たきり生活なんか、本当に平和なものだ。
「何で、お前にこんなこと話すのかわからないけど、お前にそんなこと言われたら、お終いだな」と佐伯弟は言った。
「そうかな」
「そうだよ」
何がそうなのか聞こうと思っているうちに、オレは眠ってしまったようだった。
夢の中で、オレは、佐伯弟に話を聞いている。
オレの両親は、人間じゃないという話だ。父親はキングコングで、母親はオランウータンだ。そんなアホな、と思いながら、オレは夢を見続けていた。
翌日は、お互いに、昼過ぎに目を覚ました。
今回は、冷凍のお好み焼きとタコヤキが登場する。
最初見た時は、ガチガチに物が詰まっていた冷凍庫の中が、かなり空いてきていた。
「オレ、買って返すよ」とオレは言った。金はある。幽体のオレでは使えない。
「いいって。どうせ、オレの金で買ったもんじゃないし。大人になって、オレがビンボーで、お前が金持ちになったら、何か奢ってくれよ」
「うん」とオレは言った。
岡野がビンボーなんだったら、ここで金を出してはマズイのかもしれない。
「オレ、絶対に金持ちになるよ」
岡野、がんばれ、絶対に金持ちになれ、とオレは思った。
「うん。なれよ」と佐伯弟が言った。
オレは、食事代というわけでもないが、前日同様、佐伯弟のために、要点整理と暗記するのを手伝った。
「お前、先公より、説明うまいよ」と佐伯弟。
「隠された才能だなあ」
そうかなあ、とオレは思った。今まで、妹以外のために、そういう能力を使ったことはなかった。
母親は、子供の嫌いな女だったから、オレは、妹に色々なことを教えてきた。妹に教えることが、生き甲斐だったのかもしれない。ああ、オレって、何という孤独な人間だ。
「これで、小遣い倍増計画は完璧だ。お前が、頭を打ったお蔭で、オレのこれ以後の生活は、格段に潤う」と佐伯弟が言った。
「親父が評価するのは、点数だけだからな。姉貴が優等生だった頃は、オレは、親父やお袋にとって、人間以下のカスみたいなもんだった……自分でも、オレは、バカでカスだと思ってたしな」
幼い頃から、自分は優等生で天才だと思っていたオレは、佐伯に対して、ちょっとした罪悪感を抱いた。
「テストが終わるまで泊まっていけよ。というより、泊まっていってください、岡野大先生」と佐伯弟が言った。
「うん。ありがとう」とオレは、岡野みたいに、素直に答えていた。