幽体散歩するこどもたち
Ⅰ
暗くも明るくもない空間の中、オレは、波間に浮かぶボートのように漂っていた。
あるかないかのオレの意識は、空気の中に溶けているようだった。
時折、意味のない映像が、あぶくのように浮かぶ。浮かんでは消える。
そういうことを繰り返しているうちに、映像は、徐々にハッキリした形になっていく。
これは、夢……なのだろうか。
遠くから、何かが近づいてきて、それが、オレの姿になった。
オレは、ボクサーのように、右に左にと軽いフットワークで動いている。
気がつくと、オレは、四角いリング上に立っていた。
なぜだか知らないが、オレは、無敵だ。オレには、何も怖いものなんかないんだ、どんな敵でもいい、誰でもいいからかかってこい、と思っている。
その時、突然、オレがいるのは、リングではなく、本当のリングは、ずっと離れたところにあるのがわかった。
本当のリングの上では、身体の大きな男が、抵抗もできないような女を殴っていた。
ダメだ、それは、ダメだ、とオレは叫ぼうとしているのに、オレの喉からは、かすれたヒューヒューという息しか漏れてこなかった。
オレは、強いんだ、そんな弱い女に構わずに、オレにかかってこい。
そう思っているうちに、オレの身体は空気が抜けていくように萎んでいき、その代わりでもないだろうが、実際のリング上で、男に殴られ続けていた女が、徐々に風船が膨らむように大きくなっていった。
ダメだ、それはダメだ! そんなことをしてはいけない!
そう思っている間に、どこからか、コチコチという音が聞こえてきた。
コッチコッチコッチ、という目覚まし時計の音が聞こえている。
「お兄ちゃん、おはよう」という声がした。
その声で、目が覚めた。
夢か……
『おはよう』と心の中で思う。妹の由紀子だ。
「今日は、すごくいい天気」
『本当だ』
太陽の光が、部屋の中に差し込んでいるのだろう。オレの周囲も明るい。
「さあさあ。お兄さんの邪魔はしないでね」という声がする。この声は、春江だ。
『邪魔をしているのは、お前だ』と思うが、どうしようもない。
母親の気配は、どこにも無い。
由紀子は、枯れた花を折り、花瓶の水を替える。そして、庭で摘んできた花を差す。
「そんなことしたって、無駄なのに」と春江は、鼻で笑う。
由紀子は、春江の声が聞こえないかのように、花の姿を整える。
部屋中に、新しい花の香りが広がる。
「じゃ、お兄ちゃん、行ってきます」
『行ってらっしゃい』と昔の母親のように、心の中で答えている。
「早く行かないと、遅刻だよ。忘れ物は無いね」と春江が、母親みたいに言う。
妹の姿が消えると、オレは、とたんに物体になる。オレは、春江にとっては、ただの物だ。移動させられ、身体を拭かれ、置いておかれる物体だ。
「早く、くたばっちまえばいいのに」と春江は言う。
「生きてたって、何のいいこともないだろうに」
オレだって、死んだ方がマシだ、と思う。思うけれども、自分ではどうしようもないんだ。
「ああ、いやだ、いやだ。毎日毎日、こんな病人の世話をして」
オレだって、お前に世話されるのは、イヤだ。
逃げ出すこともできず、聞きたくもない話を聞く身にもなってくれ。
もう、お前の人生を何十回も生きたような気がするぐらい、散々な愚痴を聞かされてきた。
最初の亭主は飲んだくれで、働く以上に飲んで飲んで飲みまくった。
二番目の亭主はギャンブル狂だ。自分に生命保険をかけてまで、ギャンブルに狂った。
三度目にようやく結婚した、おとなしくて真面目な男は、女を作って蒸発した。しかも、借金だけ残して。
「ああ、私は、男運が悪い」
相手の女運が悪かったんだよ。
お前みたいに愚痴ばかり言う女と暮らした男の身にもなってやれ。
それに、お前は、怠け者だ。
掃除は嫌いだ。片づけもできない。料理もしたくない。
オレみたいな病人の世話も大嫌いだが、他に何もできないし、したくない。
オレが、植物状態で、何も言えないのを、ありがたく思うがいい。
お前は、オレが死ぬまで、生活を保証されたわけだから。
口のきける病人なら、さっさとお前をお払い箱にするだろうが、お前にとって幸いなことに、オレは、不平を言おうにも言えない身だ。
母親は、お前にオレを押しつけて、ホッとしているんだろう。
結婚するよりも安泰な道を見つけたということを、早く悟った方がいい。
結婚相手は、お前にウンザリして、酒に逃げたりギャンブルに逃げたり、他の女に逃げたりできるけれど、残念なことに、オレには、選択の自由がない。
母親が気を変えない限り、毎日毎日、お前と顔を会わせないといけない。
身体が動かないように、意識も動かなければいいけれど、これだけは、自分の意志では、どうすることもできない。
いつの頃からか、眠っている時以外は、残念なことに、意識がある。
「ハッハッハア、それだけ男前でも、仕方がないねえ」という、お前の嘲笑や、物みたいに扱われる屈辱にも耐えなければならない。
暇にまかせて、お前に化粧されたり、抱きつかれたりすることにも耐えなければいけない。きつい口臭や、発作的な行為にも。オレに、逃げ場は無いのだ。
「お兄ちゃん、ただいま」と言って、妹が顔を出す。
『お帰り』とオレは、心の中で答える。妹の声を聞くと、オレは、手品のように、物から人に戻る。
妹は、癖のように、枯れた花を手でちぎる。その音を聞く度に、オレは、枯れた花なんだ、と思う。もう二度と咲くことはない。
夢だけが、オレにとっての唯一の楽しみかもしれない。夢の中では、オレは動き回り走り回ることができる。色々な物を見たり触ったりもできる。
空を飛ぶことだってできる。実際には行ったことのない、世界中を旅することもある。
そして、いつも、時計の音に夢を破られる。
コッチコッチコッチコッチ。
「お兄ちゃん、お誕生日おめでとう」と妹が言った。
目の前に、妹の手と、小さなケーキが現れた。小さなケーキには、ろうそくが立っている。
数えてみると、十七本。
生まれてから、もう十七年も経ったのか。一体、いつの間に?
去年の誕生日の記憶はない。去年も一昨年も、同じようなことがあったのだろうか。オレが、覚えていないだけで。
「また、無駄なことを」と春江が言った。
「食べられやしないのに」とオレの腕につながっている、点滴の管を振って見せた。それだけが、オレの栄養源だ。
「いいの」と由紀子は言った。
ケーキのろうそくに火をつけて、それをフウッと吹き消した。辺りに、ろうそくの芯の焼ける匂いが漂う。
「おめでとう」
『ありがとう』とオレは思う。
学校に行っていれば、今頃は高校生か。
「何もわかりゃしないのに」と春江。
由紀子の優しさなんか、お前には、永遠にわからないだろう、とオレは思う。
「春江さん、半分食べてね」と妹が言った。
こういう時、春江は文句を言わない。妹の姿が消えたとたん、ケーキにかぶりついている。
「あんたの分まで、食べてやるからね」と言って、春江はクックックと楽しそうに笑う。生クリームの甘い匂いが周囲に漂う。
「あんたにも、おすそわけ」と言って、春江は、オレの口の周りに、ねっとりした生クリームを塗った。
ウッとするような甘い香り。
思わず払いのけようとした瞬間に、手が動いた。
オレの手が、動いた!
やった! 信じられない話だ。
オレは、手で口の周りのクリームを取ろうとしたが、うまくいかない。手にクリームがついてこない。何度やっても、うまくいかない。
どうも変だ。
オレは、試しに起き上がってみた。
できる。
起き上がれた!
それから、奇妙な気分に襲われた。
恐々と後ろを振り返ってみると、ベッドに、点滴の管を腕に刺したオレが、まだ寝ている。
オレは、ベッドから降りて、しげしげと自分を見た。いつの間にか、顔つきが変わっている。
髪が長く延びているせいもあるのだろう。
前知っているオレよりも、眉毛が濃くなって顔が大人びている。背も知らない間に延びたようだ。
虚空を見つめているオレは、何となく、死体のように見えないでもない。
しかし、ベッドに横たわっているオレが、オレだとしたら、今こうして動いているオレは、一体誰なんだろう。
部屋の中の鏡のある場所まで移動してみた。
何も写っていない。
自分の手を見ると、ぼんやりと透けたようにではあるけれど、確かに見える。それなのに、鏡には写らないようだ。
「あ、いやだ、どうしよう」と春江が騒ぎだした。
必死になって、近くに置いてあるタオルで、オレの口の周りのクリームを拭いている。それから、口に耳を近づけている。
春江の顔色が変わった。心臓に手を当てている。
「あれ、本当に死んじまった。どうしよう」
早く身体に戻った方がよさそうだな、とオレは思った。オレは、仕方無く、自分の身体に戻った。
春江は、バタバタと部屋から走って行った。遠くの方で、ざわざわする物音が聞こえている。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」という妹の声が聞こえてきた。
妹は、部屋に入ってくるなり、ガバッとオレに抱きついた。それから、オレの呼吸を確かめている。耳を心臓に当てている。
「春江さんの嘘つき」と妹は言った。
「だって、確かに、息もしていなかったし、心臓も止まってたんだから」と春江が言った。
「本当に、人騒がせな」という声が聞こえていた。母親が、ゆっくりと、オレの部屋に入って来た。
オレは、頭を起こした。
母親の姿を見るのは、何年ぶりだろうか。以前知っていた母親よりも、老けている。老けた分、派手になったようだ。
髪の毛が赤茶色になっている上に、化粧も濃い。服の色も派手だ。オレの母親というよりは、水商売の女の人のように見える。
「由紀子、大丈夫ね」と母親は、オレの近くに寄ろうとはしない。
「うん。大丈夫」と妹。
「春江さん、今度から、よく確かめてからにしてね」と母親が冷たい声で言う。そして、そのまま、部屋から出て行ってしまった。
「お兄ちゃん、また、明日ね」と妹。妹も部屋から出て行った。
「おかしな話だ」と春江は、ブツブツ言っている。
「さっきは、確かに、死んでるように見えたんだけど」
そして、もう一度、オレの口に耳を近づけ、心臓に手を当てた。
ヒッ、という声を出して、春江は、後ずさった。
「やっぱり、死んでる……」
春江が近づいた時、オレは、反射的に、身体から抜け出していた。
「由紀子ちゃん、由紀子ちゃん」と、また春江は、バタバタと走って行った。
お袋だと怖いから、妹だけを呼ぶつもりらしい。
オレは、また、自分の身体に戻った。どうやら、身体から抜け出すと、呼吸と心臓が止まるみたいだ。
妹が、また部屋に入って来て、オレの呼吸と心臓を確かめた。
「ちゃんと動いてる」と妹は言った。
「あんた達がいなくなると、止まるんだから」と春江は、必死で訴えている。
「春江さん、お兄ちゃんに、ケーキを食べさせようとしたでしょ」とオレの口の周りの匂いを嗅ぎながら、妹が言い、春江がビクッとした。
「お兄ちゃんは、飲み込めないんだから、口からは食べられないのよ」
「そんなこと、あんたなんかに言われなくても、わかってるよ」
「ケーキが喉に詰まったりしたら、本当に、死んでしまうからね」と言って、妹は、春江をにらんでいた。
「わかってるったら」
「本当にわかっているわね! じゃ、お兄ちゃん、また来るからね。お休み」
『お休み』とオレは思った。
何となく、ぐったりと疲れていて、オレは、そのまま眠ってしまった。
早い時間から寝たせいか、夜中の三時過ぎに目が覚めた。
この時間になると、春江も、自分の部屋に戻って寝ている。早寝遅起きだ。
ちょっとやってみたいことがあった。
自分の身体から抜け出すと、呼吸と心臓が止まるらしい。どれぐらいの間、抜け出していて、大丈夫なのか、ということを知りたかった。
そう思った時に、こんな生活には終止符を打ちたい、と思っていた割には、生きることに自分が執着していることを知った。
やっぱり、完全に死にたくはないようだ。
死にたくなった時には、自分の枕元で、自分が死んでいくのを眺めているのもいいかもしれない。
自分の呼吸を確かめてみた。確かに、呼吸はしていないようだ。
心臓に耳を当てようとすると、スポッと自分の身体に埋まりそうになった。
今動いているオレというのは、本当に、何なんだろうか。
霊魂? 幽体? ただの意識体?
もう一度、鏡をのぞいてみる。やっぱり、何も写らない。
一階に降りて、以前体重計があったところまで行く。
体重計はあったけれど、覚えているのと違っている。オレが知らないうちに、買い替えたのだろう。
体重計に乗ってみる。目盛りは全然動かない。ということは、姿も見えなければ、体重もない状態なのだ。
妹の部屋に入ろうとするが、ドアノブが回せない。
仕方無く、また自分の部屋に戻って、自分の肉体を見てみる。
呼吸は止まったままだ。しかし、全然苦しそうでもない。
けれど、大事を取って、身体に戻っておくことにした。
身体に戻ったとたんに、ガックリとした疲労感がある。息がハアハアと早い。心臓が、ドクドクと脈打っている。
別に、この肉体を動かしたわけでもないのに、わけのわからない話だ。
オレは、色々なことを考えていた。
この肉体のないオレが運動をしたら、どうなるのだろうか。身体も鍛えることができるんだろうか。
鏡に写らないということは、透明人間と同じで、誰にも知られずに、どこにでも無料で行けるということか。
誰かとぶつかったら、どうなるのだろうか。通り抜けてしまうのだろうか。
じゃあ、壁なんかも通り抜けることができるんだろうか。
習慣的に、床を歩いていたりするが、もしかしたら、飛ぼうと思ったら、飛べるんだろうか……
色々考えながら、オレは、また眠ってしまったみたいだ。
夢の中でも、オレは、ブツブツと考え続けていた。
そのお蔭で、空を飛んでいる途中で、急降下して、どこまでも落ちていく夢を見た。
落ちていきながら、今のオレは幽体なんだから、地面に落ちても大丈夫だ、とまだブツブツと考え続けていた。
その翌日から、春江がオレの身体を拭く時とか、オレの身体に触る時なんかには、身体から抜けておくことにした。
「ああ、イヤだ、イヤだ。絶対に、死んでるんだから」と春江はブツブツ文句を言っているが、もう誰にも知らせるつもりはないようだった。
しばらく身体を抜けて、歩き回っていると、五分ぐらいで、フッと意識が消えそうになる。何となく、やばい感じがして、その時は、身体に戻る。
やはり身体に戻った後は、息が荒くなり、心臓はドキドキする。ガクッと疲れるのも、身体を抜け出した後の特徴だ。
しかし、これはまだ、身体を抜け出すことに慣れていないせいかもしれない。
その証拠に、何日か経つうちに、フッと意識が消えそうになるのが、十分になり、十五分、二十分になっていった。
また、呼吸が苦しくなったり、心臓がドキドキするのも、徐々に軽快していくように思える。
疲労感も、最初の時ほど感じなくなってきた。身体が慣れてきたのだろう。
それと、もう一つ面白い発見があった。
肉体のない状態で動いていることが、肉体に戻った時に、身についている。つまり、こういう状態でも、身体を鍛えることができるようだ。
何年間だかの寝たきり生活の間にスッカリ落ちていた筋肉が、脚につきだした。それでは、というわけでもないが、腹筋と腕立てふせをすることにした。
これも、最初は、身体に戻った時に、身体中の筋や筋肉が痙攣したりしたが、続けていくうちに慣れてきて、身体は寝たきりのまま、腹筋や背筋、腕や脚の筋肉がついてくる。
春江が、不思議そうに、身体に触るのが、不愉快だが、まあ、その時は、身体から抜けていれば、不快な触感を味あわないですむ。
幽体離脱をする時には、頭の頂上から細い糸が出ていて、それが肉体と幽体を結んでいて、それが切れると死ぬ、というような話を、以前何かで読んだ覚えがあるが、別に、頭からそういう糸が出ている気配はない。それとも、目には見えない糸なんだろうか。
一ヵ月も経つうちには、身体から一時間ぐらい抜けていても大丈夫になっていた。まあ、何事も訓練次第ということだろう。
ずっと寝たきりで身体がなまっている、という気分が強いので、一応の基礎体力ができた時点で、オレは、走ることにした。
最初は、一分ぐらいから始め、徐々に時間を延ばして行き、毎日十分は、部屋の中を走る。
二ヵ月が過ぎる頃には、家から外にも出て行きたくなった。
正直に言うと、不安もあったし、怖くもあった。
春江は、オレの部屋の窓を、いつも三分の一ぐらい開けたままにしている。
「病人は臭いから」というのが、理由のようだ。
しかし、そのお蔭で、窓から出入りできる。幽体のせいか、高いところも怖くない。
最初は、庭に出るだけでグズグズしていたのだが、恐る恐る、家の外に一歩を踏み出して散歩を始め、そのうち、家の周囲を走るようになった。
春江は、もう心臓が止まっていようが、呼吸をしていなかろうが、何も言わなくなっていた。
「どうせ、死んだような人生だから、死んでたって一緒だね」と春江は言う。
春江というのは、多分、母の親戚か何かだったと思う。
オレが、小学六年生になった頃、我が家にやってきた。何でもいいから仕事をさせてくれ、と母親に頼み込んだらしい。
母親は、子供の世話の嫌いな人間だったし、それまでいたお手伝いの婆さんが高齢で辞めた直後でもあったので、それ以来、春江にオレと妹の世話をまかせるようになった。
我が家は、四人家族にしては、広すぎる家で、一階に台所とリビング、風呂トイレ、母親と父親の寝室、客用寝室が三部屋ある。二階にも風呂トイレ、オレと妹の個室、客用寝室が三部屋ある。
オレが覚えている限りでは、春江は一階の部屋を使っていたが、寝たきり状態になって意識が戻った時には、どうやら、オレの隣にある、客用寝室に移っているようだ。
知らない間に、春江は、オレ専用の看護人兼お手伝いさんのような形になっていた。
オレの意識は、ゆっくり、ぼんやりと戻っていったので、記憶の方も、ハッキリした形をしてはいなかった。
しかし、幽体として動けるようになって以来、時々、時計やカレンダーを見るせいか、記憶もかなりシッカリしてきたようだ。
カレンダーは、十二月になっていた。
今では、春江の愚痴を聞くこともなくなったし、春江に物扱いされても、身体から抜けていられるので、以前ほどのやり切れなさはない。
この肉体から抜け出した状態では、暑さや寒さは感じない。だから、別に裸で外に出て行ったっていいようなものだが、習慣なのか、身体にはりついているのか、意識がそうなっているのか、寝ている時のパジャマを着たままだ。
他の服に着替えようと思っても、シャツもパンツも、オレの手を素通りしてしまうんだから、仕方がない。
ある時、これがもし意識の問題だとしたら、自分の気にいった服を着ていると思えばそうなるのではないか、と考えてみた。
そして、ジャージの上下を着ているところだとか、スーツ姿を思い描いたが、どうも、パジャマ姿が身に染み付いているのか、幽体になった時も、寝ている時のパジャマ姿に変化はなかった。
ま、誰からも見えないのなら、別にパジャマ姿でも構わないのだが。
三十分ほど家の周囲を回って帰ってきてから、自分の身体のすぐそばで、腹筋と腕立てをする。自分の身体のそばでするのは、やはり、どこかで、時間切れになって、本当にお陀仏になってしまうのが、心配だからだ。危なくなれば、すぐに身体に戻れるように、身体のそばで運動をするのだ。
もしかすると、飛べるんではないか、浮かぶんではないか、と思ったけれど、それは無理みたいだった。
空を飛ぶのは、夢の中の仕事にしておこう。
毎日、家の周囲を走ったり歩いたりしていると、小学校時代の同級生に出会うことがあった。
思わず、『やあ』と声をかけたが、当然、オレの声は聞こえないし、姿も見えないようだ。相手は、そのまま知らん顔をして通り過ぎた。
まあ、透明人間なんだから、仕方がない。
それから、小学校時代、可愛いなあ、と思いながら、全然話をしたことのなかった女の子の家をのぞくようになった。
これじゃあ、変態だろう、と思ったけれど、ま、いないも同然のオレだから、いいか、と自分を納得させた。
しかし、彼女の姿は見えない。学校に行く時刻にも家から出て来ないし、学校から帰る時刻にも帰ってこない。
そうこうするうちに、心配になってきた。もしかすると、オレと同じような状態になって寝ている?
まさか。
オレのいる時間帯が、彼女の登下校の時間とずれているのだろう。クラブにでも入っていれば……と思ってから、そうか、もう高校生なんだ、ということを思い出した。
どこか遠くの私立にでも通っているのかもしれない。下宿でもしているのかもしれない。
中学で一緒だったかどうかは、記憶にない。中学受験だったのだろうか。
オレも、中学受験をしたのだろうか。
そう思った時、中学校入学前後の記憶がないことに気がついた。
それと同時に、なぜ自分がずっと寝たきりでいるのかの、記憶もない。
急な病気で倒れたから記憶がないのだろうか。
事故に会った? それとも、寝たきりで日々を過ごしているうちに、その辺りの記憶がどこかに行ってしまったんだろうか。
春江の愚痴で頭がいっぱいになってしまって、自分自身の記憶を押し出してしまったんだろうか。
あ、自分の身体に戻る時間だ、とオレは気がついた。
過去の記憶どころか、今の意識が薄れそうになっていた。
こんなところで意識が途絶えてしまったら、確実に死ぬだろう。
オレは走った。全速力で。そして、頭からジャンプするような形で、自分の身体に飛び込んだ。
息が切れるかと思ったら、身体がどこまでも下降していくような感覚が襲ってきて、そのまま意識が途絶えた。
このままあの世行きか? と意識が消える前に思った。
とうとう、話には聞いていた、暗いトンネルを、一人でとぼとぼと歩いていた。
滑り込みアウトだったか。
これは、死ぬ人が必ず通るという、あの世へのトンネルってわけだ。
ところが、話に聞いていた、明るい出口が全然見えない。いつまで歩いていても、暗いトンネルのままだ。
オレは、天国行きじゃないのか。
地獄行き?
それとも、永遠に暗いトンネルを歩き続けるだけ?
コッチコッチコッチ、という時計の音が聞こえてきた。
朝の光が差し込んでいた。
あの世の光かと思ったが、どうやら、いつもの自分の部屋だ。
本当に、あの世に行きかけていたんだろうか。
それとも、全部、ただの夢だった?
何てひどい夢を見せるんだ、とオレは、夢の神様に腹を立てた。
「おかしいな」という声が聞こえていた。
オレは、ギョッとして、身体から抜け出しそうになった。
「腕や脚を動かしてあげてるんですか?」
白衣が見えたから、多分、医者なんだろう。いつもの年寄りの院長先生とは違う。
それなのに、オレの腕や脚を気安く触っている。
「ええ、まあ」と春江が、ドギマギしている。
言えよ、とオレは、思う。オレをおもちゃにして遊んでいるって、言えよ。
「それは、いいことですね」と医者は言った。
「意識が戻る可能性が、全然無いわけじゃないですからね」
「はあ……」と春江の顔が赤い。
オレは、上半身だけ身体から抜けて、医者の顔を見た。
ハハーン。まあまあのルックスだ。年齢は、春江よりも何才か若い?
少なくとも、いつも来ていた爺さんの先生ではない。
「あのう、院長先生は?」と春江が尋ねている。
「ああ、父も、もう年ですから、これからは、時々私が来ます」と医者が言い、春江の顔がパアッと明るくなった。
何となく、不愉快な光景だ。
看護師を残して、医者が帰って行くと、春江がバタバタと後を追って行った。
オレは、身体から抜けて、看護師の仕事をジロジロと眺めていたが、看護師は、オレの呼吸と心臓が止まっているのには、気がつかないようだった。
アホらしくなって、おとなしく身体に戻った。
夜が更けてから、いつものように、彼女の家をのぞきに行った。佐伯という表札を見て、確か、佐伯萌という名前だった、とようやく思い出した。
登下校の時間がダメだったので、安心して肉体を抜けていられる、夜更けに行くようになったのだ。
玄関の横から、庭から、ベランダからと、家の中をのぞく。
オレというのは、誰にも知られなかったら、こういうことをする変態だったのだ。
また諦めて帰ろうとすると、誰かの足音がした。
佐伯萌のお父さんだろうか。中年のおじさんが、ガチャガチャと鍵を開けている。オレは、お父さんの背後に忍び寄って、重なるようにして、家の中に入った。
『お邪魔します』とオレは言った。当然、誰も答えない。
家の中は暗かった。
お父さんは電気をつけて、コップに水道の水を入れて飲むと、コートを脱いだ。
おいおい、とオレは思った。
脱いだコートを床に落とすと、背広とズボンを歩きながら脱いでいる。そして、そのまま、布団に倒れこむようにして寝てしまったようだ。
もしかして、酔っている?
お父さんをそのままにして、オレは、階段を登って行った。
一体、オレは、何をしているんだ?
まあ、とにかく、初めて、彼女の家の中に入れたんだ。
二階の部屋の一つからは、明かりが漏れていて、テレビの音が聞こえている。
もしかすると、この部屋か? と思ったとたん、ギャハハハ、という男の笑い声が聞こえてきた。
違う。彼女の兄貴か弟だろう。
その時、ガチャッと目の前のドアが開いて、女の子が出てきた。
オレは、ギョッとした。
確かに、彼女の面影があるが、小学校時代ショートだった髪の毛が物凄く長くなっていて、腰の辺りまである。それも、長い間とかしたことがないような様子に、もつれている。
いつも可愛い服装をしていたはずだったが、今は、よれよれになったパジャマを着ている。
まあ、オレもパジャマ姿だから、相手のことをとやかく言う資格はないが。しかし、あの可愛かった子が、こうなるか?
多分、トイレに起きてきたのだろう。
彼女には、オレの姿が見えないはずなのに、彼女がトイレに入るまで、オレは息を殺していた。
ジャーという水洗の音がして、彼女が出てきた。
何だか、自分がとてつもない変態になってしまったような気がする。
彼女が、自分の部屋に入る時、お父さんの時と同じ要領で、重なるようにして、部屋の中に入った。
ウワッ、とオレは思った。
キッタネエ部屋。
あちこちに、まだ汁の残っているカップ麺の空き容器が散乱している。空き缶や空き瓶も転がっている。
布団は、どうやら万年床のようだ。
見なくてもいいのに、布団の周囲に抜けた髪の毛が渦を巻いているのを見てしまった。
早く、家に帰りたい、と思った時、ドアノブを回せないオレは、どうやって、ここから出たらいいのか、と内心パニック状態に陥った。
下手したら、明日の朝、ベッドで死んでいるのが発見される……
そう思っているオレの目の前で、彼女がパジャマを脱ぎ始めた。
ちょ、ちょっと待ってくれ。
もう少し余裕がある時ならいいけれど、今は、見たくない。
オレは、反対側を向いて、ハアハア言っていた。肉体的な運動では息が切れないのに、精神的な動揺では息が上がるようだ。
服を着替えた彼女が、ドアの所に行ったので、オレも慌てて、ドアまで走った。
うわ、汁の入った容器に足が……と思ったが、容器はそのままだった。
また、彼女に重なるようにして、部屋の外に出た。
コートを着ているので、外に出るつもりらしい。
何はともあれ、助かった。これで、死体で発見される確率は減った。
玄関のドアを開ける時に、一緒に外に出られて、ホッと一息ついた。
身体を抜けてから、どれだけ時間が経ったのだろう。
彼女がコンビニに入って行くのに着いて行って、時計を見ると、四十分を経過している。そろそろ戻った方がよさそうだ。というより、戻らないとやばい。
コンビニを出て走ろうとしたとたんに、「ねえ」という声が聞こえて、ギョッとした。
声の方を振り向くと、髪の毛を金髪にした中学生ぐらいの少年が立っている。
オレは、自分の後ろを振り返ってみたが、オレ以外には誰もいない。
どうしたものか、とオレは慌てた。オレの姿が見えるのだろうか。
「あんたって、身体が透けてるけど、霊か何か?」
何という、単刀直入な質問だ。
『オレが見えるの?』
「うん」
『へえ……』と何と言えばいいのかわからない。
「あんたって、死んでるの?」
『……うーん。それに近いかな……』なんて言っている場合ではない。そうだ、早く帰らないと、と思い出した。
『じゃ』と言って、全力疾走で走り始めたが、相手も走って着いて来る。
参ったな。
「ここ、あんたの家?」とハアハア、と門の前で息を切らせている。
「あんた、柏木の兄貴かなんか?」
『君は?』
「オレ? 柏木の同級生」
『フーン』とオレは、ジロジロと相手を見た。
金髪。
真夜中のコンビニ。
不良だ。
「あんた、佐伯の姉貴の後についてきたろ」
ギクッとした。イヤな野郎だ。
『オレは、家に帰るんだから、お前も、自分の家に帰ったら?』
「帰れねんだよ」
そう言うと、少年は、下を向いて、靴の先で、地面を蹴った。
何で? と尋ねようとしたけれど、オレには関係ない。
それよりも、早く身体に戻らないと。
オレは、相手を無視して、塀の上に登り、窓の隙間から自分の部屋に入った。
自分の身体に戻ろうとした時、また、「ねえ」という声がして、ギョッとした。
あの少年が、オレの部屋の中に入って、オレの横で、オレの肉体を見ている。
「あんた、死んでんじゃん」
『まだだよ』と言うと、オレは、自分の肉体に戻った。
そのとたん、オレは、いつもよりも、ハアハアと息が切れ、心臓が激しく脈打った。
「ただの幽体離脱か」と少年は、こともなげに言った。
オレは、ガックリと疲れているので、すぐにも眠ってしまいたかった。
少年は、ガサガサと布団を出してきて、チャッカリ、オレのパジャマに着替えていた。
「お休み」と少年が言ったとたん、オレは、眠りに落ちた。