1-4."トイレちゃん"・土肥玲花
「土肥、土肥!」
俺はトイレのドアを跳ね飛ばすようにこじ開けて、女子側へと迷うことなく飛び込む。
女子側という言い方をしたのは、うちの小学校のトイレは、同じドアから入る空間を薄いプラスチック一枚で女子と男子に分けただけの造りになっているからだ。
だから、普通に女子が個室に入るところまで見れるし、女子側に侵入しようと思えば一瞬だ。なんなら、男子側の最奥にある個室の壁を登れば、隣接する女子トイレの中がいくつか見えたりもする。
三年生くらいの頃に、女子がトイレしてる時に壁を登って覗くのが、お調子者の男子の中で流行ってたなんてこともあったような気がする。俺は流石にやらなかったけど。今考えると物凄く問題なやつである。
この階は人通りが少なくて利用者も滅多にいないはずだけれども、トイレの中には特有のアンモニア臭がむんと漂っていた。そのツンとした香りが、この時代の小学校らしいと妙な懐かしみを感じさせてくる。
トイレの女子側はどこもドアが閉まってなくて、手前から一つずつ確認していく。
「ひぐっ、うっ、ひぐっ」
真ん中くらいまで確認したところで、一番奥から微かに泣き声が聞こえてきて、俺はそこへ駆け込んだ。
「土肥!」
「いっえっ、……寄木くん?」
「大丈夫か!?」
「あ、うん。大丈夫……」
「全然戻ってこないから心配したんだ、よかった」
「ごめんね……ありがとう」
本当に良かった、土肥が死んでいなくて。
俺はほっと一息をつく。土肥は和式トイレの個室の中で、壁に背中をもたれてぼーっと俯いていた。
普通に生きてた……無事で良かった。体中に安堵が走る。よかった、本当に……。
しかし、土肥の目はほんのりと赤くなっていて、頬にも涙の流れた筋があって、泣いていたというのがありありとわかる。そりゃそうだよなあ、同級生の前でお漏らしをしちゃったんだもん。俺は気にしてないけど、本人は嫌に決まってるよな。ショックだったよなあ。
土肥を励まそうと、何か言葉を掛けようとした瞬間に、俺は気づいた。ここ、女子トイレじゃん!
女子トイレにいることを誰かに見られると、マズイことになるのは明白だ。急いでここから出なければ。
「土肥、俺一旦外で待ってるからっ」
そう言い残して、俺は女子トイレの個室を出ようとする。
しかし、俺は足を進めることができなかった。土肥が後ろから俺に抱きついてきたからだ。
「えっ、あっ?と、土肥!?」
「足が……足ががくがくして……」
「……ほんとだ」
いわれてみると、土肥の足は生まれての子鹿という比喩がぴったりという趣で、細く痙攣するように震えていた。
緊張やらストレスが原因だろうか、もしくは単に痺れたのか。ともかく時間が経てば収まるとは思うが、すぐにというわけにはいかなさそうだ。
しかし、だからトイレから全然出てこなかったのか。
「わたし、トイレ入った瞬間に変な感じになっちゃって、立つのも……」
「んで、壁にもたれてたんだ」
「そうなの……それで、寄木くんについていこうと思ったら、バランスを崩しちゃって……」
で俺のお腹に腕を回してきた、と。そりゃ仕方ないな。
土肥はまだバランスが安定しないのか、背中に体重をかけてきていて、寄りかかられてる俺も微妙に立つのが難しい。
「ふぅ……」
不意に耳に土肥の吐息がかかった。
自分のお腹に温かい手が触れているということに、今更気付いた。
腹の温かみ、優しい吐息、そして背中に感じる柔らかさ……。間近に女の子がいることを、嫌でも意識してしまう。
これが、女の子……。
なんだかトイレの刺激臭がどこかに消えていて、甘い匂いまでしてきたような気すらする。
「寄木くん?」
「お、おう」
明らかに自分の声が動揺に塗れていて、情けなくなってきた。心臓の動悸も明らかに早くなっている。ああ、女性慣れのなさがここで出てきたかぁ……。
しかし年齢イコール彼女無しとはいえ、まだ子供……小学校時代の同級生で同い年ではあるんだけどさ……に近寄られてこんなキョドってしまうなんて、我ながらダサくないか……。
動揺を悟られなくて、俺は反射的に密着状態だった土肥から体を離してしまう。
沈黙と緊張感が場を支配する。何か言わないと、と思うけれど言葉が浮かんでこない。
「やっぱ、気持ち悪いよね」
「……へ?」
「だってお漏らししたんだもんね、私。おしっこ女に密着されたら嫌だよね。ごめんね寄木くん」
そう言って、土肥は俺の腹に回していた手を外した。ドン、という音がして慌てて振り返ると、土肥はトイレの壁に背中を打ち付けて呻き声をあげていた。
目頭にはうっすら涙が浮かんでいる。
まだ足はしびれが取れないようで、土肥の背中は自分の体重を支えられずにそのままずりずりと落ちていく。このままだと、土肥はトイレの地面にべったりと座ることになってしまう。慌てて俺は支えるために手をのばした。
だが、土肥は切なげな表情になって、そんな俺を制す。
「無理に近寄らなくていいよ、ごめんね」
「あのなっ!」
頭で考えるより早く体が動いていた。右手を土肥の背中に回すと、左手を今にも崩れ落ちそうな膝裏に差し込んで持ち上げる。
つまりは……お姫様抱っこだ。
持ち上げる瞬間に「俺、支えられるかな?」と心配になったけど、杞憂だった。土肥の体が思ったより軽かったから。
「土肥が歩けないみたいだから、抱き上げるために体勢を変えたかったんだよ。気持ち悪いとか、思ってないから」
「よ、寄木くん……?」
「落ちないようにしっかり掴んどいて」
「う、うん」
土肥は恐る恐るといった様子で、俺の脇腹あたりの服をちょこんと摘んだ。
自分の前側に余分な重みがあるせいで、土肥が体を動かすたびに揺れてバランスが崩れるのがなんか怖い。
「土肥、ここ」
なので、腕をぶんぶんと振って場所を示し、そこを土肥にしっかり握ってもらうことにした。
横目で土肥を盗み見ると、なんだか俺の顔色を伺っているような気がする。そんな顔をさせてしまって……。
唐突に、自分に腹が立ってきた。
土肥を助けるつもりだったのに、俺は考えなしの態度で傷付けてしまった。自分のことをおしっこ女だなんて言わせてしまった。
漏らしたのだって、土肥が悪いわけじゃないのに。
今、土肥の目頭に浮かんでいる涙は、背中をぶつけた痛みでだけはなく、俺に拒絶されたためのものも含まれているだろう。
自分が情けなく、そして恥ずかしい。
考えを振り払うように、ドスドスと俺は土肥を抱えたまま歩き始める。
土肥が俺の腕をぎゅっと握りしめてきて、ちょっと痛い。けど、掴んでくれと頼んだのは俺なわけで、口には出さずに淡々と歩いていく。
トイレのドアは蹴って押し開いた。
「あ、寄木くん。待って、下ろして」
「教室に着いたらな」
土肥の呼びかけを無視して俺は階段を下っていく。多分姫様抱っこが恥ずかしいのだろうけれど、まだ歩ける状態ではないはずだ。大人しく運ばれてもらおう。
土肥はモジモジとまだ何か言っているが、おんぶよりはマシだと思うから我慢して欲しい。
冬の太陽が、垂れ込めた雲に遮られているせいで階段は薄暗い。見え辛い足元に気を配りながら、俺は慎重に階段を降りていった。
今日の23時に一話は完結です。
(3/7追記)タイトルを1-3から1-4に訂正しました。
友達に言われるまで一切気付いてなかったです、恥ずかしい。