1-2."トイレちゃん"・土肥玲花
放課後になった。俺は暁斗たちからの遊びの誘いを断って、一人で学校に残っていた。
そして、足音を立てないように気をつけながら校舎の中を徘徊している。
俺の通っていた……いや、通っている小学校は、各学年2クラス編成で全校生徒は400人に少し足りないくらいだ。
政令指定都市にしては少し小さめのサイズらしい。
小さめというのは誰かに聞いた話で、本当にそうなのかよくわかんないけどね。確かに、近所には千人くらい生徒がいる小学校がいくつもあったから、小さいと言われたら納得はできるけど。
とにかく、うちの学校はそんなに生徒の人数が多いわけではなく、人目につかない場所がちょこちょこあったりするわけである。
校舎のほうは典型的な小学校らしい白塗りのコンクリート建築で、四階建ての長方形の両端だけ階が一つ増えて五階があるという構造になっている。図示すると凹の字みたいな感じだ。
内装は全体的に古びてボロボロである。壁とか所々薄っすらとヒビが入ってるし、カビやサビが至る所で繁殖してる。照明も薄暗くて、さっきから天気が曇ってきたのと相まってどんよりとした雰囲気がある。まあでも、公立小学校なんてこんなもんだよな。トイレが汚いのはちょっと嫌だけど、まあ小学校の時はそれが普通で不満に思わなかったし、いずれ慣れるんじゃないかな。
そんなボロっちい校舎を歩き回って、かれこれ三十分ほどになるだろうか。放課後の校舎は静かなものだった。
時々クラブ活動をしている生徒の声が聞こえるくらいで、特に異変を感じられるものはない。
その平穏さにほっとしつつ三階から二階へと階段を下りながら、今日は帰ろうかと考え始めたときだった。
「や、やだっ」
上階の方から声が聞こえてきた。俺は音を立てないように注意しつつ、急いで階段を駆け上がる。
階段を上がるたびに聞こえる声音は大きくなっていく。ただ、廊下や階段のコンクリで無駄に反響しまくっているせいか、何を話しているのかはほとんど判別がつかない。
どうやらその声の出どころは、五階の資料室付近のようだった。
資料室の辺りは授業で使うこともないし、独立した五階ということで人通りがほとんど無いので、ガラの悪い生徒のたまり場、校則破りが行われる秘密の場所になっている。
まあ俺も前世では五年生の時にはここの常連で、携帯型ゲームで遊ぶと言う校則破りをしていたから、あまり人のことは言えないが。
五階に登りつめ、角からちらりと様子をうかがうと、そこでは昼休憩と同じように小野瀬のグループが土肥玲花を囲んでいた。囲む人数は昼間より減っていて、三人だけ。
土肥のランドセルだけが教室にあったので、昼休憩のこともあって何かされてるんじゃないかと見回ってたけど、ビンゴだったか。あんまり嬉しくないビンゴだった。
顔を俯かせた土肥は、股間に右手を当てて必死に何かを堪えるような顔をしている。
距離が縮まって、ようやく何を話しているのか聞き取れるようになってきた。
「ほら、トイレちゃん、今日もお漏らししていいんだよ?」
「おしっこずっと我慢してたもんね、ここでいっぱい出しなよ」
「無理しなくていいんだよ?」
「ト、トイレに行かせて!」
「ここですればいいじゃない、トイレちゃんはトイレなんだから」
「そーだよ。トイレちゃん。おちっこ、しーしーしようねー?」
「どいてぇ……どいてよぉ!」
「えっ、近付かないでよトイレちゃん!おしっこくさい!」
「つーかさ、どいてください、でしょ?」
「どいて、どいてくださいっ!」
「うーん、土下座してくれたらいいよ」
「わっ。涼子ひっどー」
「奈美が言う?それ?」
そこで繰り広げられていた会話はあまりに醜悪だった。
耳にするだけで気分が悪くなる粘着質な嘲りと、その合間合間からに挟まれるほとんど鳴き声に近い哀願。
同時に確信する。
土肥のお漏らしは、こいつらがトイレに行かせなかったからか。やっぱりな。
四年生になって立て続けに何度もお漏らしをするのは流石におかしいし、昼休憩の話しぶりでで疑いを持ってはいたけどさ……。
胃のあたりに不快感が重なっていく。
「じゃあトイレちゃんが漏らしたら、奈美が先生呼んできてね」
「うん。前回はわたしらしか見てなかったから、トイレちゃんが漏らしたのあんまり信じられてなかったしね。みんなに見てもらわないと」
「ふふっ、普通小4で漏らさないからね。大声を出したらみんな集まってくるかな?」
「トイレちゃんもさ、お漏らし見てもらえると嬉しいよね?」
「うける。トイレちゃんなら喜んでおしっこしてくれるって」
あまりの下劣さに俺は吐き気すらしてきた。人を晒し者にして辱める話を楽しそうに行っているこいつらが本当に理解できなくて、胃がキリキリとしてくる。
同時に小野瀬たちの発言で気付く。
そういえば、土肥を今日はずっと見ていたけれど、小野瀬グループ以外の連中に敬遠されてる様子はなかった、ということに。
前世だと、お漏らし騒動が発覚してからの土肥はみんなに遠巻きにされてたし、土肥に触られるのを嫌がる奴も何人かいた記憶がある。プリントを後ろに回す時に、わざわざ土肥が触ってない真ん中を抜き取ったりなんかもされてたはずだ。
けれど、今日はそんな様子は一切なかった。小野瀬たちのことを除けば、土肥は普通に学校生活を送っていたのは間違いない。
小野瀬たちの口ぶりからして、前回のお漏らしは小野瀬たちだけが見ていて、他に目撃者はいなかったようだ。
そういえば、トイレちゃんと呼んでたのも、今日は小野瀬グループだけだったな。
つまり、まだ土肥は公衆の面前でお漏らしをしていないし、トイレちゃん扱いをされていないのだろう。
朝にクラスで色々噂話を聞いたけど、土肥の名前は出てこなかったし。前世だと、お漏らし事件から冬休みに入るまで、ずっとその話で持ちきりだったからな。
よかった、まだ間に合う。
ギュッと両手を握りしめて俺は気合を入れた。
さて、どうしようか。少しだけ考え込んでから、俺は踊り場まで階段を一旦降りて、それからわざと物音を立てながらまた階段を登っていく。一歩一歩、音を立てながら段をしっかり踏みしめている。ついでに、わざと壁を蹴ってガツンという音を響かせてみる。
その物音が聞こえたのだろう。階段をあと三段で登り終えるというタイミングで「誰か来るっ」という切羽詰まった声色の言葉が聞こえてきた。それを最後に声は絶えた。いやに空々しい無音が広がっている五階の廊下を、俺はずんずんと進んでいく。足音はまだわざと立てたまま。
虐めている現場に乱入しないのは、騒ぎを大きくしないためだ。
もし、俺と小野瀬たちの女子グループが揉み合えば、否応なく人を集めてしまうだろう。
そこでおしっこを我慢してる土肥が何かの拍子で漏らしてしまえば、衆人環視の元に晒されることになり、前世と同じことになるのは明白だ。
もみ合いの弾みで漏らしてしまうことも簡単に想像できるしな。それでは意味がない。
「あれ?小野瀬じゃん、何やってんの?」
俺は努めて平静を装ってひょいっと顔を出しながら、背中で土肥を隠しながら焦った顔をしている小野瀬に話しかけた。
ああ、こんな顔をするってことは、一応こいつら悪いことをしているっていう自覚があるんだな。
思えばこの時期にはちょうど、テレビでもいじめを題材にしたドラマが人気を博していた。ワイドショーでもいじめが取り上げられるようになり始めて、全国的に悪いことだと糾弾され始めたのも、多分これくらいの時代だったはず。つまり、自分のやってることを、小野瀬たちはハッキリとわかってるということだ。
悪いとわかってここまでするとは、中々いい性格をしている。
ポロシャツや吊りスカートという制服姿で突っ立つ小野瀬グループは顔もまだ幼くて、ただのあどけない小学生にしか見えない。なのに、その裏で同級生を囲んで虐めることで快楽を得ていると思うと、怒りや憤りよりも先に、不思議な気持ちが湧いてくる。
「あれ?寄木? え、お話してただけだよ」
「そっかー。今からここで暁斗たちとゲームしようと思ってるんだ、端っこの方借りるぜ」
「え?」
俺はランドセルをドカっと投げ捨てて、どさりと円陣のすぐ近くに座り込んだ。目線は女子たちの方に向けている。
「俺たちは俺たちでゲームやってっから、お話し続けててくれよ」
小野瀬グループの三人は俺の方をチラチラと伺いながら、お互いを見合ってアイコンタクトを取り合っている。
もしかしたら、俺のことを力ずくで排除してくる可能性もあるな。そうしたら結局もみ合いになって騒ぎになってしまうだろう。もし俺の方に向かってきたら、気を引いてなんとか土肥を逃さなきゃいけない、心の中で決心する。
何度かの頷きを交わした後、小野瀬はゆっくりとため息をつきながら、
「いや、もう終わったから大丈夫」
と、仲間を促して歩き始めた。
よかった。力ずくで俺を排除する気はないらしい。小野瀬たちに気付かれないように小さく安堵のため息をつく。
このあたりの学年だと、男女の身体能力に差はないか、女子のほうがやや優れているかだし、一対三と人数差もあるから、相手の方が明らかに有利だったと思う。でも、小野瀬たちはその有利を行使してこなかった。
まあ、俺が名前を出した暁斗や俺は男子のクラスカースト上位で、敵対したくないのだろう。当時はイケてる小学生だったからな俺……いやあ、ホントどこで道を間違えたんだか……。
あと、俺たちの学年の男子はよく喧嘩をしていて血の気が多い、というのも躊躇させる理由になっているのかもしれない。
しかし、安堵も束の間、歩き出した小野瀬の手が土肥の腕をしっかり握りしめているのに気付く。場所を変えて続けようとしているのは明らかだった。
「あ、土肥!ちょっと用事あるから残ってくれね?悪い」
悪びれない顔を作りながら、俺は土肥の小野瀬が掴んでない方の腕を取った。行かせるかよ。
小野瀬が驚いた顔で振り返る。俺と小野瀬の目線が交わる。
強い感情を持った瞳が俺を捉える。多分、俺の方も同じような瞳をしているだろう。
小野瀬は決して睨んできてはいないのに、目線からの圧力が凄まじい。場に緊張感が走っているのが嫌でも伝わってくる。
これはメンチの切り合いだ。
目を逸らした方が負けになる、そういう勝負だ。前世で何度か経験してるのでわかる。そういう勝負なんだ。
ここで負けるわけにはいかない。
メンチの切り合いにおいては、なによりも根性が大事になる。
俺はお前らの何倍も生きてきたんだ、ブラックな大学院での雑用や研究にも耐えてきたんだ。
こちとら、担当教授に死ぬほどこき使われてきたからな。
酒やツマミの買い出し係に勝手に任命されて、毎週神田の専門店にまで行かされてたんだ。酒もツマミも研究に関係ないのになんで俺が……。
大学にある教授の私室の掃除もいつの間にか俺の仕事になってたな。いや、ツマミのときも思ったけど、教授の私生活のお世話は学生の仕事じゃないから。散らかる度に俺が呼び出されて整理整頓させられたけど、普通に清掃業者を呼ぶか自分でやってくれよ。
教授の肩が凝れば肩もみをさせられ、教授が腹が減れば料理を作らされた。俺、執事か何かだったんだろうか。
とにかく、あれは何らかのハラスメントになると思うんだが、うちの教授は流行りの分野を最先端で研究している国際的にも有名な研究者だから、俺みたいなしがない学生をこき使っても問題にならなかったんだ……。『××教授の丁稚くん』なんてあだ名がついていたんだから、みんな教授の所業は知ってただろうに……。
勿論、理系の院だから研究もクソ忙しかった。学会の準備期間とか、論文の締め切り間際とか、研究室に何連泊しただろう。それなのに教授は俺に雑用を……。
とにかくっ、俺もそれなりに苦労をしてきたのだから小四のお子様なんかに根性で負けるはずがない。絶対に逸らすものか。
「はぁ……」
数秒の意地の張り合いの後、先に目を逸らしたのは小野瀬の方だった。俺の前世の怨念に押し負けたらしい。
ありがとう、担当教授……。俺の根性を鍛えてくれて……。俺は教授に押し付けられた様々な雑用に初めて感謝をした。
小野瀬はまたため息をつきながら土肥を開放し、「いくよ」と取り巻き二人に言いながらダルそうに階段を降りていく。
俺は足音を消して小野瀬たちを遠巻きに追いかける。完全に近くから居なくなったのを確認してから、俺は土肥に駆け寄った。土肥はトイレを我慢してたはずなのに、その場でぼーっと突っ立っていた。
「大丈夫か?土肥」
「う、うん寄木くん。わたし……ありが……あっ、い、いやっ!見ないで!離れてっ!」
土肥の叫び声から少し遅れて、アンモニア特有の鈍い刺激臭が鼻に届いてきた。次いで、ぽたり、ぽたりと液体が滴る音が聞こえてくる。
土肥が立ったままで、お漏らしをしていた。
続きは明日12時に投稿します。