新婚旅行と林檎占い12
「ワラビ!」
「大丈夫ですハル、かすり傷です」
だけどワラビの左脇腹には血が滲んでいる。
「ワラビ」
「大丈夫です」
ワラビは脇腹を押さえると、勢いよく剣を振り上げた。大きく振り回した剣に、編み笠男が体勢を崩し、ワラビの背後から第二撃を狙っていたアスタを殺したヤツもたたらを踏んで、背後に飛び退った。ワラビはそのまま私の前まで走ってきた。私を背に、二人に向かって剣を構えた。
「ワラビ」
脇腹を押さえて膝をついたワラビの元に私は転がった。ワラビの服にどんどん血が滲んでくる。大丈夫なんかじゃない。アスタの姿が頭に浮かぶ。だけど同時に私の頭はアスタよりも出血が少ない、とほっとする。大丈夫じゃないけれど、ここは切り傷で人が死ぬ世界だけれど、だからこそ傷の手当より優先すべきことがこの場所にはあるのだ。
「ワラビ、それ、犯人」
私は伝えるべき情報を口にした。アスタとは言わなかった。だけどワラビにはそれだけで通じた。ワラビの体から怒りが立ち上る。
「分かりました。二人だけですか?」
ワラビはこちらを見ないまま頷いた。
私は頷いた。
「はい。ここ、二人」
救急車も警察もいないこの場所で、法律も常識も違うこの場所に生きているのだ。もう二度と間違えたりしたくない。だから今は手当よりも重要なことがあるのだ。必死で自分に言い聞かせる。それでも、赤く染まるワラビの服に、のり巻きの中膝が震えた。ワラビがふっと笑った気配がした。瞼の上に手が落ちてきた。
「大丈夫です、ハル。少しだけ目を瞑っていてくださいね」
「ワラビ」
違う、怖いけれど、そうじゃないんだ。言いたいけれど、さっきまで見ていた血に染まる服に、ワラビに向かって放たれた殺気に、臆病な私の口は簡単に動かなくなった。
「私は強いのです、大丈夫」
こんな時に絶対ふさわしくない泣きたいくらい甘く優しい声だった。瞼からワラビの手が離れた。
「その傷で荷物を背負って我らを捕らえる気か?」
ヤツは鼻で笑いながらも剣を構えた。
「あなたは私の伴侶を泣かせた。理由はそれで十分です」
ワラビも剣を構えた。
「伴侶バカのサイタリ族が」
ヤツが剣を振りかぶった。
ギンガンとヤツとワラビの剣がぶつかった。編み笠男は少し引いた場所からこちらを見ていた。すぐにどうこうしようという気はなさそうだった。それでも私がちょっとでも動くと、編み笠の奥から鋭い視線が飛んでくる。動くな、と言われるまでもなくじっとしているしかなかった。時折、ヤツが何かを言った。ワラビも何かを言った。早口すぎて聞き取れなかった。編み笠男が苛立たし気に指を動かした。もう、五分は戦っている。手負いのワラビとヤツは互角に見えた。ヤツの方が顔色が悪い。押されているのは明らかだった。だけどテントの中だからか、編み笠男は助太刀する気はないようだった。
じりじりとヤツが押されていく。テントの中央で戦っていたのにワラビはいつのまにかテントの端までヤツを追い込んでいた。やっぱりワラビは強いんだ、といくらかほっとした時だった。
「それを殺せ!」
ヤツが怒鳴った。「それ」って何だ?
呑気な私の頭が代名詞の対象物を探している間に、編み笠男が一直線に私に突っ込んでくる。ワラビが走ってくる。
私か!
私は必死に体をよじった。そんなものは何の防御にもならないと分かっていたけれど、少しでも剣から体を遠ざけたかった。
いつまでたっても来るべき衝撃は来なかった。頬にぬるい液体の感覚がして目を開けた。汗ならよかった。涙ならよかった。涎だってよかった。それがワラビ以外のものなら血だってよかった。至近距離でワラビが笑っていた。
「ワ、ラビ」
「大丈夫、かすり傷です。私は血の気が多いのです」
「ない、ない」
「串刺しだけは避けたか、器用なことだ」
編み笠男は剣を引いた。さっきアスタを殺したヤツに切られていたワラビの「かすり傷」からどくどくと血が湧き出す。ワラビは私の横に突っ伏した。
「お前にしてはてこずったな」
「手練れなんですよ」
編み笠男の言葉に、ヤツが近づいてくる。
「いいですか?」
「構わん」
それが何の同意なのかなんて言葉が分からなくても多分分かっただろう。
「やめろ!」
だけど私に何ができるわけもない。ヤツは私を一度見ると、ワラビに向かって剣を構えた。
「死ね」
「やめろ!」
剣が空を切る音がした。どさりと、何かが倒れる音がした。倒れる?ワラビはもともと倒れていたはずだ。恐る恐る目を開けた。
「ハル」
脂汗を顔に浮かべ、ヤツの胸に剣を刺したワラビが笑っていた。そのまま倒れた。
「ワラビ!」