のほほん州吏、昔日に見過ぎし面影と再会す
荒野の幕舎で、一夜を過ごした。すぐにでも部隊を動かし移動することは出来たが、エリックが進行の令を飛ばすことは無かった。
木枠を組んで布を敷いただけの簡易な寝台から身を起こせば、ファンオウの前には手水鉢が差し出される。
「今朝も、すまぬのお、ソテツや。良い朝じゃ、のお」
冷たい水で顔を洗い、手を清める。行軍の間は、ソテツがファンオウの身の周りの世話をしてくれている。無口なソテツが差し出す乾いた布で、ファンオウは顔と手を拭った。
「おはようございます、殿。ご気分は、如何でしょうか」
薄く朝陽の漏れる陣幕をめくり、エリックが流麗な立ち姿を見せて言った。
「うむ。慣れれば、軍営も、悪くは、無いのお」
太陽神殿での生活に比べれば、雲泥の差があった。だが同じ天幕で起き居するソテツや兵士らが地に敷いた布の上で寝ていることを考えれば、寝台を用意される己の身は厚遇されている。毎夜有事に備え立哨を続けているエリックのことを思えば、柔らかな寝具よりも嬉しい心遣いに包まれている。ファンオウは思い、微笑を浮かべた。
「軍営ゆえに、行き届かぬこともありましょうが……今少しの辛抱です、殿」
そう言うエリックの表情に乏しい美貌の中に、明るいものがあった。
「何か、掴めたのじゃろうか、のお?」
問いかけに、エリックが小さくうなずく。
「砂漠の民の中に、我らと接触をしたい、という意思があるようです。昨日の彼らの動きと、捕虜への尋問よりそれが明らかとなりました」
「ふむう? わしらと、会いたい、と? 砂漠の、民が、のお?」
「はい。俺と、殿に、です。我らがここにいる、という情報を彼らがどこから得たのか、気になるところではありますが……」
「カシムは、何も、知らなんだか、のお?」
「あの者は純粋な兵ゆえ、細かいことは知らぬそうです。しかし、公爵領主の動きは彼らに筒抜けになっている、と見てよいでしょうな」
「ふむう……」
何らかの手段で、砂漠の民はこちらの動向を把握しているということだろうか。頭を傾けるファンオウであったが、砂漠の民らの意図はまるで判らない。
「カシムは、どうしておるかのお? あまり、乱暴なことは、しておらぬかのお?」
「殿のご威徳のお陰もあり、尋問は極めて簡素に済みました。もう馬に乗れる程度には、回復していることでしょう」
「そうか。なれば、良かったのお」
ひとまずの懸念が頭の中で片付き、ファンオウは頬を緩める。話をしている間に、ソテツが糧食を載せた膳をファンオウの前に置いた。数粒のヒマワリの種と、麦の粉を水で溶き丸い形に焼き固めたものだった。干した野菜も少量、中に詰めて蒸し焼きにしている。
「朝餉を召されました後に、出立します。ご準備を」
「うむ。わかった」
質素な糧食を、ファンオウはゆっくりと噛みしめる。ソテツにも食べるよう促してみたが、自ら携えた小袋の中から数粒のヒマワリの種を出して口に入れるのみである。それが、本来の軍営の糧食なのかも知れない。エリックとソテツの心づくしに心中で感謝しつつ、ファンオウは朝餉を終えた。
軍営を張った場所から、馬の並足で移動する。整然とした隊列での行軍だったが、その動きは緩やかだった。斥候も、あまり遠くへは出していない。そして、隊列の先頭には捕虜となった砂漠の民カシムが、縄もかけられずに馬に乗っていた。
「傷は、残っておるが、元気そうじゃのお」
真っすぐに背筋を立てて馬上にあるカシムの姿に、ファンオウはゆるりと微笑む。
「深くは斬っていない、と俺は言いました、殿」
「じゃが、浅くも無い、とわしは診たのじゃがのお」
軽い口調で嘯くエリックに、ファンオウもまた軽く応じる。王都から辺境へ移ってからは、絶えて無い応酬だった。そして過去には、もう一人、こうしてエリックと語らう者がいた。
「イグルもまた、息災であれば、良いのじゃが、のお……」
「奴は、殺しても死なぬ男です。何しろ、俺に一太刀浴びせることの出来た人間なのですから」
言いながら、エリックが軽く口元を緩める。互いの脳裏に、同じ男の姿が浮かんでいた。
ほどなく、斥候が駆け戻ってきた。
「報告! 前方に、騎馬の一団! 数は五十騎、こちらへ向かっています!」
声を上げる斥候を追い立ててくるように、遠方から土煙が近づいてくる。エリックが、後ろの兵たちへ手を振り矢継ぎ早に合図を送る。瞬く間に、ファンオウとソテツの周囲に兵が集まってきた。
「カシムの、仲間かのお?」
「恐らくは。殺気は感じられませんが、殿はそのまま動かれませんように」
答えたエリックが、カシムと数語、何かを話す。その間にも、騎馬の一団は距離を縮めてくる。そうするとようやく、ファンオウの眼にも相手の姿が見え始めた。
「何とも、馬を、巧みに操るものじゃのお。まるで、ひとつの生き物のように、動いておるのお」
長閑に呟くファンオウの視界の中で、迫りくる騎馬兵たちが速度を緩める。カシムと同じく砂色の外套を武具の上に身に付けた、それは砂漠の兵団だった。
「ふむ? 一人、停まらぬ者が、おるようじゃが……?」
眼を凝らしてようやく顔が見えるほどの距離で停まった兵団の中から、先頭にいた男だけが停まらず勢いを増して駆けてくる。
「師が、動きます」
ソテツが、疑問に答えるように言った。
「エリック……ふむ?」
突進してくる男に応じて、エリックが単騎で飛び出してゆく。近づけば互いに剣を抜き、馬上で銀色が閃きぶつかり火花を散らす。ぎぃん、と高い音が、荒野に響いた。
「師の一撃を、受ける……あの男、只者ではありません」
隣で、ソテツが声を震わせる。
「怖いのかのお、ソテツや」
尋常ではない様子に顔を向けたファンオウに、ソテツが首を横へ振る。
「いいえ。闘ってみたい、そう、強く、思うのです」
熱に浮かされた瞳で、ソテツが言った。
「ふむう……? 武人というものは、そういう、ものなのか、のお……?」
首を傾げつつ、ファンオウは視線を戻す。馳せ違った両者が同時に馬首を返し、今度はゆっくりと向き合い近づいてゆく。互いに相手を右に見て、構えた剣を閃かせる。そのまま、馬上で数合、男とエリックが打ち合った。
舞踏の如き打ち合いは、長くは続かなかった。男の斬撃を躱したエリックが、馬の背に足を置いて跳躍し、空中から男の背後へと降り立つ。男の胸へ銀閃が走り、肩にかけて一本の線が生まれる。血が飛沫を上げて、男の手から剣が落ちる。
一瞬の交錯で、何が起こったのか。考えるより先に、ファンオウは幕舎と調薬道具の用意をソテツに命じていた。あの二人の、男とエリックが剣を交わす光景に、懐かしいものが胸の中に訪れていた。
「師に斬られ、落馬と見せて組みついた……あの男、何者ですか、ファンオウ様」
兵を手配しつつ呆然と言うソテツへ、ファンオウは困ったような笑顔を浮かべる。
「恐らく、わしらの、友じゃ。あやつらは、いつも、派手に、喧嘩をするでのお」
土埃の中で、咆哮を上げながら取っ組み合う二人。懐かしくも危なっかしい光景に、ファンオウは糸のような眼をさらに細めた。
幕舎が張られ、怪我人が運び込まれてくる。エリックに肩を担がれ、反対側の腕をだらりと下げた男がファンオウに向けて片手を挙げた。
「よう、久しいな、ファンオウ!」
「うむ。元気そうで、何よりじゃ、イグル」
伸ばされた腕を取り、ファンオウはイグルと笑みを交わし合う。肩口に走る傷口からは、新たな血が滲んで砂色の外套を汚していた。
「エリック」
「はい」
設えた簡易寝台にエリックが寄り、イグルの身体を横たえる。外套と砂漠の民特有の布衣を脱がせ、傷口を診る。
「まずは、傷を、洗わねば、ならぬのお」
組み合っていた際に、土が付いたのだろう。薬草を塗り込むよりも先に、洗浄する必要があった。
「何しろ、沢山転がされちまったからな。相変わらず、無茶な強さだぜ、エリックは」
傷の痛みなど感じぬかのように、イグルが軽口を叩く。
「お前が、さっさと降参しないからだ。無手の組打ちなら、勝てるとでも思っていたのか」
呆れた声で、エリックがイグルの肩をぺしりと叩く。
「痛っ、傷に響くだろうが」
「傷とは、どの傷だ? 王都で俺が付けたものもあるが……随分増えたように見える」
エリックの指摘に、水で濡らした布で傷を拭っていたファンオウもイグルの肌に眼をやった。頑健な胸板のそこかしこに、傷が刻まれている。浅いものもあれば、骨まで届いていたのでは、と思える傷跡さえあった。診ればすぐに、それがイグルの通った苦難の道筋であると知れる。
「……そう言うお前こそ、俺の付けた傷はもう癒えたのかよ?」
イグルの問いに、エリックがふんと鼻を鳴らす。
「俺が、今の今まで誰と一緒だったと思っている。殿にかかれば、あのような浅手なぞ……」
「殿ぉ!?」
誇らしげにファンオウを見つめて言うエリックに、イグルが素っ頓狂な声を上げる。
「これ、イグルよ、動くでない。傷口に、指が入って、しまうところじゃったぞ」
「あ、ああ、悪い……しかし、殿、ねえ?」
イグルの視線が、ファンオウとエリックを行き来する。
「そうだ。俺は、殿に仕える臣にしていただいたのだ。殿が、領主となられた時に」
「へえ……ファンオウがお前を、ねえ? お前の方から押しかけて、泣いて頼んだんだろ、エリック」
にやにやと、意地の悪い笑みを浮かべてイグルが言う。
「……お前には、関係の無いことだ、イグル」
憮然とした声で、エリックが応える。ファンオウは手早く傷口を拭い上げ、練った薬草をそこへ塗る。ぐっ、とイグルの喉の奥から、微かなうめき声が上がった。
「語りたいことは、わしにも、エリックにも、そしてイグルよ、お主にも、あるじゃろう。じゃが、今は、傷の手当てが、先じゃのお」
イグルの傷跡の一つに触れながら、ファンオウは言った。鍼を取り出し、気脈を探る。幾多の傷が刻まれようとも、友の活力は衰えてはいない。むしろ、傷の増えたぶん、強くなっている気配さえあった。
「少し、眠くなる場所へ、鍼を打つ。ひと眠りして、目覚めたら、また、語ろうて、くれるかのお?」
問いかけに、イグルがひとつ、うなずいた。
「ああ。部下たちに、酒を持って来させてる。派手にやろうぜ、ファンオウ、エリック」
イグルの答えに笑みとうなずきを返し、ファンオウは静かに鍼を打った。
沢山のポイント、PV、ブクマ等々ありがとうございます! 大変励みになっております!
今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。




