老学者、のほほん州吏の危機を救い厚く信頼さる
男が右腕の刃を振り上げ、心の臓目掛けて振り下ろす。その動きは、オウガにとってはひどくゆっくりとしたものに見えた。しかしそれはオウガ自身が、素早く動くことが出来るというわけでは無い。絶対的な死を目前に、感覚が引き伸ばされているのである。
糸のように細いオウガの瞳は、迫る刃を映してはいない。無機質な男の眼を、そしてその奥にあるものを見つめていた。男には怨嗟も、憎しみも無い。ただ機械的な、透明な殺意があるのみだった。何故、と意図を計ることは、出来ない。男にとってこの行為は自然なことであり、受け容れれば、オウガは、ファンオウは死ぬ。
男の顔の、疱瘡が薄いものになっていた。熱を発していた顔色は、血色が落ちて青白くなりつつある。病は、治ったのだろうか。絶体絶命の危機にあって、ファンオウの思考はそんな所へ飛んでいた。
ぎしり、とファンオウの耳に、木の軋むような音が聴こえた。
「はて、何の、音じゃろう、のお?」
首を傾げ、ファンオウは口にする。それはゆったりとした、長閑な丘の上に吹く風のような声音である。そして直後、刃を振り下ろす男の動きが硬直する。
男が、自らの意思で止まったわけでは無い。ぷるぷると震える男の腕には、渾身の力が込められているようだった。しかし、刃は進まず、まるで見えない壁に阻まれているかのようだ。そして、仰向けになっているファンオウの視界で、男の右腕が突然に消えた。がしゃん、と頭の上のほうで、何かの割れる音が聴こえてくる。次いで、男の身体がびくりと揺れる。男の首の付け根から、銀色に光るものが横一線に動いた。男の首に一本の線を刻み、横切った光は消える。そして最後に、男の身体がファンオウの上から無くなった。
端へ寄せた薬鉢が、乾いた音を立てて砕ける。それを皮切りに、ゆっくりと動いていたファンオウの中の時間は元の速さを取り戻した。
「オウガ、様! 無事、ですか!」
抜身の剣を手にしたソテツが、駆け寄ってきてファンオウの身体を起こす。
「おお、ソテツや。わしは、無事じゃ」
険しい表情のソテツに、ファンオウは柔らかく笑って見せる。立ち上がったファンオウの視界にはソテツと、その背後で右手を突き出し肩を上下させ呼吸を整えるオウギの姿が見えた。
「はあ、はあ……領主様、ご、ご無事で、な、何より、に、ございまする」
「ふむ? 何やら、お疲れのようじゃのお、オウギどの」
額に汗をびっしりと貼り付けたオウギに、ファンオウは声をかけた。
「な、なに、少しばかり、魔法を、使いまして、久方ぶりの、魔法でございまして、ふう……小生は、間に合ったのでございまするな」
黄色い歯を見せながら、オウギが言った。
「魔法、のお?」
「はい。ソテツ様に連れて来られてみれば、領主様の危機に出くわしましてな。小生が風の魔法を用い、そこな暴漢の動きを止めて腕を飛ばしたのでございまする……おお、領主様、小生の魔法が、小屋を少しばかり壊してしまったようでございまするな。平に、ご容赦を」
早口に言ったオウギが、ファンオウの背後を見て慌てて平伏する。振り返ったファンオウは、小屋の丸太の壁が少し裂け、砕けているのを見つけた。
「何の、何の。オウギどのは、わしを、守ってくださったのじゃ。ソテツと、一緒にのお。わしは、こうして無事じゃから、どうか、頭を上げては、くれぬかのお。命の恩人に、そうされておると、申し訳なく、思うでのお」
「ファンオウ様……小生を、お許しなさるのでございまするか。有り難き、幸せにございまする。流石は、威徳の君にございまするな」
顔を上げ、オウギが謳い上げるような調子で言う。
「うむ、そう言われると、ちと面映ゆいが、よう、助けてくれた。ありがとうのお、オウギどの、ソテツ」 ぽん、とオウギの肩に手を置いて、ファンオウは労いの言葉をかける。呼吸の落ち着いてきたオウギが律儀に拱手を見せる傍ら、ソテツが厳しい表情を崩さずに部屋の隅へと歩み寄る。ソテツの向かう先には、砕けた薬鉢に叩きつけられ倒れ伏す、首の無い男の死体があった。
「……すでに、事切れて、おるようじゃのお」
一見してそれとわかる事実を、ファンオウはあえて口にする。散乱した薬草の中にある男の死体の首からは、どろりと血が流れ続けていた。
「お見苦しいものを」
「構わぬ。死んだ者を見るのには、慣れておるから、のお。じゃが、気になるのは……」
視界を遮るように立ち位置を変えようとしたソテツを手で制し、ファンオウは男の死体へ歩み寄る。そして首を失い動かない男の胸元を、さっと広げた。
「綺麗さっぱり、疱瘡が、消えておるのお。あれは、一体、何じゃったのか、のお?」
死体の着衣を整え、男に両手を合わせる。
「お優しいことでございまするな。命を、奪われるところでございましたのに」
「死んでしまえば、それまでじゃ。死者は、悼むべきじゃからのお」
少し驚いた様子のオウギに、ファンオウはしんみりと返す。それはファンオウの、嘘偽りのない本心からの行為であった。
そうして、名も知れぬ一人の旅人が、聖都の墓地へと葬られることになった。
夜半、日の落ちた太陽神殿の中庭に向かい合う影があった。ソテツと、エリックの師弟である。二人は共に無手で、自然体のエリックに対しソテツは全身に闘気を漲らせて相対している。
すっと、エリックが何気ない歩みでソテツへと踏み込んだ。そこにあるものを取るような動作で伸ばされるエリックの右手を、ソテツが全力で払おうとする。だが、刹那、弾かれたのはソテツの腕だった。エリックの手はそのままソテツの腹へと触れ、軽く手のひらを押し付ける。途端に、触れられた部分を強い衝撃と痛みが駆け抜ける。人間よりも遥かに屈強な肉体を持つソテツの身が、それだけでくの字に折れ曲がり膝をついてしまう程の、衝撃だった。
「立て」
短い師の命ずる声に、ソテツは痙攣する腹を押さえて立ち上がる。その顔には大量の脂汗と、そして不可解な色が浮かんでいた。
「これは、罰、ではないのでしょうか、師エリック」
「……何故、そう思う」
「師の力であれば、俺が立ちあがる力を残す道理はありません。何故、加減をなされるのでしょう?」
浮かんだ疑問を、ソテツはエリックへとぶつける。ファンオウと共に太陽神殿へと戻った夕刻より、エリックとのこの奇妙な立ち合いはずっと続いていた。ソテツを立たせ、全力で構えるように命じてからエリックが、先ほどのようにして幾度もソテツを打ち倒してきた。痛みは大きいが、耐えられぬものでは無い。
「お前は、罰を望んでいるのか」
短く息を吐き、エリックがソテツに問うた。
「……俺は、ファンオウ様を、御守り、出来ませんでした。ゆえに、師より、罰を受けるべきです」
唇を噛みしめうなだれて、ソテツは咽喉から声を絞り出す。昼間の、出来事が頭の中でぐるぐると廻り続けている。危難の場に、駆けつけた直後のことだ。振り上げられた刃を前に、ソテツは間に合わなかった。連れて来たオウギが魔法で動きを止め、狼藉者の右腕を吹き飛ばさなければ、守るべき主はあっけなく死に至っていた。そして怒りと焦りに任せ、男の首を飛ばしたのだ。死者には、尋問は出来ない。ソテツは、あの瞬間に失態を続けて犯してしまっていた。
「……違うな。お前が失態と思っているものは、失態ではない。それ以前の、問題だ」
首を横へ振り、エリックが言った。
「それ、以前の……?」
「まだ解らぬようであれば、もう一度やる。全力で、止めろ」
エリックが、風も起こさぬ動きで一歩後ろへ下がる。それ以上、師から言葉を得ることは、今は出来そうに無い。判じたソテツは、手足に気を漲らせて構えを取る。すっとエリックが距離を詰め、弾かれ、腹に激痛が走り膝をつく。さらに幾度か繰り返されても、ソテツには理解が及ばない。
やがて、エリックが動きを止めた。
「……魔力を、視ろ、ソテツ」
立ち上がるソテツへ、エリックが声をかける。
「魔力、を?」
「そうだ。魔力を視て、感じて、そうして対応しろ。お前の父、黒の悪鬼は剣の腕は然程でも無かったが、魔力を操る術には長けていた」
言いながら、エリックが再び踏み込んでくる。ソテツは己の中の魔力、鬼であるので妖力ともいうべきものを集中し、エリックの魔力を読み取ろうとする。途端に、眼が潰れるような光に眩まされた。
「ぐあっ……!」
「感じたか。魔力の流れを。先ほどからずっと、俺はこうやってお前を打ち倒してきた。闘気や気配だけでなく、魔力にも常に注意を向けておく。そうすれば、今回のような事にはならなかった」
手を伸ばすエリックから、魔力の流れは既にソテツの腹へと到達していた。同時に、エリックの腕には尋常でない魔力が込められていて、ソテツの全力の腕力では触れることさえ許されない。身体の裡から魔力が突き抜け、ソテツは打ち倒される。うずくまったソテツへ、今度は立てと命じはせずエリックが口を開く。
「殿の話とお前の報告から、敵の手口は解った。闇樫の樹皮に特殊な加工をすれば、病のような症状を作り出す薬が出来る。そしてそれは、魔力によって効果を打ち消すことも、だ。殿を襲った男は恐らく、体内に小さく魔力を練り、そうして薬の進行を操作していたのだ。お前がその男の魔力を視ていれば、すぐにでも気づけたことだろう」
エリックの言葉に、ソテツは愕然とした。
「それでは……これは、罰ではなく、調練、ということでしょうか」
問いかけに、エリックがふんと鼻を鳴らす。
「言葉を覚え、情に通じた鬼はこうも甘くなるものか。罰を受けたい、というお前の思いは、甘えだ。ゆえに俺は、罰は与えん。お前は自らの屈辱を、自らの武によって晴らす以外に道は無い」
冷たく言い放つエリックを、ソテツは顔を上げて見つめる。
「俺は……」
「お前を殿の護衛に任じたのは、俺だ。だからお前の失態は、俺のものでもある。その甘さも含めて、だ。殿は、此度のことで、あのオウギを完全に信頼したことだろう。どのような思惑で殿を守ったのかは解らんが、忌々しいことに今は奴の思うつぼに嵌った、ということだ。だからこそ、俺はお前をさらに鍛える。任を解くことは、恐らく奴の企みに拍車をかけることになるからだ」
ほとんど無表情にみえるエリックの美貌に、僅かに屈辱の色が浮かんでいた。師もまた、傷を受けているのだ。不甲斐ない弟子である己の、甘さゆえに。
ソテツは身を起こし、背筋を伸ばして立ち上がる。
「……解りました、師エリック。俺はこれより、甘えを捨てます。だから、俺を鍛えて下さい。どのような陰謀も、踏み砕けるほどの強い鬼へ」
「もとより、そのつもりだと言っている。俺を師と仰ぐ以上、お前に他に道は無い」
構えて闘気と、そして妖気を滾らせるソテツにエリックが言い放ち、後ろへ下がる。そこからはもう、言葉は要らなかった。打ち倒され、立ち上がり、また打倒される。緩やかな動きだが激しい調練は、夜が明けるまで続いた。
月が沈み空が白み始める頃、ファンオウは寝台で仰向けになりつつ眉を寄せていた。刺客に襲われ、ソテツに守られて戻ったファンオウに、妻である白雪は何も言わずにいてくれた。何も言わず、ただ、ぴったりとファンオウに寄り添って静かに寝息を立てている。
安らかな童女の寝顔は、何も言わずともファンオウの心に強く楔を打ち込んでくるようだった。
「危ないことは止めて、静かに、暮らしておるべき、なのかのお……お主は、そう、言いたいのでは、ないかのお、白雪や」
眠る白雪を起こさぬように、ファンオウはそっと問いかける。当然ながら答えは、返ってはこない。
「じゃが、わしは……医師をやめることだけは、どうしても、出来ぬのじゃ。どうか、料簡しては、くれぬかのお」
ぴたりと胸に寄り添う可愛い妻のつむじへ、ファンオウは囁きかける。きゅ、と背に回された小さな手に込められた力が、少しだけ強くなった。
「ふむう……どうした、ものかのお」
そっと息を吐いて、ファンオウは白雪の柔らかな背を撫でる。窓外を見れば、紫がかり始めた雲が遠く果無の山脈にたなびいている。雲の流れと白雪の熱い息を感じるうちに、ファンオウはいつの間にか、まどろみの中に引き寄せられてゆくのであった。
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