のほほん州吏、止まぬ困癖を突かれ危難を得る
太陽神殿の東側、果無の山脈より朝日が昇る。苛烈な陽光の訪れる前の、ほんのひと時の涼やかな風が吹き抜ける。丘の下へと続く大階段を、一組の主従が足取り軽やかに下ってゆく。
先を行くのは、老ドワーフに扮したファンオウ、オウガ医師である。人の上に立ち、政を見る毎日の息苦しさを紛らわせるため、そして民の病理の苦しみを和らげるため、聖都のヒマワリ大聖堂の隣にある診療所へと向かう途上だった。
影のようにファンオウに付き従うのは、鬼のソテツだった。彼の役目は勿論、護衛である。聖都に各地からの移民が増え、新たな戦士たちを鍛えるべく多忙になった神将軍エリックの、代理だった。早足のオウガ医師に遅れることなく、それでいてふわりとも風を起こさぬような精練の足運びである。
「お主は、本当に、大人しいのお、ソテツよ」
道すがら、のんびりとした口調でオウガはソテツを振り返りつつ言う。意識をしなければ、そこにいるかどうかも判らない。それは見事な、隠形だった。
「師エリックより、振る舞い、教えられました」
低く重厚なソテツの声音は、オウガの耳にだけ届く。この話法も、エリックの仕込んだものなのだろうか。ちらと、オウガの脳裏にエリックの顔が浮かんだ。
「エリックは、お主を、どのように、したいのじゃろうか、のお」
小さく息を吐いて、オウガは前へと向き直る。ソテツは何も答えず、ただ黙してオウガに従った。やがて、ヒマワリ大聖堂の大きな白壁が見え、主従は足先を変える。隣の木造建築、診療所は今日も健在であった。
「あっ、ファ……オウガ様! いらっしゃいませ!」
診療所の戸口へ立ったオウガへ、中から少女が元気な声をかけてくる。オウガの弟子であり、見習い医師のイファだ。
「ふむ、やはり、薬草の匂いは、落ち着くのお」
にこやかにイファへ応え、オウガはくんと鼻を鳴らす。青臭くどこか湿ったような、独特の薬品の臭いである。後へ続くソテツはしかし、顔を顰めることも無い。
「今日は、こちらで過ごされるのですか?」
イファの問いに、オウガはうなずいた。
「うむ。エリックも、何かと忙しそうでのお、白雪も、悪阻が出始める、頃合いじゃ。じゃから、薬を煎じて、おこうかと思うてのお」
「白雪様が、悪阻、ですか。龍神様でも、そういうの、あるんでしょうか」
こてん、とイファが首を傾げる。
「判らぬが、備えは、あったほうが、良いからのお。それに、最近は、外から流れて来る民が、増えておると、聞いてのお。慣れぬ土地じゃて、病など、得ておらぬかどうか、ちと、心配になってのお」
「流民の方々でしたら、使徒の皆さんが診てくれています。今のところは、まだ重い病気も、見つかってはいないみたいですけれど」
「そうか、そうか。病は、無いほうが、良いからのお。新たに民となった皆が、健康であるならば、それが一番じゃて、のお。しかし……」
うんうんと長閑にうなずいていたオウガが、少し困ったように眉を寄せる。
「しかし、何でしょうか?」
「ここしばらく、鍼を打っておらぬで、のお。何だか、むずむずと、してしまうのじゃよ」
苦笑しつつ、オウガは言った。
「鍼を、ですか……レンガ様は、どうなされたんですか?」
この領内で誰よりもオウガの鍼の世話になっていた女ドワーフの名を出すイファに、オウガは首を横へ振る。
「披露宴以来、何故か、神殿へ上がって、来なくなってしもうてのお。会いに行こうにも、わしも、ちと忙しい、身の上じゃったので、のお」
「そうなんですか。こちらには、よく来られますけれど」
イファの言葉に、オウガは眼を丸くする。
「レンガさんが、診療所に、のお?」
「はい。何か、根を詰めてのお仕事をされている様子で、眠気覚ましと安眠の薬を、交互に求めて来られます。魂の武具を、打ち直すの、と言っておられましたけれど……」
「ふむう。それで、レンガさんには、どのような薬を、処方しておるのかのお?」
オウガの問いに、イファが薬の説明をする。どちらも軽いもので、適量を使っているようだった。
「問題、ありますでしょうか?」
心配そうに見つめてくるイファの視線に、オウガは問題無いと首を振って見せる。
「レンガさんは、肩と腰に、凝りの溜まる、体質じゃから、お主が診て、酷いと思うた時には、温石などで、解してやると、良いかのお」
「はいっ、解りました!」
元気よく答えるイファに、オウガは微笑みかけた。調薬と処方に関しては、既にイファは一人前といって良いほどに成長していた。しぜん、オウガの頬も緩み、イファの頭を優しく撫でる。
「お、オウガ様……勿体無い、です」
「お主の、成長を、喜んでの所業じゃ。嫌かのお?」
「い、いえ……オウガ様に喜んでいただけて、私も、嬉しい、です」
うっとりとした顔を見せるイファをしばらく撫で続け、それからソテツも交えて三人で調薬に取り掛かる。穏やかで、平和な時間が過ぎていった。
「預言者様、急患です!」
長閑な診療所の空気が、その一声で張り詰めたものとなった。やって来たのは褐色肌の教会の使徒で、入口の後ろには人を乗せた担架があった。
「すぐに患者の方をこちらへ!」
イファが応じ、拡げていた薬草の束を部屋の隅へと寄せる。運ばれてきた担架に乗せられていたのは、旅人らしき風体の若い男だった。顔じゅうに、赤い疱瘡のようなものがぷつぷつと浮き出ており、高熱を発しているのか息は荒い。
「イファや、すぐに、水と布の、用意をしてもらえるかのお」
「はいっ!」
イファを走らせ、その間にオウガは男の布衣の襟を開き、首筋から気脈を探る。旅人らしく、頑健な身体だったのだろう。脈は強く、そして全身で乱れを生じていた。はだけた胸のあたりにも、疱瘡がみえた。
「若く、強い流れじゃが……そのために、苦しみもまた、強くなって、おるようじゃのお」
診立てつつ、オウガは熱さましの薬を練る。そうするうちに、イファが戻って来た。
「先生、どうでしょうか?」
差し出された手桶と布を、オウガは傍らに置いて男の額を濡らした布で拭う。
「気脈が、乱れておるのお。じゃが、この疱瘡は、診たことの無い、ものじゃのお。恐らくは、これが、原因なのじゃろうが……」
首を傾げつつ、オウガは言った。
「先生にも、判らないのですか?」
問いかけに、オウガはうなずく。
「王都や、この領での、流行り病の中には、このような赤い、疱瘡は無かったからのお。イファや、お主の住んでいた村では、どうじゃったかのお?」
問い返すオウガであったが、イファも首を横へ振った。
「私の、生まれ故郷でも……見たことのない症状です」
「ふむ。なれば……ひとまずは、煎じ薬を、飲ませてみるしか、無いかのお」
オウガの下す診断に、イファがうなずく。調薬をイファに任せ、オウガは再び男の気脈を探りつつ思索を続ける。気脈の乱れが激しく、鍼を打つことは出来そうにも無い。見知らぬ病である以上、病原を刺激しては逆効果になることもある。オウガにとって知らぬ病であるならば、イファにとっても、また同様だった。二人は、師弟だからだ。この赤い疱瘡の正体を、知る者がいれば、治療の切っ掛けとなるかも知れない。
感染の、恐れもあった。オウガはイファを別室へ遠ざけ、そちらで薬の調合に当たらせる。そして、ソテツに声をかけた。
「ソテツよ、今から一走り、頼まれては、くれぬかのお?」
傍らで控えていたソテツが、こくりとうなずく。
「はい。師エリックを、連れて来る、ですか」
ソテツの問いに、オウガは首を横へ振る。
「エリックではなく、学問所へ行き、オウギどのを、ここへ、連れて来て欲しいのじゃ。一刻を争う事態じゃから、この場で、一番足の速い、お主に頼みたい。行って、くれるかのお?」
「……御意に」
短い返事を残し、ソテツの姿が影のように溶けて消える。諸国を遍歴してきたオウギの知識ならば、この病も判るのではないか。オウガの思索の、末の結論だった。未知の病を前にして、真っすぐにそこへ向き合う。患者を前にして、オウガに他を意識する余裕は無い。この瞬間、オウガは州吏としてのファンオウという自らを、省みることは決してしない。ただ一人の医師として、今この場にいるのである。
周囲に、誰もいなくなった。使徒は担架を運んできた者らに声をかけており、入口の外へ控えている。ふっと吹き込んできた風のような、男とオウガ、二人だけの時間だった。学問所のある街区までは、常人を超えた域にあるソテツの脚でも、時間は掛かってしまう。
「……ふむう?」
気脈を探るオウガの指が、異変を捉えた。乱れに乱れていた男の気が、ある一点に集まってゆく。心の臓から、末端へ。気の流れがたどり着くのは、男の右腕だ。ぴくり、と男の手が小さく跳ねる。
「これは、如何な、ことじゃろう、かのお……おお?」
不意に、男が半身を素早く起こす。首筋に指を置いていたオウガは、反射的に上体を僅かに反らす。直後、男の右腕がオウガへ向けて横一文字に振るわれる。しゅ、と空気が擦過する音とともに、オウガの布衣が浅く斬られ、白い付け髭がぱさりと落ちた。
ぎょっとする間もなく、オウガに向き直った男が左手で胸を押してくる。押し倒されたオウガの腹の上に、男が身を乗せる。
「……ぐ、え」
叩きつけられた背中と腹にかけられた荷重に、オウガの口から呻きが漏れた。オウガの頭上で、男が右腕を振り上げる。その手首からは、血塗られた短い直剣が飛び出していた。これが、オウガの布衣と付け髭を斬った刃物の正体だった。
「……終わりだ」
手首を返し、男がオウガへ向けて刺突を繰り出す。狙いは、心臓だ。男の両膝に身体を挟まれ、オウガは身動き出来ず、眼を見開くばかりであった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。




