のほほん州吏、鍼の効かぬ病に苦悩す
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聖都ファンオウの中央街区、ヒマワリ大聖堂の隣に小ぢんまりとした診療所がある。薬草の臭いが漂い、ひまわりの花に囲まれたそこは、なんとも長閑な佇まいであった。
丸太で組まれた簡素な小屋の内部では今、一人のドワーフ医師が少女と向き合っていた。
「さて、まずは、気脈の、流れを、診てみるかのお」
のんびりと間延びした声で、ドワーフ医師のオウガは少女の手を取る。布衣の裾からのぞく少女の腕は細く、きめの細やかな白い肌である。オウガの指に僅かに、とくん、とくんと脈拍の感触が伝わる。
「脈は、乱れては、おらぬようじゃのお」
しばらく脈を取り、オウガは診断する。白い髭をたくわえたその口元には、柔和な笑みが浮かんでいて、それは見る者の心を安らげる類のものである。
「ファどのの、声が出ぬのは、気脈の流れとは、関係が、無いようじゃが……はて、のお?」
首を傾げ、オウガは少女、ファをじっと見つめる。何らかの病の兆候があれば、それは気脈の流れに乱れを生じる。それを診て、鍼を打つのがオウガの医術である。死に至るような病であれば当然、感じ取ることが出来る。声が出せない、といった病についても、ある程度の目星は付けられるものの筈だった。しかし、ファにはそれが無い。じっと見返してくる大きな瞳には、健康そのものの色があった。
「……ぁっ」
ファの耳の下あたりへ、オウガは指を伸ばす。それが触れるか触れないかのあたりで、ファの口から小さな声が漏れた。
「ふむ?」
首の傾きを深くして、オウガは指をそっと離す。何事も無かったかのように、ファはすまし顔である。
「ファどの、いま、声が、出ておったようじゃが……」
言いながら、オウガは再びファの首筋へ手を伸ばす。今度は、ゆっくりとである。
「……そ、こは、く、くすぐったいので……やめて、ください」
オウガの指が触れるところのかなり手前で、ファがオウガの手を取って止めて言う。それは間違いなく、ファの声だった。年相応の、幼い声音である。
「ファどの、やはり、お主の、声は」
「はい、出せないのではなく、出さないのです、ファンオウ様……」
オウガの問いに、ファが小さくうなずいて言った。
「この姿のときは、オウガ、じゃよ。まあ、誰も、聞いては、おるまいがのお」
「そう、なの、ですか……あまり、変わっていない、ように思える、のですが」
途切れ途切れに言って、ファが小さく咳き込んだ。オウガは机の上に置かれた椀を、ファに手渡し微笑む。
「しばらく、咽喉を、使っていなかったのじゃろう。清水と、花の蜜を、混ぜた薬湯を、飲むと良い」
オウガの手から椀を受け取ったファが、小さく頭を下げて中身を飲み干してほっと息を吐いた。
「……ぁりがとう、ございます」
「礼には、及ばぬ。しかし……あまり、変わらぬ、かのお?」
頭を下げるファを手で制しつつ、オウガは髭を引っ張って見せる。髭の一つを付けるだけで、領主であるファンオウの姿とは、随分と変わっている。少なくとも、オウガはそのように思っていたのだ。
「はい。雰囲気といいますか、そういうものが、変わらないので……なぜ、変装をされているのですか?」
ファの問いに、オウガは苦笑を浮かべる。
「神殿から出て、動く為じゃよ。領内では、わしは、神さまのように、思われておるようじゃからのお」
「……いろいろと、苦労をなされているのですね、ファンオウ様も」
「ふむ。じゃから、外では、この姿のわしを見かけても、オウガで通して、欲しいのじゃよ、ファどの」
「はい、オウガ様」
ファがころころと笑い、オウガもにこやかな笑みで応じる。
「さて、それよりも、じゃ。お主が、声を出さぬ、仔細を聞いても、良いじゃろうかのお」
生じかけた和やかな空気を、オウガは引き締めるようにして言った。あくまで間延びした口調であるオウガなので、あまり意味は無かったのかも知れない。だが、ファには意図は伝わったようで、その表情からすっと笑みが消えた。
「私の父、国王は、もう永くはありません。病に倒れた日から、自身でそう言っていました……」
ファの言葉を聞きながら、オウガはファの手から空の椀を取り新たな薬湯を注ぐ。ほの甘い湯気を立てる椀を受け取りつつ、ファは先を続けてゆく。
「父は、敵の目を欺くため、いくつもの偽りの罠を、仕掛けてゆきました。私の声についても、その罠のひとつなのです。身分を偽らせ、侍女として、側へ置くための……そうして、敵の手から、私を守っていたのです。ファンオウ様が、王宮へ来られるまで」
「陛下が、のお……」
「全ては、ファンオウ様へ私を託し、安全な生を送る為のことでした。敵は、父の食事に毒を盛ることすら、躊躇わずに実行できるのです。王位継承権をもったまま、私が生きてゆくには王宮は危険すぎる場所なのです。父が亡くなれば、秘事はいずれ漏れます。そうなれば、やがて敵の手はこちらへ伸びてくることになるやも知れません。きっとそうなるだろうと、父は予測しています」
ファが険しい顔をして、唇を噛んで俯く。
「敵、のお……畏れ多くも、国王陛下に、弓を引けるものが、おるのかのお」
オウガの脳裏に、一人の男の名が浮かぶ。ファが口を開き、出した名はそれと合致するものだった。
「……元王国宰相、ジュンサイです。失脚して今は隠遁していますが、それは仮の姿。私の兄たちの一人、第三王子を密かに取り込み、次代の王の座に就かせようと、動いているのです。そうして、その為に、王位継承権をもつ他の王子と王女たちを、皆殺しにしようとしている……父は、そのように考えているのです」
幼い少女の口から語られる現実は、深い王宮の闇を感じさせるものだった。
「陛下の、考え過ぎであれば、良いのじゃがのお」
口にしつつ、オウガは王都で会ったジュンサイの事を思い浮かべる。失脚し、隠遁しているとは思えない、不気味な迫力を老体から放つ様は、ファの話を、そして国王の考えを否定できる要素にはならない。
「敵が動くとすれば、父が亡くなった直後です。そしてそれは、もう間もなくのことなのでしょう。そのときに、私がここにいることを、あの男が知れば……」
顔を青ざめさせて、ファが咳き込む。長らく喋っていなかったことと、心労が重なっているのだろう。
「大丈夫じゃ。たとえ、ジュンサイどのがどうあろうと、ここへは、手出しはさせぬ。エリックや、皆がおるでのお。大聖堂の、ランダにも、よくよく言い含めておくゆえ、安心すると良いのお」
椀の薬湯を飲むよう促しつつ、オウガは柔和な笑みを向ける。今、ファに必要なのは鍼ではなく、心を安らげる場所のようだ。王族に生まれ、身の丈以上の重荷を背負い、生きることさえ阻害される。親との満足な別れさえも、出来ずにいる。ファの背負うものは、オウガの医術ではどうにも出来ないものだった。
「……ありがとう、ございます」
甘い薬湯を口にして儚げに微笑するファに、オウガは苦い胸中を隠し笑みを返すのであった。
夕刻になり、ファンオウの姿はエリックと共に太陽神殿の中庭にあった。沈みゆく夕陽に染まり、ヒマワリが深く色づいてゆく。じっと見つめるファンオウの側で、同じ景色を眺めていたエリックがファンオウへと顔を向ける。
「やはり、国王の娘でしたか。娘の命惜しさに、政敵から遠ざけるために殿を利用する……やはり、いけ好かない男ですな」
黄金色の陽光を受けながら、表情の乏しい美貌から辛辣な言葉が繰り出される。国王に対する崇敬の微塵も無い言いざまに、ファンオウは眉を下げる。
「陛下に打てる、精一杯の手、じゃったのじゃろう。わしは、陛下もファどのも、哀れでならぬ」
「殿が、御心を痛めることはありません。娘を匿うこととなったランダに対しても、気遣いは無用です。殿は、殿の覇道をただ、歩まれることです」
「わしの、覇道……?」
首を傾げるファンオウに、エリックが力強くうなずいて見せる。
「あの娘を娶れば、殿も王族の一員となります。傾きかけた王国ではありますが、殿が王となられれば、国の命脈は続いてゆく。とはいえこれは、殿の御心に反する策ですが」
「……わしは、王になるために、ファどのを利用したくは、無いからのお。それに、あのジュンサイどのが、どのような手を打ってくるかも、わからぬからのお」
「ジュンサイごときは、俺が潰します。殿のご命令があれば、いつでも。しかしあの娘は、どうされるおつもりですか? 古い血筋を継ぐだけの、何の力も持たぬ小娘で、その上厄介ごとを引き寄せる。事情を知れば、民らはあまり良くは思わないでしょう」
エリックの言葉は乱暴なものであったが、一分の理はあった。事が公になればジュンサイとの間に確執が生まれ、それはどのような形で領民らへ飛び火するかも知れぬことである。ファンオウは、顎に手を当てしばし考え込んだ。
「……ギョジンどののようには、ゆかぬであろうか、のお?」
「殿が、あの娘を養子とする。そういうことですね? それは、可能でありましょう。少しばかり齢は近いですが、人間の歴史を紐解けば、前例は掃いて捨てるほどあります。殿の御子として、役立つこともあるやも知れません。ですが」
エリックが、指をひとつ立てて見せる。
「ですが、何じゃ?」
「殿には、妻がおりませぬ。ゆえにあの娘を養子とするには、少し難しいのです。領内だけでのことならば、民らを納得させることは出来ます。ですが、領の外については、殿にいらぬ疑いを向けるものも、出てくることでしょう。王の道を歩まれる殿には、相応しくない汚名を着せる者が現れます。殿の望まれる、あの娘の未来にとってもそれは、良くないことになるでしょう」
「ふむ……そうか、のお。ふむ」
エリックの指摘に、ファンオウは腕組みをして唸る。
「ゆえに、段階を踏まねばならぬのですが……まずは、妻を得ることから、始めることとなります」
「うむ、妻、のお……うむ」
うーむうーむと唸りつつ、ファンオウの頭に浮かぶのは一人の女性である。
「殿?」
付き合いの長いエリックにも、ファンオウの素振りは初めて眼にするものだった。僅かに寄せた眉には、怪訝そうな色が見える。
「ふ、む……ファどのを守るため、とはいえ……そのような理由で、のお……じゃが、わしは、それだけでは、なくて、じゃのお……」
ぶつぶつと何事かを呟きながら、ファンオウはあらぬ彼方の空を見上げる。ぴくり、とエリックの耳が揺れた。
「殿、俺は独り身ですので、あまり大きいことは言えません。ですが、殿も男子であらせられるならば、胸に想いを秘めるより、さっと相手にぶつけてみればよろしいかと思います」
「エリック……うむ、そうじゃのお。まずは、話をしてみねば、わからぬことじゃからのお」
ファンオウの胸中を察することに、余人の追随を許さぬエリックである。すぐさま言われた助言は、ファンオウの意思を前向きなものへと動かした。晴れ晴れとした顔で、ファンオウは空へ向けて大きく息を吸いこむ。それは、ファンオウが想いを寄せる龍神、白雪を呼び出すための所作である。
『あの気位の高いばかりの土トカゲが、此度の理由を聞いて婚姻を肯じるとは思えん。きっぱりと断られれば、殿にはいい目覚ましとなるだろう……これも、従者としての務め。殿、どうかお心を強く保たれてください』
誰にも聞こえぬよう、胸の中だけでエリックが呟き拳をぐっと握りしめる。山の端へ夕陽が沈みきり、月が昇り始めている。薄暗くなってゆく領の空へ向けて、ファンオウは大きな声で呼びかけた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。




