千年王国の陰り
王国の開祖、初代国王の時代である千年の昔、そこは手付かずの草原であったという。王国が興り、次第に勢力を増すにつれ、人々は王の膝下に集い集落を築き上げていった。やがて、王国が大陸全土をすっかり支配下へ収める頃には、そこは王都と呼ばれる大陸一の大都市へと発展を遂げていた。
災害や王国の御家騒動、内乱に見舞われたこともあるが、王都は依然として健在であった。地脈の流れが、初代国王の強い遺志が、そして何より、そこへ住まう国民たちの血と汗の努力が、王都を王都たらしめてきたのである。
不死鳥の彫刻の施された立派な設えの王都の南門から、ファンオウら一行は王都へ入った。真っ直ぐに伸びる石畳の道の最奥には、巨大な城が見える。王都の東西南北四方を貫く大街路の中心にあるそこが、王国の中枢たる王宮である。王都を離れて、一年以上が経っている。だが、馬車の中からファンオウの見上げるそれは、以前と変わらぬ佇まいを見せていた。
「戻って、来たんじゃのお」
のんびりとした口調で、ファンオウは言う。街路は閑散としており、昼間にも関わらず曇った空が影を落として薄暗い。それでも、王都は、やはり王都だ。流れる空気の中に、懐かしいものを感じる。
感慨に耽る時間は、そう長くは続かなかった。
「殿、王宮の方から、兵がやってきます」
「ふむ、王宮の、方からのお。国王陛下の、使いかのお?」
言いながら、馬車を降りる。街路の先へ眼を転じれば、きらびやかな武具を身に纏った一団が、近づいてきていた。
「州吏、ファンオウ殿の一行と、お見受けする。国王陛下のご下命により、王国近衛軍が、これより先導を務める」
一団の中から、一騎の将が進み出て、ファンオウの前に馬を止めて言う。がっしりとした体つきの、凛々しいがまだ若い将校と見えた。
「いかにも。我らは州吏ファンオウ様の一行である。しばらく見ぬうちに、衣装の趣味が悪くなったようだな、ジュンシン」
さりげなくファンオウと将校の間に身を入れて、エリックが答えた。
「おお、エリック殿。そなたは変わらず、口が悪いようだな。この鎧は、王国近衛軍の制式装備だ。あまり公道で、趣味の良し悪しを論ずることは、好ましくはないぞ?」
溌剌とした笑顔で、将校は返した。エリックはただ、ふん、と鼻を鳴らすのみである。
「殿。この男は、ジュンシン。今は近衛の軍で偉くなっているようですが、あのジュンサイの息子というだけの男です」
「俺を目の前にして、よく言えたものだな、エリック殿。確かに、武術の才であれば、そのように見えるのかも知れんが」
ジュンシンが、表情を苦笑に変えて言う。
「これは、これは。かの王国宰相様の、ご子息で、あらせられましたか。ジュンサイ様も、立派な息子を持たれて、幸せですのお」
にこやかに手を挙げて、ファンオウはエリックの横へ並ぶ。
「ほう、ファンオウ殿は我が父を存じておるのか」
「王国で、宰相様を知らぬものなど、おりませぬかと。わしは、王宮へ務めていたころ、少し、会話のある程度、ですがのお。それより、ジュンシン殿は、エリックと、何やら割ない仲と、お見受けいたしますが、のお?」
「殿が国王の診療をしている際に、武官の詰め所で何度か顔を合わせただけです、殿」
ファンオウの問いを、エリックが引き取った。
「そうだな。個人の武と、国軍のあるべき姿について、論じあったものだ」
「お前が一方的に、言いたいことを言っただけだろう。大体にして、親の金で兵を飾り立てるお前に、国軍のあるべき姿などとは……」
「エリック、積もる話もあるじゃろうが、今は、ジュンシン殿も務めの最中じゃ。あまり遅れると、国王陛下を、お待たせすることに、なってしまうので、その辺にしておいては、くれぬかのお?」
ファンオウの言葉に、エリックは素直に口を閉じて引き下がる。国王陛下、という言葉を聞いてか、ジュンシンもそれ以上は、口を挟みはしなかった。
供回りにエリックとラドウだけを連れて、ファンオウはジュンシンに先導され王宮へ向かうことにした。他の者は、先に王都の拠点へと向かわせる。褐色の戦士やソテツは、王宮に入る者としては異形に過ぎるからだ。それは、ラドウの判断だった。
領主任命以来の、王宮である。長い廊下を歩き、ファンオウは一人で首を傾げる。
「はて、昼間じゃというのに、ずいぶんと、静まり返って、おるものじゃのお」
口に出した問いに、答える者はいない。エリックやラドウは、武官の詰め所に留め置かれ、そして王宮内を案内する者は、誰もいない。所々に立つ兵が、見えるだけだ。勝手知ったる様子でファンオウが向かうのは、国王の寝室であった。
「皆、忙しいのじゃろうか、のお?」
王国の要たる王宮を、ほとんど空にして忙しさなど、あり得るものか。自問するファンオウは答えの得られぬままに、王の寝室へとたどり着いた。昼間から、寝室へ招かれる。その意味に暗い予感が頭を過った。
「陛下、州吏ファンオウ、お召しにより、参内いたしまして、ございまする」
伸びやかな声が、静かな廊下に響いてゆく。
「入れ」
許可の声とともに、扉が開かれた。組んだ両手の袖で顔を隠しつつ、ファンオウはゆっくりと進み出る。
「面を、上げよ」
弱々しく、震える声音だった。王の声は、このように、力無いものだったろうか。どきり、とファンオウの心臓が、嫌な軋みを上げる。
袖の間からそろりと眼を上げて、ファンオウははっと息を呑む。
「国王、陛下……」
「久しいな、ファンオウ。命あるうちに、またお前に会うことが、出来た。余は、幸運である、な」
寝台で、女官に半身を支えられた痩せ衰えた一人の男が、一言一句に肩を震わせる。それが、変わり果てた王の姿だった。
「診て、よろしいですかのお、陛下?」
礼儀や儀式めいたやり取りの一切が、ファンオウの中から吹き飛んでしまう。
「構わぬ。お前は、余の、侍医である。それは、今も変わらぬ。余は、そのつもりだ」
うなずく王に、ファンオウは近づき手首を取った。気脈の流れは、弱く、そして重い。
「お食事は、しっかり、摂っておられて、おりますかのお?」
気脈を測りつつ、ファンオウは女官に問う。女官は戸惑った様子で、ファンオウと王を交互に見やる。
「その娘は、喋ることが出来ぬのだ、ファンオウよ。そして食事は……酒ならば、日に小瓶一つに、なった。新しい宰相が、倹約倹約と、小うるさくてな」
五臓六腑に巡る気が、滞ってしまっているのだろう。否や、それは、全身に対して、同じことが言える、とファンオウは思い直す。生命の源が、尽きかけようと、しているのかお知れない。
「陛下、鍼を打ちまする」
女官の手を借りて、王を仰向けに寝かせる。抗することもなく、王はただうなずいた。
胸の中央から、少し右に掌を当てる。気脈の中心、心臓の脈動が、僅かにあった。気の流れは、ここから臓腑を巡り、全身に至る。打つべき場所へ、ファンオウは鍼を静かに打ってゆく。中心から、腹の横側、肩と太股、手足の先へと、順に鍼を打つ。打った場所が起点となり、ゆっくりと、王の気が全身を、巡ってゆく。
「体が、温かくなってきたようだ。やはり、お前の鍼は、良いな」
気だるげな声で、王が言う。
「気を活性化させて、強い流れを作って全身へ、巡らせております、陛下。温かいのは、そのためですのお」
「そうか……お前の声を聞いていると、眠気が、やってくるな」
「陛下の御体が、眠りを、求めておるのです」
「なれば、少し眠るか。余が起きるまで、側におれ、ファンオウ。お前に、話して、おかねばならぬ、ことが……」
「はい、ここに、ずっと控えておりまする、陛下」
ファンオウの言葉に安心してか、王はほどなく眠りへ落ちた。土気色だった王の顔に、次第に血色が戻ってくる。痩せたあばらに、薄い脂肪の丸い腹を見下ろして、ファンオウはそっと息を吐いた。
「一体全体、どうなって、おるんじゃろうか、のお」
鍼を抜き、部屋の火鉢で炙り清める。王の寝室は何もかもが、領主となる前のそのままであった。ただ、王のみが、変わり果てていた。薄絹の寝具をかけて、眠る王の傍らに立つ。王の手からは、弱々しい、老人のような脈動が感じられた。眼が落ち窪み、げっそりと削げた頬。鍼で多少の血色は戻ったものの、王の相貌には、色濃い死相が、くっきりと浮かんでいる。
「わしに、出来ることは、何でも、して差し上げたいのじゃが……」
懐の包みへ、鍼を仕舞う。今のところは、これで治療を終えるしかない。王の体力は、気脈を整えるだけで、ほとんど尽きてしまっている。治療を続けるには、体の中の力を、もっと蓄える必要がある。
部屋にある酒杯を、ファンオウは手に取った。その杯を前にして、懐の中から取り出すのは、ヒマワリの種の入った、小袋である。ぱきり、ぱきりと殻を割り、種を落としてゆく。
「………」
杯の中にたまってゆく白い実を、女官がじっと見つめている。
「これは、わしの領の、食べ物でのお。邪気を、祓うてくれる、そんな効能も、あったり、するのじゃ。陛下には、今、食事が、必要じゃから、のお」
小袋の種子を全て割り終えたファンオウは、女官へ眼を向けて言った。喋ることの出来ないという女官は、じっと静かに、大きな瞳を杯に注いでいる。女官として王の側に侍るには、少し若い、幼さのある横顔だった。
「お主は、何故に、言葉を、失って、しもうたのかのお。わしで良ければ、後で、診て進ぜようか、のお?」
ファンオウの声に、女官はぴくりと肩を震わせ、そして首をふるふると振った。
「そうか。まずは、陛下が、先か。お主は、優しい、良い子じゃのお」
心配そうに王へ視線を戻す女官に、ファンオウは柔らかく微笑んだ。
「もうすぐ、陛下も、お目覚めに、なられる。安心するが良い」
言いながらファンオウも、王の枕元へと戻る。それを察したかのように、王の両眼がゆっくりと開く。
「おお、側に、おってくれたか、ファンオウよ」
「陛下の、お言葉ですからのお。気分は、いかがですかのお?」
「頭の中に澱んでいたものが、薄らいだ。お前の鍼は、やはり良いな。天下に、並ぶものはおらぬやも知れぬ。領主にしておくには、勿体ない」
「過分なお言葉ですのお。わしの鍼は、あくまで陛下の、体の中の力を、整えたに、過ぎぬのです。陛下の御不快を、晴らしたのは、陛下自身の、お力にございます」
「なんとも奥ゆかしいことよ。ときに、ファンオウ。その、手に持っておるのは……」
半身を起こし王が強い視線を向けるのは、ファンオウの持つ酒杯である。
「残念ながら、酒ではありませぬ……陛下、寝転がるのは、少しお待ちくだされ。これは、今の陛下に、必要な、食物に、ございましてのお」
酒ではない、と聞いた途端に脱力した王を、ファンオウは慌てて引き留める。
「食物、とな? 余は、腹はそれほど、空いてはおらぬ。それに、その食物とやら、随分小さなものではないか。食事にしては、少なすぎるぞ」
「はい。ですので、食欲のあまり無い、陛下でも、食せるもので、ございます。ものは試しに、一口を」
ファンオウの差し出す酒杯の中から、王は言われるままに、一粒の種をつまみ上げて口へ運ぶ。
「……ふむ、面白い、食感だ」
「まだまだ、ございます」
王の手が、酒杯へ伸びる。一つ、二つ、と種は王の口へ、消えてゆく。
「酒が、欲しくなるな、これは。ほれ、お前も一つ、食ってみよ」
王が女官に手招きをして、一粒の種を渡す。ぱくりと種を食べた女官が、口を動かしつつ表情を綻ばせる。種が、美味なのではない。王が、弾んだ様子を見せるのが、嬉しいのだ。女官と笑みを交わし合う王に、ファンオウも自然と笑顔になった。
「ふう。たったこれしきの量であったが、不思議と、満たされたぞ。良い土産であった、ファンオウ。この種子には、千金の価値がある」
「それは、わしの領で、いくらでも、採れるもので、ございましてのお。千金もの、値を付けられては、領が黄金で、満ち溢れてしまいますかのお」
冗談めかして言うファンオウに、女官は可笑しそうに咽喉を鳴らす。だが、王はそのまま、真面目な顔でファンオウを見つめていた。
「値千金の、地だ……やはり、お前をおいて、他にはあるまいな」
「どうか、されましたかのお、陛下? さすがに、この種に値千金は、ちと盛り過ぎですが、のお?」
首を傾げるファンオウに向けて、王が手をゆるゆると伸ばす。骨の浮いた、痩せた腕を取れば、王はファンオウの手を強く握りしめた。
「ファンオウよ。お前に、この女官をつかわす。種と、鍼の礼である。どうか、受け取ってくれ」
強い視線が、ファンオウに向けられていた。ちらと見れば、女官もファンオウを、じっと見つめている。その顔には、先程までの華やいだ表情は無く、どこか追いつめられたような意志が見て取れた。
「なんと……いきなりで、ございますのお。この方は、陛下の、お側に侍る、女官でございませぬか、のお?」
面食らってしまったファンオウの言葉に、王は小さく首を横へ振る。
「仔細は、問うことは許さぬ。お前はこの女官を、領へと連れ帰るのだ。その後のことは、お前に任せよう。願わくば、妻にしてくれればと、余は思っている」
掠れた声を潜め、王は言う。
「妻に……ですかのお?」
ファンオウの脳裏に、ちらりと白雪の顔が浮かぶ。だが、息を詰めて見守る女官と、王の真剣なまなざしに、それはすぐに掻き消えた。
「受け取って、くれるな、ファンオウ?」
王の問いに、
「はい。謹んで、女官を一人、賜りまする」
こっくりと、うなずいて告げた。王の隣で、女官が安堵の息を吐く。王の手から、力がすっと抜ける。
「なれば、もう、下がってよい。女官の支度は、すでに出来ている。必要な荷は、もう密かに屋敷へ送っている。あとは、身ひとつで、出てゆくだけだ」
言いながら王は、女官の頭を軽く撫でる。女官は、大人しくされるままにしていたが、やがて王の手を取ってそっと離れた。仔細は、問うな。そう命じられていても、考えてはしまう。
「陛下、もうしばし、お時間を、いただけませぬかのお? 陛下の治療は、まだ、今少し、残っておりまして、のお。今度は、背中へ鍼を、打たせていただきたいのですが、いかがですかのお?」
ファンオウの言葉に、王は眼を閉じ、しばし黙した後、
「……ならば、もうしばし。お前の鍼は、天下の鍼だ。有り難く受けるとしよう」
そう言って、女官の手を借り寝台へとうつ伏せになる。懐から鍼を取り出すファンオウに、女官がぺこりと小さく頭を下げた。
「陛下、眠気がくれば、そのまま、眠ってしまっても、構いませぬ。深く眠った後は、清水と、粥を召し上がるのです。そうして、酒を控えられれば、体の力も、戻って来るでしょう」
それは、気休めであった。王の生命は、もう尽きかけている。多少のことをした程度では、どうにもならない。付きっきりで、治療に当たれば、あるいは命を伸ばすことは出来るかも知れない。だが、王はファンオウに領へ帰ることを命じたのだ。王にとって、女官を領へと行かせることは、命よりも、大事なことなのかも知れない。王の覚悟を思えば、命に背いて側へ残るということは、言い出せることではなかった。
「……ファ、という」
「何で、ございましょうか?」
「その、女官の名だ。名が無ければ、呼べぬであろう。大事にせよ」
ぽつりと言って、王はそれきり黙りこんだ。気脈の流れを整え、強めるために、鍼を打つ。淀みの無い手つきで鍼を持つファンオウの傍らでは、王の手をファという女官がそっと握っていた。ファンオウはただ無心に、壊れかけた王の肉体と、向き合うばかりであった。
眠りについた王に夜具をかけて、ファンオウは女官とともに王の寝室を後にした。後ろをそっと歩く女官の表情は、頑なな決意に彩られていた。決して、背後は振り返らない。そこには、悲壮ともいえる何かがあった。
「もう、月が、出ておるのお」
廊下の窓から、暗くなりつつある空が見える。足を止めたファンオウに、女官も寄り添うように窓辺に寄る。植えられた草木の枯れた、荒れ始めの気配を見せる中庭の向こうに浮かぶ月は、どこか物悲しい雰囲気を与えてくる。
「陛下……」
月へ向けて、そっと呼びかける。ファンオウの頭の中に、王との思い出が、すっと流れてゆく。
どれほど、立ち尽くしていたのだろうか。気づけば、女官の頬に涙が伝っていた。手を伸ばし、ファンオウは透明なそれを袖で拭ってやった。
「さて、そろそろ、行かねば、のお。エリックも、待っておることじゃろうて」
そう言って、ファンオウは微笑みを、女官へ向けた。こくん、とうなずいた女官にうなずきを返し、ファンオウはエリックとラドウの待つ、武官の詰所へと向かって歩き出す。とことこと、女官がそれに続いてついてくる。傍目からは、二人はどう見えるのか。それは、わからないことだった。宵を迎える王宮の中は静まり返り、兵も、文官も、二人を見る者は誰も、いなかったのである。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
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今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。




