のほほん州吏、河族の頭と親交を深め得難き絆を得る
果て無しの山脈の裾野を流れる大河は、緩やかな曲線を描き大陸中部へと続いてゆく。河岸を林に囲まれた、入り組んだ場所に船隠しとなる入江がある。ギョジンによってファンオウが案内をされたのも、そんな入江の一つであった。
大河を臨む立地にある、丸太を組んだだけの簡素な外見を持つそこは、物資の集積所も兼ねていた。ファンオウらの大船が停泊する傍らで、無数の筏が往来している。
「おお、河族たちは、働き者じゃのお」
眼下の人々の動きを見下ろしながら、ファンオウは長閑に声を上げる。
「働かなきゃ、食っていけねえってえ時代だ。怠ける奴は、叩き出してやってんのよ。それよりファンオウ、一杯どうでえ」
上機嫌で言う河族の頭ギョジンの手には、既に酒の満たされた椀が握られている。
「ふむ、折角じゃし、戴くとするかのお」
椀を受け取り、中身を口にする。荒々しく、尖った味わいの酒だった。少し口を付けただけで、ファンオウは喉が燃えるように感じて椀を置く。
「殿、こちらを」
すかさず、エリックが傍らから水筒を差し出した。中身の清水が、甘露の味わいとなり拡がってゆく。尖った味の酒が解されるように、程よい旨味となって口に残る。
「うむ……少し濃いが、良い酒じゃのお。エリックも、一杯やらぬか、のお?」
「殿の仰せであれば、有り難く」
ファンオウの差し出す椀を受け取り、エリックが一気に傾ける。
「結構、いける口じゃねえか。まだまだあるから、どんどんやってくれ。あとは、ツマミを持って来させるか」
ギョジンが手を鳴らし、ツマミだ、と叫ぶ。はいよ、と小気味良く返ってくるのは、若い女の声だ。
「この酒は、殿には少し強いようです。水で、割られるのがよろしいかと」
半ばまで干した椀をファンオウへ返しつつ、エリックが言う。受け取ったファンオウは、水筒を手にギョジンへ眼を向けた。
「ふむ。構わんじゃろうか、ギョジンどの?」
「ああ、いいぜ。酒の飲み方に、ケチつけるような狭え了見じゃあ、いけねえやな」
快い了承を得て、ファンオウは椀へ清水を入れる。杏のような色味の酒が薄まり、椀の中で淡くなる。口を付ければ、程よい旨味が舌を打つ。
「わしには、これくらいが、程よいかのお」
ほろほろと酔いが訪れ、椀を手にファンオウは周囲へ視線を巡らせる。隠れ家などと嘯く割に、そこは貴族の屋敷の食堂のような趣があった。広々とした部屋には長方形の食卓があり、豪奢な彫刻を施された燭台があちこちにある。夕暮れ前にも拘らず、昼間のように明るい部屋の中で、ギョジンとファンオウ、その傍らにエリックと、そして少し離れた場所には白龍の白雪が椅子に座り寛いだ様子を見せている。大きな金色の龍が彫られた柱の陰では、使徒のオネが息を荒げてファンオウの持つ椀を凝視しているのだが、そちらにはファンオウは気付かない。
「白雪殿、なぜ、離れて、おられるのかのお?」
「近くで見るばかりが、観賞ではない。妾のことは気にせず、今は宴を楽しむが良いのじゃ」
白雪の言葉に、よくわからない、とファンオウは首を傾げる。
「そういえば、ファンオウ。そっちの幼子は、一体何者だ? 水の精霊が一目おいてっから、ただもんじゃねえとは思うんだが」
問われてファンオウは、白雪のことをギョジンに話していなかったことに思い至る。
「白雪殿じゃな。わしの、王都ゆきに、同行してくれておる、龍じ…」
「ただの小娘じゃ。よろしゅうの、ギョジンとやら」
ファンオウの言葉に被せるように、よく通る涼やかな声で白雪が言った。
「……ただの小娘にゃ見えねえが、まあ、そういうことに、しとくかね」
言ってギョジンが、白雪へ苦笑を見せる。そうしているうちに、香ばしい匂いがファンオウの鼻に届いてくる。
「ふむ、これは」
「はいよっ! ツマミだよ、アンタ!」
威勢の良い声と共に、食堂へ入ってきた女が食卓へ置いたのは大きな魚の姿焼きである。
「おお、丁度いい具合に焼けてんな、ラン! ファンオウ、紹介させてくれ。こいつは俺の女房の、ランだ!」
どん、と置かれた大皿に顔を寄せ、それからギョジンが女を示して言う。皿を置いた女が、ファンオウに軽く頭を下げた。
「ランっていいます、ファンオウ様。ところで、ファンオウ様ってえともしかして、あの高名な針医者のファンオウ先生かい?」
「ふむ。高名かどうかは、わからぬがのお。少しばかり、鍼を打つことは、得意かのお」
言ってファンオウは、懐から金の鍼の入った小袋を取り出して見せる。ギョジンの妻ギョランの眼が途端に輝き、食い入るように小袋を見つめ始める。
「……間違いない。これは、王都の一流の鍼師の持つと言われる、金無垢の鍼! とすると、アンタ!」
叫ぶや、ギョランがギョジンの頭をがしりと掴んで下ろす。
「何するんだ、ラン!」
「伝説級の鍼師先生の前で、頭が高いんだよアンタは!」
そのまま土下座をさせようとする勢いのランを、ファンオウは必死で押し留める。不承不承、といった様子でギョジンの頭を解放するギョランに、ギョジンが苦笑した。
「こいつも、医師の端くれでな。医術のことになると、ここがちょいと調子外れになっちまうんだ」
頭を指差し言うギョジンに、ファンオウも苦笑で応じる。
「ランどのは、立派な医師なのじゃのお。じゃが、ランどの。お主の夫君とて、ひとかどの人物じゃ。わしのようなものに、そこまですることは、ない」
「さすがは名医のファンオウ先生だねえ。謙虚なことったら。このひとに、先生の爪の垢でも煎じて、飲ませたくなるよ」
ギョランの言葉に、ギョジンが微妙な顔になる。
「そりゃ、どういう意味だよ」
「そのまんまだよ。先生の謙虚さの、カケラでもいいから見習うべきだよアンタは」
ギョランにやり込められ、がっくりとギョジンが肩を落とす。髭面の男が悄気かえる姿には滑稽みがあり、ファンオウはカラカラと笑う。和やかな空気が、食堂へと流れる。
ふいに、外からひとの騒ぐ声が聞こえてきた。船着き場の方で起こったそれは、次第に大きく、近くなってゆく。間もなく食堂に、ギョジンの部下がやって来た。
「ギョジン様。ホウ様が……」
部下の報告を耳にした途端、ギョジンの顔に苦いものが浮かぶ。
「あいつが……」
ギョジンが唸った直後、食堂の扉が勢いよく開かれた。
「義父上! こちらへファンオウが来ていると」
「仕事はどうした、ホウ!」
中へ入ってくるなりギョジンが怒鳴り付けるのは、どこかあどけない印象のある青年だった。
「も、申し訳ありません、義父上。こちらへ、ファンオウが来ていると聞いて」
「口の聞き方にゃ、気をつけろ! ファンオウは俺の大事な客だ! お前が気安く呼ぶんじゃあねえ! それに、お前に任したのは、部下や民たちの生活のかかったもんだ! それを放り出してくるなんざ、言語道断だ! とっとと戻って、部下に頭下げて来いっ!」
「お、お待ちを、義父上! せめて、ファンオウ……どのに、一言だけでもご挨拶を」
「いいから戻れっ!」
必死に懇願する青年に、ギョジンはとりつく島もない。
「のお、ギョジンどの。そちらは、息子さんかのお?」
思わず口を挟んだファンオウに、ギョジンが憤懣やる方ない表情でうなずく。
「……養子の、ホウだ。仕方ねえ、ホウ。一言だけ、ご挨拶とやらをしろ。んで、とっとと仕事に戻れ」
言われて青年、ギョジンの養子ギョホウが顔をパッと輝かせファンオウの前へとやってくる。その顔に、ファンオウの中で不思議な既視感が浮かぶ。
「ファンオウ、どの……覚えておられませんか? 私のことを」
問われて、ファンオウは首を捻る。
「ふむう。ギョホウどのと、いわれるのじゃな……はて、どこかで、見たことが、あるような、無いような……」
「よし、終わりだホウ。仕事へ戻れ」
答えの出ぬうちに、ギョジンが遮った。
「しかし義父上、まだ話は終わっておりませぬ」
「お前に許したのは、挨拶までだ。話をしたけりゃ、きちんと手早く役目をこなしてからにしろ」
ギョジンの言葉に、ギョホウががっくりと肩を落として去ってゆく。
「なかなか、大変な事情が、あるようじゃのお」
ギョホウの背を見送り、ファンオウは言った。
「あいつの顔に、見覚えがあったか、ファンオウ?」
「ふむ。そういえば、どこかで見たような、そんな顔、じゃったが、のお」
「多分そりゃ、王都の王宮でのことだな。あいつは、畏れ多くも国王陛下の六男様ってえ奴だから。ま、今は俺の義理の息子だがな」
ギョジンの言葉を受け、ファンオウは衝撃に細い眼をいっぱいに見開いた。
「陛下の、ご子息であったとは、驚きじゃのお」
「お前さんが言うと、大したことねえって聞こえるな。なんとものんびりしてやがる。あいつは、俺が州吏ってやつに任じられる代わりに、国王陛下から押し付けられたんだ。陛下が何考えてるかはわからねえが、お陰で俺も、王族ってやつの端くれにゃなれた。乗り慣れた筏から、船に乗り替える気は無えけどな」
「陛下が、のお?」
ファンオウの脳裏に、国王の顔が浮かぶ。先ほど見たギョホウと、面影の重なるところは、微かにあった。何故、と考えてはみるものの、ファンオウにも答えは解らない。子を持ったこともない身では、その子を遠い異郷へ養子へ出す心理など、読み解けるものでは無かった。
「お前さんをここへ呼んだのはな、ファンオウ。ちょいとした、忠告の為でもあるんだ」
「忠告、とな?」
首を傾げるファンオウに、ギョジンがうなずく。
「陛下のお気に入りであるお前さんが、王都へ呼び出される。十中八九、陛下はお前さんにも養子を、いや、妻がいなけりゃ、王女の降嫁ってえことも、あり得るかも知れねえ」
思わぬ言葉に、ファンオウは大きく咳き込んだ。食堂のどこかで、ばきりと何かの割れるような音も、同時に鳴った。
「む……確かに、妻はおらぬが、まさか……」
「王国宰相ジュンサイの野郎が、関わってる事かも知れねえ。奴は今、隠遁してやがるってえ話だが……王国の政治を私して憚らなかった厚顔無恥の大悪党が、このまま黙って消えるってのは、考えにくいことだしな」
「そうじゃのお……」
「なあ、ファンオウ。お前さんは、俺が見た中じゃ最上等の男だ。人に安心を与え、慕われる。だからこそ、色んな奴が、お前さんについてくる。この国で、もしかすると誰よりも、王に相応しい器の持ち主だ」
ファンオウの隣で、エリックがこくこくとうなずく。
「それは、買いかぶり過ぎでは、ないかのお? ギョジンどのとて、公私のきっちりとした、ひとかどの英傑に、思えるがのお」
「そりゃ、光栄だ。俺らが手を組めば、天下は太平ってことなんだからな。だが、もし俺らが相争えば……世は乱れ、民は苦しむ。だから、なあ、ファンオウ。この先、世の中がどう動こうと、俺らは争わねえ。そう、誓いを立てようじゃねえか」
「誓いを立てる、のお?」
問いを返すファンオウに、ギョジンが椀を差し出す。受け取るとギョジンは、椀の中へ酒を注ぐ。
「男と男の、誓いだぜファンオウ。心根で、一息に呑んぢまってくれや」
ギョジンの勧めに、ファンオウは椀を傾ける。熱い酒が、喉を焼いて下りてゆく。かっと、熱いものが身体中へ拡がっていった。
「今度は、俺だ。目一杯に注いでくれや」
差し出される椀に、ファンオウは大徳利からなみなみと酒を注ぐ。にっと笑ったギョジンが、水でも飲むようにそれを呷る。
「ふう、いい酒だ。これで、俺らは五分の兄弟分ってことになる。だからよ、ファンオウ。さっきの誓い、忘れんじゃあねえぜ」
「わしとお主は、世がどう動くとも、決して争いは、せぬ。そういうことじゃったな。あいわかった。わしは、誓おう。願っても、ないことじゃからのお。誓紙を書いても、構わぬが」
「そりゃ、無粋ってもんだぜ。どちらかが誓いを破りゃ、そいつは所詮そこまでの男だ。そう言って嗤ってやりゃあいい。それが、男の誓いだ」
「なるほど、のお。互いに、誇りを懸けるのじゃな。何とも、小気味良いことじゃのお」
ファンオウが笑えば、ギョジンも笑う。焼きたての魚を摘まみながら、二人の男は杯を重ね続ける。そこには、言葉の要らぬ友情の形があった。
「そういや、ファンオウ」
「何じゃ、ギョジンどの」
酔いの回った頃合いに、ギョジンがふいに真面目な顔で言う。
「礼を、言い忘れていたぜ。ありがとうよ」
「礼? わしが、何かをしたかのお?」
「おう。まずは、いけ好かねえブゼンの野郎を、ぶっちめてくれたこと。あいつのとこの水の邪神には、うちの水の精霊が随分、苦しめられてたんだ」
「それは、たまたまじゃよ。ブゼンどのとは、行き違いが、あったに過ぎぬ」
「それでも、救われた命は多くあるってことだ。それと……大河の氾濫を、鎮めてくれたこともな。うちの民たちゃ、お前さんに足向けて眠れねえってくらい、助かった」
「それは……わしの力では、なくてじゃな」
ファンオウは視線で、白雪の姿を探す。食卓に饗された魚にかぶり付いていた童女が、しいっと人差し指を口許へやって目配せを寄越してくる。意味を察して言葉を濁すファンオウの肩を、ギョジンが軽く叩いた。
「ああ、言わなくっていいぜ。何となく、察しは付くからよ。ともかく、礼の代わりにひとつ、良いことを教えてやるよ。この隠れ家の裏手にゃ、滝があるんだ。そこそこにでけえ滝なんだが、龍神様に捧げ物をする、祭壇なんぞがある。美酒を用意しといてやっから、後で行ってみるといいぜ」
「ふむ、それは、面白そうじゃのお」
カラカラと笑うファンオウに、ギョジンが酒を注ぐ。エリックも交わりその後はしばし、酒の呑み比べとなった。そうしてエリックがギョジンを呑み潰すまで、宴は賑々しく続くのであった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。




