のほほん州吏、大河を下りて河族の頭と邂逅す
ゆるゆると、船は河の流れに乗って進んでゆく。ぎしり、ぎしりと揺れる船の甲板では、水夫たちが忙しく立ち働いている。ぽかぽかとした陽気が降り注ぎ、爽やかな風の吹き行く中でファンオウは額の汗を拭った。
「何とも、気持ちの良い、風じゃのお。お天道様も、よう照っておるのお」
のんびりと言うファンオウの足元では、幾人もの褐色の民たちが寝転がっていた。それは怠惰や不敬によるものではなく、船酔いの病に罹った者たちであった。
隙あらば起き上がり、無理に平伏の姿勢を取ろうとする彼らを宥め、安静にさせるには骨が折れた。エリックの協力が得られれば、もう少しは楽であったのだろう。だが、当のエリックは船酔いなどものともせず、大弓を背に甲板を巡回していた。
「ファンオウ、様……お役、立てない……申し訳……」
褐色の戦士たちを率いる、ソテツの姿もまた床の上にあった。異能怪力を秘める長身の鬼も、船には酔うらしかった。ぽんぽん、とファンオウは二本のツノの生えたソテツの頭を撫でてやり、気を落ち着かせてやる。
「気にすることは、無い。陸では、ずっと、気を張って、いてくれたからのお。なに、ここは、船の上じゃ。そうそう、お主が警戒するものも、現れまいて、のお」
ファンオウが穏やかに呼びかけるのは、褐色の戦士たちの床を元気に駆けまわる、イファである。
「ファンオウ様の、仰る通りです、ソテツさん。具合の悪いときは、大人しく寝ていてください」
「………」
青い顔をして口を開きかけるソテツの胸に、イファが手を置く。二人の間だけで、何やら通じるものがあったようで、ソテツがぐたりと頭をもたげた。
「ふむ、大人しゅう、なってくれたようじゃのお。さしものソテツも、イファには頭が上がらぬ、といったところかのお」
「ファンオウ様ったら、もう。でも……このままじゃ、皆さん可哀想ですよね」
頬を膨らませてちろりとファンオウを見やったイファが、そのまま視線を巡らして言った。
「うむ。水夫長の話によれば、三日もすれば、慣れるということじゃが、のお」
船で大河を下り始めて、まだ一日しか経っていない。今後のことを考えれば、戦士たちのほとんどが動けぬ状況は、あまり良くないものといえる。むむむと腕組みをするファンオウの元へ、赤銅色の逞しい肌の水夫が駆け寄ってきた。ごつい髭面のその男は、この船の水夫長である。
「領主様、ちょいとこちらへ、来ていただけやせんか?」
「ふむ? 何事か、あったのかのお?」
「へい。船に、物売りらしい筏が近づいてきやして。船酔いの薬を売ってくれるってえ話なんですが……その、エルフの旦那が」
「エリックが、何かをしたのかのお?」
「風体の怪しい奴らだってえんで、大弓担いで喧嘩をおっぱじめようとしちまってるんでさ。何とか、止めていただけやせんかね?」
聞けば、一触即発の状況であった。
「うむ、承知じゃ。イファや、この場は、お主に任せる」
「は、はい。ファンオウ様、どうぞお気をつけて」
ソテツに寄り添い、心配そうな顔のイファに見送られファンオウは水夫長とともに甲板を駆けてゆく。果たして舷側へとたどり着けば、ぎりぎりと弓を引き絞るエリックの姿があった。
「エリックよ、一体、何事じゃ?」
ファンオウの声に、エリックが首だけでファンオウへ振り向いた。
「殿、来てはなりませぬ。物売りと名乗る怪しげな連中が、こちらへ漕ぎ寄せてきているのです」
弓と矢に込めた力を緩めることなく、エリックが言い放つ。
「どのように、怪しいと、いうのじゃ? 聞けば、船酔いの薬を、売ってくれる、ということでは、ないのかのお? わしらにとっては、渡りに船、というところでは、ないかのお?」
ファンオウの言葉に、エリックが首を横へ振る。
「まるで、こちらの苦境を見計らったようなタイミングです。こちらの内情を、探る心算なのかも知れませぬ」
言いながらきりきりと狙い定めるエリックの視線を追って見れば、三艘の木組みの筏が船の横にいて、乗っている五人の男たちが戸惑った様子で両手を上げている。
「殿、奴らが飛び道具を使う可能性があります。お下がりを」
「なに、お主がおれば、わしには届かぬじゃろう。のお?」
エリックの制止の言葉を悠然と振り切り、ファンオウは言う。む、と黙り込んだエリックの横へたどり着いたファンオウは、筏へ向けて声をかけた。
「お主ら、船酔いの薬を、売ってくれるそうじゃのお。有り難いことじゃが、お主らには、何ぞ、企みでも、あるのかのお?」
長閑な口調で問いかけるファンオウに、五人の男たちはそれぞれ首を横へ振る。
「と、とんでもねえ。この河で、王族だけが乗れるって船に、喧嘩を売るような真似は、しませんや。あっしらは、ただ薬を、売りに来た河族の民です」
代表らしい一人の男が、恐る恐る、といったふうに答える。うなずいてファンオウは、エリックに眼を向けた。
「だ、そうじゃがのお、エリックよ」
言われてエリックが、素直に弓を下ろす。殺気に当てられぶるぶる震える男たちからは、さして脅威を感じなかったのであろう。殺気の抜けたエリックに、ファンオウはほっと胸を撫で下ろした。
「それで、お主らは、その薬、幾らの代価で、譲ってくれるのかのお?」
射竦めていたエリックの殺気が消えて、こちらもほっとした様子の男たちへファンオウが訊いた。
「へ、へえ。ここにありますのは、百人ほどの分量ですが、銀貨……二十枚で、いかがですかい?」
言って男が指さすのは、筏に乗せられたこんもりと盛り上がる袋である。一抱えもありそうな袋を積み込んで、筏は安定している。棹一本で軽やかに筏を操る姿に、ファンオウは感嘆の息を吐く。
「二十枚とは、安いのお。お主ら、損はしては、おらぬか? 王都であれば、その十倍はすると、思うのじゃが、のお」
「薬といっても、領主様。ここいらに生えてる藻を、煎じただけのものですから。領主様の御存じのような、立派な薬じゃねえんです」
ファンオウの問いに、男が答えを返す。それを聞いて、エリックのこめかみがぴくりと動いた。
「……領主様、だと?」
びゅおう、とエリックの全身から、殺気を孕んだ風が吹き抜ける。地の底から響くような声音に、男たちが再び萎縮する。
「どうか、したのかのお、エリック?」
首を傾げ、ファンオウはエリックへ問う。
「貴様ら、何故殿の身分を知っている?」
一瞬の早業で、エリックが弓を構えて引き絞る。薬の袋へ手を掛けていた男たちが、慌てふためいて両手を再び上げる。
「な、なぜと言われても! お、お頭が、そう言ってらしたんでさ! 船に乗って来るのは、南西州の州吏、ファンオウ様ってえ御仁だと!」
「お頭、だと? 一体、それは何者だ」
「お頭は、お頭でさ。あっしら河族をまとめてる、ギョジン様のことでさ」
「ギョジン、だと……」
必死に弁解する男が口にした名を、エリックが噛み締めるように繰り返す。
「ふむ? 知っておるのかのお、エリック?」
ファンオウの問いかけに、エリックが首是する。
「はい。王都の南方を流れます、この大河より南の地を治める、大領主の名です。実りの少ない大地を領していますが、その規模は大きく、殿と同じ州吏の位にある男です」
「わしと、同じ、のお。エリックよ、お主は、そのギョジンどのに、会ったことは、あるのかのお?」
ファンオウの質問に、エリックが首を横へ振る。
「いいえ。生憎、大河を越えたことが、ございませんので。しかし、あまり良い噂は、俺の長い耳には届いておりません。筏に乗るものを率いて、賊徒の真似事などもするとか」
「ふうむ、それで、お主は警戒しとるのじゃのお」
「お頭は、賊徒なんぞじゃありやせん! あっしらのことを、一に考えてくださる、ありがてえお人でさ!」
横合いから声を割り込ませてきた男が、エリックに睨まれ身を縮める。それでも、物言いたげな眼を向けてくるところを見れば、少なくともギョジンという男は慕われているらしい。ファンオウは、うんとうなずいた。
「では、お主らよ。持ってきた薬は、全て買う。じゃから、ギョジンどのに、わしからの言伝てを、頼めぬじゃろうか、のお?」
ファンオウの言葉に、男たちが顔を見合せる。
「へい、全部買っていただけるんでしたら、そりゃあありがてえことですが……一体、何を伝えりゃ、よろしいんで?」
「大したことでは、ない。同じ州吏として、挨拶を、しておきたいのじゃが、ギョジンどのの、都合はいかがか、ということだけじゃが、伝えてもらえるか、のお?」
「それくれえのことなら、喜んで……」
男たちが伝言を快諾しようとしたとき、
「それには、及ぶまいて」
思わぬ所から、待ったがかかる。ファンオウは首を、声のした上方、船尾楼へと向けた。
「白雪殿、それは、どういうことかのお?」
ファンオウの呼び掛けに、声の主、童女姿の龍神白雪が応じて船尾楼から飛び降り目の前に着地する。
「どうもこうも、そのギョジンとやらには、既に伝わっておる、ということじゃ。水の精霊が、さっきから聞き耳を立てておる様子じゃが……小僧は、気付かなんだかのう?」
言って、白雪がちろりとエリックを見やる。
「これは……殿、申し訳ありません。不覚を取りました。この龍の申す通り、確かに水の精霊が動いておりまする。そして、恐らく精霊たちを使役する者がギョジンであれば、下流よりこちらへ、近付いております」
苦い顔をしたエリックが、前方の船首へ眼を向けて言う。
「ふむ。なれば、手間が省けたのお。あちらから、出向いてくれる、ということであれば、のお」
ファンオウも船首の向こうを見てみるものの、穏やかな河の流れしか見えない。首を少し傾げてから、ファンオウは気を取り直して筏の男たちへ眼を戻す。
「ああ、心配せずとも、お主らの、持ってきた薬は、ちゃんと全部、買うてやるゆえのお。銀貨、二十枚じゃったかのお。これ、誰ぞ、船室から金子を、取って来ては、くれぬかのお?」
「へい。それなら、あっしが」
ファンオウの声に、水夫長が素早く応じて駆けてゆく。戻ってきた水夫長から金子の袋を受け取ると、筏から舷側へ棹に括りつけられた笊が差し出されてくる。
「この中へ、代金を入れれば、良いのかのお?」
問いかけに、筏の男たちがうなずく。ファンオウは、ちゃりちゃりと二十枚の銀貨を笊へと入れた。
「へい。後は、荷を上げやすんで、領主様はお下がりを」
言われて下がるファンオウに立ち替わり、水夫長と幾人かの水夫たちが舷側へと寄ってゆく。筏から大袋が引き上げられる様を、ファンオウはのんびりと眺めた。
「イイですねえ、逞しい男たちが、荷物と組んずほぐれつ戯れる様は……」
傍らでよくわからぬことを言う使徒のオネに適当にうなずきつつ、ファンオウは上機嫌に笑う。ともあれ、これで褐色の戦士たちやソテツの、船酔いがましになるのだ。
「これが、ギョジンどのの計らいであれば、感謝を、せねばのお」
しみじみ呟くファンオウの耳に、見張り台から水夫の騒ぐ声が聞こえてくる。
「ぜ、前方に、大量の筏が! こっちへ、漕ぎ寄せてきやすぜ!」
報告に真っ先に応じたのはエリックである。大弓を背に、船首へと駆けてゆく。その背を追って、ファンオウも揺れる甲板を早足で向かう。
「殿、あれを」
ようやくたどり着いた船首で、エリックが前方を指差す。そちらを見やり、ファンオウはあんぐりと口を開けた。
「おお、これは……」
感嘆の声を上げるファンオウの視界には、広い大河の河幅を埋め尽くさんばかりの大小様々の筏が縦列となり、整然と居並ぶ壮大な景色が飛び込んできたのである。
「水の精霊より、殿へ言伝てがありました。これより、そちらへ挨拶に向かう、と」
エリックrの言葉が終わらぬうちに、筏の群れが動く。まるで大蛇が口を開くかの如く、左右へ分かれた筏の列の中央に、ぽっかりと河の道が出来上がる。そこを、悠然と進んでくるのは帆の無い箱形の船、大筏ともいうべきものであった。左右の舷側から長い櫓が何本も突き出しており、河面に白い波をたてて進む姿は武骨だが、見る者に堅牢な印象を与えた。
「なんとも、これは……筏、なのかのお?」
「俺には、船にしか見えません」
エリックと言い交わすうちに、大筏から小型の艀が下ろされる。二人の男がそこへ乗り込んだと見るや、艀は瞬く間にファンオウらの乗る船へと寄せられる。
「いよう! あんたが、ファンオウだな? 俺はギョジン! ここいらを縄張りにしてるもんだ!」
ひょい、と艀から一人の男が船に飛び移り、陽気にファンオウへ声をかけてくる。がっちりとした体つきに似合わぬ身軽さを見せた男に、ファンオウは両手を組んで一礼する。
「これは、ご丁寧に、痛み入るのお。いかにも、わしがファンオウじゃ、ギョジンどの」
「そうか、そうか! しっかしあんた、若いのに爺みてえな喋り方すんだな! 実は歳食ってたりすんのかよ?」
唇を曲げて首を傾げ、ギョジンが言った。ぼさぼさの髪と立派な顎髭が合わさり、その表情は実に大袈裟に見える。
「わしの歳は、見たままじゃよ、ギョジンどの。そういうお主は、賊徒の親玉にしか、見えぬのお」
言ってファンオウは、カラカラと笑う。一瞬ぽかんとなったギョジンも、つられたように豪快に笑いだす。しばし笑い声を交わし合う二人に、エリックをはじめとして周囲の者たちは呆然とそれを見つめるばかりである。
「ああ、笑った笑った! いやあ、あんたとは、初めて会った気がしねえな、ファンオウさんよ!」
笑いを収めたギョジンが、陽気に言う。
「わしもじゃよ、ギョジンどの。お主は、わしの友人、イグルに似ておるのお」
「イグルってえと、若くして征西将軍に成ったってえ野郎だな! 甚だ、光栄なこった! 気に入ったぜ、ファンオウさん、いやさファンオウ! 堅っ苦しい挨拶は、抜きだ! 王都へ行く前に、俺のヤサに寄ってけ!」
「お主の、ヤサとな?」
「おうよ! すぐそこの入江に、船の泊まれるところがあんだよ! いわゆる、隠れ家の一つだな! そこで、連れのもんを休ませてやるってのは、どうだ?」
「おお、それは、すまぬのお。皆を、陸へ上げて、休ませたいと、思うておった、ところなのじゃ。案内を、頼めるかのお?」
「いいとも! 俺と、ファンオウの仲だ! 遠慮はナシだぜ!」
「うむ、では、厄介になるかのお」
トントン拍子に、話は決まるのであった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回も、お楽しみいただけましたら、幸いです。




