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のほほん様と、殺伐世界  作者: S.U.Y
中天の章
69/103

白き龍、太陽の輝きに己の行くべき道を悟る

 暗闇の沼に嵐の吹き荒れる、数刻前。王国の上空、雲を見下ろす遥か高みに、それは優雅に飛んでいた。

 蛇のように長い身体は、雲海を隔てた王都の城などよりも長大であり、その表面には雪のような白い鱗が輝いている。口元から生えた二本の長い髭を揺らして、龍は大空を行く。時折、強い風が吹き抜けてゆく。だが、それは龍の前進を些かも鈍らせることは無い。真っすぐに、龍が目指すのは大陸南西部にある、小さな沼である。


 巨大な龍からすれば、沼はその大きな口で一呑みにできそうなくらいに小さなものだ。そのようなちっぽけな場所をわざわざ目指して飛ぶからには、龍には目的があった。


「アクタの奴め……何が、御方様も気に入られます、じゃ……妾を、何じゃと思うておるのか。別に妾は、男日照りという訳では、無いのじゃぞ。ただ、気に入った男が、おらぬだけでじゃな……」


 ぶつぶつと、龍の口から漏れるのは女の声音である。沼の直上へとたどり着いた龍は、長い身体を尻尾までたなびかせ、降下を始めている。その全身が、眩い光に包まれてゆく。


「どのような者を紹介されようと、あやつの言うなりになる、というのは面白うない。ここはひとつ、アクタの選んだ男を、からこうてやろうかのう」


 くくく、と含み笑いをするその姿は、落下に合わせてどんどんと縮んでゆく。龍が沼へと着水する頃には、龍の姿は一人の童女となっていた。


「これで、良しじゃ。くくく、よもや、このような幼き姿の者に礼を尽そうという男など、おるまいて……無礼討ちに、ばりばりと頭から食うてやるのも、一興じゃのう」


 愉快げに笑う童女は、沼へと小さな手を伸べる。玉のような素肌に、沼の上澄みが纏わりつき、上質な布衣へと変じた。


「一応、龍として礼装くらいはしておかねばのう。ふうむ……帯は、どう結ぶんじゃったか……長いこと、人の姿など取ってはおらぬから、忘れてしもうたのう」


 袷を拡げ、童女は首を傾げる。そのとき、一陣の突風が沼へと吹き抜けた。


「きゃあっ!」


 可愛らしい悲鳴を上げる童女の身体から、布衣が滑り落ちる。袖もろくに通していなかった童女のせいではあるが、童女は舌打ちをひとつする。


「おのれ、忌々しい風じゃ。変化なぞしておらねば、そよ風にも感じぬというに……」


 頬を膨らませ、童女は布衣へと手を伸ばす。だが、ふよふよと悪戯な風に布衣は乗り、童女の手をひらりとかわす。


「くっ……このっ」


 力任せに突き出す童女の手が風圧を生み、布衣はますます離れてゆく。ざぶりと音を立て、童女が手を伸ばしつつ布衣を追いかけ、その動きが止まった。

 風に乗った布衣は、一人の青年の頭にふわりと落ちてゆく。あっ、と童女が思ったときには、青年は俯かせていた顔を上げ、清水によって織られた布衣の繊維ごしに視線を童女へと向けていた。


「ふむ?」


 青年の口から疑問の声が漏れ、しばし、沈黙の時が流れる。青年の細い糸のような眼が、童女を見つめる。童女もまた、青年を見つめ返した。


『何という……まったりとした気を纏う人間じゃ……まるで、太陽のような、いや、そのように、力強きものではなく、太陽に向けて咲く、ヒマワリのような……ふむう。これが、アクタの選んだ、人間か。中々、悪くは、無いのう』


 青年には見せぬよう、口の中で童女はぺろりと舌を動かす。龍の本性は、元来欲望に忠実である。童女と変じたこの龍も、その特性を持っていた。


『悪くない。うむう、悪くないのじゃ。食らうにせよ、何にせよ……これほど上質の、気を持つ人間を寄越してくるとは……アクタの奴め、でかした!』


 にんまりと浮かびあがってこようとする笑みを、童女は意志の力で抑え込む。


『せっかくの好餌じゃ。このまま、許しては面白うない。幼体とはいえ、妾の玉体を、じろじろと見つめる無礼は、咎めてやらねばならぬし、のう?』


 胸の中で誰にともなく言い訳を考えつつ、童女は大きく息を吸いこむ。姿こそ童女であるが、それは龍の息吹を発するに相応しい、膨大かつ強力な吸気であった。


「これは、お主の持ち物かの……」


「い……」


 青年の問いかけを流し、童女は溜め込んだ空気を咽喉奥から一気に吐き出した。


「い?」


「いっきゃああああああああああ!」


 裂帛の気合と共に童女が放つのは、本来の姿の何十分の一の威力の龍の息吹である。それでも、烈風が沼の周囲の木々を揺らし、布衣を童女へ差し出そうとしていた青年を吹き飛ばさんと叩きつける。青年が身を低くして、息吹を凌ごうとするのを童女は傲岸な笑みで見やる。


『その程度で、妾の息吹を凌げると思うてか。くくく』


 胸の内で笑う童女の、大きな瞳がぴくりと引き攣った。烈風により根元の土を飛ばされた一本の木が、青年を守るように根を伸ばしたのだ。吹き飛びかけた身体を根に支えられ、青年はしがみついて風を堪える。


「まさか、龍神、殿……?」


 青年の口から漏れた言葉に、童女は小さく息を吐いた。青年が童女の正体を悟れば、もう遊びは終わりにしなければならない。己の中で課した決まりを、破ることは出来ない。もう少しからかっていたかった気持ちを抑え、童女は右手を横へ振る。それだけで、吹き荒れていた嵐のような息吹はさっと止み沼には元の静寂が戻って来る。ついでに、童女の手にひらりと布衣も戻った。


「いかにも。妾こそ、この地の水脈を司る白龍族の末子、白雪である」


 問われたからには、威風を以て名乗る。それが、童女、白龍白雪の流儀であった。慣れぬ手つきで、白雪は手の中に戻った布衣を身に着けようとする。


「何を見ておる、人間の小僧。早う手伝わぬか」


 居丈高に、白雪は青年へと命じる。身を起こした青年はしかし、顔を俯け白雪の側へは寄ろうとしない。


「どうした。妾は、そなたに言うておるのじゃぞ?」


 なんとか右手を布衣の袖に通し、白雪は苛立った声を上げる。


「しかし……龍神殿を、見てはならぬ、と言われておりまして、のお」


 青年の答えに、白雪は小さく息を吐いた。


「先刻、しっかり見ておったであろう。妾が良いと言うのじゃ。良いから、さっさと手伝え」


 じゃぶじゃぶと沼を蹴立て、白雪は青年の目の前へと歩み寄る。


「なれば、失礼します……龍神殿」


「何じゃ」


「布衣の、上下が逆になって、おりますのお」


 白雪の着付けの失敗を指摘し、青年がカラカラと笑う。悪意の無い、朗らかな笑い声に白雪は陽だまりの中にあるような暖かなものを感じた。


「……面倒じゃ。そなたが、着せよ」


「畏まりました、龍神殿」


 穏やかな気とともに、白雪の身体が布衣に包まれてゆく。布帯を締められるに任せ、白雪はうっとりと眼を閉じた。




 白雪と名乗る龍の神の着付けの手伝いを終えて、ファンオウは沼の中から岸へと上がる。そうして改めて、ファンオウは白雪へと視線を真っすぐに向けた。


「龍神殿、此度は、お願いしたき儀が、ありましてのお」


 膝をついて首を垂れようとするファンオウを、白雪が片手を出して止める。


「そのままで良い。願いごとを申せ」


 童女の顔と口調で口にする言葉は、その正体を知らぬ者にとっては可愛らしい小芝居にも見える。だが、ファンオウはそれがまやかしであることを、身をもって知っている。


「しかし、龍神殿」


「しかしもかかしも、無いわ。それと、その龍神殿、というのも堅くていかんのう。折角名を告げたのじゃ。妾のことは、白雪、と呼べ」


 当の本人からそう言われては、ファンオウとしては従うより他は無い。立ち上がったファンオウは、白雪の金色の瞳をじっと見据えて口を開く。


「では、白雪殿。実は、この沼より、東にある、河川に、氾濫が、ありましてのお。わしは、王都へ向かうのに、河を下る必要が、あるのです。白雪殿の力で、河川の氾濫を、鎮めては、いただけませぬかのお?」


 願いを口にするファンオウに、白雪が首をちょこんと傾げて見せる。


「河川の氾濫? なんじゃ、そんなことで良いのか? 妾の力を借り受けて、この国の王になりたい、とかではなく?」


 問いかけに、ファンオウはきっぱりと首を横へ振る。


「王には、興味は、ございませぬのお。河川の、氾濫が収まれば、そこで生計を立てておる、民たちも助かりますのでのお。何卒、お力を貸しては、いただけませぬかのお」


 頭を下げ、希うファンオウの眼の前に白雪がやってくる。幼く大きな瞳が、ファンオウを下から覗き込んでいた。


「そなた、若いくせに爺のような言葉を遣うのじゃな。何故じゃ?」


 関係の無い問いを返され、ファンオウは苦笑しつつ頭の後ろを掻いた。


「それは……わしの師匠の、教訓によるものでして、のお」


「師の教え? 詳しゅう、教えてたも」


 きらきらと興味を宿した眼に、ファンオウはうなずいた。龍神からの、問いかけなのだ。答えなければ、へそを曲げられる、ということもある。そういった打算も、ファンオウの中には少しだけあった。だがそれ以上に、白雪の純粋な視線を、心地よいと感じたのだ。


「わしが、医師を、目指して、おりました頃です。医師の師匠に、言われたのです。『お主には、威厳というか、安心感というか、そういうものが、足りぬ。医師が、頼りなげでは、患者が、不安になってしまう。じゃから、せめて、言葉遣いだけでも、何とかせよ』と。そういうものか、と思い、わしは、師匠の言葉遣いを、真似るように、なりました。それから、十年以上経ちました今、もう、これはわしの癖に、なってしもうて、おるのです」


「成程のう。そなた、医師であったか。アクタからは、領主じゃと聞いていたのじゃが」


「色々あって、領主を、務めることに、なりましてのお」


 言って、ファンオウは穏やかに笑う。胸の奥に、懐かしい面影がいくつか浮かんでくる。遠く戻らぬ日々を、慈しむようにファンオウは眼を細めた。


「……良かろう。そなたの願い事、妾の力をもってすれば、容易き事。叶えて、やろうではないか」


 不意に言われた言葉に、ファンオウは意識を戻す。眼の前に、満面の笑みを浮かべる白雪の顔があった。


「おお、真でございますか、白雪殿」


「龍は嘘など言わぬ。その必要もなく、龍は強いのじゃ」


 えへん、と小さな胸を張り、白雪が言った。


「ありがとう、ございます。これで、河川で暮らす民たちも、救われますのお」


「ただし、ひとつだけ、条件があるのじゃ」


 喜びに一礼しようとしたファンオウの前に、立てた小さな指が一本、突き付けられた。


「ふむ、条件、ですかのお。わしに、出来ることであれば、何でも、いたしますがのお」


「何でも……じゃと? くくく、嬉しいことを申すではないか。では……そなたの、王都への旅に、妾も連れて行け」


「白雪殿を……?」


 訝しむファンオウの前で、白雪がこっくりとうなずく。


「そうじゃ。そなたが王国の主と知己ならば、そやつにも会ってみたいところじゃが……まずは、そなたに付いて行く。河川のことであれば、直接見に行くのが一番であるし、そなたに、興味もあるのじゃ」


 言いながら、白雪がファンオウへ綺麗な流し目をくれる。幼い相貌にそぐわぬ、それは妖艶さをもった視線であった。


「それくらいならば、こちらも、容易いこと、ですのお」


 不意に変わった白雪の雰囲気に気付くことなく、ファンオウはにこやかに承諾する。


「ならば、決まりじゃの。では、行くとしようかのう」


 ファンオウに笑みを返し、上機嫌で言う白雪からは、もう妖しい雰囲気は消えていた。


「快く、頼みを、引き受けてくださった礼に、白雪殿へ、鍼を打って進ぜましょうかのお」


「ふむう、そなた、鍼を使うのか。なれば、後ほどそうしてもらうかのう」


 カラカラと、ファンオウの朗らかな笑い声が静かな暗闇の沼へと響いてゆく。こうして、一匹の龍が、ファンオウの旅路に加わることとなった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。

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