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のほほん様と、殺伐世界  作者: S.U.Y
中天の章
68/103

のほほん州吏、暗闇の沼にて龍と出会う

夏風邪のために休載しておりました。申し訳ありません。今日より、再開いたします。

 旧ブゼン領の西方に、その沼はあった。古くからそこは、暗闇の沼、と呼ばれていた。沼の周囲に生い茂る木々の影が、沼を黒く見せることから名付けられたという。だが、その実態は地下より湧き出した水が溜まり、静かな水面を保つ、静謐さを思わせるような沼であった。

 旧領主ブゼンの台頭とともに、沼に蜥蜴族が住まい始める。そこから、沼は荒れ始めたのだ、と熱弁を振るうアクタに、ファンオウはうなずいて見せた。


「全ては、水の邪神スイレンの仕業、ということじゃな?」


「はい、左様にございます。本来は龍神様の住まう、静かな沼地であったのですが……沼に邪気が溢れ、蜥蜴族や魔物が徘徊する危険な土地となってしまっていたのです。ですが、領主様とエリック様の御活躍により、この南方領の水脈は浄化されました。沼にあった邪気も、もうほとんど無くなっていて、ついには龍神様がお戻りになられる。そういう運びでございます」


 小人族のアクタが、うきうきとした様子で口を動かす。その様相は、外見通りの無邪気な子供のようで、ファンオウは思わず頬を緩める。


「ふん、自分の領地も満足に守れぬ龍神様とやらが、一体どれほどの者だというのだ」


 一方で、ファンオウの隣のエリックは不審を隠そうともしない。役所から籠に乗り組み、半日ほど揺られた今現在まで、ずっとそうであった。


「エリック様、龍神様の陰口は、感心いたしませぬ」


 たちまちに顔色を変えるアクタに、エリックは首を横へ振る。


「俺は、龍という生物をよく知っている。大地の精が、凝縮して出来上がった精霊の生れの果てがそれだ。土ミミズの親玉ごときに、大河の氾濫を鎮める術など求めるほうがおかしい」


 長い時を生きるエリックの言葉に、下手な反論は通じない。アクタが、口を引き結びむむむと唸り、籠の中に険悪な空気が生まれ始める。


「それにしても、あまり、揺れぬのお」


 そんな空気をとりなすように、ファンオウがぽつりと口にする。話によれば秘境である筈なのに、暗闇の沼への道はそれとなく整備をされているように感じられたのだ。


「はい、領主様。領主様の治政になられましてより、龍神様への誼を通じるべく、この私、アクタめが密かに道を整えさせていただきましたゆえ」


「……南方領への支援金を、私用したのか?」


 アクタの言葉に、エリックが食って掛かる。僅かに険しい表情を見せるエリックに対し、アクタは余裕たっぷりに否定する。


「あくまで、些少の額でございます。それに、いずれ必要になるであろう、いわば先行投資というものです。事実、このように領主様に快適な途次を提供出来ているのであれば、公に役立てたと言っても良いのではないでしょうか」


「ふん、ああ言えばこう言う。これだから口の減らない小人族は」


「それはお褒めの言葉として、受け取らせていただきますよ、エリック様」


 視線で火花を散らす二人の間に、ファンオウはまあまあと入り込む。


「それよりも、ほれ、そろそろ、着いたのでは、ないかのお?」


 言葉と同時に、籠が止まった。アクタが小さな手で、籠の簾を上げる。


「おお、そのようです。時刻も、丁度良い頃合いのようで。ささ、ファンオウ様。これよりは、手筈通りに」


「うむ。徒歩で、沼のほとりにある、祠の前に向かうのじゃったかのお」


「左様でございます。エリック様は、ここにて私と、ファンオウ様のお帰りを待つ、ということで」


 ぶんぶんと首を縦に振って言うアクタに、エリックが渋面を見せる。


「殿を、お一人にせねばならん、というのがおかしい。何故、俺が付いていてはならぬのだ」


 心中の不満を隠さず言うエリックに、アクタが両手を拡げて首を横へ振って見せる。


「龍神様は、敵意に敏なる御方でございます。エリック様が態度を改められぬ限り、龍神様の御機嫌を損ねかねぬことになり、ついては領主様に危険が及ぶやも知れぬ、と何度も説明したではありませぬか」


「だが、俺は殿をお一人にすることを、肯じた覚えは無い」


「エリック」


 頑として譲らぬエリックに、ファンオウは穏やかに呼びかける。忠義に篤いエリックであれば、それだけで理解はするであろう。だが、ファンオウはあえて言葉を続ける。


「わしに、もしも難あらば、お主が駆け付けてくれることは、他の誰をおいてよりも、わしがよく信じておる。じゃから、お主も、わしの天運を、信じてはくれぬかのお」


 ファンオウの言う天運とは、自らが天に与えられた宿命、というものである。だが、エリックの中でそれは違う。天運とは、王者の持つ資質である。ファンオウを王へと導くことを使命とするエリックにとってすれば、それはファンオウの中に王者の資質を認めるか否か、ということになるのだ。

 ファンオウの言葉は、当人は知らずしてエリックの泣き所を的確に突いていた。


「……殿が、そこまで申されるのであれば、俺は、何も言いませぬ」


 歓喜に打ち震える声を抑え、エリックが答えた。自ら、王者の資質の有無を確かめたい。すなわち、王になる決意を固めたのだ、とエリックの先走る情熱がそうさせている。そんな内面をつゆ知らぬファンオウとしては、突如感激を見せるエリックに若干の戸惑いを覚えていた。


「う、うむ。よくはわからぬが、わかって、くれたようじゃのお。それでは、ここで、アクタと大人しく、待っておるのじゃぞ、エリックよ」


 ぽん、とエリックの腕を軽く叩き、ファンオウは沼の周囲の林へと目を向ける。横合いから、アクタが真面目な顔で口を挟んだ。


「領主様、木々の中へ入られましたならば、その根元に黄色い布を巻いております。それを、目印にお進みください。そして、木立を抜けましたらば、決して、顔を上げられませぬよう、お約束願います」


 忠告、ともいえるほどのアクタの口調に、ファンオウは真面目な顔でうなずきを返す。


「うむ。承知した。木の根元の、黄色い布を目印に、祠の前まで歩く。そして、顔を上げは、せぬ。あとは、龍神殿に、会った際に、願いを言えば、良いのじゃったかのお」


「はい。龍神様は世間の些事には疎い御方ですので、この南方領は領主様が治めている、ということでお話を進められればよろしいかと。国王陛下の直轄、ということになりますと、国王が何故やって来ない、ということになりますので」


「うむ。あとは、龍神殿が、願いを聞いてくれるかどうか、じゃのお」


「領主様の御気性であらせられますれば、まずは間違いはございますまい。どうぞ、ご健闘を」


 笑顔のアクタと熱い眼差しのエリックに見送られ、ファンオウは林の中へと足を踏み入れる。視線を下へ向ければ、確かに黄色い布が木に巻き付けられており、それは道しるべのように林の奥へと続いている。


「しかし、下ばかり見ておると、どうにも、歩き辛いのお」


 ほとんど足元を見つめて歩きつつ、ファンオウは小さく呟いた。木の根に足を引っかける、ということは無いが、張り出した木の枝に額を突かれるようなことは、頻繁に起こった。そのたびに顔を上げようとし、しかしアクタの真面目な表情を思い出しすぐに視線を落とす。そうして、苦労しつつも歩き続けたファンオウの耳に、やがて水の音が微かに届いてくる。


「沼は、もうすぐの、ようじゃのお。魚でも、跳ねておるのか、ぱちゃぱちゃと聞こえて、くるのお」


 木の枝をかき分け、ファンオウの視界にようやく木の根以外のものが入ってくる。赤い土に、波のように打ち寄せてくる水面が見える。どうやら、林を抜けて沼のほとりへとたどり着いたらしい。ほっと、ファンオウが息をついたその時である。


「きゃっ」


 幼い、女童の可愛らしい悲鳴のような声とともに、ファンオウの頭に薄いものが覆いかぶさった。


「ふむ?」


 視線を落としていたファンオウは、頭にかぶさってきたものに反射的に眼を向ける。それは、上質な絹のような肌触りの布であった。向こうが透けて見えるような、薄く滑らかな布である。眼を上げたファンオウは、その布越しに小さな影が動くのを見た。

 静かな沼の中で、それは立ち尽くしている童女のように見えた。こちらへ手を伸ばし、そのままの体勢で動きを止めている。どうやらファンオウへ飛来したのは、童女の布衣らしく、童女は一糸まとわぬ姿で大きな瞳をいっぱいに見開いていた。


「これは、お主の、持ち物かの……」


 布衣を頭から剥ぎ取ったファンオウは、穏やかな笑みで童女に問いかける。布越しでなく、直に見れば童女の肌はきめ細かく、水に濡れた黒く長い髪は艶やかで美しかった。ファンオウとて、その心は木石では無い。美しいものに見惚れ、その声は掠れて消えてゆく。見事な織りの布衣を捧げ持つような姿勢のファンオウと、手を伸ばしたままの童女の視線が交錯し、両者の間にしばしの時が流れる。


「い……」


 最初に沈黙を破ったのは、童女であった。


「い?」


 問いを返すファンオウの眼前で、童女が己の身体を抱きしめるように、見えてしまっていた大事な部分を覆い隠す。


「いっきゃああああああああああ!」


 羞恥のためか、童女が凄まじい声量で叫んだ。どうやら、まずいことをしたらしい。悟ったファンオウが、どうしたものかと手にした布衣と童女に視線を交互した刹那、ごう、と強い風が吹き抜けた。


「む、おお? おおおお!?」


 空気の塊が、ファンオウの全身を打つ。沼の水気を含んだその風は、ファンオウの身体をじり、じりと沼から遠ざけてゆく。思わず布衣を手放して、ファンオウは地面へ伏せて風を堪える。


「やあああああああ!」


 童女の上げる金切り声と共に、風はいっそう強くなり、嵐のような勢いとなってゆく。吹き飛ばされまいと、後ろの木の根にしがみつくファンオウが、豪風の根源、童女のいた場所へと眼を向けたそのとき。


「ゴアアアアアアアア!」


 沼の水が、逆巻く風に煽られ巻きあがり、まるで龍のように天に昇ってゆくのが見えた。


「も、もしや……龍神、殿?」


 木々を揺らし、へし折らんばかりの暴風の中、ファンオウの呟きは儚く掻き消えていった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。

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