のほほん領主、遠き王都にてその仁徳を慕われる
アルシェに伴われ、ラドウは宿の裏口から外へ出た。両手に抱えた銀貨袋の重みもさながら、ラドウは左腕に密着するアルシェの感触に気を取られそうになってしまっている。思えば、ファンオウに仕えエリックに鍛え上げられる日々の中には、こういった触れ合いは遠く彼方にあるものだった。
「……なあ、どうしてくっついてくるんだ、アルシェ」
なるべく意識をしないように、そして周囲へ意識を配るためにラドウは小声でアルシェへ呼びかける。肩のあたりにあるアルシェの口元から、温かくくすぐったい吐息が漏れた。
「ラドウさんが、気を配り過ぎないように、かしら。建前としては。本音はもちろん、くっついていたいからよ」
言いながら、ますますぎゅっと身を寄せてくるアルシェにラドウの心臓は更に高鳴ってゆく。
「気を配り過ぎないように、っていうのは、どういうことだ?」
もやもやとした感情を抑えつつ、ラドウは訊いた。
「ラドウさんって、ちょっと強すぎる人だから。辺りの気配を探ろうとして、自分の気配を抑えていられない。そんなだから、すぐに見つかっちゃうのよ。気を紛らわして、夜道を歩く仲睦まじい恋人同士のように、見せかける必要があるわ。あたしも、そっちの方が楽しいし。どう? 一石二鳥、いえ三鳥くらいはある作戦でしょう?」
嫣然と微笑みかけて言うアルシェに、ラドウは愕然となった。腕に触れる柔らかな感触など、最早どうでも良くなっていた。背筋が、凍るように寒い。腕に絡みつく肉感的な少女の瞳には、底知れぬ何かが宿っている。
錯覚に、ラドウは咽喉の奥で微かに呻いた。
「っ……あんた、何者だ。俺のことを、どこまで知ってる」
「囁くなら、もう少し甘い調子でお願いしたいわ、ラドウさん。それに、怯えないで。あたしは、あなたの……いえ、あなたの背後にいる人の、味方だから」
誘いかけるような声音も、どこか空恐ろしい。背後にいる人、と聞いてぴくりと身体を震わせるラドウに、アルシェがくすくすと笑う。
「後ろには誰もいないわよ。そうじゃなくて……わかりやすく言えば、あなたの主人。のほほんっとした、可愛らしいお医者様のことよ」
「あの御仁のことを、知っているのか」
「ええ、とても、良く。目的の場所まではもう少しかかるから、道すがらにちょっとした昔話、聞いてくれる?」
小首を傾げ、アルシェが見上げてくる。主である、ファンオウの味方だという。その真偽を、確かめる必要はあった。そして、王都にいた頃の、ファンオウをラドウは知りたいと思った。武の化身のようなエリックを従え、怪我や病を癒す領主。どこか頼りない、しかし暖かな太陽のような心根を持つ青年の、知らない一面に興味が沸き上がっていた。
「ああ。聞かせてくれ。そうすれば、あんたの正体も、解ることだろうしな」
ラドウの言葉に、アルシェが悪戯っぽく笑う。
「あたしの正体は……そうね、お使いが終わったら、じっくり教えてあげるわ、ベッドの上で、ね?」
ぎゅっと、温かなものが密着する。もうラドウは動じることなく、首を横へ振った。
「それは、遠慮しておく。話次第じゃ、次からは敵味方、なんてこともあるかも知れん」
「強情なのね。ふふ、ますます、こんな所に置いておくには惜しいって思えるわ。あなたには、将の器があるもの」
「……俺の上司も、そう言っていた。だが、今は俺のことはいいから、あの御仁のことを、聞かせてくれないか?」
「別に、ぼかさなくっても良いわよ。周囲には、それらしい人はいないから。のほほんの見習い医師様、ファンオウ様との出会いは、五年前。半人前の医師として、お師匠のお婆さんに連れられて来たところだったわね」
顎に指を当て、アルシェが語り始める。
「お師匠? 領主様には、そんな人がいたのか?」
「それは、そうよ。まだ若くて、初々しい頃だもの。お師匠のお婆さんは口やかましくて、ぶっきらぼうだったけれど、優しい人だったわ。王都の隅で春をひさぐしがない女たちを、お金も取らずに診るくらいには、親切だったの。みんな、親しみをこめておばば様、って呼んでたわ。月に二度、おばば様は往診にやって来ていたの。そして、ある時、弟子を連れて来たって言って……とても可愛らしい少年を伴ってやって来たの」
アルシェの眼が、どこか遠くを見るように細められる。長い睫毛が伏せられて、明るい表情だったものに深みが加わり、ラドウは頭の中に己の鼓動を聞いた。
「女たちはみんな、その子をからかうように肌を見せて、診察を受けたわ。でも、その子は真面目だった。おばば様に言われるままに、脈を取り、鍼を打ったり、真摯に診療を続けていったの。時折、おばば様が眩しそうに眼を細めて、その子を見つめていたわ。自慢の弟子だったんでしょうね。そんな少年、ファンオウ様にあたしも興味を覚えて、ちょっとした悪戯を仕掛けることにしたの」
「悪戯?」
ラドウの短い問いに、アルシェは小さくうなずいた。
「そう。女の肉体に、興味の無い子なのかなって、気になったこともあって……おばば様に連れ帰られたその子の、寝所に忍び込んだのよ」
「それはまた……大胆なことをするな」
「そういうの、得意だからね」
言って、アルシェがぺろりと舌を出す。
「忍び込むのは、簡単だった。別に、お屋敷に住んでるっていうわけでも無かったし。小さな木の寝台で横になってる、あどけない寝顔をしばらく堪能してから、あたしは声をかけたの。起きて、って。眠そうに眼を擦りながら起き出したその子の前で……あたしは着ているものを床に落として、見て、って言った。そうしたら……うむ、ってうなずいて、その子はあたしの身体に手を伸ばして……診察を始めたの。あちこち指が触れるたびにあたしは声を上げたんだけど、恙なく、何事も無く診察は終わったわ。『お主は、健康じゃ。あと三十年は、働けるじゃろう』って、真面目な顔して言ったのよ、その子。あんまりにも意識されなくって、ちょっと悔しかったから、ほっぺたにキスしてお礼を言ったの。そしたら……」
くすくすと、遠い眼のままアルシェが笑う。
「あの子、真っ赤っかになっちゃって……ようやく、年相応の顔を見せてくれたの。可愛かったわ……」
うっとりとした顔で、腕を絡ませたままアルシェが器用に身をくねらせる。
「それで?」
くねくねとしたままのアルシェに、ラドウは促す声をかけた。
「それでって?」
ぴたりと動きを止めて、アルシェが首を傾げた。
「続き、あるんだろう? ファンオウ様に、手を貸そう、と思い至る出来事が」
「うん? 無いよ?」
「あんたと、ファンオウ様の関わりは」
「その時が、最初で最後ね。体の関係も、何も無いわ。自分は半人前だから、そういう事に眼を向けている余裕は無いって、断られちゃったし。後は、あたしが勝手に決めただけ。あの、温かな手のひらを持つ人に、深夜の不躾な訪問に嫌な顔ひとつ見せずに診てくれた優しい心に、報いるべきだって。あの人が困っている時には、力を貸そうって。持てる限りの力を全部、使ってあげようって、決めたのよ」
腕に触れるアルシェの頬が、熱くなっていた。
「……惚れたのか?」
「ううん。そういうのとは、少し違う。言葉では、上手く言えないけれど……やっと見つけた、そう感じたのよ。腐りきった世の中で、闇の中で暗躍して……擦り切れていってたものを、満たしてくれる人。それを、やっと見つけたのよ。あなたも、そうなんじゃないの? 元賊徒の、赤根団団長さん?」
ラドウの背中に、再び寒いものが駆けあがる感覚が訪れた。
「……知っていたのか、俺のことを」
「ええ。闇の中には、様々な情報が流れてくるの。あたしはそれを、総括して取り扱う立場にいる。王都にいる限り、眼はどこにでもあるものよ」
アルシェの顔からは、先ほどまでの熱っぽさが消えていた。かわりに、その瞳の中には冷たく暗い闇が拡がっている。
「俺は、ファンオウ様の従者のエリック様に殺されかけたところを、ファンオウ様の情けによって生かされた。だから、初めは死にたくない、ただそれだけの為に仕えていた。だが、今は、そうだな。あんたと、同じかも知れない。壊し、燃やし、侵すだけのためにあった力を、自分の為にだけあった力を、もっと大きくして誰かの為に使うことができる。そういう場を、ファンオウ様はくれるんだ」
遠く離れた地の主人の顔を思い浮かべるラドウの表情には、アルシェが浮かべていた熱と同じ色のものが現れていた。それを見て、アルシェがこくりとうなずいた。
「そういう事。だから、あたしはあの人に、ファンオウ様に力を貸すの。王都の闇、盗賊ギルドの長として」
思いがけないアルシェの言葉に、ラドウは一瞬、呆けてしまう。賊徒時代に、耳にしたことがあった。王都にあるという、犯罪を生業とする闇の組織のことを。盗賊ギルドに睨まれれば、生きてはいけない。そんな噂もあった。
愕然と立ち尽くすラドウの横から、ふっとアルシェが身を離す。抱えていた銀貨の大袋は、いつのまにかアルシェの腕の中にあった。
「お疲れ様、ラドウさん。ここが、ウーハン様との取引の場所よ。ここからは、あたし一人で行ったほうがいいから、これ、貰っていくね」
そう言ってアルシェがひらひらと振ってみせるのは、フェイがウーハンへ宛てた竹簡である。はっとなって懐へ手を入れるラドウに、アルシェがくすくすと笑った。
「帰り道、気をつけてね。心配はいらないと思うけれど、何かあったら大声で叫ぶのよ」
「お、おい、待って」
「あ、それからもう一つ」
追いすがるラドウの顔の前に、アルシェが人差し指をピンと立てる。
「ファンオウ様に、伝言を。オウギっていう老人に、気をつけて。宰相ジュンサイの、暗部を担う老人よ。それが、王都から姿を消した。そういう情報が、入っているの」
「……わかった」
アルシェの言うことが事実であれば、それは急ぎフェイに報告しなければならない事である。身を翻しかけたラドウの袖を、アルシェがくいと引いた。
「まだ、何かあるのか?」
問いかけるラドウに、アルシェが少しはにかんだ笑みを見せる。
「その気になったら、いつでも言って。待ってるから」
「何の話だ」
振り向いて首を傾げるラドウに、返事のかわりにアルシェがキスをする。それは、完全な不意打ちだった。
「そういうこと。それじゃ、明日にはお屋敷にウーハン様の返事があるから」
言い残し、アルシェが目の前の民家へ姿を消した。しばし民家の入口を呆然と眺め、立ち尽くしていたラドウであったが、やがて踵を返し今度こそ屋敷への帰路についた。
「……不思議な、女だったな」
ぼんやりとした足取りで、ラドウは呟くのであった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
次回で、王都のお話はひと段落。のほほん様も登場する予定です。
今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。




