南方領主、怒れる水神に恐懼し次なる策のため軍を動かす
地鳴りのような音が、館を包んでいた。床下から聞こえてくるその音は、大きな生物の上げる咆哮のようにも聞こえた。館の使用人たちが、泡をくって外へと逃げ出してゆく。領主ブゼンは、それを止めることはしなかった。
「水神スイレン様に、何かあったのか……?」
ただ事では無い事態であったが、水神の加護を受けている為ブゼンは動じない。微震と唸り声が館を支配する現象に、少し首を傾げる程度である。
とはいえ、使用人たちが逃げ出すまでに至ってはこれを放置するわけにもいかない。水差しを手に息を吐き、ブゼンは隠し通路から地下の祭壇へと向かう。咆哮は留まるところを知らず、どころかますます強まってゆく。
「これは……苦しんでおられるのか」
長い通路を歩くブゼンの足が早まり、駆け足となる。ブゼンの顔からは余裕が剥がれ落ち、焦りに満ちた表情の上を汗が流れてゆく。
「水神様に、何かあれば……私は……水神様!」
必死に駆けるブゼンが、通路の突き当り、扉の無い部屋の前へとたどり着いたそのとき、
『グオアアアアア!』
部屋の中央の魔法陣の中から、水神がひと際大きな咆哮を上げた。
「水神様! 清水にございます! どうか、どうかお気を御鎮めください!」
魔法陣の中央へ、逆さにした水差しの口を向ける。ぶちまけられた水が、ごぼごぼと泡立ち魔法陣の中へと吸い込まれていった。
『ブゼン! 貴様、何をしておった!』
空になった水差しを手にしたブゼンに待っていたのは、怒りに満ちた水神の声だった。ぷくり、と魔法陣から水色の粘体が膨れ上がり、半球体を形作る。水差しを放り捨て、ブゼンは膝をつき床へ額を擦りつけた。
「申し訳ありません! 館の者どもに、ここを知られるわけにもいかず奴らを追い出すのに時間が」
『たわけがっ! そうではない!』
「ふへえっ!」
叩きつけられる怒りの思念に、ブゼンはさらに身を小さくする。
『貴様が兵を集めるのにノロノロとしているお陰で、眷属たちが彼奴等に乗っ取られてしまったではないか!』
「そ、そのようなことに……ひらに、平にご容赦を! 村民どもを集めるのに、少々手間取っておりましたが、数は揃ってございます! い、今すぐにでも、出陣すれば」
『もう遅い! 送り出した蜥蜴族の大半は殺され、生き残った者も全て……我の支配を破り、隷属の盟約を引き千切り、グアアアア! 今まさに我の身を忌々しい力が焼いておるのだアアア!』
波涛の如く押し寄せる水神の怒りを、ブゼンは頭を低くして堪える。圧力は物理的な風圧さえ錯覚させ、ブゼンは嵐に揉まれるような感覚の中にいた。
『……作戦は、失敗だ』
ふいに、水神の声が静まる。顔を上げるブゼンの目の前には、穏やかにふるりと揺れる半球体がある。
「水神様……?」
『包囲をし、圧力を与え続ける筈の蜥蜴族どもが、あっさりと全滅した。思ったよりも、厄介な相手ぞ、かの領主は』
微震が収まり、暗い地下室に静かな空気が戻ってくる。
「そ、それでは、私の栄達は、どうなりましょう……?」
『それどころでは無い。彼奴等が報復に出れば、貴様など容易く屠られることとなろう。我の、助けを失くしてはな』
水神の言葉に、ブゼンの顔が真っ青になった。
「そんな! ここで、私を見捨てると仰るのですか、水神スイレン様! 今一度、いいえ、私は貴方様とは一蓮托生! 水神様の御為ならば、如何様な事でも致します! どうか、どうかお力を!」
ブゼンの懇願に、半球体がぐにゃりと歪む。それはまるで、不気味な笑みを浮かべているようにも見えた。
『事が終われば、十人。我に贄を捧げよ』
「畏まりましてございます! 選び抜いた十人の乙女を、水神様の御前に据えて見せましょう!」
『なれば、我に秘策あり』
「おおっ、何と頼もしい……! さすがは、水脈の支配者たる水神スイレン様にございます! して、それはどのような……」
パン、と手を打ちブゼンは手を揉み合わせて問いかける。
『蜥蜴族などという、下種を使ったゆえに此度は失敗をした。ゆえに、今度は我の直下、直属の存在を使う……ミズチよっ!』
半球体の呼び声に、ブゼンの隣の床が青白く光る。ぬるり、とそこから細長い蛇のようなものが現れた。
「これは……水の、蛇……?」
現れたモノに顔を向け、ブゼンは眼を大きく見開いた。
『貴様が我に最初に捧げた贄、乙女の巫女を素体として我の眷属に作り替えた存在よ。水の力を良く用い、水脈を通じてどこへでも入り込み、そして抹殺する……これを、かの領主へと放つのだ』
水神の言葉に、ブゼンの顔に一瞬、何ともいえぬ表情が過ぎった。素体となったという乙女の巫女は、ブゼンが密かに愛人としようとしていた女であった。頑なに断り続けたその女を追いつめるために、水神の贄にする、と告げると女は喜んで水神へ身を捧げた。苦い思い出が、一瞬だけ脳裏に浮かぶ。瞬きをして、ブゼンはそれをかき消した。
「それならば……それならば間違いはございませんな! 水神様の手を煩わせた罪を、領主ファンオウは悔いながら死してゆくことでしょう!」
拍手喝采せんばかりの勢いで、ブゼンは立ち上がり声を上げる。
『で、あるが……此度は貴様にも、動いてもらうこととなる』
「はあ、私が、でございますか。もちろん、出来ることは何でも致します! どのような大任でも、お任せあれ」
どん、と胸を叩きブゼンは言う。
『では貴様は、時間稼ぎをするのだ』
「時間稼ぎ、で、ございますか?」
『うむ。かの領主の周囲には、一騎当千の猛者であるエルフがおる。蜥蜴族どもとの接続が断たれる刹那に、我はそれをしかと見た。貴様は、そのエルフの軍を領境へ引き付け、釘付けにせよ』
「わ、私が、一騎当千の猛者を、軍を率いて釘付けに、でございますか……?」
痩せた己が身を顧みて、ブゼンは小さく身体を震わせる。武者震いでは、無い。八の字の眉が、自信なさげに顰められる。
『何も、ぶつかり合いのみが戦の駆け引きではあるまい』
呆れたような水神の言葉に、ブゼンはハッと息をのんだ。
「……なるほど、言われてみれば、そうでございますね」
指で顎をしごきつつ、ブゼンは黙考する。ただの時間稼ぎであれば、戦う必要は無い。口八丁の騙し合いであるならば、それはブゼンの得意とするところだ。
『エルフさえいなければ、このミズチに敵う者はおらぬ。かの領主を仕留めるは、容易いことよ。頭を潰せば、どのように精強な軍勢であっても張り子の虎。我の力をもって、瞬く間に平らげられよう』
「いやはや、ごもっともにございます! 水神様の知恵の冴えには、瞠目せざるを得ませんな!」
手を打ち鳴らし、眼を見開きブゼンは笑う。
『追従はせずとも良い。貴様は、早急に軍を動かすのだ』
言葉のわりに満更でもなさそうな水神の思念に、ブゼンは深々と頭を下げた。
「はっ、事が成りました暁には、必ずや、贄を用意してご覧に入れまする」
ごぽり、と水神の表面が泡立った。ゆるゆると震える半球体が魔法陣へと吸い込まれて行くのを見届け、ブゼンはミズチにも恭しく一礼をして部屋を辞する。ここからの道のりは、栄達への光り輝く道だ。胸を張り胸中で呟くブゼンの足取りに、迷いは無かった。
ごぼり、と暗い水脈の中へ身を落としたソレは、歓喜に打ち震える。
『もう少し、尻を叩いてやれば良かったか……だが、もうすぐだ。奴が隣領を手にし、ジュリアの残した呪いの大地を我が継げば……この地に縛られし我の縛めは解け、我の力は王都にまで及ぶであろう。そうして、我は新たなる主神として、この大地全てに君臨するのだ……』
昏い喜びに浸りつつ、ソレは水脈の中を揺蕩う。光の届かぬ、泥と白骨にまみれた空間。それが、水神と呼ばれるモノの棲み処であった。
『ミズチよ、ぬかるでないぞ』
思念を送れば、配下が動き出す。静かな水脈の中を、微かな振動が通り抜けてゆく。それは、邪悪なるモノの哄笑であった。




