のほほん領主、老家令の不在に新たな賢良を求める
フェイが王都へ向けて旅立ち、数日が過ぎていた。新たにやってきた女官は、神殿内の家事を総括する立場へと収まっている。炊事洗濯掃除などを一手に引き受けこなしてゆく女官の存在に、太陽神殿の生活はフェイの不在の影を見せることなく恙ない様子を見せていた。
「領主様、おはようございマス。朝餉の支度が、整っておりマス」
少したどたどしさの残る柔らかな声を受けて、ファンオウは眼覚めを迎える。うっすらと鼻先に漂う匂いに、眼を開ければ女官のヨナが微笑んでいた。
「うむ。良い、朝じゃのお、ヨナや」
半身を起こせば、汗を吸った寝間着をそっと外され冷たい布で身体を拭われる。心地よい感覚に浸りながら、側へ置かれた手水鉢で手と顔を清めてゆく。一通りのことが済めば、清潔な布衣を着せられた。
「今日は、朝餉はヒマワリ粥と、トマの実の煮込みを用意してマス」
褐色肌の顔をにこりと綻ばせながら、ヨナが言った。うなずいて立ち上がれば、ファンオウの斜め後ろへヨナが付き従う。踏み出したファンオウの靴元には、誇り一つ落ちてはいない。ぴかぴかと磨かれた石床が、滑らかな輝きを見せていた。
「今日も、綺麗にしてくれておるのじゃのお。毎日、大変ではないかのお?」
食堂への廊下を歩きながら、ファンオウが訊いた。
「女官のお仕事、頑張ってマス」
頭を下げるヨナへ振り返り、ファンオウは足を止める。肌の色以外は、王都にいる女官とさして変わらぬ佇まいである。ぱっちりとした目や大きめの口などには、むしろ王都の女官には無い愛嬌のようなものがある。それは、間違いなく美人の部類に入る顔立ちであったが、美醜に関心の薄いファンオウはただヨナの顔をじっと診ていた。
「ふむ。睡眠は、きちんと取って、おるかのお? 仕事が多ければ、他の者に回しても、良いのじゃぞ?」
労わる言葉にヨナが、笑みを見せて一礼する。
「ありがとございマス。でも、大丈夫、問題ありマセン」
活力の溢れるような眼差しに、ファンオウは大きくうなずいた。
「確かに、今は元気なようじゃのお。それでも、体調のすぐれぬ時は、すぐにわしに知らせるのじゃぞ。これは、領主としてではなく、医師としての、言葉じゃ」
「勿体ない、言葉デス」
「そう、恐縮するでない。さあ、そなたの用意してくれた、朝餉を食べに、参ろうかのお」
さらに深く礼をしようとするヨナを右手で制し、カラカラと笑いながらファンオウは再び歩き出す。三歩後ろを、ヨナが静々と続いた。
朝餉を終えて、ファンオウがやって来たのは診療室である。神殿の一間を改装し、机と本棚、そして薬草棚を設えた簡素な造りの部屋だった。
「領主様、失礼しマス」
戸を開けて、薄い木の板を何枚か抱えたヨナが入ってくる。板の表面には文字が書かれており、これは書類に使っているものだった。紙を梳く技術はまだ領内には無く、代わりに木板に染料を用いているのである。
「ふむ。机に、置いてくれるかのお。ご苦労じゃった。重かったじゃろうのお」
労いの言葉に、ヨナは笑顔で首を横に振る。
「お安い御用デス、領主様」
笑顔を残して退出するヨナを見送り、ファンオウは書類へと眼を通してゆく。記されているのは、密林の材木の伐りだし具合、食料となる赤い実、トマの実の収穫量、それに領民への新たな鉄器の流布の進捗などである。
「ふむう……南側の、伐りだしは順調で……東側は、十本伐った……むう?」
ひとつひとつの板を見つめ、ファンオウは首を傾げる。
「トマの実は、豊作……ふむ。こちらはカゴに三つで、あちらはザルにたくさん……ふむむう」
読み終えた木の板を、机の端に重ねてゆく。ファンオウの眉間には、皺が刻まれていた。
「道具は……使い方を、知らぬ者もおる、と。これは、何とかしてやらねば、のお」
全ての板に眼を通し終え、ファンオウは机上に置かれた鈴を持ち上げ軽く振る。ほどなく、ヨナが姿を見せた。
「お呼びでショウか、領主様」
「うむ。エリックを、ここへ呼んできてくれぬかのお?」
ファンオウの指示にヨナがうなずき、退出する。しばらくして、きびきびとした動作でエリックが机の前へ跪く。
「いかがなされましたでしょうか、殿」
「うむ。エリックよ。この、書類なのじゃが」
ファンオウが手招くと、優雅な動きでエリックが立ち上がり机の横へ来た。ファンオウは、一枚一枚、書類をエリックへと手渡す。
「拝見いたします……各集落に、上げさせた報告書ですな」
板をめくって言うエリックへ、ファンオウはうなずく。
「うむ。それぞれ、作業の進捗状況などが、上がってきておるのじゃが……」
「書式が、ばらばらにございますな。読みにくい上に、これでは数も解りづらい……殿、少し、書類を書いた者どもと話し合いをいたして参ります」
形良い眉をぴくりと上げて静かな口調で言うエリックに、ファンオウは右手を挙げた。
「待て、エリック。確かに、話をする必要は、あるとは思うのじゃが、此度のことは、こちらに落ち度がある」
「落ち度などと、殿が口にされてはなりませぬ。殿のなさることは、全て正しいのです」
真顔で言うエリックに、ファンオウは苦笑を見せる。
「それは、どうかと思うがのお、エリックよ。まあ、ともあれ、書類のまとめ方などを、教えておらなんだからのお。文字の書けるものも、集落にはほとんどおらぬ。そのあたりから、手をつけねば、ならぬのじゃがのお」
「成程。尤もなご意見にございます。早速、俺が行って叩き込んで」
「待て、エリック」
板を抱えて背を向けようとするエリックを、ファンオウは呼び止める。
「何か、ございますか」
「お主には、ラドウのいなくなった分の練兵と、森の巡回を、任せておる。誰か、手すきの者を、他に立てねば、ならぬじゃろう」
振り向いたエリックが、ファンオウの言葉を受けて首を横へ振る。
「これしきのこと、何程のものではございません。それに、目端のきく者は、出払っておりますれば」
「いっそ、わしが皆に教えて回っても、良いのじゃがのお」
「殿のお手を煩わせるなど、以ての外でございます」
きっぱりと言い切られ、ファンオウはむむむと唸る。そうして、ファンオウの視線はエリックの抱える書類へと向けられた。
「……こういうとき、フェイがおれば、何とかしてくれそうなんじゃがのお」
「それ以前に、フェイなれば書類の中身を正しく把握し、判りやすい形にまとめることが出来たでしょうな。そういうことが、得意でありましたし」
しみじみと言うファンオウに、エリックがうなずいて同意を示す。
「エリックも、書類は苦手であるし、のお?」
「お恥ずかしい話ながら、俺には民政はよく解りません。武力でもって、敵を葬る方策なれば、いくらでも奏上できるのですが」
潔く言い切るエリックに、ファンオウは息を吐いた。性格上、エリックに民の教育などを任せるわけにはいかない。改めて、ファンオウは強く思った。民たちを、強力無比な戦士の集団に仕立て上げたいわけではないのだ。
「レンガ殿も、細かなことは、あまり得意でない、と言っておったし……イファは、人にものを教え導くには、まだ未熟であるし、のお……ヨナは、どうかのお」
ファンオウの問いに、エリックが首を横へ振る。
「あれには、神殿の家事を任せております。当分は、それだけで手一杯になっておりましょう」
そうかと呟き、ファンオウは窓の外へと目をやった。枯れたヒマワリを引き抜き、新たな種を植えるソテツの巨体が目に映る。純朴で庭仕事に精を出す鬼の姿は、民政にはあまり向いているようには見えない。元気そうなソテツへ眼を細め、ファンオウは机の上に視線を戻す。
「やはり……迎え入れるしか、無いかのお」
目を落としたのは、フェイの置いて行った地図である。隣領との領境にある、小さな村の名とそこに住まう遠縁の娘の名が書かれたものだ。
「人手の足りておらぬ現状です。それが最良でありましょうが……何か、心配事でもおありですか、殿?」
「フェイの、縁者とはいえ、隣領の、民じゃからのお……わしの都合で、連れてゆくのは、良くないのではないかと、思うてのお」
「そのようなことで、お悩みでございましたか。でしたら、問題ございません、殿」
エリックの晴れやかな声に、ファンオウは顔を上げる。
「ふむ、問題、無いのかのお?」
首を傾げるファンオウに、エリックが大きくうなずいて見せる。
「はい。フェイが申していたではありませんか。その娘は、隣領の領主との折り合いが良くなく、連れ出しても大丈夫だと。そして……」
「そして?」
「いずれ王になられる殿でありますれば、隣の領などは殿の所領と見做して何の問題もありませぬ」
「エリックよ……」
鼻息荒く言い募る姿でさえ、エリックであれば美貌である。得意げなエリックへ嘆息して見せれば、その顔に真面目な色が戻ってくる。
「……ほんの冗談です。今は……まだ、その時では無いようで。ともかく、その者を召し出してみて、物言いが来るようでありましたら、その時に考えればよろしいことでしょう。俺にお任せ下されば、娘の一人や二人、日が暮れる前に連れ出して見せましょう」
胸を張るエリックを前に、ファンオウは首を横へ振った。
「いや、エリック。フェイの縁者は、わしが迎えに行こう」
ファンオウの言葉に、エリックが眼を見開いた。
「殿、御自らが動かれるというのですか……理由を、お伺いしても?」
「エリックよ、在野にある賢良というものは、自らで招かねば、決して動かぬ。王国に戦乱が満ちておった頃には、そういう例が多々あったと、聞く」
「……確かに、千年昔の頃には、一国の王が賢人に教えを乞うため、自ら出向いたことはあったようです。俺の故郷にも、いくつか伝聞が残っております。ですが、此度の話は、フェイの身内を迎えに行くというもの。あまり仰々しいことをしては、却って恐縮されてしまうのではないでしょうか。そして、殿の目的は、それだけでは無いように見受けられますが」
エリックの言を受けて、ファンオウは穏やかな微笑を浮かべてうなずく。
「うむ。隣の領を、見てみたくなって、のお。領主として、どのように民を富ませ、育んでおるのか、見習うべき点などが、あるじゃろうからのお」
「殿自らが足を運ばれることは、ございますまい。レンガや、残ったラドウの手下などを使えば、隣領の詳細なども手に入れられます。隣領の領主のことも解らぬ今に、殿が動くのは少々危険かと」
「危険、のお? お主が、側におっても、危険かのお?」
首を傾げ、ファンオウは問う。短い沈黙の後、エリックが首を振った。
「問題はありませぬな。俺が側にいる限り、殿の歩まれる地は何処も安全です。目的地の村までであれば、馬を使い三日程度。物見遊山にも、丁度良いかも知れませぬ」
言い切ったエリックに、ファンオウは笑みを深くする。
「なれば、決まり、じゃのお。早速、明日にでも、お主とイファを伴い、出かけるとしようのお」
「……イファも、伴われるのですか?」
「うむ。ここでは採れぬ薬草に、巡り合えるかも、知れぬからのお。イファには、勉学の時間にわしから言うておく。準備は、任せて良いかの、エリック?」
書類の木板を小脇に抱え、エリックは拳を掌へ打ち合わせて一礼する。
「全ては、殿の御心のままに。俺に、お任せください」
診療室を、エリックが退出してゆく。ほどなくして、ヨナが顔を見せて昼餉の支度の整ったことと、イファの到来を告げた。ファンオウは腰を上げて、ヨナを連れて食堂へと向かう。明日から始まる短い旅路に思いを馳せてか、その足取りは軽やかなのであった。
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