混沌の魔女
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今回は、少し短めです。
ガリガリと、剣先が床へ触れて音を立てる。磨き抜かれた石床に、一筋の傷跡が穿たれてゆく。だが、エリックにとってそれはもうどうでも良いことだった。神殿へおわすべき主は、最早いないのだ。身を焼く灼熱の憤怒に、エリックは身を任せて歩き続ける。長い通路を行き、たどり着いたのは最奥に大きな椅子の置かれた広い部屋であった。
赤く、羅紗の張られた椅子は豪奢で、肘掛けの黄金が部屋の両脇にある松明の光を照り返していた。それは、王の座する玉座もかくやというほどの品だった。その、肘掛けの上に、一人の女が気だるげに腰を下ろしていた。
椅子の豪奢さとは裏腹に、女は肩口から掛かった黒いぼろ布一枚だけを身に着けていた。病的なほどの白い肌が、布の端から零れていた。手足は細く、身体も細身ながら腰と胸は豊かで、顔立ちも整っている。流れるような長い黒髪が、女の色白さをさらに際立たせていた。
「ようこそ、私の神殿へ。待っていたわ、エリック」
女が甘やかな声色で、まるでベッドに誘うかのように右手を伸べ、エリックに差し出してくる。
「……貴様が、悪鬼を召喚した召喚主か」
燃える双眸で女を見据え、エリックは静かに問う。
「ええ、そうよ。私は、ジュリア。混沌の神に全てを捧げる、魔女……」
艶めかしい曲線を描く自らの身体を、女は手のひらでなぞるように撫で上げる。並みの男であれば、それだけで骨抜きにされてしまう程の仕草であった。
「そうか。ならば、死ね」
間髪入れず、エリックは右手にある剣を女の頭めがけて投げつけた。悪鬼ほどでは無いにせよ、エルフの膂力で投じられたそれは空を切り裂き、不気味な擦過音を上げながら女へと迫る。
「きゃっ!」
美しい顔に似合わぬ、可愛らしい悲鳴が女から上がる。同時に女は差し伸べていた手のひらを返し、飛来する剣の切っ先へと向けた。見えない壁に弾かれたように、剣がわずかに向きを変えて玉座の真ん中へと突き立った。
「ま、待ちなさい! 全く、何て力なの……ともかく、レディの話は、最期まで聞くものよ?」
「魔法壁か。少し、厄介だな……炎の精霊よ!」
女の言葉には耳を貸さず、エリックは右手を突き出し女へ向けて炎の奔流を放つ。
「待て、と言っているのよ! 聞き入れなさい、この駄犬が!」
両手を前へ出し、女が叫ぶ。炎の奔流は見えない壁に突き当たり、空中で華のように広がった。
「……水の精霊」
エリックが呼びかければ、右手の炎は瞬時に消えて水流となり不可視の壁に叩きつけられる。
「悪鬼を倒した肉弾戦の腕前も見事だったけれど、魔法も、くっ、凄いわね……こ、こんなにも、速く属性を切り替えられるなんて……ねえ!」
じり、と水圧に押されるように、女の身体が少し下がった。だが、水圧はそれ以上は進めず、女には届かない。
「風の精霊」
エリックは再び、力ある言葉で呼びかける。精霊が応じ、その力を水流から暴風へと変える。
「こ、今度は風……!? ほ、本当に、無茶苦茶ね、あなた……だけれど、無駄よ! 私の障壁は、このくらいじゃ……」
「土の精霊」
女の足元から、石床が隆起する。それは前傾姿勢で防壁を張っていた女の顎を、強かに打ちぬいた。
「おぐっ!」
高々と打ち上げられ、女がくぐもった悲鳴を上げる。仰向けに倒れた女へ、エリックはゆっくりと近づいてゆく。玉座に突き立った剣を引き抜き、女を見やる。ぼろ布がめくれ上がり、女の足の付け根まで露わになっていた。
「こ……の……」
打ち抜かれた顎を擦り、女が小さく首を振る。
「死ね」
剣を逆手に持ち、切っ先を女の頭へ向けて突きかかる。冷たい殺意が、表情の無い美貌に宿っていた。
「待てと、言ったでしょうがああ!」
女が両手をかざし、剣先に不可視の壁を当てる。空中で、見えない何かに突き立った剣が火花を散らす。剣を握る右腕に、エリックは力を込める。ぎりり、と柄が鳴り、右腕が膨れる。剣先が、ゆっくりと女の額へと近づいてゆく。
「あ、主を、失って、これからどうするつもり、なの……っく、あ、あなたは、そ、それだけの力があれば、わ、私と……」
「終わりだ、混沌の魔女」
一切の感情も込められていない、それは平坦な声音であった。だが、女はエリックの言葉に、咽喉の奥で喜悦の笑声を上げる。
「く、くくく……よ、ようやく、呼んだ、わね……わ、私の、ことを……! あなたの……お前の意識に、私は……よ、ようやく触れられた」
女の額に、切っ先がわずかに触れる。つっと、白い顔に赤い筋が走った。見下ろすエリックは、眉を寄せる。剣先はそれ以上、女の顔を傷つけることなく、逆に押し返されるように戻されてゆく。
「悪鬼を殺したときは、どうしてやろうかと思ったけれど……中々に、美しいじゃない。お前は、私の下僕にしてあげる。『剣を引きなさい』」
冷静な声になり、女は告げる。エリックの身体は、意志に反して剣を引き、腰へと納めてしまう。
「な……何を、した」
「『跪きなさい』……お前の意識に触れて、お前を操ったのよ。お前は、私の通り名を口にした。それは、お前の意識へ手を伸ばす、きっかけになったの。ふふふ、深い憎悪と悔恨だけの精神など、支配することは造作も無いわ。何しろ、それは獣と同じですもの」
女の前で、膝を折り首を垂れる。自身の動作を、エリックの心はどこか遠くの光景のように見つめるばかりだった。
「主を失い、己の存在意義を失った男。それが、今のお前。だけれど、心配はいらないわ。私が、お前に新しい目的を、全てを与えてあげる。お前は心安らかに、私の下僕となれば良いのよ。さあ、『私の手に口づけを』……忠誠の、誓いを立てなさい」
「………」
焦点の合わぬ眼で、エリックは差し出された女の手の甲をじっと見つめる。そしてそこへ、形良い唇を近づけてゆく。全身全霊で抗おうとする精神は、黒く柔らかな何かに包まれ、どうすることもできない。
「良い子ね、お前」
手の甲へ接吻するエリックの頭を撫でて、女が嫣然と微笑んだ。その瞬間、エリックの中で何かが凍り付く。呆然となったエリックの心は、深い闇の中へと落ちてゆく。
部屋の入口から、幾つもの足音が聞こえてくる。
「あら、エリック。お前の、昔のお仲間が、やってきたみたいね。お前の全力をもって、屠りなさい。私は、お前の支配で少し魔力を使い過ぎたから、休ませて貰うわ」
そう言って、女は玉座へ深く腰を下ろす。
「はい、ジュリア……様」
ゆらり、とエリックは立ち上がり、腰から剣を抜いて悠然と部屋の入口へ向き直る。夜明けを告げる太陽の光が、神殿内に薄明りを齎していた。
「エリック様! ご無事でいられましたか」
駆けてきたのは、褐色の戦士を数名引き連れたラドウであった。抜身の剣をぶら下げて、幽鬼のように立つエリックを前にラドウは足を止める。
「神殿内の敵勢力は影も形も無く、ほどなく制圧は完了いたします。こちらは……」
下から、上へ。斬り上げるエリックの一撃は、ラドウに向けて放たれた。
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