のほほん医師、森の民の涙に心を動かされる
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診療所へと戻ったファンオウは、遠い旅路の支度に追われることとなった。領地への旅路は遠く、山を越えてひと月余りはかかる。王都の外の治安は乱れ、盗賊たちの跋扈する山野を行くには護衛も必要であった。
馬と、細々とした雑貨や保存食を買い求めれば、地方領主の三男坊程度の蓄えはすぐに尽きた。
「食べ物は、これで良いとして……あとは護衛じゃのお」
王都へ遊学に来た身分であるからには、家の兵などはもとより付き従ってはいない。新たに人を雇うにしても、元手は無きに等しい。暢気そうに湯を啜りながら、ファンオウは困っていた。
「先生。お一人で領地へ行かれるならば、護衛は俺一人で充分です」
旅の荷を綺麗に収納しながら、エリックが言った。ファンオウは、湯のみを持ったままきょとんとした顔になる。
「お主が……付いて来るのか?」
問いかけるファンオウに、エリックが膝をついて一礼した。
「もちろんです。俺は、狩りもできますし、人間の賊相手ならば百人であろうと遅れは取りません」
「ふむう。百人とは、大きくでたのお」
「これでも、弓に始まり剣に槍、武芸百般はこなせますゆえ」
肉付きの薄い胸を張り、エリックが言った。その細身の体に、信じられない程の力を秘めているのはファンオウも知るところである。エルフという種族は、まさに一騎当千の武人なのだ。
「確かに、お主がおれば心強いのお……」
まったりとした賛辞に、エリックはうんとうなずく。
「……じゃが、駄目じゃ」
そんなエリックを前に、ファンオウは首をゆっくりと横へ振った。
「な、何故ですか!?」
細く切れ長の眼を一杯に開き、エリックが声を上げる。
「お主は、わしの護衛ではなく、この診療所の者であろう。それを、わしの都合で勝手に連れ出し、あまつさえ遥か遠方の地へなぞ、連れてはゆけぬからじゃ」
諭すように、ゆっくりとファンオウは言った。その言葉の通り、エリックはファンオウの家来ではなく、診療所の雑役夫であった。力仕事や薬草採集、ときには患者の運搬などをするのが主な仕事である。
「しかし、俺は……」
すっと、エリックへファンオウは手のひらを見せるように突き出した。
「ここでの仕事は、大切なものじゃ。お主の採ってきた薬草で、幾人もの人が救われたこともある。お主には、わしの後任へ就いてもらいたいくらいじゃ。それに、イグルの帰りを、待っていてやる者が、必要ではないかのお?」
こくんと首を傾げ、ファンオウはエリックを見つめた。はっとするほどの端正な顔が、苦しげに歪み、俯いてゆく。
「……わかり、ました。先生が、そう仰るのであれば、俺は……」
「すまぬのお。お主にとって、王都は、窮屈であろう。じゃが、ここには、お主を必要とする者も、たくさんおるのじゃ。どうか、よろしく頼む」
言いながら、ファンオウはエリックの肩に手を置いた。
「先生……」
「さあ、立ち上がってくれんかのお。わしは、もうここの医師ではないのじゃから。お主が、そうやって畏まることは、もうないのじゃ」
促されて、エリックがそろそろと腰を上げる。見下ろしてくる長身へ、ファンオウは笑顔で右手を差し出した。
「今まで、よくわしに尽くしてくれたのお。十年前に出会ってから、今になるまで、ずうっとわしを守ってくれた。本当に、感謝しておる」
ファンオウの小さな手を取りながら、エリックは首を横へ振る。
「いいえ、先生。先生は、エルフである俺に、分け隔てなく接してくださいました。我らエルフにとって十年とはわずかな時間ですが、俺の中では何よりも輝いていた時間でありました」
唇をわずかに上げて、笑みを形作る美しい顔がそこにあった。うんうん、とファンオウはうなずき、両の手をエリックの手に添える。
「お主は……イグルと共に、わしの生涯の友である。それは、遠く離れても、何も変わらぬ」
ファンオウの言葉に、エリックはまた眼を見開いた。
「エルフである俺を……友と言ってくださいますか、先生」
震える声で言うエリックへ、ファンオウは苦笑を返す。
「初めから、ずっとそうなんじゃがのお。あと、先生はもうよしてくれぬかのお? わしは、もう医師ではなく、領主の跡継ぎなのじゃから」
少しの、沈黙があった。やがてエリックが、ファンオウから手を離して右拳を左の掌に打ち付け、一礼する。
「ファンオウ様、どうか、お元気で。友と言っていただいたこと、永き生の中でずっと誇りにいたします。出立の日には、必ず見送りに参ります」
エリックの所作に、ファンオウは眉を下げて笑う。
「まだ、肩に力が入っておるのお。少しは、イグルのやつを、見習ったらどうじゃ?」
「有り得ませんな。俺が、あいつを手本にするなど……」
「即答じゃのお」
「はい」
言い合って、ふたりは声を上げて笑い合った。ややあって、準備のために自宅へと戻るファンオウを、エリックが射るような視線でずっと見送っていた。
出立の日が訪れた。王都の中心からほどよく外れた邸宅の玄関で、ファンオウは中を振り返る。視線を動かせば、愛着のある品々が目に入ってくる。
「王都に来たばかりの頃は大きかった寝台も……ふむう、今もあんまり、変わらなかったのお」
視線を動かし、書架にある、丸めた竹簡の数々を見つめ、ひとつ息を吐いたファンオウは玄関の戸を勢いよく開けた。一歩を踏み出そうとしたファンオウはしかし、足を止めて眼を丸くする。
「……見送りに、来てくれていたのかのお、エリック。声をかけてくれれば、すぐ、出て行ったものを」
軒先に、長髪を地面へ垂らし跪くエリックの姿があった。両拳を地面へと付け、両膝を曲げて額も地面に触れんばかりに背を折っている。ファンオウのかけた声に、エリックはそのままの姿勢で声を上げた。
「ファンオウ様に、是非ともお願いしたき儀がございます!」
声を上げるエリックをよくよく見れば、旅装を身に着けている。
「どうしたのじゃ、エリック。なぜ、そのような恰好を、しておるのじゃ?」
ファンオウの問いに、エリックが顔を上げる。その瞳の中には、決意が溢れていた。
「どうか、どうか俺を、ファンオウ様の供にお加え願いますよう、伏してお頼み申し上げます!」
ごつん、とファンオウの足元で、鈍い音が鳴った。
「エ、エリック、何をしておる」
狼狽するファンオウの前で、エリックが顔を上げる。一筋の血が、麗しい顔を彩るように額から流れていく。
「連れて行ってくださると仰るまで、俺はこうします、ファンオウ様」
表情を崩さずに、エリックが再び額を地面に打ち付ける。慌ててファンオウは、エリックの両肩へ手を伸ばした。
「やめよ、エリック。お主は、この街で……」
きっ、と顔を上げたエリックの瞳の中に光るものを見つけ、ファンオウは言葉を飲み込んだ。
「俺は、俺の居場所は、ここにはありません。ファンオウ様の、先生のいる場所が、俺の居場所なのです! お願いします、先生!」
流れる血も、そして涙も拭わず、真っすぐにエリックがファンオウを見つめてくる。しばし黙したファンオウは、布切れを取り出してエリックの額を拭いた。素早く傷薬を取り出し、手当をする。普段の言動からは考えられないような、それは鮮やかな手つきだった。
「……先生」
呆然と、見惚れていたエリックが小さな声を上げる。ファンオウは、新しい布を取り出しエリックの涙を拭った。
「洟も、拭いたほうが良いのお。美形が、台無しじゃぞ?」
のんびりとした声に、エリックが気恥ずかしそうに洟をかんだ。
「先生」
改めて、真顔になったエリックがファンオウを見つめて言う。ファンオウは、ひとつうなずいた。
「お主の、熱意に負けたわ。良いじゃろう。長く苦しい旅路になるかも知れぬが、よろしく頼む」
ファンオウの言葉に、エリックが顔じゅうに喜色を浮かべる。珍しい表情に、見惚れたファンオウであったがこほんとひとつ咳ばらいをする。
「ただし……」
「ただし、何でございますか、先生?」
一瞬の間を置けば、エリックが唾を飲み込む音が聞こえてくる。後ろ手に手を組んで、ファンオウは真面目な顔を作って口を開いた。
「先生は、やめよ。そう呼ばわれば、お主は、診療所の者になってしまうからのお」
そう言うと、エリックは少しの間、考える素振りを見せ、やがて大きくうなずいた。
「わかりました、殿!」
美しい顔に、良い笑顔を浮かべてエリックは言い切った。
「と、との……じゃと?」
あんぐりと口を開けて聞き返すファンオウに、エリックはしっかりとうなずいて見せる。
「はい、殿です! これよりは、そう呼ばせていただきます!」
非常に嬉しそうなエリックに、ファンオウもつられて笑顔になった。
「……まあ、お主がそれで良ければ、良いかのお」
早朝の王都に、二人の男の笑い声が響いてゆく。抜けるような青い空は、旅立ちには良い日和であった。やがてほどなくして、王都の西南の楼門を、二人の旅人が抜けて行った。その行く手には、果てない草原と険しい山々がどこまでも拡がっているようであった。