黒の悪鬼、泰然として状況を俯瞰する
投稿が遅れてしまい、申し訳ありません。黒の悪鬼側のお話を、お届けいたします。
密林の夜、淡い月の光に照らされてその神殿は聳え立っていた。緩やかな丘陵の頂上に、白い石肌を艶めかしく見せる建築物は密林の中心で、不吉にざわめく闇を睥睨するような威圧感があった。
神殿の奥深く、窓も無い暗闇の部屋の中で、大きな影が身を起こした。半身を起こしただけで、二メートル近いその身体は漆黒の闇を体現するかのように黒い。開かれた両眼は、黄色く鋭い眼光を宿している。短く縮れた頭髪の中から、黒く不気味な角が二本、突き出ていた。裸の胸は逞しく、無駄な贅肉の一切無い筋肉の塊であった。
「……褐色の民が、また一つ降ったか」
悪鬼の容貌を持つその男は、静かに呟く。闇の中で、男の黄色い歯が大きな笑みを形作っていた。悪鬼は薄い夜具を払いのけ、寝台を降りる。傍らで、夜具に包まれたものがもぞりと動いた。
「状況は、あまり芳しいとは言えないわね」
気だるげな声は、若い女のものだった。悪鬼は笑みを崩さず、夜具の膨らみへ眼を向ける。
「いかにも、楽しくなってきたところではないか、操主よ」
語り掛ければ傍らで、女がゆっくりと身を起こす。一糸まとわぬ女の姿は、悪鬼の眼には闇の中であろうとも鮮明に見えていた。
「……何、まだ足りないの?」
女の問いかけに、悪鬼は低い笑い声を漏らす。
「足りていないのは、操主のほうではないのか?」
揶揄するような響きの声に、女は闇の中で頬を朱に染める。
「莫迦。のんびり見てる状況では、無いのよ」
「昨晩も、そう言っていたような気がするが? まあ、いい。操主の案ずることも、わからぬでは無い……どうした、我の顔に、何か付いているか?」
ぽかん、と口を開けて見つめてくる女に、悪鬼はからかうように問いかける。
「……随分、人間らしい言葉遣いになっていたのね、いつの間にか。獣みたいに吠えて、腰を振るだけの動物だったのが、嘘みたいよ」
悪意を含んだ女の言い様に、悪鬼はふんと鼻を鳴らす。
「馴染んできたのだ、食った人間が。我の能力は、知っているだろう」
「食らった人間の記憶を、自分のものにすることができる、だったわね。でも、お前がまともな言葉を喋ると、違和感があるわ」
首を振り、女が言う。
「獣のほうが、好みだったか? 酔狂な色狂いの操主よ」
女の身体に手を伸ばし、悪鬼は問う。食えば旨そうな、柔らかな肉体だった。だが、それは許されてはいない。だから別の欲望で、満足するしか無かった。女は特に抗するでもなく、逆に悪鬼に身を任せるようにもたれかかってくる。その瞳に灯る情欲の炎に中てられ、悪鬼もいつしか行為に没頭していった。
しばらくの後、息も絶え絶えになった女が悪鬼の上で力尽き、広い胸の中に顔を埋める。
「……だから、こんなこと、してる場合じゃ」
「褐色の民の酋長どもが、手懐けられている。ほとんどの部族が、敵の手に落ちた。それが、何だ?」
「密林の、魔術によって、密林の中で死した人間が転生した、それが褐色の民……儀式によって、褐色の民たちの命を、混沌の神の生贄に捧げなければ、いけないのに」
「息が荒いな。水でも、飲んだほうが良いのではないか?」
悪鬼の長い手が、寝台の脇に置いた水差しへと伸びる。反対の手で女を仰向けに寝かせ、吸い口を咥えさせてやる。かなりの量の水を、女は咽喉を鳴らして一息に飲んだ。
「ふう……生き返ったわ。ともかく、褐色の民を取り戻さないと、生贄が足りなくなるわ。何か、打つ手を考えなさい」
大きく息を吐いて、額に手を当てて女が言った。
「取り戻す必要が、あるのか? 逃げ去るならばともかく、歯向かって来るのであれば、皆殺しにすれば良いだけの話だろう」
悪鬼の言葉に、女が軽蔑の眼を向けてくる。
「……私の、密林の魔術に綻びを作った存在がいるの。綿密に練り上げた術にそんなことが出来るのは、エルフくらいのものよ。毒の水で死ぬこともなく、密林の獣たちもものともしない。危険な存在だわ」
「ああ、知っている。というか、我の食った人間が、よく知っていた。末の弟ファンオウには、エルフの友がいると。手紙で知ったようだな」
暢気に言う悪鬼の頭を、女が両手で掴んだ。
「どうするつもりなの? 相手は、エルフよ? おまけに、ドワーフもあの領主に力を貸している。お前に、勝ち目はあるの?」
がくがくと揺さぶろうとする女の手は、しかし動かない。
「我を何だと思っている。エルフであれば、相手にとって不足無し。打ち倒し、ファンオウの目の前でバラバラに引き裂いて貪り食ってやろう。そうすれば、我はさらに強くなれる」
強力無比な光の戦士であるエルフと、対峙する。考えるだけで、悪鬼の血は沸き立った。
「どのような痛みをくれるのか……楽しみですらあるな」
にんまりと笑みを浮かべる悪鬼に、女が冷たい眼を向ける。
「……理解しがたい性癖ね、お前のそれは。食らった相手の恐怖と絶望も、そうやって味わうのよね」
「ああ。痛みは良いぞ。我は、滅多なことでは感じることができんからな」
「この、変態。それで、痛い目を見たいから、何もしないという訳ではないのね?」
女の言葉に、悪鬼はうむとうなずく。
「エルフとドワーフは、我が殺す。あとは、褐色の民の戦士が五百ほど。これは、我の眷属に相手をさせれば何の問題も無い。小鬼が五十もいれば、殲滅できるだろう」
「そう上手くいくかしら? 人間の知恵を、甘く見ていない?」
女の問いに、悪鬼はつまらなそうに鼻を鳴らす。
「ふん。何を企もうと、我の影を奴らの足元へ忍ばせている限り、策はこちらへ筒抜けだ。最後の手段ではあるが、ファンオウを暗殺してしまえば全て終わる。簡単すぎて、面白味には欠けるがな」
「なら、さっさと暗殺してしまいなさい。リスクは、なるべく減らしておかなければ」
「今は、無理だ。エルフが、側に付いているからな。チャンスがあるとすれば、我とエルフが戦っているその時だ。エルフさえこちらへ引き付けておけば、影でも暗殺は容易だ。ファンオウは文弱の徒で、武芸はからきしだからな」
「……拠り所である存在を失えば、一層褐色の民は絶望を深くする。なるほど良い策ね。その手で、行きましょう。これは命令よ」
嫣然とした笑みを浮かべ、女は言った。悪鬼は一瞬表情を歪めたが、大人しくうなずいた。
「命令ならば、仕方が無いな。操主には、逆らえん。まあ、絶望したエルフが食えるのであれば、それもまた良いか」
言いながら、悪鬼は再び女の身体に手を伸ばす。今度は、打ち払われた。
「今夜は、もう駄目よ。奴ら、そろそろ動きそうなんでしょう?」
「ああ。明日には軍を進め、ここを目指すだろうな。だが、エルフの進軍速度で考えても、二日はある。明日はまだ、動かなくていい」
悪鬼の言葉に、女は首を横へ振った。
「今日はもう、そんな気分では無いわ。だから、駄目。これは命令よ」
「そうか」
あっさりと手を引っ込めた悪鬼の胸元へ、女が身を寄せてくる。黙って抱いてやると、女はやがて静かな寝息を立て始める。
「ようやく眠ったか。起きれば、また騒ぐのだろうが……」
息を吐いて、悪鬼は天井を眺める。悪鬼の眼が見据えるのは、近い未来の光景である。
「早く、来い……エルフよ。そして、ファンオウ……お前を想う長兄の記憶を持つ我が、お前を殺してやる。地獄で、のたれ死んだ次兄と再会することを、楽しみにしているがいい」
湧き上がる愉悦に、悪鬼は嗤う。闇の中へ、悪鬼の哄笑が溶けてゆく。低く不気味なその声は、密林を伝ってどこまでも響き渡ってゆくようだった。
続きは、今週末には投稿できるかと思います。
今回も、お楽しみいただければ幸いです。