のほほん医師、地方領主へと任じられる
一週間の、時が過ぎた。早朝、診療所の庭へと出たエリックは、すらりと剣を抜き、構える。正眼に構えた剣先を、弾くように跳ね上げ、袈裟懸けに振り下ろす。動きに合わせ、長い金髪がふわりと揺れる。草色の単衣が、素早い動作にはためいた。
前へと出した右足を戻し、下がった剣をまた身体の正面へと戻す。そして、繰り出すのは同じ動きの袈裟切りである。それは、反復練習のように見えた。
エルフであるエリックの肉体には、討魔の魂が刻まれており、繰り出す剣技は天然自在のものである。本能のままに動くのであれば、練習などは必要も無いものだった。だが、エリックは同じ動きを、何度も繰り返す。洗練された美の極致にありながら、その一撃は何とも武骨極まりないものであった。
「朝から、精が出るのお」
全身に汗の粒を浮かべ、無心に剣を振り続けているエリックの背後から、何とも暢気に間延びした声がかかる。弾かれたように、エリックは剣を下ろして振り向いた。
「先生。おはようございます」
一礼するエリックの前に、ファンオウが右手を挙げた。
「うむ。邪魔をするつもりは無かったのじゃが、すまぬのお」
「いいえ。先生が声を掛けて下さったのは、俺の身体を気遣ってのことでしょう」
謝るファンオウに、エリックは微笑を浮かべる。
「そうじゃのお。動きを見るに、怪我は治りかけておるようじゃが」
くいくい、と手招くファンオウに、エリックは身を屈めて寄せる。ファンオウが手を伸ばし、触れてくるのはエリックの右肩だった。ふくふくとした、丸い指先に触れられ、エリックは眼を細める。
「もう、傷は塞がりました。何ともありません」
そう言ったエリックへ、ファンオウが首を横へ振って見せる。
「気の流れに、わずかに凝りが見えるのお。少し、引き攣った感じが、あるのではないかのお?」
ファンオウの問いに、エリックは眼を見開いた。
「……そこまで、おわかりになるのですか?」
問い返すと、こっくりとファンオウがうなずいた。
「十年も、お主の身体を診ておれば、それくらいは解るでのお。鍼でも打ってやりたいところなのじゃが」
言いよどみ、ファンオウが俯く。剣を鞘へと納め、腰へ差し直したエリックはうなずいて見せた。
「今日は、王宮へお出かけでしたね。すぐに、俺も準備をします」
「すまぬのお。用が済んだら、きっちり鍼を打つから、それまで我慢しておいてくれぬかのお」
「構いませぬ。先生を守るのが、俺の仕事ですから」
エリックの言葉に、ファンオウはほっと息を吐く。浮かんだ安堵の表情は、エリックが何よりも守るべきものだった。
「ところで、エリック。先ほどの動きは……イグルのものかのお?」
問いかけに、エリックは少し表情を固め、うなずいた。
「はい。俺の突きをかわし、一撃を入れた動きです。俺の突きには甘さがあり、あいつの一撃にはそれが無かった。結果、先生の手を煩わせることになってしまったのです。申し訳ありません」
頭を下げようとするエリックの肩を、ファンオウが押し戻す。
「それは違うのお、エリック。お主の言う甘さとは、優しさじゃ。遠征を前にしたイグルに、余計な怪我を負わせたく無かったのじゃろう?」
ファンオウの言葉に、エリックは顔を俯かせる。
「……状況はどうあれ、真剣での勝負でした。甘さは、甘さです」
頑なに言うエリックへ、ファンオウが小さく息を吐いた。
「お主がそう言うのであれば、わしは何も言えぬのお。じゃが、エリック。帰ったら、鍼は打つぞ。医師として、そこは譲らぬからのお」
「……有難う、ございます」
苦笑を浮かべるファンオウに、エリックは深く頭を下げた。
準備を済ませ、王宮へとやってきたファンオウは武官の控室へエリックを残し、一人長い廊下を歩いていた。廊下の隣にある庭園に、清廉な朝の光が降り注ぐ。緑なす木々と草花に目を細めながら、ファンオウは豪奢な装飾の扉の前へと跪いた。
「入れ」
ファンオウが声を上げる前に、中から入室を促される。軋みひとつ立てることなく開いた扉を、ファンオウは顔を俯かせたままくぐった。
「お召しにより、参上、いたしました」
白衣の両袖を合わせ、一礼してファンオウは言う。
「面を上げよ」
聞こえてきた老人の声に、ファンオウは顔を上げた。天蓋のついた寝台には、絹のカーテンが下ろされていた。寝台の傍らに、文官姿の老人が立っている。ぼそぼそと、寝台から小さな声が漏れ聞こえ、老人がそれに耳を澄ますように顔を寄せてうなずいた。
「ファンオウよ、近う寄ることを、許す」
老人の声に促され、ファンオウは寝台の側へと寄った。薄絹越しに、一人の若い男が寝そべっているのが見える。それはこの国でただ一人、陛下、と呼ばれることを許された若者であった。
「本日は、如何なされたのですかのお、陛下」
絶対的な権力者の前で、ファンオウはのんびりとした問いを発する。ぼそぼそと細い声が返り、それを伝えるのは老人であった。
「頭痛と、吐き気を感じておられるそうじゃ。薬湯を用意せよとのご下命である」
老人の言葉に、ファンオウは若者へ首を横に振って見せる。
「陛下。感じておられるお苦しみは、不摂生からくるものでございますのお。毎夜のごとく催される宴を控えられ、粗食をもって薬と成すのが最良でございますのお」
言いながら、ファンオウは懐から薬包を取り出し老人へと手渡す。中身は、胃薬であった。ぼそぼそと、寝台の中から声が聞こえてくる。
「地方貴族の三男坊風情が、僭越である」
代弁する老人の声に、ファンオウは深く頭を下げる。
「なれば、侍医の方々の出されるお薬を、飲まれればよろしいのでは……」
のんびりとしたファンオウの声に、老人の眉がぴくりと上がった。息を吸い、老人が口を開きかける。そこへ、ぼそぼそと寝台の中から声が掛かった。
「しかし、陛下……こやつめの態度は……」
寝台へ顔を向け、老人が言い募る。ふわり、と絹のカーテンがゆらめいた。
「もう、良い。まだるっこしい。余は、ファンオウと二人で話をする。お前は出てゆけ」
はっきりとした声が、寝台の中から届けられた。
「し、しかし、陛下……」
「くどい。余は、出てゆけと言った」
食い下がろうとした老人が、若者の声に肩を落とす。キッとファンオウを睨み付け、老人はすごすごと部屋を出て行った。
「ああ、すっきりした。これで、まともに話ができるな、ファンオウ」
身を起こし、若者が寝台の縁へと腰を下ろす。衣擦れの音を、頭を下げたままファンオウは耳にした。
「顔を上げろ、ファンオウ。朝からジジイのしわくちゃ顔を見ていて、どうにも気分がすぐれぬのだ」
傲岸不遜な声音に、ファンオウはゆっくりと顔を上げる。上質な寝着に包まれた、線の細い男の姿が目の前にある。
「陛下、やはり酒と美食を、少しは控えられたほうが良いと思われますがのお」
神経質そうな青い顔へ、ファンオウは心配そうな声を上げた。
「顔に出ているか。そうしたいのは山々だが、政が絡んでいるのでな。余の意思では、どうにもならぬ」
寝台の脇に置かれた水差しを持ち上げ、若者は直接口をつけて傾ける。ごくり、ごくりと動く咽喉を、ファンオウはじっと見つめていた。
「せめて、わしに鍼を打たせては貰えませぬかのお、陛下?」
問いかけに、水を飲み終えた若者は首を横へ振った。
「それも、駄目だ。お前の腕は買っているのだが、宮中には煩い者が多い。いずれ侍医に取りたててから……と、思っていたのだがな」
ことり、と若者が水差しを置いた。
「地位よりも、陛下のお体のことが、わしは心配ですのお」
「そう言ってくれるお前だからこそ、侍医にはできぬ。真っすぐなお前が生きてゆくには、ここは濁り過ぎているからな」
苦笑を浮かべる若者へ、ファンオウは軽く頭を下げる。
「賂に用いる金銭があれば、より多くの人を診られますからのお。陛下には、申し訳のないことですがのお」
「言いにくいことを、はっきり言う。それもここには無い美徳だ。余は、お前を側へと置けぬこの身を不甲斐なく思うぞ」
眉根を下げる若者へ、ファンオウは小さな身体をますます縮めた。
「勿体ない、お言葉ですのお」
「その、何とも長閑な声も、もはや聴けなくなるというのは、何とも辛いものだ……ファンオウよ、お前には、じきに辞令が下る。お前の二人目の兄が、領地にて病死したそうだ。お前は領主としてかの地へ赴き、兄の跡を継がねばならぬ」
齎された言葉に、ファンオウは眼を見開いた。
「そう……ですか。兄が……」
領地からの手紙があり、病を得たということはファンオウも知っていることだった。だが、兄が死んだという情報は、今この場で初めて聞いたものだ。目の前で気の毒そうな表情をする若者は、冗談を好む性質ではない。ならば、それは事実なのであろう。ファンオウは、訪れた感情に総身を震わせた。
「明後日、改めて通達をする。そのつもりで、準備をしていろ。ファンオウ……ご苦労だった。下がって良い」
若者の言葉に、ファンオウは力なく一礼をして部屋を辞した。扉のすぐ側で、追い出された老人が恨みがましい視線を向けてきたが、それはファンオウの心を動かすには至らないものだった。
「診療所を、畳まねばならぬのお……」
長い廊下を歩きながら、ファンオウは呟くのであった。
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