のほほん領主、変わり果てた故郷に足を踏み入れる
山を下る道は、登りよりも早く進めた。滑落には気をつけなければならなかったものの、徒歩の者たちの速度が上がったおかげである。それでも慎重に、二日をかけてファンオウ一行は斜面の細道を抜けて、緩やかな岩場を踏破した。
地面が、岩肌から湿り気のある土へと変わる。見下ろしたときには小さく見えた密林の木々は、近づくにつれて圧迫感を増す。得体の知れない鳥の鳴き声が、ゲキョゲキョと木々の間から無数に聞こえてくる。
「殿。この森は、得体が知れませぬ。俺から、決して離れぬように」
先頭を行くエリックが、緊張した声音で言った。
「うむ。お主が、頼りじゃ、エリックよ」
うなずくファンオウを乗せて、馬は密林へと分け入ってゆく。丈の高い草が、傍らを歩くレンガの姿をすっぽりと隠してしまう。
「こう、草が多いと、難儀だね。後ろの皆も、警戒を怠らないようにね」
草を踏み、大地に沈めながらレンガが言う。土の魔法でレンガが作った道を、村人たちとラドウたちが続いて歩く。むっとする湿気を帯びた熱気に、一行の誰しもがじっとりとした汗をかき始める。
「きゃあっ!」
密林へ入ってからしばらくして、ファンオウの後方で悲鳴が上がった。ファンオウが振り返るより早く、レンガが槍斧をかざし、突き出す。ファンオウの視界に映ったのは、イファの頭上から襲い掛かろうとした体勢で串刺しにされた、まだら模様の大蛇だった。
「おぉ……大きいのが、おるようじゃのお。レンガさん、ありがとうのお。イファや、怪我は無いかのお?」
真っ青な顔で震えるイファとは対照的に、レンガは平然とした顔で槍の穂先についた大蛇を捨てる。人の腕ほどもある胴体が、どさりと道端へ投げ出された。
「大したことは、ないよ。毒のあるやつっぽいし、食べられないみたい。イファちゃん、大丈夫だった?」
レンガに重ねて尋ねられ、イファはようやく小さくうなずく。
「毒蛇も、出るか……エリックよ、どこか、落ち着ける場所は、無いものかのお」
問いかけに、エリックは耳を澄ませるような仕草をする。
「……ここから数里、行った場所に川のせせらぎが聴こえます。また、近くに何かの気配も感じます。そこまで行けば、身を休めることは可能かも知れませぬ」
密林の奥を指して、エリックが言った。
「みんな、聞いての通りじゃ。数里進めば、休めるからのお。それまで、もうひと頑張りじゃ」
にこりと笑顔を向けるファンオウに、後方の一同はうなずく。傍らのレンガは、少し難しい顔になっていた。
「ファンオウさん。木の根が邪魔で、ここからはあたしの魔法が使えそうにないよ」
地面を見て言うレンガに倣い、ファンオウも前方を見やる。密集した木の根が、でこぼこと地表を走っていた。これでは、いくら地面を硬く整えようとも、意味は無さそうだった。
「……とんだ役立たずだな、土ミミズめ」
前方を行くエリックから、罵声が飛ぶ。その表情には、どこか焦りと苛立ちの色が薄く見えた。
「なら、あんたの魔法で木の根をどかせてよ、口達者の高飛車エルフ様」
レンガも負けじと言い返す。エリックは無言で右手を木々に突き出し、目を閉じて何事か呟いた後に、首を横へ振った。
「森の加護が、ここには届かん。俺の魔法は、この密林には効かない……」
ぶつぶつと沈んだ顔で言うエリックへ、レンガが勝ち誇った笑みを投げる。
「あんたも、役立たずじゃない。ファンオウさん、ここから先はちょっと揺れるけど、落ちたらいつでも受け止めてあげるからね。安心して、むしろ落馬して?」
にこにこと見上げてくるレンガに、ファンオウは微笑みを返す。
「それは、心強いのお。じゃが、安心せい。エリックの操る馬じゃ。そうそう、わしを落とすこともあるまいて」
ファンオウの一声で、肩を落としていたエリックがしゃきりと身を持ち直す。
「無論です、殿。いかなる悪路でも、殿の身だけは、このエリックがしっかりと御守りいたしまする」
「……現金なやつだね、あんた」
ぼそりと言ったレンガの声を聞き流し、エリックが進行を再開する。
「うかつに木に手を触れると、かぶれてしまうよ。皆、気をつけて」
でこぼことした木の根の道を行きながら、レンガが声をかける。一行の中で、レンガの手足は馬上のファンオウを除けば誰よりも短い。だが、レンガは器用に木の根を踏み越え、乗り越えてゆく。その背を追って、徒歩の者が続いてゆく。
そうして、川べりに一行がたどり着く頃には夕刻となり、真っ赤な太陽が木々の間へと沈んでゆこうとしていた。川べりにはわずかな岩場と砂地があり、濁った川の上には小さな羽虫がぶんぶんと羽音を立てている。レンガの土魔法で砂地を拡げ、中心にたき火を焚いて一行はようやく腰を落ち着けることができた。
「川の水は、飲まぬほうが、良いのお」
川の縁へ顔を近づけたファンオウが、濁った水を見て言った。
「エリックよ、頼めるかの?」
振り向いたファンオウへ、エリックがうなずいて見せる。エリックの手にあるのは、空っぽの革袋である。袋の口を開き、手をかざしたエリックが小声で呟くと、空の水袋の中身が膨らみ始める。満たされた水袋を、ファンオウは両手で受け取った。
「水を出す魔法は、健在のようじゃのお。おかげで、助かったわ」
へとへとになってへたばる徒歩組へ、ファンオウはカップを手渡し水袋から新鮮な飲み水を注いでゆく。誰もが、勢いよく水を飲み干し、ほうっと息を吐いた。イファ、イーサン、レンガの順にカップを渡したファンオウは、最後にふたつのカップを持ってエリックの側へと座る。
「お主には、本当に頭の下がる思いじゃのお、エリックよ。お主がいなければ、わしは今頃、まだ山を越えるどころか、手前の森にも、入れておらぬところじゃった」
差し出したカップを、エリックが跪いて頭上高く受け取り、そしてゆっくりと口に運ぶ。大仰な仕草に、ファンオウの口から吐息と苦笑が漏れた。
「勿体なきお言葉です、殿。このエリック、粉骨砕身の意志を固め、ますます殿へ忠義を尽す所存」
「堅苦しいのお。もう少し、力を抜いては、どうじゃ? 気を張り過ぎると、気が凝り固まって、身体にまで、影響を及ぼしてしまうぞ?」
言いながら、ファンオウはたき火を見つめる。火に誘われて、派手派手しい色をした蛾が飛んできて、その羽を火の粉に焼かれて落ちる。ぼっと全身を燃え上がらせ、蛾は灰になってゆく。ぼんやりと、ファンオウはそれを見つめ、蛾の姿をエリックに重ねてしまいそうになり、首をぶんぶんと振る。
「……殿?」
「何でもない。少し、疲れておるのかも、知れぬのお。馬に乗せてもらっておきながら、情けないことじゃのお」
エリックに向けて、ファンオウは笑う。民に向けるものとは、少し違った笑みだった。ファンオウを見返し、エリックは言葉を詰まらせる。俯くエリックから、視線をたき火へと戻す。ファンオウの視界を、何かが横切った。
「危ない、ファンオウさん!」
レンガが身を乗り出し、ファンオウとたき火の間に入り込む。直後、たき火の中で何かがパンと破裂した。背中を向けたレンガの小さな身体が、ファンオウの目の前でぴくりと揺れる。
「レンガ、どうしたのじゃ……」
驚いて、声を上げるファンオウの背後へエリックが立つ。その手には、背中から素早く抜き放たれた短弓が構えられていた。
「はっ!」
エリックが短弓を横に寝かせて構え、三矢を射る。周囲の茂みの中へ、それは勢いよく撃ち込まれた。
「がっ」
「ぐえっ」
「ぐ、う!」
がさり、と茂みを揺らし、ふたつの何かが倒れた。
「土ミミズ、借りてゆくぞ!」
短弓を背中へ仕舞い、エリックはレンガの槍斧を拾い上げて茂みへと駆けてゆく。
「一体、何が……エリック?」
エリックの行動は、神速であった。ファンオウは理解が追いつかず、エリックの動作に視線だけを向けつつレンガの肩を軽く引いた。
「あたしは、大丈夫だよ。ちょっと、びっくりしただけ」
振り向いたレンガが、ちょっとススのついた団子鼻を見せて笑った。ススを払ってやると、レンガの顔には傷ひとつ、ついてはいなかった。
「ちらっと見た感じ、木の実か何かを投げ込んだみたいだけど……そんなもんで貫かれるほど、ドワーフの皮は柔じゃないからね。ファンオウさんは、大丈夫? 当たってない?」
逆に、レンガに心配されてファンオウはうなずいて見せる。
「わしは、大丈夫じゃ。しかし、エリックが」
「大方、襲ってきた奴らをどうにかしに行ったんじゃないの? あ、ラドウ。そこで倒れてる二人、ふん縛っておいてね」
「はっ!」
ぱんぱんと胸についたススを払いながら、レンガがてきぱきと指示を出す。ラドウがそれに従い、部下を率いて二人の半裸の男を縛り上げ、引き摺ってくる。エリックが射た矢は、二人の男たちのふくらはぎを貫いていた。射られた男たちは、ぐったりとして意識を失っているようだった。
「これは……遠当て、かのお?」
男たちの様子を診たファンオウが、首を傾げて言う。そうしながらも、荷を傍らに引き寄せ、中からファンオウは傷薬をいくつかと包帯を取り出していた。
「遠当てに、足止め、か。とっさにやってしまえるなんて、本当にどんな腕してるんだろ、あの高飛車エルフ」
「大丈夫かのお……」
男の足から矢を引き抜き、薬を塗って包帯を巻きながらファンオウはのんびりと言った。
「まあ、深追いしなけりゃ大丈夫だよ。腐っても、エルフなんだし。それより、こいつらだけでも生かしておかないとね。あの様子じゃ、もう一人は八つ裂きにされてるかも知れないもの」
エリックの不殺の誓いを知らないレンガが、物騒なことを口にする。耳にしたファンオウは、もう一人の男の足を治療しながら首を横へ振る。
「エリックには、むやみに人の命を奪うことは許さぬ、と言っておる。心配は、無用じゃ」
包帯を巻き終えたファンオウが満足そうにうなずき、男たちを安静な姿勢で寝かせる。縄で簀巻きにされながらも、男たちの寝息は次第に安らかなものへと変わってゆく。
「まあ、あの強さならそれで問題は無さそうだね。それならあたしたちは、こいつらが目を覚ましたらちょっと質問攻めをしなくっちゃ。ファンオウさんは、向こうでイーサンたちとご飯でも食べてきなよ」
レンガに背中を押され、ファンオウは離れた場所に座るイーサンの元へと連れて来られた。エリックの残していった水袋も中身はまだあるので、しばらくは何の問題も無い。男たちはなかなか目を覚まさず、レンガとラドウも結局食事に加わることとなった。
食事を終えたファンオウは、たき火を見つめる。また、大きな蛾が一匹、炎の中へと落ちてゆく。膝を抱えて座りながら、ファンオウはそれをじっと見つめていた。
それからしばらく待ったが、エリックは戻って来なかった。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。続きは、また来週の半ばから末にかけてになると思われます。どうぞ、お楽しみに。
楽しんで読んでいただければ、幸いです。




