迅速なる一手
大変お待たせしました!
準備は、すでに整っていた。物資は小さくいくつにも分けて纏め、大半は南方領へと送ってある。褐色の戦士たちも方々へ散らせ、王都の大門を出てから合流する手筈だ。今のラドウであれば、少々の荷物が増えたところで、統率することには何の問題も無いだろう。エリックとの通信を終えてから、即座に王都の人員の全てを動かしたのだ。一切の遅滞は、無かった。
王都を捨てて、全員で殿の元へ帰還せよ。平坦なエルフの声には、いくばくかの感情があるように思われた。彼が殿、と呼ぶ存在、つまるところ主人のように的確にそれを読み取ることは出来ないが、これまで短くない期間、声を届け合う魔道具で通信を繰り返してきた。その経験からか、あるいは人間の物差しではあるが長生きをしてきたものからか、フェイには少しだけ、それが読み取れた。
祈り、だったろうか。それとも、気遣い、なのか。細かなところまでは、解らない。ただ、そうあってほしい、という己の願望に過ぎないのかも知れない。けれども、現状においてそれはあまり重要なことではない。それが主の望むところに近しい感情ならば、大筋においてそれを違えることは避けたい。
「可能な限りは、ですが」
王都へ来て以来、領主の名代として過ごしてきた執務室を見回す。書類や証文の類いも、運ぶか、あるいは焼き捨てている。残っているのは、代わり続けた王政の中で役に立たなくなった紙切ればかりだ。他には何もない、がらんどうの部屋だ。そうなるように仕向け、そしてその試みは、上手くいっていた。己の為した結果に、フェイはひとつ、髭をしごく。
「フェイ様、総員、出立の準備が整いました。あとは、御身だけです」
訪いのノックもなく、扉が開く。
「報告、有難うございます、ラドウ様」
静かに一礼するフェイに、入って来たラドウが武人の礼で応じる。
「ほどなく、彼の者の手がこちらへ伸びて参ります。お急ぎを、フェイ様」
打ち合わせた両腕の間から見上げてくる眼は、鋭く隙の無い佇まいをしている。ひとかどの、武人だけが出せる眼光。それを感じ、フェイはほんの少しだけ、頬を緩める。
「良き、武人になられましたな、ラドウ様」
「師の薫陶の賜物です」
「新たな力は、きっと領主様のお力になることでしょう。これよりも、努々研鑽を怠られぬように」
うなずいて口にしたフェイの言葉に、ラドウの眼がすっと細められる。
「それは、フェイ様とて同じことではありませんか。領主様のお力に、これからも、お役に立つことは」
「老骨には、厳しすぎる旅になります。足を緩める余裕など、最早ありますまい?」
ラドウの言葉を遮り、フェイは言う。
「……領主様は、全員で、欠ける者の無い帰還を、お望みです」
「ええ。そして、最も近い形でそれを叶えよう、ということですよ、ラドウ様。今一刻を、ここで過ごしてはならぬことは、解っておられるでしょう」
「ですが!」
「行きなさい、ラドウ。影の手は長く、そして速い。それは、王都で暗鬪を続けてきた貴方様が、一番良くご存知のはず」
視線が、交錯する。長く感じられる一瞬の中で、やがて折れたのはラドウだった。
「無念です」
「多くの民草も、同じものを感じている世の中です。そして、それを変えるのが、領主様です」
さっと消える背中に、フェイは少しの想いをぶつける。振り返らずに、彼は行くことが出来るだろうか。頭を横へ振ると、白髭が揺れる。
若者に混じり、主の元まで駆けるだけの体力は、フェイにはまだある。足を引っ張ることなく、旅は出来るだろう。けれども、それでは確実に、追っ手に捕捉されることとなる。
「慣れぬ旅路よりも、この館で……家礼の出来る仕事を、全うせねばなりませんな」
部屋を出て、館のあちこちの明かりを灯す。誰も居なくなった館に、ひたひたと、己の足音だけが響いてゆく。
「賓客を持て成し、主の到来まで間を持たせる。それが、私めの仕事でございますからな」
戸締まりをして、窓辺に人の形にした藁束を立たせる。ちょっとした小細工が、通じる相手ではない。けれども、何もしないよりは、ましだ。
「油は、売るほどにありましたからな」
ぱきり、とフェイは手の中で、ヒマワリの種の殻を潰す。領内を覆う呪いによってもたらされた、思わぬ副産物。亡国の大地の呪いが領の産業を支え、そして主の助けとなっている。ふっと、フェイの口許に漏れるのは苦笑だった。
「……王都も、変わってしまった。愚王が倒れ、傀儡の王と圧政辣腕の宰相が舞い戻る。民は嘆き、賢者は去りて消える。富みたる者の財貨は奪われ、僅かに貧しい者を潤わせ、しかるのちに国庫へと流れ着く。国は富み、民は貧しさに沈む。それでは、あんまりではありませぬか、宰相様」
フェイには、ラドウのような武人の心得は無い。けれども年の功か、己に近づく闇の、死の気配は感じとることが出来た。ひっそりと緩慢なほどに慎重さを伴うそれへ向けて、フェイは静かに語りかける。
「坊っちゃま……いえ、領主ファンオウ様ならば、総てを擲ってでも、民に寄り添い共に歩まれることでしょう。国の王となるには、千年の安寧よりも、そのほうが、相応しいのでは、ないでしょうか」
館じゅうを巡り、再び執務室へと戻ってくる。出来る仕掛けは、全てやった。あとは、その時を待つだけだ。机の上にあるものを手にして、フェイは椅子へと腰を下ろす。
老いた両肩に、じわりと重みを感じた。締め切った鎧戸の隙間から、月の光が漏れてきていた。
「少なくとも私は、ここまで齢を重ねるに至るまで、何の不満もありませなんだ。思いを残すことも……ああ、ひとつだけ、ございました。ランダ。お前の珍妙な趣味のことだけは、彼方へ行っても、心配の種になりそうだ……こんな時になっても、理解は出来そうに無い」
くっく、と低く笑いつつ、フェイは手にしたもの、蝋燭の立った燭台を傾ける。
「遠縁ながら、お前が良い縁を見つけられるか、それだけが気がかりだ……さて」
階下で、破砕音が聞こえてくる。同時に、押し殺した足音が、近づいてくる。
「一夜、時を稼げば充分でしょう。足を止めることなく、前へと進まれよ、ラドウ様」
燭台から手を離し、フェイは呟く。ちろちろと灯っていた蝋燭の灯が、撒いてきた油の道に沿って勢い良く燃え上がる。
「爺は、御先に参ります。後程ゆるりと……のほほんと、お越しくださいませ、ファンオウ坊っちゃま」
館じゅうへ紅蓮の触手を伸ばし始める炎を見やり、フェイは好々爺の笑みを浮かべる。赤々と燃え、己の肉を焦がす炎の中にあって、フェイの笑みは最期まで消えることはなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回も、お楽しみいただけましたら幸いです。