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ロンドンより愛を込めて

作者: 木下秋

 幼い頃、父親はどこにいるのかと聞いた俺に母は言った。「パパはね、ロンドンにいるのよ」。俺はその言葉を信じて疑わなかったし、そもそもロンドンがどこなのかも知らなかったから、まぁ遠くにいるんだろう、というくらいに思っていた。だからまさか、もうとっくに死んでしまっているだなんて、夢にも思わなかった。



 俺はステージの中心でスポットライトを浴びていた。上がる息、流れる汗。幾千もの歓声が耳をつんざき、空気をビリビリと震わせていた。


『ありがとう。あー、俺の父親は……』


 マイクに向かって俺が語り出すと、皆は一変静まり返った。『俺の父親は、ここロンドンで音楽をやるのが夢だった。なんせ、ここは音楽の聖地だから。ミュージシャンを志していた彼は、俺の生まれた国、日本でまず有名になって、いずれはロンドンで活動することを夢見ていた。……まぁ俺が産まれる少し前に交通事故で亡くなってしまったから、それは叶わぬ夢になってしまったわけだけれど。でも、俺は父親の意思を引き継いでミュージシャンになった。彼の夢は、俺の夢になった。……そして今日……ここ憧れの地ロンドンで、ついにライブを行うことができた』


 拍手や口笛、讃えるような声援が上がる。俺は挨拶するように手を上げてそれに応えた。


『……俺が今日ここでライブをすることができたのも、ここにいるみんなの応援があったからこそだと思ってる。本当にありがとう。感謝してもしきれないよ』


 観客はMCにすかさず反応し、リアクションをくれる。俺が発しているのは全て日本語で、会場の観客はみな西洋系の顔立ちをしているというのに、全て意味を理解してくれているかのような反応だったが、俺は全く不自然に思わなかった。


『それじゃあ最後に、聴いてください。この曲は父が生前作っていた曲を俺がアレンジした、いわば共作です。……「ロンドンより愛を込めて」』


 曲名を言うと、観客は湧いた。凄まじい熱狂が身を包み、身体が震える。


 目眩がした。浮遊感を覚え、呼吸がしにくくなる。まるで、溺れているかのような感覚。


 声援が遠のき、スポットライトの真っ白な光が強まり、包まれてゆく……。


 そこで、夢から覚めた。



 いい歳した大人が恥ずかしい夢を見てしまったと、自己嫌悪に苛まれていた。俺はブラックのコーヒーを啜り、外を見た。せっかくの休みだというのに、シトシトと雨が降っている。先ほどテレビでやっていた天気予報によると、今日は一日こんな天気だそうだ。


 妙にリアルな夢だった。光や熱気、音の震えや興奮が、まだ目覚めきっていない身体に染み付いている。俺は普段なら流しっぱなしにしているテレビを見る気にもならず、ミュージックプレイヤーに入っているインストゥルメンタルの曲をテキトウに、音量抑えめに流しながらぼんやりしていた。今だ夢見心地、先ほどまで見ていた映像を、何度も頭の中で再生している。


 久しぶりに、あれを聴いてみようか……。思い立って、俺は押入れの扉を開けた。しゃがみこみ、積み重ねた段ボール箱を引き出して開ける。中には学生時代の思い出の品が詰め込まれていて、その中にソレはあった。


 カセットテープの並んだクリアブラックのケース。開けると、中には十数本のカセットが入っていた。それは、父が生前録音した、オリジナルの楽曲が詰まったアルバム達だ。一番前方に収まっているのは七十七年に録られたファーストアルバム『Rock’n’rollの目覚め』。一本一本のカセットが入ったクリアケースには曲名等を書いておける紙が入っていて、そこにマジックで、手書きで書いてある。全十二曲入りで、演奏はアコースティックギター一本のみ。雑音が目立ち、中には父の母親――俺の祖母が彼を呼ぶ声まで入っている。父の声にも緊張の色が見え、時々震えたり裏返ったりする。若さゆえに声も高い。純粋に良い曲が揃っているとは言い難いが、微笑ましい出来だと言える。


 俺はそれを、何十年以上も使い続けている古コンポで再生した。父の遺したもので、今まで壊れたことは一度もない品だ。しばらくの雑音ののちに、生々しいギターと、少し割れた、声変わりしたてみたいな少年の歌声が流れてくる。このアルバム、一曲目の初っぱなで少し歌詞を噛んでしまう部分がある。俺は初めて聴いた時からその部分で少し吹き出してしまう。今回もその箇所で、俺は少し笑った。


 ーーこのカセットに出会ったのは、俺が中学生の頃だった。その日もこんなおとなしい雨が降っていて、家の中で一人退屈していた俺は押入れを漁っていて、このカセットたちを見つけた。


 当時リビングにあったコンポで一本目のカセットを再生して、生まれて初めて父の声を聴いた。ーーと言っても、その時点ではそれが父の声だとは知らなかった。彼の残した音楽だと知ったのはその日の夜、仕事から帰ってきた母に聞いてからのことだ。


「母さん、押入れにあったこのカセット、なに?」


「あぁ……。それは誠さんが学生時代に作ったやつね」


 録音状態の悪さからプロの作った音楽でないことは素人の俺にもわかっていたし、父が音楽をやっていたことは知っていたから薄々感づいてはいたものの、変なものを見つけてしまったなぁ……というなんとも言えない感想。なんせ、俺は父親に一度も会ったことがないのだ。その腕に抱かれたこともなければ、子守唄を歌ってもらった思い出もない。その一本目のカセットが録音された当時の父親と、カセットを見つけた当時の俺は、同い年だった。


 父親であるような実感もなければ当然友人でもなく、かと言って全く他人のような気もしない。その日の夜、俺はイヤホンでまた、父による一本目のカセットを聴きながら眠った。


 数週間かけて、俺は全てのカセットを聴き終えた。彼の録音、演奏、歌の技術が段々と上達してゆき、当時の友人たちなのであろう、コーラスや、楽器奏者も増えてゆき、後期のアルバムは本格的な出来だった。歌詞の文章力も歳につれて上達し、当時の俺には理解し得ない内容になってゆく。街中で録られたような音源もあって、彼は路上パフォーマンスなんかもしていたようだった。本気でアーティストになることを夢見ていたのだということが伝わってきて、全て聴くと、とても彼のことを茶化せないような気持ちになってくる。俺はそこで初めて、父親に対する尊敬を覚え、そしてその夢果たせず亡くなったことに対する無念さを想像し、同情した。


 俺は押入れから出てきた父の遺品である楽器に触れ、図書館から借りてきた初心者向けの本を読みながらギターの練習を始めた。当時の彼が書いた歌詞ノートを読み、彼に影響を与えたであろう、聞き古されたプロアーティストたちによる作品ーーカセットやCDを聴いた。


 帰宅部だった俺は中学二年の時に急に軽音部に入り、高校に入ってバンドを組んだ。大学でも軽音サークルに入って、少し有名になって、初めてのライブハウスでのワンマンライブ。父の果たせなかった夢を叶えることが、俺の使命だと信じた。夢は、ロンドンで活動するくらいのビッグアーティスト。


 ーー今思えば、特にこれといって趣味もなく、得意なこともなく、夢もなかった俺は初めて熱中できるものを見つけて、夢を設定して、そのことが嬉しかったのだと思う。どこか物足りなさを感じていた心の内に、夢果たせず死んでいった父親と、音楽という一種の芸術活動と、夢という目標を得て、俺は初めて『生きている』という実感を手に入れた。周りでスポーツやら勉強やらに打ち込み頑張っている人間達と並んで、胸を張って生きられるということ。そのことが嬉しかったのだ。友人たちと音楽について語り合い、父の話をし、夢について語っている時が一番気持ちよかった。


 ――気付けば、一本目のカセットは再生を終えていた。俺は床に座ったまま、窓から外を眺めていた。


 最近は専ら、眠ることが一番の趣味だ。朝早く起きて会社に向かい、摂取しなければ身体が動かないから飯を食う。日が落ちてからも残業をこなし、明日働くためにコンビニで飯を買って食う。そして眠る。次の日も早い。休みの日はどんな趣味よりも優先して眠る。歳をとったからか、疲れもなかなかとれない。


 身体の疲れは心を病み、心の疲れは身体に顕著に表れる。というのは、ここ数年で学んだことだ。だから眠らなければならない。日々の激務をこなすためだ。


 生きるために働かなくてはならない。金がなければ生きられない。仕事をこなすには健康でなくてはならない。だからなにより睡眠を優先するのだ。


 俺は久しぶりにギターを手に取った。弾き慣れたフレーズを無意識に演奏しながら、過去を振り返る。


 父のカセットを見つけたあの雨の日。初めて人前で演奏した日の手の震え。共に泣き、笑ったバンド仲間。夢をきっぱり諦めて、楽器を手放した友人。夢を叶え、売れていった知り合い。


 それでも、俺は音楽が嫌いじゃない。自分の中の何かを埋めるために選んだ音楽だったけれど、音楽には確かに力があった。父が音楽をやらなければ、カセットに曲を残さなければ、今いる俺はいない。彼の音楽が俺の人生を変えたのは、紛れも無い事実だった。


 俺は彼の「ロンドンより愛を込めて」を弾き、囁くように歌った。彼の最後のアルバムに入った、彼の夢について書かれた歌だ。


 本当にいい曲だと思った。彼の集大成とも言える曲だ。でも、人前で歌ったことは一度もない。秘めていた彼と俺の、とっておきだ。


 この曲を誰かに聴いてほしい……俺は唐突に思った。なんで今までこの曲を歌ってこなかったんだ? もったいぶってたってその時が必ず来るとは限らないんだ! なんで……


 古コンポを見た。カセットに録音? 違う。録音はいい。パソコンはあるから……ゲームのチャット用のマイクがある。これがあれば録音は出来るか……?


 久しぶりに、仕事以外で自分のために頭をフル回転させている感覚。録音だ……。そしてーー


 ーーYou Tubeに上げてやる! まずはアコースティックバージョンだ。昔の連中に声をかけて、スタジオ借りてバンド形式でも録ろう。……なんなら、路上ででも演ってやる。今さら恥ずかしいもクソもあるか!


 やる気になれば、なんだってやれる気がした。結局、言い訳してただけなんだ。忙しいから、回復のために時間が必要だから、もうそんな歳じゃないから、才能がないから、センスがないから。逃げたかっただけなんだ。だって傷つくし、疲れるし、めんどくさい作業だ。音楽演奏して人に聴かせるなんて。


 でも、音楽がやっぱり好きなんだ。聴いてほしいんだ。俺はギターをケースに入れて、携帯と鍵を掴んで外に出た。外の雨はもうすっかり止んでいて、虹が出ていた……なんてことはなく、やっぱり雨は静かに降っていた。現実はそう甘くない。それでも俺は傘をさし、駆け出した。

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― 新着の感想 ―
[一言] 最後の1文が、グッと来ました。 若干ネタバレ感想になりますが、昨日までの主人公なら、傘を差すことはしなかったでしょうね。 論理的なやりたい度と、やりたくない度の数値が同じくらいだったら、…
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