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「あんたの同室の女の子、風呂場で拉致ってるからついてきて。断ったら、まあわかるっしょ?」
小声でそんなことを言われた。先程の表情豊かな顔はどこへやら、氷のように冷たい視線が刺さる。一体何の目的があってこんな事をするのか。俺達はまだそこまでの接点を持っていないはずだが。
「動機はなんだって感じ?簡単だよ。あんたらみたいなのって見ててイラつくんだわ。場違いだって気づかない?そういうイチャラブしたのはここを出てやってほしいわけ。んでここから出るには死ぬのがいっちゃん早いっしょ?説明終わり。」
どうやら大きく勘違いをしているらしい。そもそもそんな一方的な理由で殺されるなんてたまったものじゃない。
「俺達は少なくてもそんな関係ではないし、俺から言わせてもらうとお前もあの以蔵とか言う男と仲が良さそうに見えるが。」
「大体そういう連中はその常套句を使うんだよ。」と言いながらまたも腕を引っ張られる。今度は先ほどとは違い余裕はなかった。この施設で監視の目がいかないのは恐らくそれぞれの個室と浴場だ。個室は恐らくプライベートのため、浴場は言わずもがな。だからそこでは何が起きてもバレない無法地帯と言っても過言ではない。このままなんとかしないと入学初日でお陀仏となる。
しばらく歩くと浴場が見えてきた。もう時間がない。このまま浴場に入った瞬間この女を倒し、岡田を倒し琥珀を救出する、なんてことはできないのは明白。どうすれば。
その時遠くの方に前に食道で相席した彼女の姿が目に留まった。前に友達になってほしいと頼まれた時了承していれば、きっとこの状況もなんとかなったのかもしれないと今更後悔する。この女が手さえ解いてくれれば手話を使えるのに。
結局俺はそのまま浴場に連れていかれた。扉を開けしばらく歩き、『女』と書かれた暖簾をくぐり脱衣所に入る。しかしそこには琥珀の姿は無く静寂が包んでいた。考えられるのは琥珀がこの奥にいるかもしくは「ッッ......」……もしくは騙されたか。
この静寂があったおかげで琥珀の気配がないとわかり、背後からの攻撃に対応できた。......背後からの攻撃には対応できたが、躱す際に一瞬で女に手首を曲がらない方向に曲げられた。昨日の傷もあり右腕はここしばらくは使えないだろう。なんで右手ばっか攻撃するかな。……まあ多分利き腕だからだろうけど。
その後は一方的なものだった。背後から攻撃を仕掛けた岡田の攻撃は止まらず、15分ほど頑張ったが結局動けないほどにボロボロにされた。どうやら幕末の岡田以蔵に憧れてか、刀を使った戦いだった。勿論本物ではなく模擬刀だったが、素人目でもよく分かる凄まじい剣戟だった。その間冰禮はずっと爪を弄っていた。多分『俺が勝てるわけがない』というより『岡田が負けるわけがない』と思っているのだろう。
こんなわけで見事に相手の策に溺れた俺は人質になってしまった。岡田は琥珀の捕縛に向かったらしく俺は冰禮と2人きりになった。冰禮が岡田に「あの女もここに持ってきて。」と命令したところを見ると、この2人は主従関係らしい。
「にしてもあんたってホント弱いね。入学テスト時の機転の良さはどこいったし。」
「碌に戦いもしなかった奴がほざくな。」
思いっきり叩かれた。勢いで縛られていた椅子ごと倒れる。まるで拷問。
「なんであの女とあんなに仲いいの?やっぱりおんなじ部屋だから既に色々やっちゃてるとか?」
「お前って絶対頭悪いよな。」
馬乗りにされ拳で殴られた。既にボロボロな体がさらにボロボロになっていく。
「勿論......琥珀とはそんな関係じゃない。俺は友達っていうのがいまいちよくわかんないから、簡単に友達とは言いたくない。だけどそんな人が傷つけられるのは......やっぱり嫌だ。」
馬乗りをやめ今度はお腹を足で踏みつけた。冰禮の冷たい視線が俺に向けられる。
「口では何とでも言えるよ、夢も理想も正論も。だけどそれを叶えられるのは私たちとは正反対の勝ち組だけ。事実あんたは私に踏まれながらここであの女が連れてこられるのを待つことしかできないじゃん。......もういい加減分かれよ。そんな信条掲げたって、それを叶えられる力はあんたにはないって。眼高手低ってやつ。虚しいだけでしょ、届かない希望に縋るのは。」
そんなことわかってるさ。だから俺は死に逝く母も笑顔で屋上から飛んだあの女の子も救えなかった。何度も悔やんで思い出す度泣き叫びたい。
「俺は夢のために努力することを虚しいなんか思わない。届かないと思うのは、お前がどこかで『できない』って思ってるからだろ。俺はいつの日か、この思いが大切な誰かを救える力になればって思ってる。」
この言葉はほとんど自分への戒めとして言ったものだ。2人の死を足枷にして引き摺るのではなく、背負って歩いていく。重いかもしれないけどそのくらいの重さがあれば絶対に忘れない。
絶対に忘れないといったのに
背負っていくといったのに
後に俺はその半分の思いを簡単に捨てた
冰禮が何かを言おうと口を開くが、後ろから殴られてそれが口になることはなかった。「おぅ!?」というのが冰禮の言おうとしたことではないだろう。犯人は先ほど遠目に見た女の子。じゃあなんでここにいるのか。声を出せない、手話もできない、紙などに書いて伝えられることもできない。だから読唇術で伝えた。『助けてほしい』と。その一言だけを。