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ピッシャャャャン……
まるで誰かが誰かに思いっきりビンタされるような音が響いた。
「う、うわぁぁぁ!!ごご、ごごめんなさい!その、つい驚いて反射的に。しかも思いっきりやっちゃいました!ついさっき目覚めたばっかの人に私はなんてことを…」
「……いや、いいんだ。寧ろ良かった。いや、別に目覚めたとかそういうのじゃなくて。あかりは何というか、隙が多いからな……。ちゃんと自衛できるんだな。うん…よかった…」
「?」
つい目を逸らしてしまう。なんか、泣きそう。でもこれが普通だもんな。下心がなかったとはいえ、いきなり抱きついたんだ。正当防衛、正当防衛。正当防衛…
「よし、もう大丈夫です。さあどうぞ!」
何が大丈夫なのか、両手を広げ、「welcowe!」と顔に書いてあるようだった。
この場合、寧ろ俺が追い詰められているんだが。
もちろん俺の屈強で雄健で魁偉な理性はそんなことでは動じない、と信じていたかった。
心の声「あーーーー!!!!……もう、いいんしゃないかな?(混乱、錯乱、狼狽、当惑、混迷)」
まあこんなどうでもいいことは置いておいて、真面目な話をしよう。
「何であの時逃げ出したんだ?」
「秘密です。」
それじゃお話が終わっちゃうでしょ。
「まあいいや。他には?」
「他?」
「あのさ、確かに水無月さんがやったことは悪い。でもそれなりの理由がないとこんな悪事しないのも確かだ。短い付き合いでもそのくらいはわかる。
……あー、やっぱいいや。多分ここ海雪の家だろ?ちょっと挨拶してくるからここで待ってろ。」
俺はあかりの返事を聞かず足早にその部屋を去った。あかりは特に追ってくることもなかった。俺はそのままペタンペタン、と足音を響かせながらその場を後にした。外には誰も見えなかったが、遠くの角から少しだけ息の上がった呼吸が聞こえた。どこぞの誰かさんか存じ上げませんがバトンタッチよろしく。
しばらく廊下を歩き、角をいくつか曲がり、階段を上り、下り、迷い、女中さんに案内され、海雪の部屋に着いた。「……焼けた……学校……」と中からそんな声が聞こえた。ノックして扉を入ると海雪と訪花が向かい合わせに話していた。傍から見れば恋人にしか見えない2人の雰囲気はそれはそれは..….。いや別にイライラ何かしてないよ?恋人を見て苛立つのは人間が小さい人だけだからね。
「やあやあ、ご両人。ご機嫌麗しゅう。唐突だが何だかこの部屋だけ妙に暑くないか?なぜだろうか、んー、不思議でたまらないね。」
「「……」」
「すまん、正直少し羨ましかったんや。」
あまりにもレベルの低い煽りに本気で侮蔑された後、とりあえず今までの事情を聞き、助けてもらった件について謝罪と感謝を述べた。先ほどの件ももちろん謝った。
「しかし訪花と会うのはだいぶ久しぶりだな。あの昔ばなしを聞いた時以来か?」
あ、やっべ。なんで自分自ら地雷踏んでんだよ。学習能力皆無。あの時あんなにも訪花は話さないでと海雪に怒っていたのに、なんで俺はまたほじくり返すような真似をしてるんだか。うわ、訪花めっちゃ顔赤くして顔隠して蹲っちゃった。これは夫からきついお灸をすえられるかな。……と思ったけど何だか海雪は下を向いてカタカタしてる。笑いを堪えているような?
「最初に言っとくけどな。確かに俺はあの話を嘘じゃないとは言ったが別段実話でもないんだよ。あれはな、こいつが通っていた幼稚園の卒業式の演目でな、「それそれでやりたいものを考えてきてください。」っていう先生の言葉を受けて書き上げた物語なんだよ。ふ、普通そんなこと、しないだろ。可愛らしく「シンデレラ」とか「オズの魔法使い」とか言っとけよ。物語から、書いてこいなんて、い、言うわけないだろ。」
はははっ、と抑えきれなくなった海雪が高らかに笑う。まあ、すぐさま正妻の鉄拳制裁が入ってその笑い声も悶絶の掠り声となったけど。なんだかんだ言ってこんなに弱った海雪を見るのも初めてかもしれない。
というか違和感なく話してるけど普通幼稚園生であんなこと書けないと思うんだが。海雪のイレギュラーほどでもないがそれでも異常だと思うよ。
「私の……黒歴史……」
倒れてる海雪の横に膝から崩れ落ちる訪花。なんだか「夫の浮気が発覚してつい衝動的に殺してしまったけど、妻の悲しみは全く消えない」みたいな状況を彷彿とさせるな。……人の心って本当にわかんない。
そもそも大した要件などなかったので俺はそそくさとあの部屋からおさらばした。体の方も特に問題なさそうだし、あの部屋から制服を取って我が家に帰るとしよう。.....だいぶ時間は潰したが、もしここであかりがいなかったらその時はそうだったと考えるしかない。いたとしても状況によるな。でもしょうがないよな、なるべくしてなった。ただそれだけ。
気が進まないままそのドアをこっそり開ける。けれど俺の予想は裏切られた。俺の中の僅かにあった希望が現実だった。
部屋の中では楽しそうに話しているあかりとひかり。2人はなにやら目元が赤くなっている。話の内容はよくある日常の事だったが、2人の顔は輝いていた。そんな光景を見て俺はなぜかちょっとだけ嫉妬した。確かに俺にも海雪という大切な存在がいるが、きっと俺たちはこうはなれない。それどころか俺はきっとこういうふうに接しれる人にはもう出会えない。そんな予感がした。