後悔日誌
古びたノートの1ページ目を開くと、そこには子供の文字でこう書かれていた。
――8がつ15にち。じんじゃのおまつりに行くとちゅう、おこづかいをなくした。ちょろきゅうがかえなかった。
文章の後ろに、注釈として「1986年。小遣いは祭りへ行く直前、16時頃にもらう。無くなったのに気付いたのは17時頃だろう」と記述してある。
ノートにはその後も断続的に、細々とした日記のようなものが綴られていた。
パラパラとページをめくり、何度も読んだその文章を眺める。
――1990年2月14日。15時36分。生まれて初めて本命チョコを貰ったけど、一緒に友達が居たので照れくさく、チョコをその場で返してしまった。
――1992年5月2日。19時3分。泊まりに来ていた16歳の従妹のお姉さんに「一緒にお風呂入ろうか?」と誘われたのに「ううん、一人で入る」と断ってしまった。
――2001年12月13日。12時7分。何も考えずにいつもの日替わりA定食を注文したが、B定食はカツカレーだった。
年代が今に近づくほど、どうでも良いようなちょっとした選択の間違いが記入されている。
やれ家をあと1分早く出れば事故で電車が止まる前に待ち合わせ場所へ行けただの、年賀状の印刷時にハガキを上下逆に印刷してしまっただの。
そんな愚痴の塊のようなノートを閉じると、彼はそれを破り捨てた。
少し白髪が混じり始めた頭をゴリゴリと掻き毟り、机の上に並ぶ細々した機械類を両手で薙ぎ払う。
取り返しのつかない状態になったそれらを顧みることもせず、彼は椅子の背もたれを軋ませ、「ああ……」と一言、絶望の声を漏らした。
子供のころからの夢、タイムマシンを作ると言うその大きな夢へ向かって、彼は人生の半分以上を費やしてきた。
その夢がかない、ついにタイムマシンの開発に成功した彼は、まず手始めに1986年、8月15日の夕方、彼がタイムマシンを作ろうと心に決めたあの事件の起こった場所へと向かったのだった。
神社の夏祭りへ向かう、少年だったころの自分が待つあの時、あの場所へ。
◇ ◇
唸りを上げるタイムマシンの中に居たはずの彼は、数十年前に暮らした懐かしい実家の風景を前に立ち尽くしていた。
腕に巻かれたリストバンドには「1986.08.15 JST16:00.15.000 残り時間:1時間01分11秒」の表示が淡いブルーで表示されている。
見慣れた家から少年だったころの自分が駆け出すのを見て、彼は慌てて後を追った。
この後1時間以内に、子供の彼は500円を無くす。
それを見つけて、注意するなり、拾って返すなりすれば、彼の人生の後悔が一つ消えるのだ。
自分が公園で遊ぶのも、友達を呼びに行くのも、彼は集中して監視を続ける。
そして16時57分、彼は子供のころの自分が神社へ向かう途中で、点滅する信号を渡ろうと駆け出した瞬間に500円玉を落とすのを見つけたのだった。
彼は駆け出し、しっかりと拾い上げた500円を握りしめて子供のころの自分を追う。
点滅が終わり、赤信号になった歩道で車に轢かれそうになりながらも、彼は何とかそれを自分に手渡すことが出来た。
「今度は無くさないように気を付けて。……境内ではチョロQが売ってたよ」
「うん! おじさん、ありがとう!」
大きく手を振って駆けてゆく自分を見送り、彼は大きく満足のため息をつく。
やがて夕暮れの空に流れる懐かしい「夕焼け小焼け」の町内放送を聞きながら、彼は自分の時代に戻った。
◇ ◇
こうして一つ一つ、彼は自らの後悔を夢中で正してゆく。
しかし、何度目かの時間旅行から戻った彼は、一つの疑問に突き当たった。
子供のころから書きとめていた彼の「後悔ノート」の内容に全く変化がないのだ。
彼は確かに子供のころの自分が無くした500円を拾って返してあげた。
それでも、ノートには相変わらず「おこづかいをなくした」と書いてある。
彼はもう一度、1986年8月15日へと向かい、少年の自分とタイムマシンで少年を監視しに来た自分を確認することにした。
しかし、彼の思惑とは違い、そこに監視しに来た自分は居ない。
彼は16時57分に信号で待ち伏せ、少年の自分が500円を落とすところを注意して、もう一度自分の後悔を正した。
◇ ◇
そして現在。
彼は破れたノートを前に絶望している。
彼の作ったタイムマシンは完璧だった。
彼は過去へ向かい、自らの過去を改変したのだ。
しかし、その改変の瞬間、彼の過去は現在へと続く「500円を無くした」世界と、別の現在へと続く「500円を無くさなかった」世界に分岐したのだ。
そもそも、彼は500円を無くした幼少時の記憶がなければ、タイムマシンを開発しようだなどと思いつきもしなかっただろう。
彼の過去改変により、500円を無くさず、チョロQを購入できた自分は確かに存在する。しかし、今タイムマシンを開発して過去を変えに行こうとしている彼の世界は、相変わらず500円を無くしたために、それを変えようとしてタイムマシンを開発した世界なのだ。
バレンタインチョコをちゃんと受け取った彼も、従姉妹のお姉さんと一緒にお風呂に入った彼も、ランチにカツカレーを食べることが出来た彼も、それらすべての後悔をモチベーションとして、タイムマシンの開発に半生を掛けてきた彼とは別の世界の彼なのだった。
◇ ◇
数時間もそうしていただろうか。彼は椅子から立ち上がり、今まさに自分が座っていた椅子を持ち上げる。
タイムマシンを作ると言う彼の生涯をかけた夢はかなった。
しかしそれによって、彼の本当の夢である、過去の自分の後悔を正すことは、絶対に実現できないと言うことも分かってしまった。
こんなタイムマシンは必要ない。
彼は何度も椅子をタイムマシンに向かって振りおろし、それを完膚なきまでに叩き潰した。
これからは、後悔の無いように、一日一日を精いっぱい生きようと心に誓って。
◇ ◇
……しかし僅か数分後の彼は、当然のようにタイムマシンを壊したことを心の底から大後悔している。
彼の後悔の多い人生は、まだまだ続くのだった。