80:神殿での教育
神殿の生活が始まってからアリアの生活は大きく変わった。
まず朝の礼拝だ。
アルスメリア神教の神殿及び教会では朝食の前と夕食の前に礼拝堂で女神アルスメリアに祈りを捧げるのだ。
正直、神教の考えを全く理解しようとしていないアリアにとってはただ目を瞑って手を合わせているだけの暇な時間だった。
午前と午後はひたすら神教に関する事と治癒魔法に関する教育だった。
魔法の教育に関してはアリアは非常に楽しかった。
しかし、神教に関する教育は苦痛だった。
ここでアリアの悪い癖が出てよく居眠りをしていた。
本人はつまらないが真面目に受けようとはしているので性質が悪かった。
これには教育を担当していたマードックも呆れて困り果てていた。
そしてこの日はいつもと教育を担当する人間が違っていた。
今日の担当はボーデンだった。
何故、ボーデンが担当しているかと言うと少しでも都合の良い考えを教える為だった。
「これから教育を始めるから宣誓書を開く様に」
アリアは偉い人が来たから起きていないと不味いと思い眠気を堪えながらボーデンの話を聞いていた。
ただアリアの耳にボーデンの言葉が徐々に届かなくなってくる。
気が付けばアリアは夢の中へと旅立っていた。
「あの……ボーデン枢機卿、少しよろしいでしょうか?」
ボーデンの説明の途中で声を掛けたのは侍女であるハンナだった。
アリアの授業中は基本的にハンナは部屋の隅で待機している。
「何だ貴様は?私の説明に口を挟むんじゃない」
ボーデンは獣人に自分の大事な話を遮られた事に苛立ちを覚えていた。
「いえ、アリア様が眠っておりますので起こしてから説明された方が良いと思いまして……」
ハンナはアリアを寝かせておいても良かったのだが、相手は枢機卿と位の高い人物だったので面倒ではあったが、声を掛けたのだ。
「ふん……貴様の様な汚らわしい存在に言われんでも分かっている。寝てないで起きなさい」
ボーデンはハンナに悪態を吐きアリアを起こそうとする。
しかし、体を揺さぶろうが起きる気配が無い。
「起きないな。おい貴様、どうやったらアリアは起きる?」
中々起きないアリアにハンナへ助けを求めるボーデン。
ハンナはアリアの元へ近づき耳元でボソッと呟いた。
「お尻叩き百回……」
アリアはガバッと起き上がり、左右を見回す。
「……何だマイリーンさんいないし」
アリアはマイリーンがいない事に安堵した。
しかし、ハンナとボーデンから向けられている視線に気が付いていなかった。
「アリア、人の授業中に寝るとは何事だ?」
アリアはボーデンの授業中だと言う事をすっかり忘れていたのだ。
「ごめんなさい!」
アリアは勢いよく頭を下げて謝る。
「全く……こっちだって貴重な時間を使っているのだ。そこは十分理解する事。ふぅ……何故、聖女に付く侍女が獣人如きなんだ……」
ボーデンは思わず小言が口から出たが最後の一言がアリアの耳に届いた。
アリアは自分を悪く言われる分には我慢出来た。
だが身内の悪口には我慢出来なかった。
しかし、ここで事を荒立てると余計迷惑が掛かると思い必死に我慢した。
「分かりました」
大人しく座り直したアリアにハンナは安堵した。
アリアがボーデンに食って掛かるのでは無いかと思ったのだ。
「それでは再開するぞ」
ボーデンは少し戻った部分から説明をし始める。
アリアは寝る事は無かったが、腹立たしさの余り授業の内容は全く頭に入っていなかった。
あれから定期的に授業がある度にボーデンのハンナに対する小言が続いた。
そのお陰で居眠りする事は無かったが、アリアのその度に腹立たしい思いをしていた。
ハンナからも気にしていないと言われ、我慢した。
とあるボーデンの授業の日、アリアは偶々アナスタシアに呼ばれて教皇の執務室へ行っており、ハンナを自室に残してきた。
そして授業の時間にに遅れそうになり、急いで自室へ戻り扉を開けると、ちょうどボーデンがハンナに平手打ちをするのを見てしまった。
アリアは頭に血がカッと上っていった。
我慢の限界を超えた瞬間だった。
「ハンナに何をしているの!?」
アリアの声にボーデンは思わず振り向く。
ハンナもしまった、と言う顔をでアリアを見た。
「何でハンナに暴力を振るっているの!?」
アリアはボーデンに詰め寄る。
「フン!獣人如きが人間である私の手を煩わせるからだ。この程度単なる教育に過ぎん」
ボーデンは何を言っているのか分からないと言った感じで言い放った。
「そんな事で人を殴って良い訳無い!!ハンナに謝って!!」
アリアの言葉にボーデンはこめかみをひくつかせる。
「何故、私が獣風情に頭を下げねばならんのだ。聖女とは言え聞き捨てならんな」
「ハンナは獣なんかじゃない!!」
アリアは激昂してボーデンに食って掛かる。
そしてアリアの大声は部屋の外まで響いており、余りの大声に他の人間も少しずつ集まってきていた。
「アリア様、私の事は良いのでお止め下さい!」
ハンナはこれ以上事態を悪化させまいとアリアを止めに掛かる。
「これは何事ですか!!」
そこへ割って入ったのはもう一人の枢機卿であるマイリアだった。
マイリアも偶然、アリアの大声を聞いて駆け付けて来たのだ。
「コイツがハンナを殴った!!」
アリアの物凄い形相にマイリアはどうやってこの場を収めたものかと考えた。
ボーデンの思想をよく知っているマイリアは何故、こうなったかは大体予想が出来ていた。
「私は極々普通に獣風情に躾を行っただけだ」
「ハンナは獣じゃないと何度言ったら分かるの!?」
ボーデンの言葉に反応してアリアが怒鳴り散らす。
アリアの部屋の前に大勢の人だかりが出来ていた。
マイリアは流石にこの状況は不味いと判断し、比較的落ち着いているボーデンをこの場から引き離す事にした。
「ボーデン枢機卿、一度席を外して頂けませんか?」
「何故、私が外さなければならん」
マイリアは面倒と思いながらもボーデンだけに聞こえる様にして言った。
「人が集まり過ぎてます。聖女と喧嘩していたなんて噂が広がると面倒でしょう」
マイリアの言葉にボーデンはアリアの部屋の外にたくさんの人間がいる事に気付く。
「フン、今日の授業は中止だ。私は執務があるので執務に戻る」
ボーデンが踵を返して去ろうとする。
「まだ終わってない!!このハゲじじい!!」
ハンナに押さえられながら叫ぶアリア。
ボーデンはそれを無視し、部屋を出て行く。
「アリア、落ち着きなさい」
マイリアがアリアを宥める。
「だってアイツ、ハンナさんを殴ったんだよ。まるでそれが当たり前にみたいに言うんだよ!!」
怒りが収まらないアリアはマイリアに怒鳴り散らす。
「アリア様、もうお止め下さい!!」
マイリアは近くにいた神官に指示し、集まってきた人間を解散させ、部屋の扉を閉める。
「アリア様、落ち着いて下さい」
ハンナは必死にアリアを椅子に座らせる。
アリアは肩で息をしながら怒りが収まらない様子でいる。
ハンナはマイリアの元へ駆け寄る。
「誠に申し訳ございません」
「いいえ、あなたは悪くないわ。でもかなり興奮しているから困ったわ」
マイリアは宥めようにも変な事を言えば火に油を注いでしまいそうな気がしたのだ。
「あの……今からやる事に目を瞑って頂けるならすぐに落ち着くと思います」
「そんな方法があるの?」
「はい。人前ではやりたくないのですが、周りに人がいなければ確実に」
「分かりました。多少の事は目を瞑ります」
「ありがとうございます」
ハンナはアリアの元へ駆け寄る。
「アリア様」
「何でハンナもあんな奴にやられて黙ってるの!?」
アリアの怒りは全く収まっていない。
マイリアは少し不安そうに見る。
ハンナは徐にアリアに背を向けて尻尾をアリアの顔に近づける。
「そんな事をしてもダメなんだからね!」
そう言いつつもアリアはハンナの尻尾が顔に当たるとその誘惑に負けそうになる。
「ハンナ聞いているの?」
アリアがトーンダウンしてきたのを見計らって尻尾を頬にポフポフすると徐々にアリアの表情が和らいでいく。
暫くするとアリアはハンナの尻尾に頬ずりを始めた。
その状態を確認するとハンナはOKサインを静かにマイリアへ送る。
「そんなに良いのかしら?」
マイリアは気持ち良さそうにハンナの尻尾を頬ずりするアリアが不思議だった。
「もしあれなら少し触ってみますか?」
「良いの?」
マイリアの記憶では獣人は親しい人間以外に尻尾や耳を触らせないと聞いていたからだ。
「はい。いつもアリア様に触られていますので……」
「じゃ、少しだけ……」
マイリアはそっとハンナの尻尾に触ると柔らかく豊かな毛並みが手を優しく包む感じがした。
「これは……良いわね……少し癖になりそうだわ」
マイリアはハンナの尻尾の触り心地の良さについアリアと同じ様に夢中になっていた。
「あの……マイリア様……」
「あ、ごめんなさい。私ったらつい触り心地が良くて」
マイリアは本来の目的を忘れそうになっていた。




