170:嘗ての師との邂逅
一方その頃、ハンナは一人だけでスラム街の一角に来ていた。
後処理の一部はマイリーンにお願いし、単独行動を取っていた。
スラム街は昨日の騒ぎの所為か人気が少なく通りに人が少ない。
普段であれば道端に何もする事無く座っている者や物乞い、ゴロツキ等がうろついているが、そう言う人種も少なかった。
ハンナがいる一角は憤怒を纏いし真紅の蠍が暴れた一角とは離れているので直接的な被害は無いが、精神的な不安は直ぐには晴れない。
いつもと違って静かなスラム街の一角を進むとハンナは一つの建物の前で足を止める。
そこはスラム街にある数少ない酒場だった。
スラム街と言う貧民街にある店の割りにはしっかりとした造りの店で、入り口には警備の者が立っている。
この酒場はスラム街を牛耳るマフィアが経営しており、闇取引等が行われる場所として有名だ。
過去、街の警備隊が事件の調査で何度もこの店に足を踏み入れているが、この店自体に不正等、直接的に事件に関わった証拠は見付かっていない。
そもそもこの店自体は普通の飲食店だ。
客が来たら酒と料理を振舞う。
特に料金をぼったくるなんて事も無い。
ただ利用するのが後ろめたい人間ばかりと言うだけだ。
ハンナは臆する事無く正面へ向かう。
警備の男は横を通り過ぎるハンナに軽く頭を下げ、入り口には身形の良い店員と思しき男が立っていた。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様でしょうか?」
この店は基本的に予約をしないと食事が出来ない。
その上、予約を取るのも何かしらマフィアと伝が無いと予約を取る事は出来ない。
「778654」
ハンナは六桁数字を言って一枚の札を男へ出した。
「待ち合わせのお客様で御座いましたか。それではご案内致します」
男は入り口の扉を開けて中へ入っていくのでハンナもそれに付いて行く。
この店を待ち合わせで使う時は事前に相手にこの店から発行される札を渡し、六桁の番号を伝えるのだ。
それらを店員が照合する事により案内の間違い等を防いでいるのだ。
店内は華美では無いが綺麗にされており、スラム街にある店とは思えない。
店内を暫く進むととある一室の前で店の男が足を止めた。
「こちらでご予約のお客様がお持ちで御座います」
そう良い店の男はドアをノックする。
「お客様、お連れのお客様が参りました」
『通せ』
店の男は静かに扉を開けてハンナを部屋の中へ促す。
「どうぞごゆっくりと」
ハンナは部屋へ入ると個室のテーブルに一人の男が座っていた。
見た目的には少し痩せ気味だが、それ以上に力強く鋭い眼光は異彩を放つ。
それが普通の者では無いと言う事だろう。
ハンナは相手に驚く事も無く無言で席に着く。
「やはりお前は驚かないのか?」
目の前の男は少し面白く無さそうに言った。
「まぁ、あなたが帝国に易々と帝国に捕まるとは思いません。寧ろ自分からそうなる様に仕向けた。または亡命、と言いましょうか、自分から高く売ったと考えましたが」
ハンナは相手の正体を知っている。
ハンナの言葉に男は表情を崩さない。
「流石は俺の弟子と言った所か。いつ俺が死んでいない事に気付いた?」
「割と最初からでしょうか?先程言った通りあなたがそう簡単に捕まる事は無いのに加えて、私の知っている者が誰一人いない事です。万が一、あなたが帝国に捕まって亡くなったしれば報復行動に出ると思います。少なくても昔の私ならそうしました。彼らが報復行動に出たとなれば帝国は未曾有の大惨事になります。そうなれば一介の冒険者でも噂で耳にしても良い筈です」
男は顎に手を置き頷く。
「お前がそう思っていたのは意外だったな」
「意外でも何でも無いでしょう?私達の実の父親の様な物なのですから。今の私はともかく彼らにとっては間違いなく父親だと思っていますよ」
男はハンナにとって育ての親と言える存在だった。
「そんなつもりは無かったのだがな」
男はそう思われたいと思ってハンナ達を引き取った訳では無い。
「それでもあのまま奴隷として売られるよりは良かったと思ってますよ」
「それは偶然だ。俺の気紛れだ」
「それでも私達はあなたに感謝しています。私は袂を分かった身ですが、あなたへの感謝は忘れた事はありません」
事実、ハンナは男が拾わなければ今頃、この様に自由に生きる事は出来なかっただろう。
「そうか……。久しぶりに会うが元気で何よりだ。別に俺達の事を話さなければ出て行っても構わなかった。お前達に暗殺業を教えてのは生きていく術を身に付けさせる為だ」
男は奴隷として連れられていく子供達を見捨てる事が出来なかった。
裏家業で生きている人間とは思えない程、子共には甘かった。
「あの伝説の暗殺者ゼルキンとあろう者がこんな甘い人物だとは誰も思わないでしょうね」
男は静粛の黒烏の首領であったゼルキンだった。
「そう言われると辛いな」
ゼルキンは少し自嘲気味に返す。
「それよりも私をここへ呼び出した理由は何でしょうか?」
ハンナは手紙をテーブルの上に置く。
これはハンナ宛に送られた静粛の黒烏の者しか分からない暗号で書かれた物だ。
「そう難しい話じゃない。本来ならアイツの始末は俺が着けるべきだった。そっちにちょっかいを出しているのは知っていたが先を越されたんじゃ立つ瀬も無いだろ?一応、礼ぐらいは言っておこうと思ってな」
「礼ですか……。別にそんな物は求めていませんが?」
「正直な所、俺達だとあの化け物には歯が立たなかったと言う事だ。アイツの暴走の所為で組織が割れたからな俺なりのケジメでもあったのだが……」
少なくともゼルキンは組織を離れたくて離れた訳では無かった。
「まぁ、アイツが俺を殺して離反するつもりと言う情報があったからそれを利用して自分の存在を消すつもりだった」
「信頼の置ける仲間を連れて帝国へと言う事ですか?」
「察しが良いな。その通りだ。ここからが俺の本題だ」
ゼルキンは真剣な面持ちでハンナへ向ける。
「お前達、まとめて帝国に来ないか?」
「それはリアーナ様を含めてと言う事でしょうか?」
「あぁ、そうだ」
ゼルキンはリアーナ達を勧誘する為に声を掛けたのだ。
「本来は私ではなくリアーナ様が答えるべき案件なのでしょうね……」
本来ならリアーナが答えるべき案件である。
今は絶対安静と言われているのでベッドから動けない状態だ。
「本人に直接持っていくよりお前を通しておいた方が話は早いだろう?」
ゼルキンは勝手知ったハンナを先に説得するつもりだった。
「そう言う事でしょうね。私に決定権が無い分かっていて話しをしてくるのですから」
ハンナは少し面倒な顔をする。
「良い待遇は保証しよう。当然、全員が一緒にいられる様に配慮するし、そちらにいる合成獣となった神官の女性についても配慮しよう。恐らく、虐殺姫は将軍職は固いだろう」
リアーナは帝国でも虐殺姫と言う名で知れ渡っている。
表裏関わらず強者として知られているのだ。
「聖女に関しても表舞台に出ない様にすると皇帝陛下から頂いている。悪くないだろう?」
「そうですね。目的はアリア様ですか?」
ハンナの言葉にゼルキンは僅かだが眉が反応する。
「流石に知っていたか?」
「えぇ、皇帝陛下はアリア様を皇妃に迎えたいとアナスタシア猊下に直接仰られたと聞きましたから。今のアリア様は聖女でも何でもありません。そんな輩をよく妃に迎えようと思いますね」
今のアリアは元聖女のただの冒険者でしかない。
神教では罪人として扱われる身だ。
「それなら問題無い。皇帝陛下は神教の者と距離を置いている。聖女の件が余程気に食わなかったのだろう。それ以前に奴らがこそこそしていたのもあるだろうが」
帝国では神教派が裏で色々と画策しており皇帝にとっては邪魔で仕方が無かった。
それに加えてアリアの事件だ。
皇帝自身はアリアが前教皇であるアナスタシアを殺害したとは微塵と思っておらず、間違いなく濡れ衣で謀略に嵌められたと考えていた。
皇帝がアリアを欲するのは単なる一目ぼれだったりする。
だからこそ諦められないのだ。
「帝国が神教と対立しても構わないと考えているのは意外でした」
「普通はそうだろうな。何せ親神教国家の代表だ。これは俺の個人的意見だが前教皇ならともかく現教皇は胡散臭すぎし、色々と叩けば出て来そうだ」
帝国も神教、特にボーデンに関してかなりの諜報員の人数を割いて調査をしている。
それだけボーデンは信用されていない。
「なるほど。それにしても私が素直に頷くと思っていましたか?」
「いいや、思わない。お前が素直に頷く様な奴なら声は掛けない」
「断ったらどうしますか?」
「どうもしない。帝国としては虐殺姫と争うつもりは無い。後々、お前達を敵に回したくないに変わるがな」
ゼルキンはアリア達の実力を直に確認している。
特にアリアについては要注意と考えていた。
リアーナが倒せなかった化け物を倒してしまった。
それだけでも脅威と捉えるには充分だった。
「私達も含めてですか?」
「そうだ。お前もそうだが、聖女アリアもそうだ。それに一緒にいた女の冒険者も普通とは思えん。戦力で言えば一万人分ぐらいはあると踏んでいる」
これはゼルキンの単なる予想にしか過ぎない。
実際にリアーナ一人で千人以上の部隊を壊滅させている。
ここにヒルデガルドが入っていないのは今回の戦闘に加わっていないからだ。
「それはいくら何でも買い被り過ぎでしょう。万軍に匹敵するなど有り得ないでしょう。私達はしがない冒険者です」
ハンナはゼルキンの言葉を否定する。
しかし、現実的にやろうと思えば不可能ではない。
リアーナの獄炎は対軍兵器と見るなら充分過ぎる威力を発揮する。
それに加えてアリアの心象魔法はその残虐な殺害方法で兵の士気を容易く下げてしまうだろう。
大軍が相手となればヒルデガルドも負けてはいない。
錬成によって生み出した剣、水や氷を使った大規模魔法での殲滅が可能なのだ。
ハンナとベリスティアは長けた隠密スキルと空間移動で的確に相手の指揮官を葬っていく。
後方支援がメインとなりそうなマイリーンだが、普通の兵士相手なら充分に脅威と言える力を発揮する。
事前に準備が出来ればハンタータームの大群を相手に差し向ける事が出来るのだ。
「既に他の国にもお前達の存在は知れ渡るだろうな。万軍とは言わずとも一騎当千と名高い虐殺姫を囲いたいと思う国は多いだろう」
実際にファルネットの上層部の一部はリアーナを取り込みたいと考えている者も少なくない。
「残念ながらもし何処かの国に収まるならばカーネラルでしょう。別に母国が嫌で出て行った訳では無いので。それに王家に伝がありますので」
リアーナもアリアもカーネラル王国が嫌で出奔している訳では無い。
リアーナは冤罪が晴れれば戻る事も選択の一つに入れている。
国に仕えるかはまた別の話だが。
「全く靡く気配する無いな」
ゼルキンは惜しい様な素振りを見せずに言った。
「帝国に行く選択肢はありません。この話はだけなら私は帰らせてもらいます」
「まぁ、勧誘失敗ならそれで良いさ。飯でも食べていったらどうだ?」
「いいえ、お断りします。用事の途中で抜け出してきたので帰らないと面倒です」
ハンナはそう言って席を立つ。
「それでは失礼します」
ハンナは静かに部屋から出て行く。
ゼルキンは椅子に深くもたれながら溜息を吐いた。
暗殺者から帝国諜報部に鞍替えした男は何とも言えない表情で呟く。
「昔の弟子とは言え、立派になった物だな。さて上には何て報告しようか」
ゼルキンは考えを巡らせながら現在の状況を考察する。
神教、アリア達、カーネラル王国、更に裏に隠れた存在。
それらがどの様に絡んでいるのか調査する必要があると判断する。
「奴が接触した人物を探すか……」
ゼルキンはラースがどうやってあんな化け物を準備したのかが気になっていたのだ。
その線を辿れば裏にいる存在に辿り着けるのでは無いかと。
事件は終わった様で終わっていない。




