166:復活のリアーナ
マイリーンとガルドが大通りへ向かっている頃、ハンナはリアーナの戦っている場所へ向けて全力疾走していた。
街は突然の魔物の出現に混乱していた。
ただこの混乱もギルドが積極的に誘導し始めた為、沈静化までは行かないが、混乱一定方向に誘導する事によって無秩序にならなかった。
そんな住民が逃げる方向とは逆方向にハンナは駆ける。
リアーナが負けるとは考えられなかったが、それでも嫌な予感は止まらない。
『状況は?』
ハンナはバジールに問い掛ける。
『戦闘は続いている感じだねぇ。やっぱおかしい。アスモフィリスが出ない状況は普通じゃない』
バジールは明らかにアスモフィリスが出ない状況に焦りを感じていた。
バジールとアスモフィリスは同じ悪魔でも仲間同士では無い。
言うなれば違う派閥に属する者と言った方が良いかもしれない。
属する所が違えどアスモフィリスの名前はよく知っている。
主であるカタストロフと対等に渡り合える数少ない悪魔の実力者。
彼女の所業は悪魔の中でも非常に有名でバジールは幾度も無く耳にしてきた。
リアーナ邸に行く時もアスモフィリスで無ければ付いて行く事は無かっただろう。
そんな彼女が念話に出る事が出来ない事態と言うのは普通には考えられなかった。
契約者であるリアーナも人を明らかに超えた力を持っている。
バジールから見てもリアーナは化け物と呼ぶに相応しい実力の持ち主だ。
その二人が手をこまねく事態になっていると言うのは焦るには十分の理由である。
バジールはアスモフィリスとリアーナの事は余りに心配していない。
一番大事なのは主の契約者で次を悪魔王を担うアリアが最も心配だった。
そして万が一、リアーナが倒れた時、アリアが耐えられるのか不安だった。
アリアの為にもリアーナが倒れてもらっては困るのだ。
アリアを絶対に守ると言う一点に於いてバジールとハンナは協力している。
だからこそバジールの焦りはダイレクトにハンナに伝わる。
『それ程切羽詰った状況ですか?』
『はっきり言って分からないねぇ。でも絶対にヤバい感じしかしない』
ここまではっきり断言するバジールにハンナも予断ならぬ状況だと判断する。
走り続けて漸くスラムの入り口に着く頃、バジールが異変を察知した。
『大変だ!リアーナの魔力が小さくなっていく!!』
普段の特徴のある女性っぽい独特な口癖から完全に男っぽい口調で言うバジール。
『何が起こったのですか!?』
バジールの声に思わず声を荒げるハンナ。
『分からない……戦闘中に魔力が小さくなるのはもしかしたら……』
バジールの言葉にハンナは最悪の想像をした。
その思考を遮る様に轟音が当たりに響き渡る。
『一体、何が!?』
『今のはアリア様の魔力だ!?でもこの魔力は……』
バジールは明らかに先程とは違う魔力が吹き荒れたのを感じ取った。
それがアリアの魔力である事は一目瞭然だった。
あらゆる物を破壊するその魔力はとてもよく知っているからだ。
ただそれ以上に違和感を感じ取っていた。
『これは……怒り、憎悪……負の感情があふれ出している!?』
魔力に込められた感情の凄まじさに戦慄するバジール。
感情を魔力に乗せる事は可能だが、周囲に感じ取れる程となれば話は別である。
ハンナもこの魔力を感じ取っており、緊急を要すると判断した。
『走っていては間に合わないかもしれません。あそこと入れ替えられますか?』
ハンナはバジールに轟音の中心近くにある空の一角を指した。
交換は対象の指定した物を入れ替える能力で空間を入れ替える事も可能だ。
この能力は明確に入れ替える物をイメージしないと出来ない。
遠くの空間と入れ替えるにしてもそこに何があるか把握していないと出来ないのだ。
一見、便利に見えるこの能力だが意外と扱うのが難しいのである。
『かなり厳しいねぇ。かなり魔力を使っても良いなら出来るねぇ……。ちょっと待って』
バジールが待ったを掛けた。
カタストロフからの念話だった。
内容を聞いてバジールは冷や汗が流れた。
『状況は一刻を争う事態になっているねぇ。リアーナは瀕死、アリア様は暴走状態みたいだねぇ』
バジールの言葉にハンナは真っ青になる。
思っている以上に危険な状態だった。
『今直ぐ発動します。サポートして下さい』
『分かった』
ハンナの要請にバジールは了承する。
バジールは距離的にはギリギリだった。
それでも無理をすれば何とかと言う所だろう。
普段ならやらないが、、切羽詰ったこの状況では背に腹は代えられない。
「交換」
ハンナは無理でないと言ったバジールを信じて遥か前方の上空の空間と自分の体を入れ替える。
バジールは全力で能力を制御する。
ハンナは空中に放り出されても大丈夫な様に浮遊の魔法である飛翔の発動の準備もしていた。
いくらハンナとは言えかなりの高さから落ちれば無事では済まない。
「飛翔」
ハンナは目標の空間と入れ替わった瞬間、魔法を発動させてゆっくりと降下する。
眼下を確認するとアリアが破壊の魔力を撒き散らしながら化け物を蹂躙していた。
アリアと相対する化け物は既に虫の息だ。
倒されるのは時間の問題だろう。
それ以上に暴走するアリアをどうやって止めるかが一番の問題だ。
ハンナはアリアから少し離れた所に倒れている人影が目に映る。
「リアーナ様!?」
血塗れで倒れ臥すリアーナに思わすを声を上げる。
ハンナはアリアを止めるよりリアーナの方を優先した。
リアーナの近くに着地してリアーナの容態を確認する。
夥しい出血は見るだけで分かる。
幸い呼吸はしているが呼吸音がおかしい。
もしかしたら折れた肋骨が肺に刺さっている可能性も考えられた。
「かなり重症ですね……。確かあれが少しあった筈……」
ハンナはカバンの中を探す。
取り出したのは一本の小さな瓶だった。
これはポーションと呼ばれる魔法薬の一つで病気には効かないが怪我には覿面に効果がある物だ。
幾つかの薬草を調合して煮出した薬液に純度の高い魔石の粉末を溶かし作られる。
その原材料、効能によって等級分けされている。
上からロイヤル、エクストラ、プライム、ファインとなっており、一般的に流通しているのはファインで価格も比較的抑えられている。
ポーションの利点はその即効性だ。
飲む、または体に振り掛けるだけで効果が表われる。
治癒魔法が使えない物にとっては非常に有用な物なのだ。
ハンナが取り出したポーションの等級はロイヤルだ。
重症でさえ一瞬で回復してしまう最高級のポーションだ。
これを一本買うだけで白金貨十枚は飛んでいく。
リアーナは貯めてあったお金の半分をこのロイヤルのポーションの購入に充てていた。
万が一の事態を考えての事だ。
それでも購入出来たのは三本だけだ。
ハンナはリアーナを仰向けにして蓋を開けた瓶を無理矢理喉の奥まで突っ込み、強引にポーションを飲ませる。
飲ませた後は咳き込んで吐き出さない様に口を強く抑える。
意識の無いリアーナだが咳き込む事は無く、ポーションを飲み込む。
その瞬間、リアーナの体が淡い緑色の光に包まれ、傷を瞬時に癒していく。
ロイヤルともなれば重症でも一瞬で治してしまう効果があるのだ。
それだけに貴重で値段も張る。
このポーション一つで命が助かると思えば安い買い物だ。
ポーションが傷を癒すとリアーナは意識を取り戻す。
「私は……」
リアーナは目の前に心配げに覗き込むハンナの顔が目に入る。
そして直ぐにアリアの戦っている轟音を耳にする。
「状況を教えてくれ」
リアーナはゆっくり体を起こし、ハンナは問い掛ける。
「ここにいる怪物はアリア様が戦っておられますが。しかし……」
リアーナは戦っているアリアの姿を目にし、ハンナが言い淀んだ理由を察した。
「アリアは暴走しているんだな……」
リアーナはアリアが暴走している原因に心当たりがあった。
半分は己の所為だと言う事も理解していた。
アリアがラースの憎悪と怒りに触れた事。
それに加えてタイミング悪くリアーナが倒れた所を目撃してしまった事だ。
リアーナは体に鞭を打ち立ち上がる。
だがその足取りは重く、立つのやっとの状況だった。
ポーションは傷を癒すが疲労や魔力までは回復してくれない。
更にポーションは怪我を治す代わりに体力を持っていく。
ロイヤルのポーションを使って治療を行えば体は疲労困憊状態になってしまう。
便利だが、副作用もあるのだ。
「リ、リアーナ様!?」
ふらつくリアーナをハンナが支える。
「大丈夫……とは言い難いか……。歩くのもままならんとは情けない話だ……。命があっただけマシかもしれんが……」
自嘲気味に呟くリアーナ。
実際に今回の戦いはアリアが間に合わなければ確実に命を落としていた。
今ここでリアーナの使命は暴走するアリアを止める事。
だがそれは非常に危険極まりない事だ。
アリアは暴走した状態の為、周囲に自身の持つ破壊の魔力を撒き散らしている。
それが建物に触れれば一瞬で塵と化してしまう程、強力な物だ。
この状況下でリアーナがいる場所からアリアには声が届かない。
死の領域まで足を踏み入れなければならない。
「ハンナ、ここからは私一人で行く」
「リアーナ様、無茶です!?足下する覚束ないのに!」
リアーナはハンナの肩を借りて立っているだけで精一杯の状態だ。
そんな状態でアリアの元へ辿り着くのは無理がある。
『やぁ、漸く起きたかい?』
リアーナの頭に直接、カタストロフの声が響いた。
『この声はカタストロフか?』
『あれ?アスモフィリスじゃなくてリアーナ?』
カタストロフはリアーナが起きてきた事を確認して念話でアスモフィリスに声を掛けたが何故かリアーナが返答している事に首をかしげた。
『ちょっとややこしい事になっている。それよりもアリアの状態は?』
リアーナは自分の状態が正常では無いのは理解していた。
ハンナもカタストロフもこの状況で無ければリアーナの異変に気が付いていただろう。
『そっちが先だね。アリアの心が壊れない様に負の感情を上手く外に流しているけど、そろそろ限界かも』
カタストロフは湧き出る負の感情をアリアから放たれる魔力に乗せて放出していた。
これによってアリアの心が負の感情に汚染されない様にしていた。
とは言っても影響が無い訳では無い。
止め処なく溢れ出る負の感情は確実にアリアの心を壊している。
飽く迄その進行を遅くしているだけなのだ。
『君の通る道は僕が何とか作るよ。でもあんまり長く保てないから早く止めてくれると嬉しいかな』
『分かった。恩に着る』
リアーナはカタストロフに礼を述べて全身に力を入れて体を預けているハンナから離れる。
「すまんが、私一人で行く」
ハンナは既に死に体である体を無理矢理動かしてでもアリアを止めようとするリアーナを止める事は出来なかった。
憤怒を纏いし真紅の蠍は目の前の少女による攻撃に成す術が無かった。
自慢の再生能力も破壊の魔力を帯びた攻撃により再生の力その物が破壊され、傷を癒す事は無い。
不幸な事に憤怒を纏いし真紅の蠍の持つ憎悪と怒りが少女の憎悪と怒りを触発させてしまった事だろう。
仲間に囲まれて心の隅に少し静まっていた憎悪と言う名の仄暗い炎は一気に爆発するかの様に少女の心に燃え広がった。
それは木々が生い茂る山が燃える山火事の様に。
少女の憎悪と怒りは内に留まる事を知らず、彼女の魔力に乗り憤怒を纏いし真紅の蠍にも伝わる。
嘗てラース・ベッカーと言う男が持っていた憎悪と怒りより大きく、荒い感情の波だ。
既にまともな思考回路が存在しない憤怒を纏いし真紅の蠍だが、その感情に思わず怯んだ。
本能的な物だろう。
圧倒的な力を以って一方的に蹂躙される。
嘗て聖女と呼ばれた少女は破壊の権化として君臨する。
彼女の憎悪と怒りは全てを破壊する。
振るう剣は止め処ない再生能力のある憤怒を纏いし真紅の蠍の体を壊し、その余波は周囲の建物も破壊していく。
アリアはただ目の前の相手に感情をぶつけていた。
大切な者を奪おうとした相手が憎い。
そこから湧き出る怒り。
一度、溢れ出た感情はアリア自身で抑える事は出来なかった。
感情に任せて力を振り回す。
気が付けば憤怒を纏いし真紅の蠍の体は跡形も無く消えていた。
アリアの理不尽とも言える絶対的な破壊の力により死体すら残らなかった。
目の前の怨敵が消えたアリアは崩れる様に膝を着き、顔を手で覆う。
手の隙間から何かが毀れた。
アリアは慟哭した。
何よりも大切な母であるリアーナを殺されてしまった。
その事にアリアの心は耐え切れなかった。
リアーナは死んでないのだが、血塗れで力無く倒れる姿はアリアにそう思わせてしまったのだ。
内側からカタストロフが必死に語りかけるが、アリアの耳には届かない。
怨敵を倒したにも関わらず溢れ出す怒りと憎悪。
最初は怨敵にその感情は向いていた。
だがその怨敵がいなくなった事で次は守れなかった自分へと矛先を向けた。
大切な人を守れなかった自分自身が許せないと。
そこで考えるのは何故、リアーナがこんな目に合うのか、だった。
アリアはそれが自分の所為だと思ってしまった。
普段は前向きなアリアだが、沈んだ心はただただ負の方向へ感情が傾き、それは坂を転がる玉の様に。
その感情は止まる事が出来なくなっていた。
大きな負の感情にアリアは呑まれていく。
流石のカタストロフでもどうする事も出来なかった。
今までは怨敵だけに向かっていた負の感情があらゆる方向へと向き始めたのだ。
戦闘が終わってしまった事により、感情を逃がす事も出来なくなった。
既に壊れかけのアリアの心には致命的な状態で、アリアと言う小さな器から負の感情が溢れ出るのは時間の問題だった。
アリアはリアーナのいない世界なんていらないと思ってしまった。
こんな理不尽な世界なんていらない、と。
アリアの感情が世界へ牙を剥く。
自らを通り越して世界を憎悪した。
自分の境遇もだが、何よりも自分の大切な者を奪う世界が憎い。
負の感情によってオーバーフローした破壊の力は世界に甚大な被害を齎す。
それだけの力がアリアにはあった。
脳裏に過ぎるのは屋敷で過ごしたリアーナとの思い出だった。
身寄りの無い孤児である自分を引き取り、母親となってくれた人。
二度と見れないと思うと何もかもどうでも良かった。
溢れ出る感情を解き放とうとした瞬間だった。
アリアの背中に優しく温かい温もりを感じた。
それは奈落へ落ちていく感情を優しく包み込み慈しむ様な何処か懐かしさがあった。
その感触は現実だった。
アリアは何者かに背中から優しく抱き締められていた。
抱擁から感じる温もりはアリアはよく知っている。
アリアはゆっくりと後ろを振り返る。
そこにはボロボロながらもいつも以上に優しい表情のリアーナの姿があった。
「……おかあ……さん……」
リアーナを目にすると負の感情は急激に勢いを失う。
それ以上にリアーナが死んでなかった事に対する喜びが溢れ出た。
「大丈夫だ……心配掛けたな……」
心配掛けた事を謝るリアーナだが、アリアにとってそんな事はどうでも良かった。
リアーナが生きている。
ただそれが嬉しいのだ。
リアーナはアリアの頭を優しく撫でる。
アリアは安堵から嗚咽を漏らす。
アリアの心を見守っていたカタストロフもアリアの心が落ち着いて安堵の息を漏らす。
リアーナはカタストロフに導かれて満身創痍の体を引き摺り、憤怒を纏いし真紅の蠍を倒し、一人慟哭するアリアを見つけた。
悲しみに覆われたその背中はとてもでは無いが見ていられなかった。
リアーナは自然とアリアに歩み寄り背中から優しく抱き締めた。
だがこれはアリアが戦闘が終わり、一人慟哭していたから可能だった。
戦闘中は周囲に破壊の魔力を撒き散らして近付く事は出来ない。
負の感情を解き放ってしまえば近付く所か全てを破壊してしまう。
魔力が残っているリアーナであれば力づくで何とか出来たかもしれない。
今のリアーナは魔力は底を尽き、歩くもやっとな満身創痍の状態。
そんな体ではどうすることも出来ない。
決壊、破裂寸前の状態だからこそ難なく近付く事が出来たのだ。
リアーナはアリアが泣き疲れて眠るまでその場で抱き締め続けた。




