99:汚泥に沈みし心に宿る憎悪の炎
時は少し遡り、アリアが深淵の寝床に閉じ込められてから一週間が経った頃、アリアは飢えと渇きの苦しみと格闘していた。
ここは深淵の寝床の封印の中。
基本的に悪魔を封印する時以外は誰も来る事が無い。
当然食事、水等を持って来る人間は誰もいない。
つまりアリアはここで朽ち果てるしか無かった。
普通であれば。
だがアリアの体がそれを許さなかった。
体が傷が付けば勝手に癒し、臓器が弱れば自然とそれを癒す。
その為、何も口にしていないにも関わらず綺麗な体のままだった。
普通であれば痩せこけてしまう筈なのに体は変わらない体型を維持していた。
それはアリアの体が持つ自己治癒の能力の一つだった。
体に必要な栄養を魔力で自然と補っていたのだ。
そして深淵の寝床は封印された悪魔から漏れ出る濃密な魔力で満ちている為、周囲の魔力を取り込み魔力が栄養に変わった分が直ぐに補給される。
そんな自己治癒に優れたアリアの体がアリア自身を苦しみに陥れていた。
いくら魔力で栄養を補うと言ってもそれで空腹と渇きが満たされる訳では無い。
アリアは自分の体によって永遠に続く拷問を受ける羽目になってしまっていた。
どんなに体が癒えても痛みが消える事は無い。
仄暗い部屋で横たわりながら体を丸めて必死に痛みと格闘する。
喉は水分が無い為、呼吸をする度に痛みが走り、血が出始めると癒える。
胃は収縮しきって胃酸で自らを焼き、傷が酷くなれば癒える。
そんな無限地獄でただただ床に這い蹲るアリア。
ここに来た初めの頃はリアーナやハンナ、マイリーン等の楽しい思い出を振り返る事が多かった。
またそんな日々に戻りたいと言う願いを込めながら。
しかし、頭の中で考える事が徐々に怨嗟の声へと変わっていく。
始めは自問自答だった。
アリアは身に疚しい事は無かった。
アナスタシアは表向きは厳しいが、二人の時は非常に優しく、まるで孫の様に接してくれた。
そんなアナスタシアを殺す理由なんて無い。
何故、そんな有り得ない罪でこんな苦しみを受けなければいけないのか。
悪い事をしていないのに何故、苦しめられなければいけないのか、自分の何が間違いだったのか、そんな自らを責める言葉が浮かんだ。
だが自分に向いていたその悲嘆は自らを貶めた者達へと向かっていく。
サリーンの事が頭に過ぎる。
孤児院にいた時から自分の姉の様な存在だと思っていた。
そんな彼女が突如、アリアを殺人犯に仕立て上げた。
やってない事は分かっている筈なのにアリアを指して如何にもアナスタシアを殺したかの様に言った。
その言葉にアリアは信じられない思いだった。
長年、姉と慕ってきていた人物に裏切られたのだから。
サリーンの笑顔が全て欺瞞に満ちた物に見えてくる。
あれは全て嘘だったのかと。
アリアの中のサリーンとの思い出は赤黒く塗り潰されていく。
懐かしい風景の筈がただただ黒い感情によって塗り替えられていく。
そこに湧く感情は憎悪その物。
それは汚泥の様にアリアの心の底に堆積していく。
自らに苦しみを与えた人物。
アリアは無くなった右目が熱くなるのを感じる。
その人物の顔を思い出すだけで痛みが、その光景が甦る。
第四騎士隊の副隊長であるマルクスと言う男。
アリアの自己治癒の能力に気付き、面白半分でアリアの目を抉り取った。
そして、一番の元凶とも言える人物、ボーデン・カナリス。
最初から良い印象は抱いていなかった。
侍女であるハンナを獣人と言うだけで蔑み、目の敵の様に扱っていた。
仕返しに悪戯を何回もした。
一度は謝って仲直りをした。
それからは表面上は何も無かった。
だがボーデンがアナスタシアと同じ考えを持つアリアを快く思っていないのは知っていた。
投獄された時、真っ先に疑ったのはボーデンだった。
実際に閉じ込められた時に見たボーデンの顔は忘れられない。
あの人を見下す様な眼は。
そんな事をずっと考える内に心の中の汚泥はヘドロの様にこべりついて心を黒く覆い尽くす。
アリアはこの暗い地の底で二週間が経つと動く事も間々ならなかった。
憎悪で燃やしていた炎も弱弱しくなっていた。
苦しみから開放されない絶望に精神は侵食されていた。
痛みを憎悪に変えていたが、その気力も失いつつあった。
この地の底では時間がどれだけ経ったか全く分からない。
その為、時間が無限の様に長く感じてしまう。
それがアリアの心に巣食う絶望を大きくしていく。
一ヶ月が経つ頃にはアリアは身動き一つ取らなかった。
死んでいる訳では無い。
息もあるし、心臓も動いている。
だがそれだけだ。
アリアは精神自体が疲弊し、生きる屍と化していた。
燃やしていた憎悪の炎も消えてしまい、絶望に囚われ放棄してしまった。
そんな全てを諦めたかの様なアリアの眼が動いた。
視界に捕らえたのは人の足だった。
封印の中に人はアリアしかいない。
とうとう、幻が見え始めたのかと思った。
そして視線を地に落とす。
「君はここで何しているの?」
若い男の声だった。
幻聴が聞こえたと思った。
ここは誰もいない場所なのだ。
「反応が無いな」
その男は屈んでアリアの顔を覗く。
アリアは視界に入ってきた男の顔を見て綺麗だと思った。
その面立ちは見麗しいと言うに相応しく、癖のある黒い髪は何処かやんちゃさが少し窺える感じもする。
「……だ……れ……?」
目の前の男が幻では無いのではないかと思ったアリアは掠れた喉から声を紡ぐ。
「意識がある様で良かったよ。ここに封印されているらしい悪魔の一人さ」
悪魔と名乗った男は少し安堵の表情を浮かべた。
「……たべ……る……の……?」
アリアは腹を空かせた悪魔が自分を食べに来たのだと思った。
一般的に悪魔は人の魂を食らって生きるとされている。
でもこの苦しみが続くのなら食べられても良いと考えた。
「君の魂はちょっとご遠慮願いたいかな。君は人間なのに何でここにいるの?」
アリアはどう答えた物かと思った。
喉が掠れて声を出すのが辛かった。
だが久しぶりに誰かと話せるのにそれを無視する事が出来なかった。
「……ちょっと……待……て……」
アリアは痛む喉を振り絞り声を出すと手を喉に突っ込んだ。
そして伸びた爪で喉を内側から掻き毟った。
傷付けられた喉は出血し、アリアは思わず咳き込み血を吐き出す。
「ゴホッゴホッ……」
床には血が滴り、口の中は鉄臭い匂いと血の味で満たされる。
その様子を悪魔は静かに見つめる。
アリアは魔力を体に巡らせる。
徐々に喉が治癒されていく。
隷属の首輪は外への魔力干渉を封じる事により魔法を使えなくしている為、アリアの様な自分の体内にある魔力による能力には干渉されない。
なので体内の魔力を上手く巡らせれば効果を早く発動させる事が出来た。
喉が治癒されていく事に掠れも取れていく。
あー、あー、と声を試しに出して壁にもたれ掛かり悪魔を見る。
「……お待たせ」
自分の血で潤い喉を満たし、綺麗な声を出す。
血の気持ち悪さはあるが、不便は無い。
「中々、大胆な事をするね」
悪魔は少し呆れた口調で言った。
「……こうした方が早いから……」
普通はこの方法を行う必要性は全く無い。
ただ一番手っ取り早いだけだ。
「……ここに閉じ込められた理由?大して面白い話じゃないよ―――」
アリアはゆっくりと自分の身に起きた事を悪魔に話始めた。
一ヶ月ぶりの会話の所為かいつに無く饒舌に語った。
最初は淡々と話していたが、徐々に感情が篭っていく。
消えていた炎が燻り始める。
粗方、話を終えると悪魔は面白い物を聞いたと言わんばかりに口角が釣り上がる。
「君は彼らに復讐したくはない?」
アリアは復讐と言う言葉に眉が動いた。
非常に甘い囁きだった。
燻っていた憎悪の炎が再び燃え始める。
心の中で復讐と言う言葉を何度も反芻する。
その度に憎悪の炎は勢いを増す。
「それが可能だとしたら君は彼らをどうしたい?」
悪魔の声は抗い難い程、蠱惑的で魅力的だった。
復讐が出来るなら―――その言葉にアリアの心に溜まった汚泥が暗い憎悪の炎に流れ込み、一層激しく燃え上がった。
「……ただ殺すなんて生温い……地獄へ叩き落してやりたい……」
ここへ陥れた者達への明確な殺意が湧き上がった。
「もし君がそれを望むなら僕がそれを叶える事が出来る」
目の前の悪魔の言葉にアリアは耳を傾ける。
アリアは既に自分の黒い感情を抑えきれなくなってきた。
自分が味わった苦しみを相手にも味わせてやりたかった。
その苦悶に満ちる表情にどれだけ癒されるか心が躍った。
復讐を考えただけで憎悪の炎が自らを猛らせる。
悪魔はアリアへ目的の言葉を紡いだ。
「僕と契約しないかい?」




