91:ヴェニスから王都へ
ハンナはヴェニスを発つべく馬車屋へ向かった。
馬車屋へ行くと言っても馬車を借りる訳では無い。
馬車屋でスレイプニールを借りる為だ。
スレイプニールなら王都まで行くのに一番早く着くからだ。
金額は高くつくが背に腹は代えられない。
因みに借りた馬やスレイプニールは王都の同じ店に持って行けば返却が可能な為、非常に便利になっている。
国を跨ぐ場合は提携の馬車屋であれば返却が可能だ。
借りる際に行き先の街に返却出来る商会があるかは必ず確認する必要がある。
ハンナは馬車屋へ入るとカウンターの店員に声を掛ける。
「すみません。王都まで行くのにスレイプニールを一頭お借りしたいのですが」
「スレイプニールですか?基本料金が金貨五枚で保証料金が金貨二十枚で金貨二十五枚になりますが、よろしいですか?」
馬を借りる時は必ず保証料金が取られる。
これは馬の盗難防止の意味合いで借りる時に一時的に払うが、返却時には返ってくる。
スレイプニールは温厚とは言えBランクの魔物なので万が一、盗難となれば損失が大きい。
その為、金額も馬に比べると遥かに高い。
普通の馬であれば基本料金が銀貨十枚で保証料金が銀貨四十枚で借りる事が出来る。
馬車屋では馬やスレイプニール以外にも馬を大型にしたビッグホースと言う魔物だったり、砂漠では馬が適さない為、駱駝やデザートドレイクと言う砂漠に生息する大型の蜥蜴の魔物を扱っていたりする。
「はい」
ハンナは懐から金貨二十五枚を取り出す。
リアーナからいざと言う時の為に渡されていた予備資金だ。
「金貨二十五枚ですね。保証料金は返却時にこちらの札を店頭で渡して頂ければ返却されますので、紛失しない様に気を付けて下さい。二週間以上になる場合は道中の系列店で延長料金を頂く形になりますのでご了承下さい」
ハンナは札を受け取り懐へ仕舞う。
店員に案内されスレイプニールのいる厩舎へと向かう。
「こちらのスレイプニールでよろしいでしょうか?」
「はい」
ハンナは特にどれが良いとかこだわりが無いので店員に薦められたスレイプニールにした。
店員はスレイプニールを厩舎から出して、鞍等の馬具を取り付けていく。
「それでは良い旅を」
ハンナはスレイプニールに跨り手綱を取りゆっくり歩かせる。
「ありがとうございます」
馬車屋の店員に礼を言って街を進む。
ハンナは屋敷にいる時に馬の扱い方を教わっていて良かったと思った。
リアーナの指示で屋敷の使用人で馬を管理するトムから馬の扱い方を教わっていたのだ。
スレイプニールは扱った事は無かったが、基本的に馬と同じと聞いていた為、問題は無かった。
街を抜けると徐々にスレイピニールの走るスピードを上げていく。
スレイプニールは馬の倍以上の速さが出る。
ハンナのその速さに驚きつつも今は早く王都へ向かう為、必死に手綱を握りスレイプニールを制御する。
通常であれば王都ドルナードへ向かう時は主要街道を行くネッタ経由で行くのが一般的だ。
今回は緊急、且つ昼夜問わず走るつもりの為、裏街道を通る。
こちらのルートはある程度、道は整備されているが、道中に大きな街は無く、小さな集落ばかりで宿が無いので余り好んで使われていない。
ヴェニスから王都ドルナードへ向かうには最短のルートなので早馬を走らせたりする時にはよく使われる道なのだ。
馬車で王都ドルナードまでは二週間掛かる道程ではあるが、スレイプニール且つ、昼夜問わず走り続ければ三日あれば着く事が可能だ。
スレイプニールは馬とは違い、遥かに高い体力を持っており連続走行一週間を可能としており、ハンナ自身、三日ぐらいは無理をすれば何とかなった。
ハンナはアリアの事を思いながら三日三晩、必死にスレイプニールを走らせ続けた。
王都へ入るといつも通りの街並みが広がる。
真っ直ぐにリアーナの屋敷へと向かう。
ハンナはスレイプニールから下り、被っているフードを取って門の前にいる警備の者に声を掛ける。
「アリア様付きの侍女のハンナです。急いでご報告に上がりたい事があり、リアーナ様かベルナール様に取り次いで頂けないでしょうか?」
警備の者もハンナをよく知っているので直ぐに屋敷へと向かう。
暫くするとベルナールが屋敷から走って出てきた。
「ハンナ、どうしたのだ?」
警備の者からハンナが単独で、それもスレイプニールを走らせてきた事を聞いて急いで出てきたのだ。
アリア付きのハンナがそうして屋敷に来る事は普通では考えられないからだ。
「ベルナール様、ここではあれなので中でもよろしいでしょうか?」
「あぁ、構わん。こっちだ」
ベルナールはハンナの言葉を察し、防音の効いた一階の応接室へと向かう。
「何があったのだ?」
「アリア様が教皇猊下殺害の罪で囚われの身となりました」
「何だと!?」
ベルナールは余りの事に驚愕する。
「正直、向こうで捕まる前に私も逃げてきたので、私も詳細な状況は分かりません。ですがアリア様が教皇猊下とはとても仲が良くその様な事をなさる筈がありません。私を外は逃がす様に手引きしてくれた神官もアリア様は冤罪で嵌められた可能性が高いと仰っていました」
ベルナールは状況から何となく読み取った。
神教の派閥争いに巻き込まれた結果では無いかと。
事前にリアーナから神教内の派閥の状況を調べる様に命令されていた事があるので、その状況から予想が出来た。
「ベルナール様、リアーナ様はいらっしゃらないのですか?」
既に日が落ちている為、屋敷には帰ってきている筈なのだ。
ベルナールの表情が僅かに浮かない表情をしているのに気が付いた。
「何かあったのですか?」
「王宮からリアーナ様を一日、拘禁するとの連絡を受けたのだ。理由は聞いても聞かされていないの一点張りだったが何となく読めてきた」
ベルナールはハンナと報告と王宮でのリアーナの拘禁で何があったのか予想出来た。
「王宮と神殿は確か緊急時に備えて遠隔通信が出来る魔道具が設置されていた筈だ。もしかしたら、リアーナ様はアリア様の事を耳にしたのではないかと思う」
ハンナはリアーナがこの事を聞いた時の反応を想像すると背筋に寒気が走った。
「もしかして……リアーナ様は王宮で暴れたのではと言う事ですか?」
ハンナは恐る恐る口に出すとベルナールが首を縦に振った。
「そのまさかだ。それなら拘禁されるのも納得が行く。あれだけアリア様を溺愛されているリアーナ様が動かないのは有り得ない」
ベルナールは苦虫を噛み潰した様な顔をした。
「ハンナ、お前は今はゆっくり休むんだ。その様子だと休みを取らず走ってきたんだろう」
「……はい」
ベルナールはハンナの不安そうな表情を見て肩に手を置く。
「大丈夫だ。リアーナ様なら必ず何とかして下さる。我々もアリア様救出に総力を上げる」
「はい」
ハンナは頷き、応接室を出て行く。
ベルナールも応接室を出ると部屋で一通の手紙をしたためて執事のアレクを呼び出す。
「ベルナール様、お呼びでしょうか?」
「緊急事態だ。この手紙を当主様へ急ぎで届けて欲しい」
「この時間にですか?」
アレクはこんな時間に手紙を届けるなんて事態は初めてだった。
「あぁ、恐らく事情ある程度知っているだろうから問題は無い」
「畏まりました」
アレクはさっと部屋を出て行く。
ベルナールはメイドのティエナを部屋へと呼び出す。
「何か御用でしょうか?」
呼び出しに応じて一人のメイドが直ぐに現れた。
「お前に頼みたい事がある。今からヴェニスへ向かいアリア様の状況を探って欲しい」
ベルナールは掻い摘んでティエナにアリアの身に起きた事を伝える。
「それは由々しき事態でございますね。畏まりました。連絡役はどうされますか?」
「それはミルとラグノートにさせる」
ベルナールは大量に金貨の入った皮袋をティエナへと渡す。
「軍資金は取り敢えず、渡しておく。足りなくなりそうだったら連絡役に言え。そうすれば追加で持たせる」
「はい」
ティエナは音を立てず姿を消す。
執事のアレクもメイドのティエナも普通の使用人では無い。
どちらもハンナと同様に元々は闇組織で暗殺業を生業としていた者だ。
リアーナが功績を立ててから暗殺者が定期的に送られる様になった。
ベルナールやレミーラ、トムが悉く返り討ちにしてその中で有益になりそうな者は屋敷の使用人にしていたのだ。
闇組織に身を置くのは好きでそこにいる訳では無く、貧しさから致し方無く身を置いている者がほとんどなのだ。
そして、教育の際にリアーナに徹底的に叩きのめされると言う通過儀礼があり、皆一様にして抵抗する気持ちが真っ二つにされる。
この屋敷での使用人の生活は不安定な闇組織に身を置くより遥かに条件が良い為、提案は非常に魅力的だった。
こうして屋敷の使用人は少数精鋭ながらも強者の集団となっていったのだ。
ベルナールはこれからどう事態が動くか考えながら椅子にもたれ掛かりながら思考する。




