90:ヴェニスからの脱出
時間は少し遡り、アリアの自室でハンナは待機していた。
ハンナは最近、言動が不安定なサリーンを訝しげに感じていた。
時折、アリアを見る目に黒い感情の様な物が混じっているのを感じ取っていた。
アリアが姉の様に思っている大切な存在と聞いている為、迂闊に探りを入れる事が出来なかった。
でも一抹の不安は拭えない。
ハンナはスカートの中からダガーを取り出し見つめる。
これはアリアがヒルデガルドに依頼して作った物でハンナの誕生日に贈ったのだ。
ヒルデガルドは休みの日に精魂込めて作ったダガーで刀身が極硬鋼で出来ている業物で握りはハンナの手に合わせた完全なオーダーメイド。
このダガーを貰った時、ハンナは絶対に命に代えてでもアリアを守ると誓った。
ハンナは鏡の前に立つ。
ダガーをスカートの中へ戻す。
自らの格好に違和感が無いか確認する。
ハンナは改めて自らの姿を確認しながら侍女姿が様になってきたと感じた。
少し前までは暗殺者としての生き方しか知らず、闇に身を置いてきた。
こうして光のある所に居場所があるのはリアーナとアリアのお陰だった。
鏡の前に立っていると唐突に乱暴に扉が開かれた。
ハンナは何事かと振り向くと息を切らしたフィンラルがそこにいた。
「フィンラル様、そんなに慌ててどうされたのですか?」
ハンナの記憶ではフィンラルは街へと出ていた筈だった。
「マイリア様が嫌な予感がすると言って私を神殿へ帰したのです。それよりハンナさん、早く逃げて下さい!」
アリアがこの場にいないのにいきなり逃げろと言うフィンラルの言う事が理解し難かった。
「聖女様が教皇猊下殺害の罪で先程、神殿の牢に投獄されました」
ハンナはフィンラルの言葉に全身の毛が逆立ち、濃密な殺気が漏れ出す。
その殺気に当てられたフィンラルが思わず膝を付く。
「ぐぅ……、このままではあなたも危ない……私が足止めをするから逃げて欲しい」
殺気を受けながらハンナを逃がそうとするフィンラルに少し冷静になり殺気を収める。
フィンラルは猛烈な殺気から開放される。
「アリア様が教皇猊下が殺害したと知って何故、私を逃がそうとするのですか?」
ハンナはアリアがそんな事をする筈が無いと信じていたがフィンラルはそうではないと思っていた。
「私は聖女様がその様な事をされる方では無いと思っております。それにアリア様に動機がありません。アナスタシア様を害して利を得るのはカナリス派しか考えられません。聖女様は嵌められたに違いありません」
フィンラルは強い真っ直ぐな目でハンナを見た。
「聖女様を助け出したいのは私も一緒です。ですが……私ではどうする事も出来ません。万が一、主導しているのがカナリス派ならマイリア様でも厳しいと思います」
ハンナはフィンラルが嘘を言っていないと思った。
「ハンナさんにはリアーナ様へアリア様の救出をお願いして欲しいのです。ハンナさんからなら確実に聞いて貰えると思うのです」
ハンナは冷静に思考を巡らす。
アリアが投獄されたのが事実であれば状況は四面楚歌に近い。
その状況下でハンナ単独でアリアを助けられる公算は低い。
相手側もハンナが助けに来る可能性を考慮していないとは思えないのもあった。
そうすると一旦、神殿から脱出してリアーナの元まで走る方が確実だと考えた。
「分かりました。あなたを信用しましょう」
「ありがとうございます。それではこれを着てもらって良いですか?」
フィンラルが取り出したのはフード付きの神官服だった。
「これは?」
「私の外行き用の神官服です。これで私と神殿の外へ向かいます。今の服だと目立ちすぎて神殿を出る前に囲まれる可能性があります」
フィンラルの言う事は尤もだった。
侍女の服を着ているのは神殿ではハンナだけだ。
それに加えてアリアの部屋は神殿のかなり奥の方にあり、誰にも見つからず抜け出すのは難しい場所だった。
「少しあちらを向いていて頂けますか?」
ハンナは自らの服を脱いで空間収納のポーチへ放り込み、フィンラルから渡された法衣へと着替える。
「これでよろしいでしょうか?」
「少し良いですか?」
フィンラルはハンナに近づくと耳を折り畳む様な感じで布巾を頭に巻いていく。
「少し耳が窮屈かもしれませんが、我慢して下さい」
ハンナの耳を隠さないとすぐバレてしまうからだ。
これでフードを被ってしまえば獣人だとも分からない。
「それでは行きましょう」
フィンラルはハンナを連れてアリアの部屋を出る。
廊下には誰もいなかった。
暫く進むとフィンラルはいつもと違うルートを選んだ。
「そちらは出口では無いと思いますが……」
「いつも通りに神殿の入り口へ向かうと騎士が聖女様の部屋へ向かっていた場合、鉢合わせになる可能性があります。私がいれば疑われる可能性があります」
ハンナは確かにと思った。
神殿内の事はフィンラルの方が圧倒的に詳しかった。
周囲が徐々に騒がしくなってくる。
アリアの事が徐々に広がっていたのだ。
フィンラルとハンナはそんな聞こえてくる話を無視して足早に進む。
遠回りして進む内に一般人が入れるエリアへと来た。
「もう少しの辛抱です」
フィンラルは周囲にハンナの事を気取られぬ様に周囲を横目で窺いながら進む。
目の前から神官が声を掛けてきた。
「おや、フィンラル殿では無いか?」
フィンラルとハンナは神官に声を掛けられて緊張が走る。
藍色の髪の青年は笑顔で親しい友人と話す様だった。
「ヘルマンド様でしたか。私に何か御用でしょうか?」
「いや、今日は街に出ていたと聞いていたからどうしたのかと思ってね」
フィンラルは気付かれない様に平静を装う。
「マイリア様が珍しく忘れ物をされたので取りに来たのですよ」
フィンラルはポーチから書類を取り出す。
「そう言う事か。マイリア枢機卿にしては珍しいね」
ヘルマンドは面白そうに言った。
ふとヘルマンドの視線がフードを被ったハンナの方へ向く。
「ねぇ君、可愛い顔をしてるよね?今度、お茶でもどう?」
ハンナはヘルマンドに声を掛けられて焦る。
フィンラルも焦ってどうフォローするか悩む。
ヘルマンドがフードを覗きこもうとした。
「ヘルマンド様!!そんな所でナンパしてないで仕事をして下さい!!」
ヘルマンドの背後から大声で注意する声がした。
一人の女性神官が近寄ってくる。
「もう、僕の邪魔をしないでくれよ」
ヘルマンドは困った顔をしながら女性神官を見る。
「それはこっちの台詞です。早くしてくれないとこっちの仕事が滞ります!あ、すみませんね」
そう言うと彼女はヘルマンドの襟首を掴み引っ張っていく。
「ちょ、ちょっと!?そんな所掴まないでよ!」
「なら早くして下さい!」
フィンラルとハンナはそんな二人のやり取りを見ながら安堵の息を吐く。
「行こうか?」
「はい」
危うくヘルマンドにハンナの正体がバレそうになったが、事無きを経て神殿の入り口へと向かう。
入り口から出てそのままヴェニスの街中へ向かう。
街中へ暫く歩き、裏路地へと入る。
「ここなら大丈夫でしょう。周囲は私が見てますから今の内に着替えて下さい」
ハンナは迷わず神官の法衣を脱ぎ、普通の平民が来ていそうな服にフード付きのマントを羽織った。
「フィンラル様、ここまでありがとうございます」
「ハンナさん、リアーナ様へのご協力をお願いします」
ハンナは首を縦に振る。
そしてハンナは路地へと消えていく。
フィンラルはその背中を見送り、マイリアと合流する為、マイリアの訪問先へと足を向けた。
「私がやれる事をやるしかない」
フィンラルはアリアを疑う気持ちは無かった。
アリアを救う為に動く事に躊躇いは無かった。




